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第二日目 5節「暗殺」(アイミネア)

 おなかすいた、なあ……

 アイミネアは呆然と、夕焼けの空を見つめていた。日の沈む速度はかなり遅く、もうとっとと引っ込めばいいのにと、イライラするほどだった。彼女の自由に動くことの出来る夜中までは、あとまだ数時間もある。

 彼女の今居るところは、昨日ルーカと逃げ込んだ、あの崩れ果てた部屋だった。この館の中には東軍兵士が溢れていて、身を隠すことのできる場所はそれほど多くない。今朝のまだ暗いうちに館に戻り、夜襲の後の混乱にまぎれて館中を走り回ったのだけれども、結局いちばん安全に身を隠せそうなのは、この場所しかなかったのだ。館の中枢から一番はなれたこんな場所にうずくまっていなければいけないのは、とてもストレスのたまることだった。

 しかも、今日は朝からまだ何も食べていない。ルーカが包んでくれた焼き菓子二つにはまだ手をつけていないが、それもそろそろ限界だった。腹が減ると体が冷える。体が冷えると、気分がどんどん落ち込んでいく。まるでこの広い世界にたった一人だけで放り出されたような。住み慣れたはずのこの地区の中で、みんな知っている人間ばかりであるはずなのに、誰からも忘れ去られたような心細い――そしてどことなく投げやりな気分。

 今日一日を無為に過ごしてしまったという事実も、その気分に拍車をかけていた。自分の仕事の本番は夜中だということは、よくわかっているのだが。

 先ほどから何度もポケットに手を伸ばしては、菓子のふくらみに触るだけで自分を押しとどめていられたのだけれど、彼女はついに、ポケットから菓子の包みを一つ引っ張り出した。もう一つあるんだからと自分に言い訳をしながら、力の入らない指でそっと包み紙を開く。

 ひび割れた、カリカリの菓子の肌が、包み紙から顔を覗かせた。ぽろぽろと菓子のくずが床に落ちそうになり、慌てて紙をめくり上げる。

 菓子は、当然のことながら冷え切っていた。中に入っているジャムもきっと冷えて硬くなっているだろう。木苺のジャムか、黒スグリのジャムか、それともクキの実のジャムだろうか。匂いを嗅いだら甘酸っぱい香りが漂い、どうやら木苺のジャムらしいのがわかった。菓子の割れ目からほんのりと赤いジャムが覗いてるのが見えて、つぶつぶの入った甘くて爽やかなジャムの味が思い出されて、胃がうめき声をあげる。

 この菓子は、アイミネアの大好物だ。熱熱のときに食べるのがいちばんなんだけど、と思いながら、アイミネアはしばしその菓子を見つめた。硬いカリカリの皮は中までしっかり焼き固められて、噛むとさくさくした歯ざわりで、口の中でほろほろと崩れるだろう。今はきっと硬いけど、焼きたての時は中から熱いジャムがどろっと……ああもう、我慢できない!

 彼女が今にも菓子に歯を立てようとした瞬間だった。

 ふと、彼女は動きを止めて、耳をそばだたせた。

 それは森の方から聞こえてきた。アイミネアが今いるのは、館の北の方に張り出した別館の、二階の隅である。かつてはこの上に三階もあったのだろうが、今はすっかり崩れてしまって、二階のこの部屋から空が拝める。壁も崩れてしまっていて、彼女の座っている場所から、努力せずに夕焼けが見られるほどだ。夕日が沈んでいくのは西側の深い森で、そちらの方から、カーン、カーン、という、規則正しい音が聞こえてくる。

 アイミネアは少しためらってから、菓子を元通り紙に包んだ。胃が情けないような恨めしげなうめき声をあげたが、今はそれどころじゃない。

 この音は、よく聞きなれた音で。

 そう、あれは木を切る音だ。

 彼女は隠れていた場所からそっと首をもたげ、もうだいぶ夜が勢力を強めた外をそっとうかがった。西側には男たちが数人集まっていて、彼女が外をうかがったとき、ちょうど松明に火が灯されたところだった。彼らは大人の胴体くらいはありそうな太い木を一本、声を掛け合いつつ切っている。新しい家を建てるときや、建物を補強するときなど、よくこうして大人たちが集まって木を切るので、それは見慣れた光景であった。周囲を深い森に囲まれたミンスター地区は、その木材を各地区に輸出したりもしている。

 けれど、今は『宴』の真っ最中だ。しかもこんな夕方に、いったい、どうして?

