第三日目 1節「銀狼の望み」(ギルファス)
夜が――
少しずつ、明けようとしていた。
広場の中央、小高い丘の上で、ギルファスは夜明けの方を見ていた。東の森、彼の『敵』がいる館の方から、ほんのわずかずつ空が色を変えていく。目を閉じて、また開く。そのわずかな間に、星が少しずつその光を薄れさせ、漆黒の空がわずかに明るみを帯び、黒から紫暗、紫暗から濃紫、濃紫から紫へと移り変わっていく。
そのわずかずつだが劇的な変化は、ギルファスの背後で赤々と焚かれているかがり火のせいで、打ち消されてしまいそうだったが……ギルファスの闇に慣らした目には、はっきりと見えていた。
三日目が始まろうとしている。『宴』の最後の日が。彼が『銀狼』であることのできる、生涯で最後の一日が。今、始まろうとしているのだった。
アイミネアからの手紙にあった、『夜襲』は、まだ始まらない。
「すごいね、アイナは……」
右後ろから、人の気配が近づいてきた。囁くような声を聞いただけで、ギルファスにはそれが誰だかわかる。ギルファスは彼女が近づいてくるにつれて、自分の身が少しずつ緊張を帯びるのを自覚しながら、それを気取られぬように簡単に肯いた。
「そうだな」
シャティアーナがギルファスの隣にたどり着き、軽やかな音をさせて、右側に、
……座った。
彼女の長い髪が、さら、と音を立てた。
その音だけで、心臓が飛び上がるのを自覚する。
「結局、来なかったね。……これだけかがり火を焚いていれば、当然かな」
シャティアーナの声は淡々としながらも、アイミネアへの賞賛を含んでいる。
ギルファスは再び、暴れ回る心臓の音を気取られぬよう、淡々と、肯く。
昨夜アイミネアから届いた矢文には、紛れもないアイミネアの字で、夜襲があるから注意するように、と書かれていた。時刻は夜明け前で、目標は『本拠地』である、と。
しかし……これはほんの一部の人間しか知らないことだ。西軍の大多数は、初めから夜襲の目的は『小高い丘』である、と知らされていた。みんな疑っていない。なぜアイミネアの手紙の全文を公表しないかといえば、それはもちろん、もう一人残っているはずのスパイの目を警戒したからだ。本当は、手紙の端の方に、乱れた字で、かすれた文字で、書かれていた言葉があったのだ。
『オ・カ・ニ・チュ・ウ・イ』
たったそれだけの言葉。
しかしこの言葉のもたらした効果は絶大なものだった。ゴードはこれこそが、アイミネアの字であると断定した。すなわち、他の文章は全て偽ものなのだと。夜襲の目標を錯覚させるための、罠だったのだ、と。
アイミネアの筆跡でその罠を仕掛ける、という計画が東軍にあって、それをどのようにしてか、アイミネアが知って――
敵の目をかすめて、彼女はその文字を書いた。
ほんのわずかな情報だけれど。それをするのは、どんなに大変だったことだろう。けれどアイミネアはそれをやり遂げた。たった、一人で。
「ギルファス?」
シャティアーナが再び囁いた。その言葉の持つ響きが先ほどまでとあまりに違うので、ギルファスは思わずシャティアーナの方に目を向けた。彼女はギルファスの方を見ず、声をごくごくひそめて……ほとんど口だけの動きで、続きを口にした。
「スパイの件は、片付いたわけじゃないわ」
「え……?」
「あたしたちのそばにいるスパイは、ヴェロニカだけじゃない」
「……」
ギルファスはまじまじとシャティアーナを見つめてしまった。あんまり思いもかけぬことを言われたので、思考がついていかない。シャティアーナは前を向いたままで、囁く。
「せめて、銀狼隊にいるのか、媛隊にいるのか、それだけでもわかればいいのに」
「ちょっと待ってくれ」
ギルファスは声を上げた。曙のほのかな光は彼女の顔を照らし出すには足りず、背後からの松明の明りは彼女の輪郭だけを浮かび上がらせて、整った顔立ちは闇に沈んでいる。しかし、彼女の表情はよく分かった。とても心配そうな表情。
「ヴェロニカだけじゃない……?」
「うん。昨日ヴェロニカがスパイだったって知って、安心してたの。でも、よく考えてみたら、ヴェロニカが銀狼隊と行動を共にするようになったのって、一日目のお昼過ぎじゃなかった……?」
