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第二日目 3節「隠密活動」(アイミネア)

 どれくらい、籠の中でじっとしていたことだろう。

 アイミネアは、よくよく耳を澄ませて、なんの音もしないことを確かめてから、そっと籠をはずした。ようやく香草の刺激臭から逃れ、新鮮な空気を吸うことができた。冷たい夜気ってこんなにすばらしいものだったのかと、音を立てぬよう細心の注意を払いながらも、深呼吸を繰り返してしまう。

 ようやく呼吸が落ち着くと、床の上に座り込んだままの自分に気づく。

 窓からはさんさんと月光が降り注いでいる。開きっぱなしの窓からは、風は吹き込んでは来ない。しかし、時折揺れる空気の動きを確かに感じる。籠の中で不自由な呼吸を強いられてきた身には、夜気は芳しいほどだった。

 ――これから、どうする?

 できるだけ音を立てぬため、床の上に座り込んだままで、アイミネアは思案した。

 ガスタールの言葉を信じるわけには行かなかった。グスタフが『ここにもう一人いる』と告げた以上、あのガスタールのことだ、『もう一人』が安心してここを出るのを待ち構えるくらいのことはするだろう。しかし朝までここにいるわけにはいかない。夜明けが近づけば、食糧補給隊の人々が朝食の準備にやってくるはずだ。この狭い貯蔵庫の中、たとえ物影に隠れていたって、見つからないままでいられるとは思えない。

 アイミネアは目を閉じて、物音を探った。

 窓の外、かなり離れた場所で、見張りたちが言葉を交わすのが聞こえてくる。それ以外には虫の声。風のない夜だから、梢が囁く音は聞こえてこない。

 廊下のほうからは、何の音も聞こえてこなかった。少しだけ体をずらして、先ほど盗み聞きをしていた厨房へ続く小さな窓を注視する。わずかに明かりが漏れているが、そちらからも何の音もしない。

 彼女は抱えていた籠とバスケット、カーテンをそっと床に置いた。細心の注意を払って、履いていた靴を脱ぐ。靴下一枚の足に、木でできた床が冷たい。軋みませんようにと祈りをささげてから、アイミネアはそっと、廊下のほうに歩き出した。

 きし、きし、と床が鳴る。

 この建物は、さすがに五十年前の技術で作られていることもあり、全体にしっかりした作りになっていた。現に、ルーカと二人でいたときには、まったく気にならなかったほどのわずかな音だ。それでも、鋭敏になった耳には十分すぎるほどに、床の軋む音は脳に響く。

 ――前向きに考えよう。

 萎えそうになる足を、何とか叱咤する。

 アイミネアは棍棒を持っていない。これはかなり、不利だ。敵に出会ったら逃げるしかないということだから。

 もし見張りがいたら……棍棒を手に入れるチャンスだということじゃないか?

 きし、きし。

 見つかりませんように、気づかれませんように、どうか。

 永劫にも思える距離を何とか歩き、ようやく入り口の手前まで来た。もう少し。もう少し。廊下から、かすかに冷たい空気が流れてくる。アイミネアは戸口にうずくまり、そっと、細心の注意を払って、床から頭を上げないようにして……

「……っ」

 かすかな音が聞こえ、アイミネアはもう少しで、飛び上がるところだった。まったく動かずに済んだのは、日ごろの訓練の賜物だろう。それは「んっ」というようにも、「くっ」というようにも聞こえた。誰かが軽く咳払いをした音だと気づいたのは、数秒たってからである。

 思いがけないほど、すぐ近くだ。

 できる限り気配を殺して、アイミネアはそこにいっそう小さくうずくまった。体中の神経を張り巡らせて、敵の存在を探る。

 かすかな音がした。ほんの小さな、衣擦れのような音だ。廊下にいる誰かが足を踏み換えたのだろう。呼吸が乱れそうになるのを何とか押しとどめ、気配も揺らがないように気をつけて、そろりそろりときびすを返す。

 気配からすると、見張りは、貯蔵庫と厨房の中間にいるようだった。

 貯蔵庫の、入り口からは出られない。

 かといって、窓からも出られそうもなかった。アイミネアの身長では音を立てずに窓の外を見るのは無理そうだからやらないが、ガスタールのことだ、廊下にだけ見張りを配置しておくということはないだろう。ほんの少しだけ、場所をずらすことができれば、見つからずに逃げ出すことができるだろうのに。

