第二日目 2節「戦死」(ギルファス)(3)
* * *
脳裏に引っかかる違和感は、しかしとても微小なもので、気を抜くとすぐに脳から滑り落ちてしまいそうになる。何かがおかしいとは思うものの、それがなんなのか、把握できない自分が歯がゆい。ギルファスはアルスターの消えた暗闇を見つめて眉をしかめていた。一番初めの見張りを倒したとき、東軍が夜襲に気づいたのだとすれば……
「それにしてもあいつら、どこに行ったんだろう」
マディルスが心配そうに呟いて、ギルファスは物思いから我に返った。
アルスターが立ち去った今、森は再び静寂を取り戻していた。東軍が夜襲に気づいたとは到底思えないほどの静けさだ。あたりに耳を澄ませるうちに、ギルファスは少しずつ落ち着いてきた。そう……今は思い悩んでいる暇はない。ゴードに、東軍が夜襲に気づいたことを、なんとか知らせなければならないのだ。
ギルファスは、頭上を見上げた。
頭上には黒々とした木々の梢が、重なり合って覆い被さっていた。月光が差し込んでくる隙間は、ほんの少ししかない。しょっていた背嚢をはずし、中から組み立て式の弓を取り出し、カチカチと音を立てて組み立てる。
そばに立っていたウィルフレッドが、ギョッとしたような声を出した。
「な、何するんだよ」
「鏑矢を放つ」
簡潔に答えながらも、ギルファスの指先はすばやく動いて、すぐに弓を作り上げた。片方の端にくくりつけられていた糸を解いて、ぴんと引っ張り、もう片方に結わえる。糸の張り具合を調節していると、ウィルフレッドが再び声をあげた。
「嘘だろ? もうすぐ東軍がここにやってくるんだぜ。鏑矢なんて撃ったら、俺たちのいる場所を教えてるようなもんじゃないか」
「それでも」
ギルファスは闇の中で、ウィルフレッドを見返した。
「東軍が気づいたことを教えなきゃ大変なことになる。あちら側の森にはシャティたちがいるんだ。俺たちは運良く、東軍が気づいたことを知ることができたけど、シャティたちは知らない。不意打ちを食らうぞ」
「いや……そりゃそうだけど」
「俺たちの居場所を知られて包囲されても、ゴードたちが動き出せばこっちのもんだ。東軍は気づいたといっても、まだ体勢を整えるまでにはいってないだろう。早いほうがいい、走って知らせに行くよりも、鏑矢で知らせるほうが早い」
ギルファスは言いながら、背嚢から鏑矢を出した。鏑矢は、狩などで使われる矢とは違い、矢羽の部分に仕掛けがあって、甲高い音を立てて飛ぶようになっている。その分飛距離は短いし、狙いを定めるのがほんのわずかだが、難しい。ギルファスはもう一度頭上を睨んだ。この場所から、あの梢の間を縫って飛ばすことができるだろうか?
ぱき。
ほんのかすかな音が、闇に響いた。
ギルファスは頭上に向けていた顔を戻して、ウィルフレッドを見た。ウィルフレッドは心配そうな顔をして、こちらを見つめていた。今の音には気づかなかったようだ。マディルスは、と探してみれば、彼は少し離れた場所で闇を見渡している。マディルスが立てた音だろうか。それとも、はぐれていたラムズたちが近づいてきたのだろうか?
