第二日目 6節「業務連絡2」(???)
重い重い気持ちで、彼は今夜も、夜気の中に滑り出た。
西軍が東軍に夜襲を仕掛けてから、まだ丸1日経っていないというのに。もう、何年もの長い間、ギルファスたちを欺き続けてきたような気分だった。
ヴェロニカと、はぐれる前。
彼女が最後に言った言葉を、何度も何度も思い出す。
『あなたは、ばれちゃダメよ』
最後に振り返って、彼女はそう囁いたのだ。
――銀狼隊の中にいるスパイは、本当に貴重なんだから。
ヴェロニカがスパイだとばれたことで、ギルファスやゴードは安心したことだろう。
銀狼隊のすぐそばにスパイがいることはとっくにばれていただろうが、ヴェロニカがスパイだとわかったことで、警戒を緩めただろう。ゴードはそんなに甘くないかもしれないけれど。でも、まさか、銀狼隊の中にまだスパイが残っているなんて――
「……よう」
闇の中に声が響いて、彼はギクリとした。
彼はてっきりエルリカがやってくるものと思っていた。でも、今響いた声は紛れもない、男のものだった。この辺の見回りをしている西軍兵士が、彼に気づいたのだろうか。平静を装う彼の前に、ゆっくりと姿を見せたのは、しかし東軍兵士の姿だった。額に巻いた鉢巻が、月光に黒い。
「エルリカ、……は?」
「昨日お前と連絡を取ったから。万全を期すために、今日は俺が来ることになった。長居をする気はない。一つ聞くが……アイミネアからの手紙が、ゴードの手に渡ったかどうか、わかるか?」
「え? じゃあ……」
彼は、東軍伝令隊の言葉で、全てを悟った。
そう。夕食が終わった頃に、東軍の方から矢文が届いたのだ。伝令に使う鏑矢の、矢羽を直して音を立てないようにされたもの。その矢には手紙がくくりつけられていた。彼は実物を見ていないが、それがアイミネアからの手紙だと言うことは聞いた。夜襲の警戒を促す、簡素なものだった、と。
「届いたか?」
男が重ねて問い、彼は肯いた。
そう、手紙は、届いた。
今はゴードの手元にある。
「夜襲を警戒する、と命令が下されたか?」
「ああ。みんな夜襲に備えて早めに寝てる」
「そうか……」
伝令隊の男は、ニヤリとしたようだった。会心の笑み、だろうか。
――アイナ……
彼は、夜気を吐き出した。たった一人で敵陣の真っ只中に残っている、彼女。彼女から手紙が届いたと、先ほどまで西軍は大騒ぎだったのだ。さすがはアイミネアだと、誰もが手放しで褒めていた。さすがは伝令隊の精鋭、アイミネアだ、と。あれが彼女からの手紙じゃなかったなんて。誰も疑ってはいないようだった。
かわいそうに。
彼は、小柄な少女のことを思って、ため息をついた。
ため息は、冷えた夜気にすぐに散る。
「明日のお前の行動だけどな」
伝令隊の男は、すぐに笑みを消して、事務的な口調で言った。
「スパイとしての仕事は、何もしなくていい。銀狼隊の一員になりきって、最後までギルファスの傍にいろ、ってさ」
「え……」
「出来るだけ『戦死』しないこと。明日、もし手違いが起こって、東軍が負けそうになったら。その時は、もしかしたら、新たに指示が出されるかもしれない。でも今のところは、最後までギルファスの傍にいればいいってさ」
「…………」
彼にとって、それは望むところだった。
スパイであることを忘れて、銀狼隊の純粋な一員として、ギルファスと一緒に戦うことが出来たなら。それはどんなに嬉しいことだろう。
でも、そんなことは無理だ。スパイであることを忘れるなんて出来るわけがない。彼の鉢巻の裏側には、細いがくっきりと青い線が一本、きざまれているのだから。
それに。
最後まで、『戦死』せずに、ギルファスの傍にいろ、ということは。
「それはさ、最後まで、帰ってくるな……って、ことだよな」
自嘲するように呟いた彼の言葉に、伝令隊の男は一瞬だけ沈黙した。
そして、笑う。
「頭いいなあ、お前」
「俺は最後まで、スパイでいなきゃいけないんだよな」
「……そうだな」
頑張ってくれよな、と男は言った。彼は、簡単に肯く。
そうだ。
アイミネアが帰ってこられないように。
彼もまた、東軍に戻って、スパイの枷から逃れることは出来ない。
「アイナ、捕まったのか?」
きびすを返して立ち去ろうとした伝令隊の男の背中に、彼は呟くように、訊ねる。
男は、振り返って。
そして、首を振った。
「いいや。すばしっこいやつだからなあ、あいつ」
どんな答えを求めていたのか、彼は自分でも良くわからなかった。
でも、アイミネアがまだ『戦死』せずに逃げ回っていると言うことは、少しだけ、嬉しかった。
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