 廊下の見張りも、窓の外の見張りも、食糧貯蔵庫を注視しているに違いない。

 ――あ。

 唐突に、先ほどグスタフたちの会話を盗み聞いた、小さな窓のことを思い出した。

 あれはとても小さな窓だった。でも、ぐらぐらする羽目板をはずしてしまって、靴を脱いで足から向こうに滑り落ちるようにすれば、出られないことはない。

 これ以上、この暗闇の中で息をひそめているくらいなら、多少危険でも動いたほうがよっぽどマシだ。

 いつまでもここにはいられない。少しでも睡眠をとっておかないと、昼間になってから満足に動けない。ルーカは『戦死』した。あたしはまだ『生きて』いる。ルーカのためにも、そしてシャティアーナのためにも、カーラのためにも、西軍のためにも、そしてもちろん、自分のためにも。こんなところでうずくまって、みすみすつかまるのを待つわけには行かない。

 アイミネアは、闇の中で頭をもたげた。

 そして、行動を開始した。


 羽目板は、先ほどからずっと細く開いたままになっている。

 アイミネアは息を殺し、心臓も止めたいくらいの気持ちで、耳を澄ませた。厨房にも人がいたら一巻の終わり。もう夜明けが近い時分だから、今更食料を漁りに来る人間もいないだろうとは思うけれど。細心の注意を払って耳を澄ませ、向こう側で何の音も聞こえないことを確認し、聞こえないのだから大丈夫だと自分を納得させてから、アイミネアはそっと、羽目板をはずしにかかった。

 かたん、かたん、とほんのわずかな音をさせて、羽目板がこすれる。

 一つ音が聞こえるたびに心臓が飛び上がりそうになりながら、手の震えを押さえつけて、羽目板と格闘する。

 ようやく取り除いたときには、汗びっしょりになっていた。

 向こう側の柔らかな明かりが、四角く切り取られて、貯蔵庫の中に差し込んだ。羽目板を床にそっと横たえて、盗み聞きしていたときに座っていた台の上にカーテンとバスケットを置いて、その脇に上って、向こう側に頭を突き出す。厨房についている明かりはそれほど強くはなかったが、それでも闇に慣れた目には少し強い。

 ――誰もいない。

 目を瞬いて、光に目が慣れるのを待ってから、アイミネアはその小さな隙間を潜り抜けた。

 明かりの満ちた厨房は、貯蔵庫とはまるで別世界のようだった。それでも今のアイミネアには、明かりのついている場所はとても落ち着かない。バスケットとカーテンをそっとこちら側に移してから、アイミネアは腰を伸ばした。体中がこわばっている。緊張しているので眠気を感じないが、やはり少し疲れているのか、わずかだが体がけだるかった。

 見つかって逃げる段になったら、この二つは捨てなければならないだろう。それはわかっていたが、それでも今のうちは、置いていく気にはなれなかった。音をさせないように気をつけてバスケットを持ち、カーテンをできるだけ小さくなるようにたたんで、こちらも持ち上げてから、彼女は厨房の中を見回した。厨房は貯蔵庫に比べれば格段に広く、大きな台と木の椅子が整然と設えられていて、数人なら、ここで食事を取れるようになっている。出口はやはり、二つ。右側にある大きな窓と、左側にある出入り口。窓はあいていたが、出入り口は閉まっている。扉を開けたら廊下にいる見張りに気づかれるだろうし、ここは窓から出るしかないだろう。

 窓には大きな両開きの戸がついていて、外側に向けて開かれていた。今アイミネアが持っているものと同じカーテンが、半分くらい閉じられて、夜気にかすかにそよいでいる。あの影から出るのがいいようだ。そっと部屋を横切って、カーテンの陰に隠れた。壁に背中を押し付けて、窓の向こうをうかがう。

 見張りの焚いているかがり火が、アイミネアから見て右側――つまり、北の方角に見えている。今は笑い声も話し声も聞こえない。夜明けが近づいて、見張りたちも昼間の活動に向けて体力を蓄えるのに努めているのかもしれない。そのままみんな眠ってくれればいいのに。そんなことを思いながら、夜気の中に少しだけ、頭を突き出した。