それとも。
「マディ」
声をかけると、マディルスが振り返って戻ってきた。この無鉄砲な少年も、いつになく真剣な顔をしている。
「ギルファス、……」
酷く切羽詰った口調で名を呼ばれ、ギルファスは自分の懸念が的中したことを悟った。それ以上言うなと身振りで示して、わざと、少しだけ大きな声で彼に言う。
「この木に登れるか?」
「え?」
マディルスはギルファスの示した木を見上げた。ごつごつした木には足がかりが多く、少し登れば枝も張っているため、昼間であれば登るのはそれほど難しくはない。しかしこの闇の中、弓と鏑矢を持って上るのは少し大変だろう。マディルスは、ギルファスの両手に持ったものを見て、言いたいことを悟ったらしい。
「登れると思う。……でも」
「なら頼む。下は任せろ」
有無を言わせぬ口調でいい、ギルファスは弓と鏑矢をマディルスに手渡した。ようやく事態を悟ったらしいウィルフレッドが、慌てたように囁く。
「敵が?」
「近い。鏑矢を撃つまでもなく、俺たちの場所は知られてたみたいだ」
なぜ知られたのかと、いぶかしむのは後にして、ギルファスは背嚢を元通り背負った。弓を首に引っ掛け、鏑矢を口にくわえたマディルスが、するすると木を登りだす。四の五の言わずに従ってくれたことが今は何よりありがたい。マディルスの登った木を背にはさむようにして、ギルファスとウィルフレッドは棍棒を右手に構えて立った。
暗闇の中、ギルファスは自分の鼓動を聞く。
今では、十数人の東軍兵士たちが、ひそかに近づいてきているのが気配で感じられる。思ったよりも数が多い。
闇の中、二人というとても少ない人数で、大勢の敵を倒すには。先手を打つのが有効だ。敵はギルファスたちの、正確な位置までは、つかんではいないようだ。こういう場合、相手の場所をはっきりと把握したほうが有利だ。ギルファスは気持ちを落ち着けて、相手の正確な場所をつかもうと神経を尖らせた。
――『戦死』してもいいんだよ、ギルファス。
――もしこれが本当の戦闘なら、銀狼や媛が戦死したからって、何だというんだ?
ゴードの言葉が耳によみがえり、
「確かにそうだけどさ……」
思わず声に出して呟いてしまう。ウィルフレッドがぎょっとしたように身をすくませた。ギルファスの背後、木をはさんで立っていた彼が、首を後ろに向けて囁いてくる。
「なんだよ、確かにって?」
「いや、なんでもない。……ごめん」
首を振って、目の前に、意識を集中する。
敵が近い。
マディルスはまだだろうか。暗闇の中、邪魔になるものを持って、木を登るのは大変だ。矢を落としたという声が聞こえてこないだけ、マディルスは善戦していると思うことにする。シャティアーナは無事だろうか。早く矢を撃って、彼女に危機を知らせて欲しい。祈るような気持ちで頭上を睨んだとき、
がさり、
大きく草を掻き分ける音がして、しッとそれをたしなめる声がして、悪いとか謝る声がして、
――先手必勝!
ギルファスは棍棒を手に、敵の只中に突っ込んでいった。
* * *
――闇の中で、媛や銀狼と遭遇したら、敵はどう思うか。
ゴードに聞かれた言葉が、耳によみがえってきた。そしてそれを考え、考えた末に出した自分の答えも。
――なぜこんなところにいるのかと考えて、何か裏があるのじゃないかと疑う……
そして銀狼隊の背後に、本隊が迫ってきているのではないかと考える。ゴードはそう言っていた。そして実際、東軍は夜襲に気づき、本隊を迎え撃つべく、大人数の兵士を森の中に投入している。ゴードの作戦はあたった。鏑矢に気づいたゴードが、丘の背後から広場を通って本隊を出せば、東軍は大打撃を受けるだろう。
あとは、俺たちが生き延びて、西軍に戻ればいい。
それが一番難しそうではあったが。
闇の中からいきなり飛び出してきたギルファスに、東軍の斥候たちが抑え切れない悲鳴をあげた。ここにいるのはとりあえず七人。一番先頭にいた兵士の身長は、ギルファスと同じくらいだった。かばうように目の前に上げられた棍棒を弾き飛ばして左手でそいつの頭を狙い、鉢巻をむしりとる。
