第二日目 5節「暗殺」(アイミネア)(3)
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ごわごわした防水布の中に何とか居心地よくもぐりこむと、アイミネアは、壁に背を預けてうずくまった。衝立と壁の間にはわずかに隙間が開いていて、そこから光が漏れてくる。燭台の光は時折ゆらゆらと揺れて、隙間から見える人々の影も、それにつれてゆらゆらと揺れた。夢でも見ているような、不思議な光景だ。
衝立の向こうからは、ヴェロニカが人々の間に座り込むごとごとした音が響いていたが、それもやがて止んだ。ガスタールの低い声が、響いてくる。
「ようこそ、ヴェロニカ。西軍の居心地はどうだった?」
アイミネアは、もっと集中して聞こえるようにと、目を閉じた。
ヴェロニカ。
ルーディの姉で、優しくて、有能で、おっとりした少女。
彼女が、本当に、スパイだったなんて。
それはショックではあったが、同時に、ホッとするような気持ちを起こさせた。ヴェロニカはスパイだったかもしれないが、でも、今はここにいる。シャティアーナやギルファスの傍には、もうスパイはいないのだ。無理やりそう考えて、気分を盛りたてることにする。
「……もう二度と、スパイはごめんです」
苦笑混じりに、ヴェロニカが言うのが聞こえる。それはそうだろう、とアイミネアは思う。スパイだって、やりたくてやるわけじゃない。そんなことは、よく分かっている。
「そうだろうなあ。俺も昔やったが、二度とごめんだ」
ガスタールが苦笑を返すようにそう言い、しかし、と続けた。
「しかし、君が自らの役割を充分に果たしてくれたおかげで、西軍の夜襲にも何とか対処できた。東軍大将として、礼を言う。ありがとう、ヴェロニカ」
ガスタールの声音があまりにも真剣だったためか、ヴェロニカがちょっと息を呑んだ。
そうだ。スパイは、無事に任務を果たして自分の陣に帰り着きさえすれば、英雄なのだ。ヴェロニカは困難な仕事をやり遂げた。すごい人だ、とアイミネアは思った。自分の意図を押し隠して、仲の良い人々と一緒に行動して、鮮やかに自分の仕事を果たして見せた。いつかアイミネアも、ヴェロニカのように、スパイの籤に選ばれる日が来るかもしれない。もしそうなったなら、きっとヴェロニカと同じように、ちゃんと行動して見せるだろう。だから、とアイミネアは思う。だから、ヴェロニカを責めるような子供みたいな真似はしない。
彼女を責めたくなるのは、今自分が、こんな境遇に陥っているからだ。
「お役に立てて、光栄です」
ヴェロニカが答えた声は、とても嬉しそうで。
「これからもよろしく頼む」
ガスタールの言葉が、優しく耳に届く。
アイミネアは自分の膝をぎゅっと抱えた。あたしも早く西軍に帰りたい、と彼女は思った。今西軍に帰ったら、みんな歓迎してくれるだろう。肩を叩いてくれるだろう。あの……優しいけれど厳しいゴードだって、今のガスタールのように、ねぎらいの言葉をかけてくれるだろう。よくやったな、アイナ、って。
――でも、まだ、帰れない。
「さて、ヴェロニカ。いくつか質問がある」
ガスタールはゆっくりと口を開いた。アイミネアは、心を引き締めた。気弱になっているのは、お腹がすいているからだ、と自分に言い聞かせる。彼らの会議を盗み聞いて、いろいろと有益な情報を掴んだら、今度こそルーカがくれた、あのお菓子を食べよう。
「……まず一つ目。君が西軍に留まっていたのは、何時ごろまでだった?」
ガスタールの問いに、ヴェロニカは即答した。
「今朝の、夜明け前です。夜襲に赴く銀狼隊と一緒に行動していました。途中で、東軍に夜襲を知らせるためにわざとはぐれましたが、その後再び合流しましたから」
「で、その後、再びはぐれて現在に至るわけだ」
ガスタールの呟きの後。
少しして、聞き慣れた声が耳に届く。
低いけれど、とても耳になじむ声。淡々として、余計なことは話さない、あれはグスタフの声だ。
グスタフの声は、淡々と、ヴェロニカに訊ねた。
「ヴェルが銀狼隊にいたときまでで構わないんだけど。ガウスが西軍に帰り着いたという話は、聞いてるか?」
ヴェロニカは、再び即答する。
「ええ、聞いたわ。ルーカが『戦死』したという情報を持ってきたのがガウスだったということも聞いた。ルーカに『戦死』を宣言したのはガスタールだったんだそうですね?」
「正しい情報が伝わっているようだな。ガウスが西軍に帰ったということは間違いないらしい」
ガスタールが呟き、グスタフが言葉を継いだ。
「それなら……アルスターか、アイナが、西軍にたどり着いたという噂は?」
急に自分の名前を出されて、アイミネアはギクリと身を強張らせた。なぜ、今ここで、あたしの名前が出てくるんだろう?