「そう……だけど」
ギルファスが肯くと、シャティアーナはこちらに顔を向けた。松明の明りに彼女の顔の半分が照らされる。まっすぐ見つめられて、心臓が跳ね上がる。
「あたしたちの自力脱出を東軍が知っていたのは、それより前よ。媛の交換が行われる前。自力脱出のことを東軍に知らせたのは、ヴェロニカのはずがないのよ」
「あ……」
ギルファスは、息を呑んだ。
そうだ、と彼は思った。
スパイが銀狼隊か媛隊の中にいる、ということは、そもそも媛の自力脱出が東軍に漏れていたということからわかったことだ。ヴェロニカがスパイだったことは間違いないけれど、自力脱出のことを東軍に漏らしたのはヴェロニカじゃない。
つまり。
もう一人、銀狼隊か媛隊の中に、スパイがいるということになる。
「すごい、確率よね。スパイがこんなに近くに、それも二人もいるなんて……」
シャティアーナはそう呟いて、視線を前方へ戻した。
そして、硬直する。
珍しく彼女が見せた動揺に驚いて、シャティアーナの視線の先を見ると、そこには。
いつの間にか丘の下から近づいてきていたらしい、マディルスの驚愕の顔があった。
「な……んだよ、それ」
マディルスの、まだ幼さを十分に残した顔が、匍匐前進の体勢で頭だけをもたげた格好で、こわばっていた。驚愕の表情は、見る見るうちに変化する。いつから聞いていたのかわからないが、二人の会話の内容を充分に理解したようで、ぱっと立ち上がった。そして、叫ぶ。
「なんだよそれ!」
「しっ!」
誰かが静止の声を上げたが、マディルスは黙らなかった。ギルファスとシャティアーナ、二人の目の前で仁王立ちになって、彼は怒鳴った。
「冗談じゃないよ! なんだよそれ! なんでそれを先に言わないんだよ!?」
「マディ! 今どんな状況だと――」
先ほどの誰かが再び声を上げるが、マディルスは簡単に一蹴した。
「うるさいなもう、今それどころじゃないんだよ! シャティ! 今言ったのどういう意味だよ、俺たちの中にスパイが――」
「マディ!」
ギルファスは立ち上がって、マディルスの肩をつかんだ。つかんで無理やり地面に座らせる。マディルスは抵抗せずにぺたんと座ると、ぎらぎらする目でギルファスを睨んだ。
「疑ってたのかよ、俺たちを!? なんで言わないんだよ!」
「言えるわけないでしょ、バカじゃないのあんた」
新たな声が上から降ってきた。これはガートルードの声だ。
「バカってなんだよ!」
マディルスが再び立ち上がろうとするのを、ギルファスは必死で抑え付けねばならなかった。丘の上には銀狼隊、媛隊の他に数隊の戦闘隊たちが警備についていたのだが、みんな驚いたようにこちらを見ている。丘の向こうにいたルーディとラムズが騒ぎに気づいて慌てたように走ってくる。反対側から、ミネルヴァも走ってきた。銀狼隊が四人、媛隊が三人。全員揃ったところで、ギルファスは、いつの間にかこんなに人数が減っていたのだと言うことに気づいた。十人いたのが、もう七人しかいない。もう一人はいまだ、東軍の中で逃げ回っている――
「ごめん、ギルファス」
シャティアーナが小さな声で囁いた。とても困った顔をしていた。そして彼女は全員集まってしまった銀狼隊と媛隊を前にして、ごめんなさい、と言った。
「ごめんなさい。言えなかったの……」
「それは当たり前よ」
ガートルードが即座にそう言って、肯いた。もしかしたらガートルードは、この中にスパイがいるということに気づいていたのだろうか。
ヴェロニカがスパイだったとわかった時点で、ギルファスは、自分たちの中にまだスパイがいるかもしれないという考えを捨ててしまっていた。そうだ、よく考えれば、もう一人いるはずだと気づいても良かったのに。安心しきってしまっていた。シャティアーナの傍に、まだ、スパイがいるかもしれなかったのに。
――グスタフだったら、すぐ、気づいただろうか。
深いため息をついたギルファスの隣で、シャティアーナが、話し始めている。
自力脱出が漏れていたこと。それを事前に東軍に漏らすことが出来たのは、銀狼隊の四人か媛隊の四人、しか、いないということ。ルーカとアイミネアはスパイである可能性から排除してもいいと思ったこと――
