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第三日目 0節(エストール)

 銀狼と乙女を差し出せ。そうすれば、民の命は助けてやる――

 

 降伏勧告は、一定の時間を置いて繰り返されていた。エストールは唇を噛んでその勧告を聞いていた。いくら耳をふさいでも、その声はまるで魔法のように脳裏に滑り込んで来て、頭蓋骨の中で反響して、増幅されて響き渡っていた。声は細かな粒子となって、見開いた目からも、鼻からも、食いしばった歯の隙間からも――むき出しになった顔の皮膚からさえ、忍び込んでくる。

 みんな、動揺していた。

 みんな、疲れていたのだ。

 敗北はもはや免れぬところまできていた。城の周りはびっしりと敵の兵士に覆い尽くされている。食糧も乏しく、けが人が増え、満足に戦える者など残っていない。みんな黙りこくって、ひざを抱えて、エストールと同じように、降伏勧告を聞くまいと歯を食いしばっている。

 よりによって、銀狼と乙女を差し出せ、などと。

 そんなことができるはずがない。

 銀狼と乙女はいまや、ミンスター王国の、紛れもない希望だったのだ。彼らはよそ者だった。ミンスターのために戦う義理などなかったはずなのに、いまだに踏みとどまって彼らと一緒にいてくれている。乙女はその治療の腕と、柔らかな微笑みと、的確な助言とで。そして銀狼は、まさにその存在だけで、ミンスターの人々の心を鼓舞してくれているのだ。

 その二人を差し出せ、などと。

 そんなことが、できるはずが――

 エストールは自分のひざの間に頭を抱えて、両手で耳をふさいで、じっと座り込んでいた。大理石の床の冷たさも、今はまったく感じられなかった。床の模様は視界の中で、小刻みに震えていた。何故だろう、と彼は思う。何故この模様は、こんなに小刻みに震えているのだろう――

 恐ろしいのは。

 恐ろしいのは、二人を差し出せば、自分たちが助かるのではないかと思ってしまう、自分の心の醜さだ。

 そんなことできるはずがないのに。でももし、二人を差し出せば。また平和な生活に戻ることができるのではないのか。生きて行くことが、できるのではないのか。食事をして、体を洗って、ぐっすりと眠って……という、こないだまで何も気にせずに受けていた平和の恩恵を、今度こそは感謝して、受けることができるのではないのか――

 振り払っても、振り払っても、その考えは彼の脳裏を去らない。

 銀狼は、今ここにはいない。彼は昨晩夜陰に乗じて食べ物を探しに行ったまま、いまだに戻ってきていない。今ここに彼がいたら、と、考えるのも恐ろしかった。あの誇り高い獣は、もしかしたら、乙女を連れて、自分の意思で、出て行くのではないか。自分たちを助けるために。そして殺されてしまうのではないのか。そして――そのおかげで助かったとき、俺は何を思うのだろう? 悲しみと、敵への嫌悪と、かけがえのない存在を失った絶望と――そして安堵を、感じてしまうのではないのか?

 それが何よりも、恐ろしかった。

 ――銀狼よ。

 エストールは震えながら、頭の中だけで呟いた。

 ――あなたが帰るまで、この城は持たないでしょう。

 それは確信だった。敵の将軍の声は、先ほど「これが最後の勧告だ」と言ったようだ。攻め込まれたらもう、持たない。……死ぬのだ。

 ――あなたがここにいなかったおかげで、我々は誇り高く死んでいくことができます。

 たとえ全滅しても、恩のある二人を差し出しておめおめと生き延びるような、無様なまねだけはせずにすむ。

 そう思おうとしているのに。

 震えが止まらないのは、何故だろう?

 

 そのとき、奥の部屋の扉が、キィ、と音を立てた。

 ホールに集まっていた兵士たちははじかれたように顔を上げた。幾人もの視線が扉を開けた者に突き刺さる。それは驚愕の視線ではなかった。悲しみと、絶望と、そして……期待の視線。

 彼らの予期したとおりの人物が、そこに立っていた。

 彼女は簡素な動きやすい服を着ていた。長い黒髪が腰にまで垂れて、少女のように小さく、若く、華奢に見えた。若草色の紋様がその細い体を彩っている。乙女は、部屋を見回して、にっこりと笑った。

「ごめんなさい」

 囁くように、彼女は言う。

「グリーンリが帰るまで待ちたかったのだけど……無理、みたいね」

 銀狼の名を口にするときだけ、乙女の声は普段よりもわずかに、優しさを帯びる。

 待ってください、と。

 言ったつもりだった。

 でも言葉は、実際には、エストールの喉から漏れることはなかった。彼の発した言葉はうめき声だけで、彼は立ち上がることすらできなかった。金縛りにあったみたいに、座り込んで頭をもたげた状態で、硬直している。その彼の前を、乙女はゆっくり通り過ぎた。出口の方へ、ゆっくりと、でもよどみのない確かな足取りで、歩いていく。

 止めなければいけないのに。

 体が、動かない。

 まるで悪夢の中にいるようだった。大理石の床の中に、自分の体が沈み込んでいるみたいだ。体が重くて動けない。……動けない。……本当に? ……動きたくないだけじゃないのか?

 ――彼女を止めたいと、本当に思っているのか?

「エ……エル、さま」

 正面玄関を守る隊の隊長が、かすれた声を振り絞って、彼女の名を呼んだ。彼は扉の前に座り込んでいた。彼女が自分の意思で敵の前に出て行くつもりなら、隊長をどけなければいけない。乙女は隊長の前で立ち止まった。隊長は、よろよろと立ち上がった。エストールの尊敬する勇猛な隊長は、悲痛な顔をしている――

 ――止めてくれ、隊長。

 エストールは再び、うめき声をもらした。

 ――彼女を、止めて。

 我々の誇り高い死のために。

「……エル、さま……」

「お世話になりました」

 乙女は晴れやかに、笑う。

 そして、隊長は。

 自分の意思で、脇に、

 ――退いた。

 扉の前から。

 彼女を通すために――。

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