ヴェロニカが一瞬だけ黙り込んだ。記憶を探っているんだろう。そのわずかな沈黙が落ちた隙に、口をはさんだのはゴルゴンだった。
「どうしてここでアルスターが出てくるんだ?」
「アルスターがもう一人のスパイだったからだ」
グスタフは簡潔に答えて、今朝の夜襲の時に、アルスターが取った行動について説明した。見張りに立っていた間にどこかへ行って、持ち場に戻らずに、別のルートを通って東軍の敷地内で姿を消している、ということ。
アイミネアはグスタフが正確な情報を掴んでいることに舌を巻く。見張りの一人一人に話を聞いたんだろうか。
ヴェロニカが、遠慮がちに口を開いた。
「どちらも、西軍に帰り着いたという噂は聞いていない……です。少なくともわたしが、銀狼隊と行動を共にしていた間は」
「ということは、どちらもまだ東軍内にいる可能性があるということだな」
呟いたのはガスタール。座が、ざわめいた。ライラらしき少女の声が、アイミネアの耳に届く。
「アイナが……」
その呟きには、困ったな、というような響きが含まれていた。
「銀狼、媛。暗殺に気をつけてくれよ」
誰か男の人がそう冗談めかした声で言ったが、誰も笑わなかった。座のざわめきがますます大きくなる。ひそひそと囁き交わす声が聞こえる。全くだ、とか、暗殺、とか、充分注意しよう、とか。
アイミネアは先ほどからのやるせない気持ちが、さらに強くなるのを感じた。
暗殺。
あたしが東軍に残っているということを聞いて、みんなが真っ先に思い浮かべることは、暗殺、ということなんだ。
膝を抱えたまま、彼女は唇を噛み締めた。実際ここに残ったからには、誰か重要な人を『暗殺』くらいしてやりたいと思ってはいた。アルスターもそう言っていた。でも、誰からも――グスタフからも――アイミネアがそうするだろうと即座に連想されてしまうということは、少し哀しいことでもあった。ああ、あたしはここでは本当に敵なんだ、と実感したとも言えるだろう。いつもは仲よくしてくれる人たちばかりだけど、でも、今はみんな敵なんだ。分かってはいたことだけど。
伝令隊の仕事には、誇りをもっている。
カーラのことも、伝令隊に所属するたくさんの人たちのことも、みんな大好きだ。みんなカッコいいと思うし、みんなに認められたいと思う。でも、今のように疲れきっていて、お腹も減っていて、隠れていて、周りはみんな敵ばかりで、たった一人でうずくまっているときに、ふと思ってしまうのだ。
――あたしは、いつも、スパイのようなことをしてる。
ふと気づくと、ざわめきが収まっていた。ガスタールの、先ほどまでと全く変わらぬ穏やかな声が響く。
「ユーミナ?」
「あ、はい」
答えたのはアイミネアの大好きな一人、ユーミナの声だった。彼女は伝令隊の有力な一人であり、カーラの右腕とも言われる。今年は東軍の伝令隊の隊長を務めていたはずだ。彼女の声はハリがあって、いつでもぴりっとした感触を耳に起こさせる。
ガスタールの声が続く。
「ユーミナ、君はアイナのことをよく知っているだろう? よく考えてみてくれ。昨夜、ルーカが『戦死』した少し後に、アイナが厨房から逃げ出している。その後夜襲などで東軍の配置に混乱が起こり、アイナ一人くらいなら抜け出して西軍に帰れそうな状況になった。――さて。アイナだったら、その混乱に乗じて西軍に帰るだろうか?」
「帰りませんね」