 ここから出たら、貯蔵庫の窓の前にいる――だろうと思われる――見張りは、あたしに気づくだろうか。

 そのとき、廊下のほうで、唐突に話し声が聞こえた。


  *   *   *


 アイミネアがとった行動は、後から思い返せば冗談に近いようなものだった。なぜあそこであんなとっぴな行動を思いついたのか、まったくわからないのだと笑い話にしながらも、確かにあれ以外の行動は取りようがなかったとも思う。彼女はバスケットを床に置き、持っていたカーテンを広げて持って、剥き出しになっていた自分の足を隠したのである。慌てながらも長さを調節して、彼女が隠れているカーテンが床すれすれの長さまで垂れているように見せかける。

 直後、厨房の扉が開いた。

 入ってきたのはどうやら男で、それも三人はいた。彼らはなにやら楽しそうに言葉を交わしている。

「見張ってなきゃいけないのか、そこ?」

「難儀なことだなあ。いるかどうかもわからないような奴を見張ってなきゃならないなんて」

 どうやら少しだけ酔っているらしい。カーテンの陰で震えながら、アイミネアは耳を澄ませていた。どうやら、廊下にいる見張りをからかっているらしい。バカな奴、とアイミネアは思った。あんな大きな声でからかったら、今まで息を詰めて見張っていた見張りの苦労が水の泡だ。

「お前もさ、こっちきて、何か食えよ」

 早速席について食料を漁りだした男のひとりがそう言った。見張りが廊下で、憤然と舌打ちするのが聞こえる。そしてあきらめたのか、見張りも厨房に入ってきた。

「お前らなあ……」

「お、練り粉発見。シチューもあるぜ。食おう食おう。腹減ったあ」

「だいたいどうして貯蔵庫の中に敵がいるかもしれないなんて思ったんだよ? ルーカは『戦死』したんだろ。『安置所』に連れて行かれるの見てたぜ」

「もうひとりいるかもしれないんだよ。まあこの戸口で見張ってりゃ同じだけどさ、油断させて出てくるのを待ってたのに、これじゃ台無しじゃないか」

 見張りは怒っている。当然だろう。入り口に座り込んだらしい見張りが、声高に、練り粉をよこせと催促した。

「もうひとりねえ……」

 酔った誰かがそう言って、しばらく練り粉を練る音だけが響いた。アイミネアはそっとカーテンを持ち直し、どうか気づかれませんようにと祈った。生きた心地もしなかった。酔っていない見張りが部屋の中にまで入ってきたら、カーテンの長さがあからさまにおかしいことに気づくだろう。そしてあの貯蔵庫に続く小さな窓があいていることにも。どうして羽目板を元通りにしなかったのだろうと、今更ながらに悔やまれる。

「それならさ、家捜ししたらどうだ、みんなで」

 くちゃくちゃと練り粉を噛みながら、男のひとりがそう言った。そうだな、と誰かがうなずく。

「戸口と窓を見張っておいて、あとの二人で貯蔵庫を家捜しすればいい。西軍の媛隊を捕まえたとなりゃすごい手柄だ。なあ?」

「いいなあそれ。いるとしたら誰かな。西軍の媛隊だろ、アイナか、ガートルードか、ミネルヴァか。誰を捕まえても大手柄だなあ」

 機嫌よく男たちは言葉を交わし、それを実行するためにか、がたがたと音を立てて立ち上がった。アイミネアはカーテンを握りなおし、呼吸を整えた。貯蔵庫から移動しておいて本当に良かった。窓と出入り口を固められて家捜しされたら、到底逃げられないところだった。

 あいつらが全員貯蔵庫のほうに移動したら、窓からこっそり逃げよう。

 そう決意を固めたときである。

「あれ……?」

 男のひとりがいぶかしげな声をあげた。

「この窓、何だ?」

「え?」

 見張りの声。がたごとと音を立てて椅子や机を押しのけながら、近寄ってくる音がする。

 そして。

「小さな窓だな。夕飯時には開いてなかった。……なんだろう、この窓?」

「それは調理するときに、向こう側から材料を差し出してもらうための窓だよ」

 男のひとりが答える。アイミネアの吐き出す息が、我知らず、震えた。

「まさか、ここから、もう……」

「待てよ。こんな小さな穴から出られるかあ?」

「お前じゃ無理だろうけど、相手は女の子だぞ。出られるよ」

「ミネルヴァなら出られる……と思うな。アイナなら楽勝だろ」

 うるさいな、もう。楽勝で悪かったな!