 櫓とか梯子とか作るのだろうかとも思ったが、そうだとしたら、準備が悪すぎるような気がする。一週間の準備期間に、そう言ったものは作っておくか、少なくとも材料は用意しておくのが常だった。今このときに、あんな太い木を切るなんて。

 見守るうちにも木はめりめりと音を立てて傾き始め、男たちは互いに声をかけつつ、倒れる向きを調節している。やがて、大きな地響きを立てて、木は切り倒された。すぐさま男たちは木にロープを巻きつけて、広い場所へと移動させる。そこにはのこぎりなどを持った人々が待機していて……

「おうい、一本でいいのかあ?」

「一本で、たりるのかあ?」

「西軍のやつら、音に気づいてないだろうな」

「気づいたってなんに使うかわかりゃしないって」

 口々に言い合いながら、倒れた木の枝を落とし、梢の方で細くなり始める部分をきり、どうやら丸太を作っているらしい。先ほどまで早く沈めと願っていた太陽に、今度はもっとゆっくり沈めばいいのにと、アイミネアは舌打ちをした。あの丸太を『宴』で使うつもりなのは疑いない。しかし、何のために? 見極めようと思うのだが、暗くてよく見えない。それに、足場が悪いし、瓦礫の隙間から覗いているので、見えない部分が多すぎた。背伸びをする足が震えてきて、彼女は一度頭を引っ込めた。何か踏み台になるようなものでもないかと部屋を見回す。

 と。

「おーい、ヴェロニカ!」

 誰かが叫んで、アイミネアは目を見開いた。

 慌てて再び爪先立ちになって割れ目から覗くと、数の増やされた盛大なかがり火の中に、ヴェロニカのほっそりした姿が浮かび上がっていた。長い髪をきっちりと二本のお下げにした少女の後姿は、オレンジのかがり火にくまどられている。彼女は作業をする人々のところへ足早に近寄っていく。あれは、とアイミネアは呆然としたまま、思った。あれは、本当に、ヴェロニカだろうか?

「一本で、大丈夫そうか?」

 男の一人がかけた声に、はきはきと答えた声は、ここからでは聞き取りづらいが、

「ええ、大丈夫だと思います」

 ゆったりして落ち着いた、紛れもない、ヴェロニカの声だった。

 どうしていいか瞬時には判断できないアイミネアの耳に、ヴェロニカの声は続く。

「それで、それ、どうやってあちらまで運ぶんです?」

 辺りはもうすっかり暗くなっていて、作業を続ける人々の周りにだけ、たくさんのかがり火や松明が灯され、パチパチと木のはぜる音がここまで響いてくるほどだ。その音を伴奏にして、せわしなく働いている人々を見つめ、アイミネアは考え込んだ。ヴェロニカがここにいる。ヴェロニカは、西軍の食糧補給隊の一員である、はず。それは間違いないはず、なのに。

 ――スパイ、だったの?

 ヴェロニカ、が?

 アイミネアはしばらく考え、そして、うなずいた。西軍で働いていた人が、敵軍の中で、人々と協力して働いている……そういうことが起こりうる原因なんて、一つしか考えられない。事態を把握してしまうと、アイミネアの行動は迅速だった。とりあえずもう少しよく見えて、よく聞こえるところを探さなきゃ。彼らは今、ヴェロニカのもたらした情報をもとに、あの丸太を用意している。なんに使うんだろう。ここからじゃ、よく会話が聞き取れない。もちろん、ここで情報を得たって、今更西軍に伝える術がないことなんてわかりきっている――でも、知りたい。今この状態で、あの人たちが何をしているのかを知らずにいられる伝令隊がいたら、お目にかかりたいものだ。

 崩れ落ちた部屋の中に向き直ると、夜が、いっそうその勢力を強めたのがよくわかる。壁の割れ目から入ってくるオレンジ色のか細い光に背を向けて、部屋の中の暗闇を睨んで、暗さに目がなれるのを待つ。

 空腹も寒さも、今は感じない。

 アルスターから借りた、東軍の青い上着を着た自分の姿を、彼女は見下ろした。それはとてもぶかぶかで、似合っているとはお世辞にもいえない。けど、これを着ていれば、一発で西軍兵士とばれることはまずないだろう。誰か男の人の上着を借りて着てるんだな、と思ってくれると思う。白い鉢巻を見られても、暗闇の中でなら、一瞬くらいはごまかせる、はず。ようやく自由に動ける時間がやってきた。幼いころはあれほど恐ろしかった暗闇に、今では感謝したいような気持ちだった。