ユーミナが即答し、それを聞いたアイミネアは、防水布の陰で身を縮めた。自分の行動について、こんなところで分析されるとは。なにやら『宴』の主要人物にでもなったようで、こそばゆいったらない。
そして行動を見透かされているのがとても悔しい。
ユーミナの声は自信たっぷりに響いている。
「何か重大な情報を、彼女がその時点で握っていたのなら別ですが。たとえば、西軍にもぐりこんでいるスパイは誰なのか、とかね」
「それはまだ、掴んでいなかったと思うが」
「それでしたら、彼女はまだ東軍内に潜んでいると思います」
「ふむ」
ガスタールは唸り、ついで、いたずらっぽい声を出した。
「彼女をおびき出すには、どうすればいいかなあ」
「食べ物で釣るのが一番だと思いますけど」
ユーミナがくすくす笑いながら答え、アイミネアは唸り声を上げそうになるのをかろうじてこらえた。
何から何まで、図星だ。
でもさすがのユーミナも、あたしがこんな場所でこの会話を聞いていることまでは、まさか思いも寄らないだろう。そう考えて自分を奮い立たせ、アイミネアはそっとポケットのふくらみに手をやった。ルーカにもらった菓子の包みがちゃんと入っている。今の会話で忘れていた空腹が戻ってきた。胃袋の中にはもう何も入っていない。本当にからっぽだ。こんなところで腹の虫が鳴ったりしたら、と心配になったとき、グスタフの声が聞こえた。
「ユーミナ。アイナの筆跡を、真似ることは出来ますか?」
「え?」
ユーミナがぽかんとした声を上げる。アイミネアも頭をもたげて、耳をそばだたせた。
ガスタールが、ゆっくりとした口調で、明日の作戦について話し始める。
それを聞くにつれて、座からざわめきが失せていく。
その作戦とは、かいつまんで言えば、次のようなものだった。
先ほど用意した丸太を使って夜襲をかける、というのが、ガスタールの提示した作戦の骨子である。狙うのは西軍の本拠地ではなく、初日に西軍に占拠されたままの小高い丘。丸太を破城槌のように使えば、見張りの少ない丘の上は、簡単に占拠できるだろう。
ガスタールの話を聞くうち、座は急速に静かになっていく。説明が終わり、何か質問は、とガスタールが聞くと、初めに上がったのは男の声だった。
「そりゃ……あの丘を取り戻せれば、明日の戦闘がぐんと楽にはなるだろう。丸太を破城槌として使うと言う案には大賛成だ。しかし……それならばいっそ、本陣をついた方がいいのじゃないか?」
「本陣まで丸太を運ぶ労力と、本陣の警戒を潜り抜けることを考えれば、丘を取り戻す方に集中した方がいい。今日の劣勢も、丘を取られていることから起こったのだから。明朝丘を取り戻せば、まだまだ挽回できる」
よどみないガスタールの答え。次に上がった声は、やはり男で、しわがれていた。
「しかし、危険も多いですよ。あの丘の重要性は西軍が一番良く知っているから、昨夜の見張りの数もすごかった」
「そのために」
ガスタールの声が、笑みを含む。
「そのために、アイナに手紙を書いてもらうんだ。西軍の本陣に夜襲をかける計画があるから、注意するように、と。おそらく北側のルートを通るようだ、ともね。そうすれば、ゴードのことだから、疑うだろうな。夜襲の計画の有無を疑うかもしれないし、ルートを疑うかもしれない。でも。目標が違うかもしれない、とまでは、疑いにくいんじゃないか?」