暗闇の中で乱戦になったときには、『目付』の宣言は期待できない。『戦死』したかどうかは、鉢巻の有無で判断されることが多かった。鉢巻をむしりとられた兵士が悔しそうな声をあげ、よろめいたそいつの胸に、胸の中でわびをいいながら蹴りを入れる。仰向けに倒れた兵士を踏み越えて、ぐえ、というつぶれた声を聞きながら、次の兵士に飛びかかる。
「だ……誰だ!?」
「ひとりか!?」
次の兵士の鉢巻をむしりとったとき、ウィルフレッドが乱入してきた。右側の兵士が悲鳴を上げたのでそれがわかる。二つ続けて鉢巻をむしりとった左腕が、今更のようにじんじんと痛みを訴え始める。もう少しだけ耐えてくれ、と左腕に語りかけながら、打ちかかって来た目の前の兵士の棍棒を受け止めた。
がつん! と衝撃が走る。
「ぎ……ギルファス!?」
そいつが驚愕の声をあげて、驚きのあまりか一瞬だけ力が弱まった。その機を逃さずに右足で兵士の足を払い、よろめいたところで鉢巻をむしりとる。自分でも驚くくらいの早業だった。暗闇がギルファスの行動を助けてくれる。人より夜目の利くことが、こんなにありがたいと思ったことはなかった。
「銀狼か!」
「討ち取れ、銀狼がここにいるぞ――」
叫ぶ兵士たちの間を縫って、ギルファスは二人の兵士の後ろに回った。
そのとき、焦げ臭い匂いが鼻をついた。……ケムリ草の匂いだ。
どうしてこの暗い森の中で、銀狼隊の居場所を、東軍が知ることができたのか。その匂いだけでギルファスはそれを悟った。振り向きざまにひとりの兵士の背に蹴りを入れて、もうひとりの兵士と向かい合いながら、ギルファスは微笑んだ。
はぐれた二人のうちのどちらかが、隠れてケムリ草を焚いて、銀狼隊の居所を、東軍に知らせたのだろう。
ギルファスはそれが、少しだけ嬉しかった。
銀狼隊の中にスパイがいる。ということは、媛隊の中にはいないということだから。シャティアーナは安全だということだから。アイミネアとルーカを置いてきたことで自分を責めている、あの優しい許婚のそばには、敵はいないということだから。
後ろのほうで、東軍についてきたらしい『目付』が、忙しく『戦死』を宣言しているのが聞こえる。
東軍がやってきたほうから、新たな兵士たちがわらわらと草を掻き分けて駆けつけてきているのも聞こえる。
そして。
ビィィィィ――
長く尾を引く鏑矢の音が、夜気を切り裂いて響き渡った。
* * *
多勢に無勢だった。
周り中を敵に囲まれて、三人は孤軍奮闘していた。鏑矢が鳴った直後に、今までこちらの位置をつかめていなかった東軍兵士たちがわらわらと集まってきて、今や、襲撃者の数はこちらの数倍にまで膨れ上がっていた。暗いので少数のほうがやや有利な条件にあるとはいえ、それにも限度がある。三人はお互いに背を向けて、背後から襲われないように身を守るのに精一杯だった。
先ほどから、左腕に感覚がなくなってきている。
東軍兵士たちは、どうやらこちらの怪我を知っているらしいということが少しずつ分かりかけてきていた。まあそれは当然だろうとギルファスは思う。何しろ、銀狼隊の中にスパイがいるのだから。銀狼隊のスパイが、東軍に左腕の怪我を知らせたのだろう。
しかし、そんなことはもうどうでも良かった。
ここで『戦死』するからと思う気持ちもあったが、ギルファスはもう本当に、そんなことはどうでもよくなっていた。スパイがいようと、情報を流されようと、そんなことはどうでもいいことだった。スパイに情報を流されて、それで『戦死』するのなら、自分の力量が足りなかったというだけの話。スパイが悪いのではなく、自分が悪い。スパイの情報ごときで足元をすくわれてしまう自分が悪い。怪我をした自分が悪いのだ。……おかしな話だが、この事態に陥ったのは自分だけの落ち度なのだと思うことは、不思議なほどにギルファスの心を軽くした。
誰のせいにもしないでいいというのは、気分がいいことだというのを、彼は初めて知った。
「ギル」
ウィルフレッドが、囁いた。