 

 この別館は今はほとんど崩れかけていて、『宴』でも使われてはいないので、廊下にも明かりは点いていない。人影のない廊下を通り抜け、本館へ続く渡り廊下の前に立つと、彼女は一瞬ためらった。昨日の真夜中にルーカとやったように、ここを匍匐前進しようかとも思ったのだが、昨日とは違ってまだみんな起きている。それに渡り廊下の向こう、本館の廊下には、弱いとはいえ明かりが点いているのだ。匍匐前進していて、誰かが通りかかったら、怪しいことこの上ない。一度決心してしまうと思い切りの良いアイミネアは、歩みを止めたのは一瞬だけのことで、向こうに誰もいないことを見定めると、普通に渡り廊下に足を踏み入れた。

 廊下の手すりは低く、彼女の身長でさえ隠してはくれなかった。彼女は自分の横顔を、オレンジ色の光が照らしたのを意識する。人々のざわめきが先ほどまでより大きく聞こえ、心臓が高鳴った。渡り廊下はほんの数メートルしかないのに、やけに長い……

 しかし誰にも呼びかけられたり見咎められたりすることもなく、彼女は廊下を渡りきった。だが、ホッと息をつく暇もなく、今度は本館の廊下を渡っていかなければならない。廊下の上の方の壁に取り付けられた、規則正しく並んだ燭台には明かりが灯されていて、アイミネアの影を幾重にも作り出していた。両側に扉が並んでいる。左側の扉は外れかけていて、中は真っ暗だったが、右側の扉の中から、女の人たちがなにやらおしゃべりをしている声が存外大きく聞こえてきた。おそらく、寝る準備をしてるんだろう。この時間から眠る準備をしていることから考えると、真夜中辺りから当直につく人たちの部屋、かな。

 アイミネアはそう考えて、足早にそこを通り過ぎた。

 この時間。夕日が沈んだ頃だから、そろそろ夕食の時間だろう。当直につく人々は、夕食を先に軽く食べて、今のように寝る準備をする頃合い。その他の人たちは寝る時間まで仕事を続けて、食糧補給隊がその場所に食事を届けたら、その場で食事を済ませる。だから、今、この館はほとんど空っぽの状態のはずだ。人がいるのは、寝る準備をしている人たちの部屋と、厨房の周囲。それから、各部隊の隊長や将たちが打ち合わせをする部屋、だけ。だから大丈夫。ちょっとやそっとじゃ見つかりっこない。そう自分に言い聞かせると、棍棒を握り締めて、蝋燭の灯された薄暗い廊下を、慎重に歩き始めた。

 

 今アイミネアがいる場所は両側に部屋があるけれど、しばらくしたら左側の部屋がなくなり、剥き出しになる。一階までぶち抜きになっている大ホールに面しているのだ。湾曲した館の形に添ってぐるっと大ホールを囲んで、南側の端に向かっている。彼女は今、その剥き出しになる地点の直前に立っていた。大ホールには、大昔はシャンデリアがぶら下がっていたらしいのだが、今は跡形もない。ところどころに蝋燭がつけられているので、真っ暗というわけではないが、それでも結構暗い。この暗さなら大丈夫だと自分を奮い立たせ、彼女は意を決して、その剥き出しの部分に足を踏み出した。

 大ホールの西側はガラス張りになっていたらしいが、今は全て崩れ落ちていて、西に広がる広場、今年の『宴』の舞台の方がよく見える。あの広場をこんなにちゃんと見たのはずいぶん久しぶりだなと急に思った。そう、媛隊の一員としてこの館に連れて来られてからずっと、あの広場に意識を向けることなく、ここまで来てしまった。

 広場は暗くて、いくつかのかがり火が焚かれているのが見えた。あれは西軍のかがり火かな。そう言えば、『宴』の今日の戦況も、あたしは知らない。そう思うと、いよいよ何もかもから忘れ去られたかのような、物悲しい気分になる。ゆっくり平静を装って歩きながら、アイミネアはほっと息をついた。シャティアーナは無事だろうか。ギルファスは。スパイがヴェロニカだったのなら、もう心配することも……

