第二日目 4節「一騎打ち」(ギルファス)(3)
* * *
それは、草木さえも居眠りしそうな、うららかな初秋の午後であった。
空気までもがまどろみそうな昼下がりに、人間たちだけが、あわただしく動き回っている。
二人の銀狼は、北側から東軍、南側から西軍が迫ってくるという状況でにらみ合っていた。一騎打ちの儀式はしていないから、一対一での戦いを許す義理はなかったが、周りの銀狼隊員たちもなんとなく手を出しかねて、互いに牽制しあいつつ、二人を見守っているという状況である。
こうして至近距離で向かい合ってみると、ゴルゴンは本当に大きかった。昨日戦ったゴールディほどではないにせよ、丈も幅もギルファスより一回りは大きいような気がする。
しかし、恐怖は感じなかった。
いや、何も感じていなかったというほうが正しい。彼は落ち着き払っていた。ゴルゴンより有利な点がたったひとつだけあるというだけで、こんなにも心安らかになれるものだろうか。ゴルゴンの媛はまだとらわれの身であって、……そしてシャティアーナは既に自由の身で居る。ギルファスの、すぐ近くに。
それだけで、この上もなく安らかな気持ちになれるというのは、不思議なことだと彼は思う。
本物の銀狼も、こういう気持ちだっただろうか。乙女を救出した後、死ぬまで果敢に戦えたのは、乙女が無事でいたからだろうか。
ゴルゴンが動いた。頭上から振り下ろされた棍棒を、身をずらせて避ける。ゴルゴンが続けざまに打ち込む数撃を、身をひねるだけですべてかわし、ギルファスは自分の心臓の音を探った。とく、とく、と規則正しく脈打つ音が聞こえる。大丈夫だ、とギルファスは思った。大丈夫だ。俺は落ち着いている。それが、自分でも不思議だけど。
ギルファスは、向かい合ってから初めて棍棒を構えた。ゴルゴンが飛び退り、ちらり、と自分の背後に視線をやった。迫ってきている西軍は、まだ少し遠い。
「逃げなくて、いいのかよ」
再び棍棒を構えながら、ゴルゴンがいった。
「東軍のほうが場所が近い。もう、すぐそこまで来てる。たどり着いたら、挟み撃ちだぜ」
ギルファスは、うなずいた。振り返らずとも、東軍がすぐそばまで迫ってきているのはわかっている。たいした人数ではないものの、足音や進撃を促す太鼓の音が、背中じゅうで感じられる。あの中にグスタフは居るのだろうか。副将がこんな前戦に出てきているとは、普通ならば思わないだろうが、何しろ相手はグスタフだ。それに、それをいうならば銀狼や媛なんかも同じことだし。
グスタフは、来てるだろう。
ギルファスは確信する。
……だとしたら、なおさら、逃げるわけにはいかない。
「そうだな。……でも、あいつらがたどり着く前に、お前を倒せばいいことだし」
いうと、ゴルゴンは目をむいた。
そして、吼えた。
「いいやがったな、この……!」
がつん、と棍棒がかみ合った。矢継ぎ早に繰り出される攻撃をたくみに受け流し、ギルファスはゴルゴンの隙を探る。心臓の音は少し早いが、乱れてはいない。
めまぐるしく打ち合う二人の脇では、銀狼隊同士の戦いが繰り広げられていた。西軍のほうが一人少なく、どちらかといえば押され気味だったが、それでもよく持ちこたえている。東軍銀狼隊の一人、フィゴスが、自分の背後を見て叫んだ。
「……なんで逃げないんだよ!? お前ら後ろ見てみろ後ろ! 銀狼がここで『戦死』していいってのか!?」
彼と打ち合っていたのはルーディだったが、ルーディは仕方ないのさ、と肩をすくめて見せた。
「だってうちの銀狼、言っても聞かねぇんだもん」
「だって、って……それでいいのか? たった四人で挟まれたら勝ち目はないぞ! ここで一緒に『戦死』する気なのか!?」
「仕方ないんだって、だから。一度決めたら動かない奴だから」
「引きずってでも連れて行けよ、そういうときはさあ!」
