第二日目 5節「暗殺」(アイミネア)(4)
後に残っているのは、ガスタールとグスタフの二人だけだろう。どちらか一人でも、席をはずしてくれないだろうか。どちらか一人だけでも、ここに残ったなら。油断しきっている今、暗殺を実行するのは簡単だろう。
ガスタールかグスタフのどちらかを、今、暗殺することが出来たなら。
――あたしの筆跡で手紙を書くのを、やめさせることが出来るだろうか。
そう思ったとき、ガスタールの声が言った。
「今日、ギルファスはどうだった?」
「無茶してました」
グスタフが即答し、ガスタールは笑い出した。
「お前には言われたくないだろうな、ギルファスも。媛を救い出すために銀狼と自分自身を囮にした副将なんて、聞いたことがないぞ」
「ゴルゴンは不可抗力でした。本当は俺だけでよかったのに」
「いやそうじゃなくてな。副将ってのはな、もう少し本陣でどっしり構えているべきだ」
「それは大将の仕事でしょう」
答えるグスタフの声はほんの少しだけ不服そうで、ガスタールもそれが分かるのか、楽しそうに笑っている。ひとしきり笑った後、あのな、とガスタールは言った。
「あのな、無茶をするのは銀狼の仕事であって、副将の仕事じゃないんだ」
「どうしてですか? 銀狼が討ち取られては勝敗にかかわるけど、副将が討ち取られたって」
「そういうことじゃない」
ガスタールはそう言ってから、不意に、再び、声を上げて笑い出した。何かに納得した、という笑い方。笑い声とともに、ぱしん、という音が聞こえてきた。グスタフの肩をガスタールが叩いたのだろうかとアイミネアは想像する。
「わかったぞ。お前、ギルファスに勝ちたいんだな?」
「……」
グスタフが沈黙した。図星……だったの、だろうか。
グスタフが?
アイミネアは防水布の中で目を見開いていた。なんだか……ものすごく意外なことを聞いてしまった、という気がする。
ゴルゴンが、ギルファスに、勝ちたいと言うのならわかる。
ギルファスが、ゴルゴンに、勝ちたいと言うのも、わかる。
でも。
「そうか、なるほどなあ。ずっと気になってたんだ。お前、あの、組み分けのくじ引きのとき。ギルファスが籤を引く前に、何か言っただろう。あれ、何て言ったんだ?」
あの、組み分けのくじ引きのとき。アイミネアはあのときのことを思い出していた。そうだ、『宴』の組み分けを決めるとき。ガスタールがグスタフに、『俺の元へ来い』と叫んだときだ。グスタフはガスタールの言葉どおり青い珠を引いて、そして、次がギルファスの番で……
「西へ行け、といいました」
グスタフは淡々と答えた。
「東へ来るな、とも。同じ軍になりたくなかったから」
「……ああ」
ガスタールは、ため息に似た声で肯いた。同時に机が軋む音がする。
「なるほど。……懐かしいなあ。俺も昔ゴードに同じことを言ったよ」
その時、ドアが開いた。
「お待たせ」
ユーミナの能天気な声がして、かちゃかちゃと食器の鳴る音とともに、足音が近づいてくる。やや遅れて、いい匂いが押し寄せてきた。この上もなく空腹だったことを、暴力的なまでに思い出させる匂い。焼いた肉の匂いがする。香辛料のきいた練り粉の匂い。香ばしい焼き菓子の匂いまで。空っぽの胃に痛みすら感じたが、でも、今はそれどころじゃない。
「ありがとう、ユーミナ。それじゃグスタフ、手紙は頼んだぞ」
言いつつガスタールが立ち上がる音がする。ちょっと待ってくれ、とアイミネアは思った。ガスタールは今のですっかり納得してしまったようだけど。でも、彼女はまだ納得していなかった。グスタフが、ギルファスに、東へ来るなと言ったって? どうして?
グスタフとギルファスは親友のはずだ。二人はとても仲が良くて、いつでも息がぴったり合っていて、この二人ならきっと何でも出来るんじゃないかと、昔から思っていた。それなのに、何故、グスタフが、ギルファスにそんなことを言わなければならないのだ?
ガスタールの重々しい足音は、そんなアイミネアの疑問には全く構わずにこつこつと響いている。その足音が衝立の隙間から出ようとしたとき、それを追いかけるようにグスタフの声が響いた。
「あ、ガスタール」
「何だ?」
ガスタールの声は笑みを含んでいた。嬉しくてたまらない、というように。
どうして、とアイミネアはもう一度思った。どうしてグスタフがギルファスと同じ軍になりたくない、と言ったことが、ガスタールはそんなに嬉しいんだろう?
