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第一日目 1節 『宴』の始まり(ギルファス)(2)

 そうして、ギルファスは西の軍を示す、白い玉を引いたのだった。

 そのときの情景を、彼はまざまざと思い返すことができた。熱気に包まれた広場、その広場を埋め尽くす大勢の人々の前で、熱に浮かされたようにふらふらと、白く輝く玉を頭上にさしのべた時のことを。東軍の方を見る余裕はなかった。だから、グスタフがそのときどんな表情を浮かべたのか、ギルファスは知らない。しかし今年のギルファスの立場は、あの瞬間に決したのだ。グスタフの望んだとおりに、彼は白い旗のなびく西側の陣地に、とぼとぼと歩いていった。まるで敗残の兵士みたいに……まだ『宴』は始まっていもしないというのに。

 籤引きの神は、どこまでも、グスタフの味方をするものらしい――

 そんな恨み言めいたことまで考えてしまう自分が、ギルファスにはひどく厭わしかった。

 自分の中に、こんな女々しい部分があったことに驚き、そして嫌悪を感じる。なんて情けない。ゴードのもとで戦うことができるのは、去年のことを考えれば、とてもすばらしいことであるはずなのに。グスタフに拒絶され、その望みどおりに軍が別れただけで、こんなにも心細く、辛く、惨めな気分になるなんて。

 ギルファスは意識して、一週間前にこの胸につきたてられた、拒絶の刃を脳裏から締め出そうとした。もしこのぐるぐる、どろどろとした醜い感情の存在をゴードが知れば、あの冷静沈着な西軍大将は、ギルファスを銀狼に推したことを後悔するだろう。それだけは厭だった、自分の尊敬する人に、そして期待をかけてくれている人に、幻滅されるのだけは死よりも耐え難い。

 ギルファスは自分の頭に命じる、別のことを考えよう、もうほんのわずかな時間で――俺は、銀狼になるのだから。ならなければならないのだから。

 グスタフと、シャティが、そのことをどう思っているにせよ。

 

 あてもなく歩くうちに、こんもりとした木立ちを抜け、広々とした野原に出た。かなり起伏がある野原で、とりわけ中央に小高い丘があるため、向こう側――つまり東軍の陣営は見えない。明日から始まる『宴』では、まずあの丘を取り合うことになるだろう。ぶるり、と胴が震えた。武者震いというやつだろうか。恐怖でないことだけは確かだ。だって、これは本物の戦ではないのだ。斬られても、『討死』と目付に叫ばれるだけで――そしてそれから単に、地面に横たわって生者たちが動き回るのを指をくわえてみているだけの存在になるだけで、『宴』が終われば起き上がり、また来年参加できるのだから。恐怖など感じるはずもない。

 背後の西の空には、白銀の月。そして東の空には、冴え冴えと青い月がかかっている。

 まるで、明日からの『宴』を象徴するような月々の配置に、ギルファスは口元をゆがめた。

 銀狼には、生涯一度きりしかなれない。来年また『宴』に参加することになっても、銀狼として参加することは二度とできない。

 ――この『宴』で、俺は、何事かを成し遂げることができるだろうか。

 東軍の陣の上にかかった、半分に欠けた青い月を眺め、彼は初めてそのことについて考えた。銀狼には今年、選ばれてしまったのだ。一生に一度の『銀狼』になるその年に、シャティと同じ軍になり――そして一生に一度だけ組むことができる相方がシャティだったなんて、考えてみれば幸運なことではないか?

 そしてグスタフを相手に回して、自分の力の限りを尽くして、戦うことができるなんて。

 そう――前向きに考えよう。

 考えてみれば、これはチャンスだ。

 グスタフは、東軍の副将に抜擢されたと噂で聞いた。どうやら、東軍の参謀のような位置に立つらしい。異例の抜擢と言えるだろう、十代の半ばを過ぎたばかりの少年が、将のつく位にたったことなど未だかつて聞いたことはない。

 そのグスタフを相手に回して戦うのだ。

 去年のように、グスタフの策に従い、指示されて動くのではないのだ。グスタフと対等に渡り合うためには、『銀狼』という地位は確かに都合がいい。去年のような、一介の兵士という身分では、敵の副将に挑むのは難しい。しかし銀狼ならばそれは可能だ。どうせ敵に回るのならば、グスタフがその双眸を見開くような、活躍を見せ付けてやりたい。

 どのようにして銀狼になったかなんて、どうだっていい。

 大切なのは、銀狼となって何を成したか、だ。

 夜露に濡れた草の上に防水布を敷き、彼はその上にあお向けに寝転んだ。こうすると、白々と輝く銀の月がちょうど頭上に見える。そうして月を見ていると、脳が透き通っていくような気がした。いくら悩んだって、『宴』は明日始まってしまうのだ。役割はすでに決した。配置換えを望む気も、もうない。媛の前で――そして敵の副将の前で、不様な銀狼だけは、演じるわけには行かない。