「それができたら苦労はないんだけどねえ」
二人の銀狼は、その一方だけのんきな会話を尻目に、激しい攻防を展開していた。
大変驚いたことに、二人の腕は全く互角のようだった。ゴルゴンの前で足がすくむのではと心配していたことから考えると、信じられないような気さえする。
がつん! 何度めかの衝撃が腕に走り、かみ合った棍棒をそのままに、ゴルゴンは力押しの作戦に出た。ギルファスはたまらず後ろに少しだけ下がった。ゴルゴンのほうが、さすがに力が強い。
「昔っから、お前は気に入らなかったんだよ……!」
顔を寄せたときに、押し殺した声でゴルゴンが言った。次第に押されている。後ろに迫る東軍の足音が聞こえてくる。西軍もやってきてはいるのだが、彼らがたどり着く前に、西軍銀狼隊は『戦死』するだろう。
だが、仕方がない。
ここを動くわけには行かなかったのだから。
東軍にギルファスたちがやられても、ぎりぎりまでひきつけておけば、ゴルゴンたちも逃げられない。東軍媛はまだ西軍の手の中に居るのだから、ギルファスがここを動かず、ゴルゴンをひきつけておけば、西軍の勝ちが決まる。シャティアーナが囮になったことは、それで報われるのだ。動くわけにはいかない。逃げるわけにはいかない。『戦死』するよりも、ゴルゴンに睨み据えられるよりも、一騎打ちに負けて叩きのめされることよりも、怖いことが一つだけある。
それは自分に負けてしまうこと。シャティアーナの行為を無駄にすること。そして……グスタフに、軽蔑されるかもしれないことだ。
だから。
ギルファスは一瞬だけ、ラムズたちにすまないなと思った。そして誰も、文句も言わずにそこにとどまってくれたことが嬉しかった。
背後に東軍の足音と太鼓の音が迫る。
ゴルゴンが振り上げた棍棒を、一歩踏み込んではじく。ゴルゴンの懐に飛び込むと、ゴルゴンが慌てたように後退った。動きはギルファスのほうが速い。ゴルゴンが牽制するように左腕を上げるのをかわし、跳ね上げていた棍棒を上から振り下ろす。
しかし、一瞬早くゴルゴンが地面に転がって避けていた。図らずも、昨日ギルファスが取った戦法と同じ方法を取ったわけである。ギルファスは、単純に、がっかりした。せめて最後に一太刀だけでも、食らわせてやりたかったのに。
「ギルファス……!」
グスタフの声がして、ギルファスは振り返った。
東軍は驚くほど近くまで迫ってきていた。
もう今からでは逃げられない。そして、逃げる気もなかった。ギルファスはただ静かに、棍棒を構えた。地響きとともに興奮の声を上げながら殺到する東軍の中で、グスタフはまっすぐにこちらを見ていた。そして彼も、走りながら、棍棒を構える。
後ろでゴルゴンが起き上がるのが感じられたが、ギルファスはもう構わなかった。グスタフまで、あとほんの数メートル。
どうせ『戦死』するのならば、グスタフを道連れにしよう。
そう決めたギルファスの隣に、ラムズが並んだ。ルーディとマディルスがギルファスたちと背中あわせになる形で、ゴルゴンたちに備える。
そこへ。
「警告――!」
突如、ギルファスらの西側にあった木立の中から、凛とした少女の声が辺りを圧して響き渡った。
一瞬だけ、辺りが沈黙に包まれた。人と人とのぶつかる熱気の渦の中に、一陣の爽風が吹き込んだかのようだった。白いワンピースと長い黒髪をなびかせた少女が、額に白い鉢巻をした兵士たちを引き連れて、駆け出してくる。
西軍媛は、その整った顔を上気させて、高らかに叫んだ。
「目指すは東軍副将グスタフの首! 警告! 西軍媛隊、参戦――!」
* * *
一番初めに駆け込んできたのは、ミネルヴァだった。彼女は小柄だがとても身が軽く、まるで真っ白い小さな竜巻のように、自分よりもはるかに背の高い男たちを翻弄した。持っている棍棒は普通のものよりも細く、軽い。彼女の作り出す音はとてもリズミカルで、動きは優美でしなやかで、これが戦いの場面なのだということを忘れてしまいそうになる。