「それじゃ、ウィルはどうなんだよ」
マディルスが不満そうな声を上げ、ルーディが一蹴した。
「昨日のウィルを見て、スパイだと思ったのか?」
「そりゃ……」
「スパイだったら、ギルファスをかばって『戦死』なんてするもんか」
ルーディの声に肯きながら、ギルファスは、昨日のことを考えた。
あの時、敵の包囲網から逃げることが出来たのは、本当に幸運なことだったのだ。マディルスが鏑矢を撃ってくれて、ウィルフレッドが守ってくれて、ラムズとルーディが助けに来てくれた。ヴェロニカだって、自分が逃げるためのカモフラージュだったかもしれないが、助けてくれたことは間違いない。誰か一人でも欠けていたら、銀狼隊はあそこで全滅していたに違いないのだ。
誰がスパイだとも思えない。
もしマディルスがスパイだったら、鏑矢を撃ったりしなかっただろう。
ルーディだったら、ギルファスを助けにあの包囲の中飛び込んできたりしなかっただろう。
ラムズだって同じことだ。
でも、とギルファスは思った。ヴェロニカだって、大音響を出して敵の注意を惹いてくれた。あそこで彼女が音を出さなかったら、銀狼を討ち取ることが出来たかもしれなかったのに。
スパイだからって、いざというときに、冷静に、東軍にとって一番いい方法を取ることができるとは、限らないのかもしれない。
そう考えたら、……誰がスパイだっておかしくないのだ。
「それじゃ……俺たちの中に、スパイがいるってわけか」
ラムズが抑えた声で呟き、ギルファスは我に返った。
ミネルヴァが、顔を上げる。
「本当に……?」
「俺は違うからな!」
マディルスがそう叫んで、ガートルードがまた、バカね、と言った。
「バカねえ、スパイだってことを自分から言うわけないでしょ」
「だって俺は違うんだ! 誰なんだよ!? あ、……そうだ、鉢巻を」
「やめろ、マディ」
新たな声が、再び頭上から降ってきた。ギルファスは顔をあお向けた。年配の男が一人、仁王立ちになって一同を見下ろしている。彼は鉢巻をしていない。『目付』だった。彼は冷めた目でみんなを見渡して、口を開いた。
「俺の前で鉢巻を取るということは、『戦死』したと見なす。それでもいいなら、取れ」
「イーファ……」
ルーディがその『目付』の名を呼ぶ。マディルスはイーファを見上げて、唇を尖らせた。
「イーファ、いいだろ、ちょっとくらい……」
「ダメだ」
『目付』の言葉は冷たかった。
「俺のいないところでならともかく。俺の前ではダメだ」
「イーファ、スパイが誰だか知ってるんだろ? この中にいるんだろ? 俺いやだよ、疑われてるのなんて……」
「それが『宴』だ。厭なら抜けろ」
イーファはそれだけを言って、後ろに下がった。これ以上口を出す気はない、という意思表示なのか、少しはなれた場所――しかし話はきちんと聞こえる場所で、胡座をかく。マディルスはまだ何か言おうとしたが、ルーディが手を上げて彼を制した。
「ラムズ、聞きたいことがあるんだけど」
呟く声は、いつものルーディの声とは思えないくらい、低かった。ひざを抱えて、彼の目はギルファスを見ていた。ラムズの方を勤めて見ないようにしているのだろうか。視線が固い。
「昨日……今日、かな。夜中に小屋を抜け出しただろう」
「……」
ラムズが身をこわばらせたのを、ギルファスは見た。ルーディの声は低く、続く。
「俺目が覚めて……ラムズが出て行くところで、驚いてさ。悪い、後つけたんだ。東の方に歩いていったよな」
「……ラムズ、本当?」
ミネルヴァが驚いた声を上げる。ラムズを見ると、彼はうつむいていた。いつでもどっしりと構えている彼の、握り締めたこぶしが、小刻みに震えている。
「……本当だ」
ラムズは言った。
そして、顔を上げる。
眼光が、ギルファスを射抜いた。
「でも違うんだ。俺はスパイじゃない」
「じゃあ、なぜ?」
ガートルードの声が響く。ラムズは口ごもった。みんなの視線が一斉に彼に注がれる。