 ギルファスは目を閉じた。

 瞼の上に月光を感じる。

 ようやく、再び眠ることができそうだった。

 その眠りは、長くは続かなかったけれど。

 夜明けは案外すぐ側まで迫っていたらしい。いくらも眠ったと思わないうちに、ギルファスは騒々しい少女の声で起こされた。重い瞼を押し開くと、空はすでにうっすらと明るかった。東の空が菫色に染まっている。

「ほらもう、起きなさいってのよ!」

 笑いを堪えているような、明るい声がした。

「死体になるにはまだ早いわよっ」

「……アイナ?」

 目のくりくりとした、見慣れた顔が上から覗きこんでいた。くるくると良く動き、身のこなしがとても軽く、いつでも少々活力をもてあましぎみにしているように思えるほどの、元気な少女である。アイミネアはギルファスと同い年だったが、彼女は性格なのか、それともギルファスが頼りないと思い込んでいるのか、お姉さんぶりたがるきらいがあった。

「夜明け前に祭壇にくるように言われてたでしょ。忘れたの? 人が親切に起こしにいってやったのにあんたったらどこにもいないし。小屋中を起こしちゃったわよ、まったく」

 はきはきした口調で言いながら、仁王立ちになってギルファスの起きるのを見下ろしていたアイミネアだが、寝起きのためぼーっとしているギルファスを見て少し心配そうな顔をした。

「ちょっと、大丈夫? まさか夜露にぬれて風邪引いたとか言わないわよね? 今から熱出したりしたら、村八分にされるわよ」

「いや……大丈夫」

 ようやく少し目が覚めてきたギルファスである。あくびを一つしてからようやく立ち上がった。体調は悪くなかった。絶好調と言ってもいい。夜露にぬれながら眠るのには慣れていたし、彼女もそれを知り尽くしているはずなのに、心配されるとなんだかこそばゆいような気がする。これも銀狼の特権だろうか。

 首を鳴らし、体を動かし始めると、体中の血が流れ出したのを感じる。それとともに昨夜の記憶が戻ってきた。そう、銀狼と媛は『宴』が始まる前に祭壇に来るように言われていたのを思い出す。証を体に描かなければならないからだ。

 昔語りでは、銀狼と乙女は体中にお揃いの、若草色の紋様を描いていたと言われている。この『宴』でもそれを律義に再現しようとしているわけだ。その模様にどんな意味があったのかは、長老もはっきりとは知らないようだったし、この『宴』では草の汁に混ぜものをした絵具を塗るだけなので、それこそ単に気分を出す以外に何の意味もないようなものだったが、伝統というものは得てしてそんなものかもしれない。

「朝ご飯、食べたほうがいいわよ」

 ギルファスの後ろに付いて歩きながら、アイミネアがいった。振り向くと脇に抱えていた籠から、丸い果実をだして差し出してきた。

「知ってるだろうけど、あの絵具ったら乾くまでそりゃあひどい匂いがするの。描いてるあいだは食べられたものじゃないし、それが終わったら食べてる暇なんかないかもよ」

「ありがとう」

 実を受け取って皮を剥くと、食欲をそそる甘い香りが広がった。クキの実は結構ボリュームがあって、一つでも腹にたまる。かじりついていると、アイミネアは足を速めて、ギルファスの隣に並んだ。食べ終えたら次の食べものを差し出そうとしてくれているようだ。彼女は口うるさく、たまに騒々しいが、気立てがいいのは周り全部が認めるところだった。

「そうそうあたしね、媛隊に選ばれちゃった」

 何気ない口調でアイナが言った。ギルファスは驚いてアイミネアを見下ろした。彼女は背が低い。ギルファスも同い年の青年たちの中で、決して高いほうではなかったが、それでも彼女とは頭ひとつ分くらいの開きがあった。その位置からでは、まっすぐ前を向いている彼女の表情は見えなかった。丸い鼻の頭だけが、栗色の髪の下から覗いている。

「――へぇ……すごいじゃないか」

 なんとか言葉を絞り出す。

「あんたに言われるとなんだか複雑だわよね」

 そう言いながらも、アイミネアもまんざらでもなさそうである。こちらを仰いでニッコリした顔は、ちょっと思いがけないくらい可愛かった。

「一番嬉しかったのはね、カーラがすっごく喜んでくれたこと。頑張んなさいよ、って言ってね、これくれたの」

 ホラ、と籠の中から取り出して見せてくれたのは、銀色の細い髪飾りだった。髪に編み込んで使うタイプのもので、カーラ女史がつけているのをよく見かける。その髪形のどこにつけるんだ、ともう少しで言ってしまうところだったが、彼女が本当に嬉しそうにしているのでその質問は飲み込んだ。代わりに、

「よかったな」

言うと、アイミネアはほほ笑んで、そしてうなずいた。

「うん。あんたのお姫さまはあたしが全身全霊を込めて守ってみせるからね!」

 何気ない言い方に心臓が跳ね上がった。

 ちょうどその時祭壇にたどり着いたのと、空が日の出で赤く染まっていたのは、この上なく幸いだったとギルファスは思った。

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