「今日、ギルファスと戦ったときに、左手の具合について聞いたんです」
グスタフは淡々と言葉を紡ぐ。ガスタールの声に含まれる笑みが、いっそう濃くなった。
「へえ? で、何て言った?」
「ハンデにちょうどいいくらいだ、って」
「……はははははは!」
突然ガスタールが大声で笑い出したので、ユーミナが驚いたらしい。食器がガチャンと音を立てて、ユーミナが何事です? と聞いた。あたしも知りたい、とアイミネアは思う。しかしガスタールはひとしきり楽しそうに笑い終えると、まだ喉の奥をくつくつ言わせながら、グスタフに向かって言った。
「それは良かったな」
「……はい」
答えたグスタフの声は、いつもよりもとても嬉しそうだった。
なんなの、男同士の会話ってわけ? ユーミナがからかうように訊ねる言葉を軽くいなして、ガスタールは上機嫌で、今度こそ本当に出て行ってしまう。
男の人って謎だ。アイミネアはため息混じりに、そんなことを思った。
* * *
その後しばらく、アイミネアにとっては苦痛そのものの時が過ぎた。
今、衝立の向こうでは、グスタフとエルリカが、いろいろと相談しながら手紙を仕上げている。
グスタフの食事はあらかた済んで、エルリカは半分以上残している、らしい。自分の分を食べ終えたグスタフが、エルリカに「いらないのか」と聞いたことからそれがわかる。エルリカは苦笑して言ったものだ。
「あたしの倍くらいの分量もらってるくせに。あんたの胃袋って底なし?」
全くだ、とアイミネアはこっそり思った。
あたしの何百倍も食べてるくせに。
空腹はもはや耐え難いところまできていた。すぐ横でいい匂いのする食べ物を、もぐもぐ食べてる音がしていて。おまけにエルリカの分は半分くらい残っている。出て行って分けてもらいたいという衝動を抑えるのに、酷い苦痛を強いられた。我慢できたのは、今、エルリカがアイミネアの筆跡を真似て手紙を書いている、ということが分かっていたからだろう。
ユーミナはもう出て行っていたけれど、グスタフとエルリカという勘の鋭い人間が二人も揃っている傍では、不用意に身じろぎをすることすら出来なかった。痛みすら覚え始めた胃を押さえるために、膝を抱えて胃を圧迫するという体勢で、じっとうずくまっていた。座りっぱなしでお尻が痛い。膝を抱えすぎて、腰が強張っている。体中の筋肉をほぐしたくてたまらないのに、身動きすらままならない。動いたら空っぽの胃が音を立てるかもしれない。自分の味方たちを欺くための計画が動いているというのに、自分のせいで味方たちが危うくなるかもしれないと言うのに、そんな間抜けな見つかり方をしたら死んでも死にきれない。
アイミネアが必死で、体の苦痛に耐えている脇では――
「……よしっ」
エルリカが小さく呟いて、カタリ、とペンを机に置いた。彼女は今書いていた、わずか数行の手紙に注意深く目を走らせる。アイミネアの中には几帳面な性格と無鉄砲な部分が混在しているからか、彼女の字はとても真似しづらい。ほんの数行のその手紙に、エルリカ自身を髣髴とさせる部分がないか、彼女は用心深くチェックした。
チェックし終えて、一つ、肯く。
「できたよ」
隣にいるグスタフに手紙を手渡して、エルリカは、残っていた食事に取り掛かった。練り粉を器に入れて、冷めたシチューを少量混ぜて、自分の好みの柔らかさになるまでぐりぐりと練る。手紙を見たグスタフが、感心したような声を上げた。
「上手いもんだなあ。どこから見てもアイナの字だ」
「ありがと。でも人の字を真似するのは、アイナが一番上手いのよ」
練り粉を頬張りながら言うエルリカの脇で、グスタフはもう一度手紙を読み直し、かさかさと音を立てて細長くなるようにたたんだ。
くぐもった声で、エルリカが訊ねる。
「で、それどうやって届けるわけ?」
「昨日、森の中で、ギルファスが撃った鏑矢を見つけたんだ」
グスタフはそう言って、ポケットから、件の鏑矢を取り出した。マディルスが頭上に向けて撃った鏑矢は、西軍に急を知らせるという役割を終えた後、そのまま森の中に落下して忘れ去られていた。見回りの東軍兵士が回収してきたのは明るくなってからである。先の部分が白く塗られているので、西軍の矢だということが一目でわかる。伝令隊であるアイミネアはいつも、連絡用に鏑矢を持ち歩いているはずだから、不自然ではないはずだった。
「矢羽の部分を削って音が出ないようにした。夜になったら西軍の陣に向けて撃つ」
「人に当てないように、気をつけないとね。……でもさ、アイナの力で、東軍の館のどこかから西軍の本拠地まで届くかなあ」
「いや、丘まででいいんだ。西軍の手に渡ればいいんだから」
いいながら、先ほど細くたたんだ手紙を、鏑矢の矢羽の根元に結びつける。しかしまだしっかりと結ばないうちに、ふと、どこからか、鋭い叫び声が聞こえてきた。
遠くてよく聞こえなかったが、「なんだこれは!」といったように思える。エルリカとグスタフは反射的に立ち上がった。