ギルファスは一堂を見渡した。ルーディを見、マディルスを見、ガートルードを見、ミネルヴァを見、そして、シャティアーナを見た。彼女は痛々しいと言ってもいいような視線でラムズを見つめていた。自分の言葉がマディルスに聞かれたことを悔やんでいる顔だった。この話し合いを引き起こしてしまったこと自体を悔やんでいるのだ。スパイが誰かなんて、話し合うだけ無駄なのに。
ラムズがスパイであるにせよ、違うにせよ、鉢巻を裏返して見せるという手段が使えない限り、決着はつかないだろう。ラムズが自分はスパイだと認めても、スパイじゃないと言っても、疑惑は残るだろう。
『宴』はまだ一日あるのに。
お互いを疑って、一日を過ごさなければならない。
ラムズが、迷うように、口を開く。
「眠れなかったから、散歩に行っただけだよ……」
「嘘だ。それなら、なんで東軍の方に行くんだよ?」
マディルスが声を荒げ、ラムズが再び沈黙する。みんな、黙って、探り合うようにお互いを見つめている。
――こんなのは、厭だ。
重苦しい気分が胸の奥にたまっていく。
話し合えば話し合うほど、泥沼にはまり込んでいくような気がする。こんな話し合いには意味がない。昨日ラムズが何をしていたかなんて、どうでもいいのだ。大事なのは東軍に情報を渡しに行ったかどうかで、ラムズがスパイじゃないのならそんな事実はないはずだし、スパイだったとしても正直にそう言う筈がない。今からラムズが言うかも知れない理由が例え真実でも、言い訳でも、どうせ誰も信じない。
それならば、聞きたくなんかなかった。
こういうことは、一度疑い始めたら、キリがないのだ。本当に。
「いいよ、ラムズ」
自分でも驚くほど簡単に、言葉が口から滑り出た。
みんなが顔を上げて、こちらを見る。
「いいよ……って、ギルファス」
「だってさ、もしラムズがスパイで、夜抜け出して東軍に何か情報をもたらしに行ったとしても、そんなこと正直に言うわけがないだろう?」
「そ……」
マディルスが不満げな声を上げるのを、片手をあげて制する。
「それに、もし逆だったらどうする? ラムズがスパイじゃなくて、夜中に出て行ったのは何か別の目的があったからだったとしたら? 何をしに行ったか知らないけど、言いたくないなら言わなくていい。だってさ、ラムズが本当は腹を下していて、ゆっくり用を足せるところを探しに行ったんだとするよ。ラムズは照れ屋だから言いづらいだけかもしれないじゃないか。でもさ、今この場でそう言われたとして、みんな信じるか?」
「そ……そうね」
ミネルヴァが明るい声を上げる。救われた、という声だった。ラムズはなんと言っていいのか、複雑な顔をしている。マディルスはまだ少し不満そうだったが、シャティアーナが、ギルファスの視線をとらえて、微笑んだ。
「そうね、ギルファス」
シャティアーナの端正な顔が、やわらかくやわらかく微笑むのを見るだけで、この上もなく誇らしい気分になれるのは、一体どうしてなんだろう。
「スパイはルーカだったかもしれないし、ウィルフレッドかもしれないし、アイナかもしれない。そうね、もうあたしたちの傍には、いないのかもしれない。……ごめんねギルファス、朝から変な話を持ち出して。みんなもごめん。厭な思いをさせちゃったよね」
シャティアーナがそう言って頭を下げ、ミネルヴァが慌てて手を振ったりして、ガートルードが笑ってシャティアーナの肩を叩いたりなんかしている。マディルスはまだ少し唇を尖らせていたが、ルーディが「腹減ったあ」なんて話を変えようとしてくれて。
しかし、ラムズが。
何か言いたそうな、複雑な表情を、一瞬だけ、見せた。
その表情が見えたことで、朝日の勢力が結構強くなっているということに初めて気づく。
朝日に照らされて、ラムズの厳つい顔が、確かに一瞬だけ、歪んだ。
しかしラムズのその表情のことは、忘れることにした。ギルファスにしてみれば、ラムズがスパイだったってちっとも構わない――どころか、むしろそうであってくれと願うような気持ちだったから。
ラムズがスパイだったなら。
シャティアーナの傍には、スパイがいないということになる。
そう思えば、スパイがいることなんて取るに足らないことだ、と、ギルファスはこっそり思った。