 カーテンを握り締めて、毒づいたとき。がたん、とひときわ大きな音が響いた。

「てことは、もう、貯蔵庫の中にはいないってことかな」

 誰かがぐるりと部屋の中を見回したようだ。アイミネアは必死で呼吸を整えた。心臓がどくどくと脈打っていて、この音だけで、見つかってもおかしくないとさえ思える。ほんのわずかずつ場所をずらして、窓枠に腰を引っ掛けるようにした。見つかったら、窓から逃げる。バスケットを床においてしまったことが悔やまれた。この体勢で逃げるとしたら、バスケットを拾っている暇はない。

「お前、貯蔵庫の入り口に立っててくれよ。俺たちはこっちを探そう」

「貯蔵庫から出たのなら、もうここにはいないんじゃ……」

「そうとは限らない。貯蔵庫の扉の影には俺がいたんだし、窓の外にはもうひとり潜んでるはずなんだ。ガスタールたちがここを出てからそれほど時間は経ってない。厨房から出た時間があったとは思いにくいな」

 酔ってない見張りが冷静な口調で言い、アイミネアはそっと両足を浮かせた。剥き出しの背中に夜気を感じる。後ろ向きに回転して窓の外に出るとき、カーテンに引っかかって頭を打ったらどうしよう。跳ね回る心臓を何とかなだめ、近づいてくる見張りの、こつこつ響く足音を聞く。彼はこちらにはまだ気づいてない。もっていたカーテンがここのと同じで本当に良かった、というか、どうしてこんな不自然な隠れ場所に気づかないんだろう? こんな隠れ方をしたあたしをからかって遊んでるんじゃないかしら?

 思考はとりとめもなくくるくると空回りし、両足を浮かせたままで、窓枠の上に座りなおした。

 見張りの足音が止まる。

「あのカーテン……今、揺れなかったか?」

「風だろ?」

 のんきな声が相槌を打つ。そうそう、風です。頭の中で彼らに語りかけながら、アイミネアはカーテンの向こう側を、必死ですかし見た。カーテンの生地は厚かったが、向こう側のほうがはるかに明るいので、近寄ってくれば影の動きでそれがわかる。

 不自然な沈黙が落ちた。

 気づかれた、とアイミネアは本能的に悟った。さっきまでのんきにあちこち覗きまわっていたらしい男たちの動きが、一瞬だけぴたりと止まり、いまや誰も言葉を発していない。アイミネアは一度目を閉じ、もう一度開いて、そして覚悟を決めた。後ろ向きに回転して地面に降りて、後は一目散に逃げるしかない。

 こつ、こつ。

 見張りの足音が、少しずつ近寄ってくる。

 そして、左側のほうから、じりじり近寄ってくる男の気配。もう酔いはすっかり覚めたのだろうか、もうどうせだったら酔いつぶれるほどしこたま飲んでいればいいのに!

 カーテンの向こうに、影が映った。

 タイミングが命だ。音を立てないように一度大きく息を吸い、タイミングを計る。バスケットはあきらめよう。カーテンをぱっと跳ね上げて、後ろ向きに一回転して、窓の外に出る。たったこれだけだ、と自分に言い聞かせる。できる、大丈夫、あたしは伝令隊の精鋭なんだから。

「……」

 男が大きく息を吸い、アイミネアの頭辺りのカーテンに手をかけた。

 そのときである。

 厨房の、開かれていた扉から、誰かが飛び込んできて叫んだ。

「大変だ! 西軍が夜襲……!」

 一瞬だけ、伸びていた男の腕が止まった。カーテン越しに見える男の影が少し揺らいで、入り口の方を振り返ったらしい。アイミネアはぱっとカーテンを跳ね上げ、男の胸の辺りに足を引っ掛け、

「わあ!?」

 くるり、と後ろ向きに一回転した。着地が上手く決まって、両足を下にして地面に降り立つ。目の前に男の腰が見えた。棍棒を腰に下げているのも見える。

「……この!」

 蹴られてたたらを踏んだ男がカーテンを押しのけ、窓の外に顔を突き出す。襲ってきた腕を左腕で払い、右手を男の腰に伸ばし、棍棒をつかんだ。引き抜きながら棍棒で牽制する。体をそらして攻撃を避けた男が驚愕の声をあげた。

「……アイナ!?」

「西軍がすぐそこまで迫ってる! みんな持ち場につけ!」

 情報をもってきた男が叫んでいる。アイミネアはその声に背を向けて、闇の中を走り出した。

 手に入れた棍棒が、どくどくと脈打つ右腕に、ずっしりと重かった。

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