あっという間に二人の兵士の鉢巻をむしりとったミネルヴァは、そのままギルファスの隣に駆け込んできた。
小作りの、猫のような顔が上気している。
「お邪魔かと思いますが!」
ミネルヴァは、興奮した声で、高らかに叫んだ。
「あそこにいるのは、我らが盟友、ルーカの命を奪った憎い敵です。共に戦う許可を、銀狼!」
彼女がこういう言い方をしたのは、銀狼に対する配慮だった。ギルファスは目の前にいる東軍兵士の棍棒を受け流しながら、うなずいた。助けるべき媛に逆に助けられてしまったという、わだかまりも確かにあった――しかし今は、それどころじゃない。
「歓迎する。――おかげで助かった」
率直な言葉に、グスタフが目を見開くのが見える。いや、周りを取り囲んでその言葉を聞いていた者は全員、驚きを示したのだが、ギルファスは今グスタフしか見ていなかった。銀狼として言うべき言葉と、言うべきではない言葉があることは分かっている。おかげで助かった、などと、銀狼が口にするべき言葉ではないということもわかっている。しかしそんなことはどうでもよかった。目の前にグスタフがいて、先ほどまでは多数の敵に阻まれて自分の棍棒が届きそうもなくて、でも今なら――
「正直な奴だなあ」
隣でラムズが感心したように呟いている。ミネルヴァは少し気がかりそうにこちらを見上げ、東軍兵士たちは動きを止めていて……その隙に駆け寄ってきたシャティアーナが、ギルファスの視線を捉えて、
――微笑んだ。
それはとても誇らしげな微笑みで。
銀狼として適切でない言葉を言ったことで非難されるかもしれないけれど、その微笑みだけで、もう何もいらないとギルファスは思う。
右手の棍棒を構える。
東軍兵士たちが、思い出したかのように行動を開始する。
その只中に飛び込んでいきながら、ギルファスは確かに、かすかなシャティアーナの声を聞いた。
「一緒に行こう、ギルファス」
手を引かれるのではなく、守られるだけではなく、同等の存在として、肩を並べて一緒に行こう。
前後をグスタフとゴルゴンにはさまれ、まだ東軍の優位が揺らいだわけではなかったけれど。それは何よりも、心強い言葉だった。
グスタフと直に渡り合うのは、思えば、ずいぶん久しぶりのような気がする。
手当たり次第に目の前の東軍兵士たちを蹴散らしながら、ギルファスはどこか頭の片隅で、思った。
ここ数年来、グスタフとはいつも同じ軍だった。グスタフは『地図作成隊』の所属で、ギルファスはたいてい『戦闘隊』だったが、ことあるごとに協力し合って、一緒に敵にあたることが多かった。昨年、敵の本拠地に忍び込んで媛を助け出したのも、グスタフとギルファス、二人でやってのけたことなのである。
グスタフは、いつでも冷静で、的確な判断を下す。
ギルファスは、グスタフについていくだけでよかった。
ギルファスには逆立ちしたって考え付けないようなことを平然と示し、それを実行するための手段も見つけ出すことが出来る。すごい奴だといつも思っていた、そして、グスタフについていくことは、ギルファスにとってとても自然なことだったのだ。
そのグスタフと、今、敵同士として対峙している。
グスタフは棍棒を構え、ギルファスも棍棒を構え、お互いに鉢巻を奪い合おうとにらみ合っている。
――西を引け、ギルファス。……東に来るなよ。
くじ引きのとき、グスタフに言われた言葉は、まだしこりのように心の中に刻み込まれていて。
しかし、グスタフの繰り出す棍棒を避けながら、ギルファスはごく自然に、思った。
――俺は、グスタフを敵に回して、どこまでやれるだろう?
考えてから、驚いた。
そんなことを考えるのは初めてだった。
がつん!