「ライラ!」

 唐突に声が聞こえて、アイミネアはぎくりとした。その声は彼女の足元、一階から放たれたようである。彼女は思わず手すりから身を乗り出して下を覗いてしまった。右手の方に階段があり、その階段は緩やかなカーブを描いて三階まで続いている。一階の上がり口にいた少女が振り返っているのが見えた。暗くてよく見えないが、あのくるくるウェーブの、あのシルエットは。そして。今彼女の名前を呼んだのは……

「ゴルゴン! なあに?」

 答えた声は紛れもなく、東軍媛のもので。

「明日の打ち合わせをするから、来いってさ」

 ぶっきらぼうに言っているのは、間違いなく、東軍銀狼のもので。

 アイミネアの視線の下で、ライラが登りかけていた階段を下りて、ゴルゴンの方に歩いていくのを、彼女は呆然と見守っていた。ライラがもし頭上を見上げたら、いくら暗くても見つかっていただろうと思ったときには、二人は連れ立って視界から消えようとしている。

 ――ライラ、救出されてたんだ……

 二人の姿が消えてからすぐに、扉が開いて閉まる音がしていたので、打ち合わせをする部屋は、この付近の一階と見て間違いはないだろう。下を誰かが通りかかったので、アイミネアは慌てて体を起こし、手近な扉に身を寄せた。隙間から光の漏れてこないのを確認してから、ノックをして、扉を開ける。

 中に滑り込んで扉を占めると、そこは何もない広々とした部屋だった。

 部屋の隅に夜具らしい防水布がたたまれて、積み重ねられている。

 それから、予備の青い制服が数着、壁にかかっていた。アイミネアは思わずそれに駆け寄った。アルスターの青い上着は大きすぎたし、ズボンにいたっては西軍の白いもののままだった。すばやく制服に視線を走らせて、一番小さいものを手にとる。それでも彼女には大きすぎたが、アルスターのものよりはマシだった。

 はいている白いズボンの上から青いものをはくと、少しかさばるような気もしたけれど暖かいし、動きを阻害されるほどでもない。アルスターの上着を脱ぎ、新しく手に入れたものと取り替える。ハンガーにアルスターの制服をかけて元通りに壁に戻す。自分の体を見下ろすと、先ほどまでよりもっと上手く東軍兵士に化けられたような気がする。そのささやかな収穫に気をよくして、彼女はにっこりした。

 足早に歩いて窓のところへいき、外開きの木の板を開けると、東の森が目の前に見えた。先ほど木を切る仕事をしていた一団が右手の方に見え、ここからだと、彼らが何をしているのかがよく見える。今は木の先を輪切りにして、丸い板を作っている。あれはきっと車輪にするのだろう。あの丸太を西軍の陣へこっそり運ぶための……?

 もっとよく見届けたい気持ちに駆られたが、ライラたちのことも気にかかる。明日の打ち合わせをすると言っていた。ということは、ガスタールやグスタフと打ち合わせをするに違いない。『宴』の詳細ももっと詳しくわかるかも。

 しかし大ホールを通って一階に下りていく勇気はなかった。一階は人でごった返しているはず。何とかホールを通らずに一階に降りる方法はないだろうか? まず一階に下りなければ話にならない……かといって、この窓から降りたら丸見えだし。

 そのとき彼女の脳裏に典型のようにひらめいたのは、床にぽっかりと開いた大きな穴の映像。

「あ」

 アイミネアは思わず、虚空に声を上げていた。

 そして、ポン、と手を打った。

 昨日。西軍媛隊が押し込められていたのは、この館のちょうど中央くらいに位置する三階の部屋、『姫の間』だった。アイミネアは『姫の間』の扉を開けるために、窓から隣の部屋に移った。隣の部屋には大きな穴があいていて、あそこから下を覗き込むと、瓦礫の山ができていて……その窓側の床にも、大きな穴があいていた。

 そうだ、あそこから、一階に降りられる!

「よしっ!」

 彼女は弾みをつけて立ち上がり、横の壁際に積み重ねられている防水布の方へ行った。一束を腕に抱え上げる。これをたくさん腕に抱えて歩けば、顔を隠せるし、仕事をしているように見えるだろう。持てる限りの防水布を持ち上げ、顔を隠すようにして彼女は歩き始めた。鉢巻の色までは隠せないが、それは廊下の暗さに期待するしかない。

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