まだ手紙がしっかりと結びついていない矢を置いて、衝立の隙間に駆け寄る。
衝立の外は暗く、何も見えない。しかし部屋を半分に仕切る衝立の向こうで、誰かがもう一度叫んだ。
「おおい! この下に誰かいるか!?」
「なんだ?」
グスタフがいぶかしげに呟くのを――
アイミネアはそのすぐ傍で、身を縮めて聞いていた。防水布の外、手を伸ばせば触れそうな場所に、グスタフとエルリカが立ち止まっている。アイミネアにも、先ほどの叫び声は聞こえていた。何が起こったのか、彼女は直感で悟っていた。叫び声は、先ほどアイミネアがこの一階に下りてくるために使った穴の辺りから聞こえてくるのだ。二階に投げ上げておいたあのロープ、あれが見つかったに違いない。
心臓が早鐘のように打ち始めた。体の苦痛も一瞬で忘れた。もうダメかしら、と思う気持ちを、アイミネアは一瞬で押し殺した。ここであたしが死んだら――と彼女は思った――あたしの筆跡で書かれたあの手紙が、西軍を罠に嵌めてしまうのだ。
そんなこと、絶対許して置けない。
「ここにロープが!」
遠くから聞こえてくる声が、アイミネアの想像通りの情報を叫び、グスタフとエルリカが驚いたようにそちらへ走っていく。
二人の足音が部屋の中央を仕切る衝立の向こうに消えた瞬間、彼女は立ち上がっていた。
出来るだけ落ち着いて防水布の山から抜け出し、布の中に隠しておいた棍棒を持ち出し、誰かがここに潜んでいたことなどわからないように布を整える。そのわずかな隙間に、衝立の向こうの騒ぎはどんどん大きくなっていく。
「誰か、ここにロープを垂らしたか?」
「二階から降りたのか、それとも、一階から――」
「あ、グスタフ! 下では何をしてたんだ?」
「会議を――」
口々に言い交わす声を聞きながら、アイミネアはそっと、先ほど会議の行われていた部分に滑り込んだ。棍棒は、音を立てたりしないように、首の後ろから背中に入れておくことにする。
防水布の中の闇に慣れた目に、机に置かれた燭台の明りがまぶしかった。彼女はさっと視線を走らせて、即座に、手紙の結ばれた矢がそこに置かれているのを見た。慌てないで、ゆっくり、と自分に言い聞かせながら、狭いスペースを通り抜けて、矢に手が届くところに移動する。ペンは。ペンも、すぐ傍にあった。手紙は完全には結ばれていない。矢が置かれていた場所から動かさないように気をつけて机の上に身を乗り出し、ペンを手に取り、インク壺に先を、ほんのわずかだけ、浸す。
「ロープはどういう風になってるんですか?」
グスタフの声。
「二階の窓の手すりに目立たないように結ばれていて……」
誰かが状況を説明する声。
音を立てないように気をつけて、アイミネアは、折りたたまれた手紙の端を、一枚だけめくった。
ほんのわずかだけインクをつけたペンを、紙の上に、走らせる。
『オ・カ・ニ』
「ロープの先には瓦礫が結ばれていてな、ロープは防水布を裂いて作られてるみたいだ……」
『チュ・ウ・イ』
それ以上はかけなかった。インクが乾くのを待つ暇もなかった。紙を元に戻し、外から文字が絶対見えないように折り目を補強して、ペンを机に戻す。アイミネアが机から身を起こしたのと、衝立一枚隔てた向こうのドア――先ほどアイミネアの鼻先を強打しそうになったドアだ――が開くのとはほぼ同時だった。ばたん! という音がして、何人かが駆け込んでくる。どうかこちらに来ませんようにと祈る暇もなく、その数人は衝立の向こうに走っていった。
「一体どうしたってんだ!?」
「何があったんだ?」
「誰かがこの穴を通ったのは確かだ」
グスタフの声が混乱を圧して響く。それを聞きながらアイミネアはそっと、机と椅子の間を、細心の注意を払ってすり抜ける。一瞬だけ、エルリカが残していた焼き菓子が目に入った。ちょっとだけ、と彼女は思った。ちょっとだけ、一口だけ、もらっても――?
でも、ダメだ。彼女は無理やり、目をその焼き菓子から引き剥がした。わかってる。焼き菓子が消えていたら、誰かがここに侵入したってばれるだろう。そしたら手紙に付け加えられた文章が見つかる可能性が高くなる。迷ったのは一瞬だけだった。彼女は身を翻して、会議の行われていた場所から滑り出た。
「二階から降りたはいいけど、見張りがいたから、また戻ったのか――」
「それともまだ、一階に……」
「一階に潜んでる場所なんて、あるか?」
「とにかく、捜索しよう」
衝立の向こうからばたばたとこちらに向かってくる音がする。アイミネアは足音を出来るだけ忍ばせて、先ほど誰かが入ってきたドアから、
「二階も探してくれ! こっちは一階を探すから!」
「わかった! みんなに知らせろ!」
廊下に、出た。
とにかくここから離れなければ、とアイミネアは思った。
手紙のあの文字に、グスタフが気づきませんように。そして、ゴードが、本当のことに、気づいてくれますように。
アイミネアに出来ることは、後は祈ることだけだった。