ガスタールの声はとても落ち着いている。アイミネアは、膝を抱えたまま、それを聞いていた。確かに、東軍の中に残ったままのアイミネアから、ガスタールが言ったような手紙が届いたら。そう、確かに、用心深いゴードのことだ。手紙の真偽を疑うかもしれない、間違ったルートを教えるための罠だと思うかもしれない。でも。夜襲は本拠地にかけるものだという、今までの『宴』の常識もあるし。昨夜西軍がかけた夜襲も本拠地に向けてのものだったし。目標そのものが違うとは、思わないだろう。
ゴードは警戒を強めるだろう。北側と南側、両方の警備を多くするかもしれない。
でも、北側と南側、そして小高い丘。この広い範囲をカバーするだけの兵士の余裕なんて、どこにもないのだ。北側と南側に警備を集中したら、丘の上は手薄になる。
――あたしが東軍に残っている、ということが、西軍にとっての不利な条件になろうとしている……
そんなこと、想像したこともなかった。
衝立の向こうでは、興奮した人たちが、次々に自分の意見を出していく。
こうして、次第に、計画が現実味を帯びていく。
その計画の中で、『アイミネアの手紙』がどんどん重要性を増していくのを、彼女はほとんど呆然として、聞いていた。
伝令隊に入ってもう何年も経つ。『宴』では、こうやって、さまざまな手段を用いて相手を欺くということは頻繁に行われていることだということも、他の人たちよりはよく知っている。アイミネア自身が、誰かの筆跡を真似して手紙を書いたことすらある。彼女はゴードやガスタール、カーラといった、『宴』の中心人物たちの筆跡を完璧に真似することが出来た。でも。自分の筆跡で、自分の味方をだます為の計画を聞いてしまっては、心穏やかではいられなかった。
「それじゃ、エルリカを呼んできますね!」
ヴェロニカがそう言って、勢いよく立ち上がった。アイミネアの筆跡を真似するのは、エルリカの役目に決まったらしい。会議もそれで終わったらしく、ヴェロニカにつられるように次々に席を立つ音が聞こえ、アイミネアは身を硬くした。防水布の中にもぐりこんでいるのだから、誰にも見つかるはずはない。分かってはいるのだが、衝立の向こうからこちら側に人が続々と出てくると、緊張せずにはいられなかった。
衝立に仕切られた狭い会議の場所に、こんなに大勢の人が入っていたのかと思うくらいの人数が、口々に言葉を交わしながら部屋を出て行く。
ライラとゴルゴンも、アイミネアのすぐ傍を通って出て行ったのが聞こえた。誰もこの防水布の山には意識を払っていない。早く通り過ぎてくれますようにと祈りながら、彼女は微動だにせず、これからどうするべきか、考えをめぐらせた。
ヴェロニカがエルリカを呼びに行った。ということは、エルリカはここで仕事をするんだろう。手紙が出来上がって……そうしたら、その手紙をどうするんだろう? エルリカがそのままそれを持って出て行くんだろうか? あたしはどうしたらいいだろう、と彼女は思った。自分の名前を使われて、自分の味方を不利な状況に陥れるなんて、そんなこと我慢できるはずがない。でも、どうしたらいい? 手紙をすりかえる? そんなチャンスがめぐってくるだろうか……
「夕食、持ってきますね。ガスタールの分と、グスタフのと、エルリカのと」
ユーミナの声がそう言って、がたん、と立ち上がる音が聞こえる。
「ああ、頼む。……いや、俺のはいい。二人分だけ持ってきてやってくれ」
「はい」
にこやかに答えたユーミナが、足早に出て行くのが聞こえる。