右手に衝撃が走る。
グスタフの顔がすぐそばにあった。二人の棍棒は今がっしりとかみ合っていて、グスタフがすごい力で押してくるのを、ギルファスは足を踏ん張って、耐えた。片手だけではどうしても力負けする。少しずつ後ろに下がって、力をそらしながら、グスタフの隙を狙う。
「腕、痛いのか?」
押し殺した声でグスタフが囁いた。
「痛いというか、感覚がない」
出来るだけ平然と響くように、答える。
「ゴールディにやられたって?」
「名誉の負傷ってやつさ」
「その腕で、最後までいけるのか?」
たずねたグスタフの声は平坦で、声からは、何の感情も読み取れない。ギルファスは交差した棍棒の向こうの、グスタフの整った顔を見つめた。表情も変わってない。ただ事実を訊ねただけに、傍からは見えるだろう。
しかし彼の、かすかに眇められた目を見ただけで、グスタフが心配していることがわかってしまう。
だから、ギルファスはわざと、にやりとして見せた。
「ハンデにちょうどいいくらいだ」
グスタフは一瞬、目を見開いた。
そして。
「ははは!」
いきなり笑い出した。周りのみんなが仰天したようにグスタフを見た。今まで周囲で展開されていた苛烈な殴り合いが一瞬収まってしまったほどである。グスタフが声を上げて笑うことは滅多にない。初めて聞いたというやつも多いのじゃないだろうか。
飛び退って、一度体勢を立て直す間にも、グスタフは楽しくてたまらないという風に笑い続けている。ギルファスも嬉しくなって、棍棒を構えなおした。
「ほら、西軍が追いついてきた」
後ろを振り返らずとも、包囲網を敷いていた西軍兵士たちがようやく近くまで駆けつけてきたのが感じられる。グスタフが率いてきた東軍兵士たちは、それほど人数は多くない。一番危険な瞬間を持ちこたえたおかげで、形勢は逆転しつつあった。
「逃げなくていいのか?」
ギルファスの問いに、グスタフは答えない。ただ、まだ笑みの残る目でギルファスを見つめるだけで。
なぜ逃げないのだろう、とギルファスは思う。
グスタフはゴルゴンを助けに来たはずだ。これ以上ここにとどまるのは無意味だった。西軍兵士たちが駆けつけてきたら、勝ち目がないことなどわかりきっている。グスタフに限って、頭に血が上っているということはない、と思う。東軍の媛がまだ囚われている状態で、ゴルゴンを『戦死』させるのは、『宴』の終了を意味する。
ゴルゴンはルーディと渡り合いながら大きく場所を移動して、今はギルファスの右側付近にいる。シャティアーナがつれてきた西軍兵士の数名が、ギルファスたちの周囲を固めているので、ゴルゴンはこちらに打ちかかりたいそぶりを見せながらも、なかなか近づいては来られないようだ。
西軍の増援たちの、足音が響く。
士気を鼓舞するような、太鼓のとどろく音が聞こえる。
ミネルヴァの果敢な攻撃によって、グスタフの右側を固めていた東軍兵士の体勢が崩れ、『目付』が矢継ぎ早に『戦死』を宣言する声を聞きながら、ギルファスはグスタフを見つめた。グスタフは、落ち着いている。ギルファスとグスタフの間には、今は数人の西軍兵士が入り込んでいる。彼らの攻撃を受け流しながら、グスタフはちらりと頭上に視線をやった。
――待ってる?
ギルファスはようやく、それに思い至った。
グスタフは、待っている。
――何を?
「銀狼を狙え!」
西軍の増援が到着した。叫んだのはカーラだ。包囲網を指揮していたカーラは、そのまま兵を率いて駆けつけてきたものらしい。彼女の凛とした声は、戦いの喧騒を圧して響いた。
「銀狼をとれば、我々の勝ちだ!」
おお――!
西軍兵士たちが一斉に叫ぶ。
東軍の銀狼隊が、ゴルゴンをかばうようにまとまるのが見える。
そしてグスタフが棍棒を引くのと、
ビィィィィィ――!
長く尾を引く鏑矢の音が響き渡ったのは、ほぼ同時だった。
鏑矢は三本放たれた。西軍の本拠地のほうから三本同時に放たれた音は、戦場の喧騒にもまけずに響き渡った。
突然の出来事に、西軍兵士たちは、みな虚をつかれて空を見つめた。カーラでさえ例外ではなかった。三本の鏑矢が示すことは、『宴』ではただ一つだけで。
東軍はその機を逃さなかった。かねてから打ち合わせてあったのだろう、全員が即座に退却を始める。
「媛が……!」
その事実に気づいたのは、カーラが一番初めだった。彼女は良く通る声を張り上げて、怒鳴った。
「敵の退路を絶て! ――媛が逃げた!」
「ライラが!?」
誰かが叫び、ギルファスは即座に走り出した。グスタフが待っていたのはあの鏑矢だったのだ、と彼は思った。グスタフは、銀狼と自分自身を、囮に使ったのだ。
未だ西軍に囚われたままだった、媛を助け出すために。
誰かが横に並んだ。見るまでもなく、それはミネルヴァだった。ミネルヴァは身が軽く、信じられないほどに足が速い。ギルファスが全力疾走して負けるのは、今のところミネルヴァしかいない。二人は並んで、逃げる東軍を追った。東軍のうちの数名が、少しでも仲間が逃げる時間を稼ごうと、立ち止まってこちらを振り返る。
「媛は返してもらったぞ!」
そのうちの一人が誇らしげに叫ぶ。
ミネルヴァは何も言わずに突っ込んでいった。
鮮やかに棍棒が翻り、乾いたリズミカルな音が響いた。