「何とかして囲みを破るから、お前そこから逃げろ」
「……」
ギルファスは返事をしなかった。敵の棍棒を受け止めていて、それどころじゃなかった。
ウィルフレッドは構わず、やはり敵の棍棒をはじき返しながら、囁いてくる。
「全員無事に逃げようと思うから逃げられないんだ。お前一人なら何とかなる」
「イヤだ」
ギルファスは、今度は簡潔に答えた。ウィルフレッドが目の前にいた兵士の鉢巻をむしりとる。
「イヤでも、行け」
「行かない」
「……ぶん殴るぞ」
いつも温和なウィルレッドからは想像もつかないような、凄みのある声がそう言った。しかしギルファスは意に介さなかった。現実問題として、逃げるのは不可能なのだ。今三人が何とか持ちこたえているのは、木々の密集した間のわずかな平地に陣取ることができたこと……そして、三人がお互いに背中を預けあって戦っていられるからなのだった。この状態を崩したら、即座に『戦死』させられてしまうだろう。
木々の間から伸びてきた兵士の腕が、こちらの鉢巻を狙っている。
ギルファスは腕の肘に棍棒を当ててひるませ、左腕でそのひるんだ腕を引き寄せて、ついて来た頭から兵士の鉢巻をむしりとった。鉢巻は地面に捨てる。彼の奪った鉢巻は、もうかなりの数になっているはずだ。すべて地面に捨てたから、手柄を正確に申告するのは無理だろうが、それでも結構な戦果を上げていることだろう。
「逃げてくれ。……頼むから」
ウィルフレッドがそう言ったとき。唐突に、すべての流れを一変させるような思いがけない出来事が起こった。
背後の闇の中で、いきなりすごい騒音が沸き起こったのである。
がんがらがんがんがん、とギルファスには聞こえた。鉄の鍋を鉄の棒で叩きまくっているかのような騒音だった。唐突に沸き起こった騒音に、その場にいた者のほとんどが棒立ちになった。ギルファスも例外ではなかった。音はまだ続いている――
「ギルファスー!」
聞きなれた声がして、ギルファスの目の前――音の聞こえてくるほうとは正反対――の兵士たちが悲鳴をあげた。あっという間に人垣が割れて、そこから姿を見せたのは、
「ルーディ!?」
はぐれたはずのルーディだった。押しのけられた東軍兵士たちがようやく我に返りそうになったとき、ウィルフレッドが動いた。
左腕で目の前にいた東軍兵士を押しのけ、蹴り倒す。同時に右腕が、ギルファスの左腕をつかんでいた。
「……!!」
先ほどからの酷使で痛みがぶり返していたところを思い切り握られたものだから、沸き起こった激痛はすさまじいものだった。体中の神経が左腕に集中したような気がした。悲鳴をあげなかったのは幸運としか思えない、いや、痛みのあまり声が出なかっただけかもしれない。同時に後ろからどん、と背を押された。押されて足が動く。我に返った兵士が振り下ろしてきた棍棒を、駆けつけたルーディが受け止めた。背後の人間はギルファスの背中を押しながら、兵士の人垣をくぐりぬける。
くぐりぬけたところにラムズが待っていた。
それじゃあの音を鳴らしたのは誰なのだろう。ようやく少し物が考えられるようになったギルファスだったが、振り返ろうとしたところを押されてたたらを踏んだ。その間にも一行は夜の森を進んでいる、右腕をルーディがつかんでぐいぐい引っ張り、後ろは相変わらず誰かに押されたままで、左側にはラムズが。
「……ウィル!?」
左腕の痛みを振りほどくように叫ぶ。後ろから兵士たちが追ってきている。背中を押しているのはマディルスだった。それじゃ、ウィルフレッドは……
「ギルファス、走れ!」
ルーディが、ギルファスの後ろに回った。少しでも食い止めるつもりなのだろうか。マディルスに背を押されて、走り出しながら、なぜだろうとギルファスは思う。なぜ、ウィルフレッドは……
そのとき。
「西軍銀狼隊ウィルフレッド、戦死!」
『目付』の冷酷な声が、背後に響いた。
直後、西軍銀狼隊は夜の森の闇に紛れこんだ。
西軍銀狼隊から出た『戦死』者は、ウィルフレッドがその初めだった。




