第二日目 2節「戦死」(ギルファス)(2)
闇の中に身を沈め、ギルファスは自分の鼓動を聞く。
鼓動は落ち着いている。周囲は静まり返り、仲間の息遣いも低く落ち着いていて、不用意に音を立てるものは誰もいない。
銀狼隊及びヴェロニカは、二人ずつの組になって、散開を始めていた。ギルファスの隣にいるのはウィルフレッドである。彼は今、ギルファスの左隣にいる。負傷した左腕はもう痛みはしないものの、思うようには動かせない。ウィルフレッドは何もいわないが、万一のために、左側を固めてくれているのが嬉しかった。
二人は、じっと待っている。仲間たちが打ち合わせた地点にたどり着くのを、じりじりすることもなく、ただ落ち着いて、待ち構えている。ヴェロニカとルーディが対象の左向こう、そしてラムズとマディルスが対象の右向こう。対象となっている東軍の見張りは、彼らの動きにまったく気づいてはいない。火を焚くこともできぬ暗闇の中、西軍に一番近い場所で見張りを命じられた彼らは、油断はしていなかったが――銀狼隊の動きは完璧だった。見張りのすぐそばで息を潜めているギルファスにも、仲間たちが今どの辺にいるのかが全くつかめない。
どこか近くで焚き火が焚かれているようで、静まり返った夜気を渡って、焦げ臭い匂いが漂ってくる。
――俺は、俺の仕事をするだけだ。
そんな言葉が、唐突に、耳によみがえってきた。
どこで聞いた言葉だったか。ギルファスは脳裏を探る。あれはウィルフレッドが発した言葉だった。脳裏にずっと引っかかっていた言葉。あれは……そう、丘の上で、ガスタールに攻撃を仕掛けるとギルファスが言ったときに、漏らした言葉だ。
――どういう意味だったんだろう。
ギルファスは、そっと、左隣のウィルフレッドを盗み見る。
ひょろりとした年上の青年は、まっすぐに前を見つめていた。地面に腹ばいになり、いつでも動き出せるように両腕を体の下につき、その上に伏せた状態で、整った横顔をギルファスにさらしている。闇に慣れた目には、その顔はいつもよりも青白く浮き上がって見えた。
ウィルフレッドがギルファスの視線に気づき、ん? というようにこちらに視線を投げる。
ギルファスはそっと首を振って、前方に視線を戻した。
西軍のスパイの存在が、脳裏をよぎる。スパイはいったい誰なのだろう。どういう気分なのだろう。ギルファスは幸い、まだスパイに選ばれたことはなかった。一生選ばれないといい、と思っている。銀狼隊の中に、スパイがいるなどと、想像することすら難しい。
『宴』はゲームである。それは、わかっている。しかし少年たちにとっては、何よりも神聖なゲームだった。抑圧された日々の中で、高らかに自分の勇を歌うことができる、ほとんど唯一の機会なのだ。毎年この『宴』が楽しみでたまらない。一年に一度しか行われない祭りだから、成長期の少年には、一回一回がこの上もなく大切なのだった。
そんな『宴』で、スパイという厭わしい存在に選ばれてしまったのは、誰なのだろう。そしてその任務を遂行する時の気分とは、いったいどんなものなのだろう。
――俺は、俺の仕事をするだけだ。
ギルファスはそっと、左腕を動かした。
落ち着いていた左腕の痛みが、鈍くよみがえる。
考えても仕方がない。考えたって、誰だかわかるはずもない。ウィルフレッドは今ギルファスの左側を固めてくれていて、それはこの上もなく頼もしい。それならそれで、いいじゃないか?
こつん。
左前方で、乾いた音が響いた。
「……なんだ?」
今までじっと沈黙を守っていた、東軍の見張りが闇の中で頭をもたげる。ギルファスは右腕に力をこめ、いつでも飛び起きて走り出せるように準備した。闇に慣れた目で、東軍側の『目付』を探す。先ほど確認したときから、変わらぬ場所――見張りたちのすぐそば――にいることを確かめる。
「気のせいだろ」
「そうかな……」
言い交わす声は、低く落ち着いている。東軍の見張りは、あの声からすると、壮年の男たちらしい。呼吸を整えたギルファスの耳に、もう一つ、こつ、という硬い音が聞こえてきた。
――包囲完了!
ギルファスとウィルフレッドは、同時に地面から跳ね起きた。
『見張りはおそらく、二人から三人』
カーラの言った言葉が耳によみがえってくる。
『これだけの箇所に配置しようとするなら、どうしても人数を少なくしなきゃならないでしょうね。まず相手側の『目付』を探す。『目付』が居眠りしたり、余所見をしたりしてないことを確かめてから、声を立てる暇を与えずに一気に倒しなさい』
了解、カーラ。
高らかに、脳裏のカーラに向けて答え、ギルファスはウィルフレッドとともに闇の中に踊り出た。
見張りを倒すのに、一分もかからなかった。
このとき銀狼隊に襲われた見張りたちは、黒い影のようなものが飛び出してきたと思ったら、次の瞬間には棍棒を突きつけられていて、どうすることもできなかったと語った。
しかし、それはまだ先の話だ。
銀狼隊の快進撃は、まだ始まったばかりだった。
森の中は、ひたすらに、暗い。
時刻は四時をちょっと回ったばかり。夜明けが近い今時分は、夜の闇が一番濃く感じられる。うっそうと深い森の中に紛れ込んだ直後は、本当に真っ暗で、すぐ前にいるラムズの背中すら見えないくらいだった。
しかし、しばらくして目が慣れてくると、少しずつ辺りが見え始めた。
闇に包まれた森の中にも、月の光はわずかながら、届く。
狩の得意なギルファスは、この暗い暗い闇の中が好きだった。自分の耳と体中の皮膚の感触だけを頼りに、闇の中を動き回っていると、森の木々とひとつになったような気分を味わえる。そしてこの森を、ギルファスは知り尽くしていた。もっと幼い子供のころから、幾度となく駆け巡った森なのだ。昼間よりも空気が濃密さを増したようなこの闇は、森が、いつもよりその親密さを増しているようにも思わせる。
銀狼隊は、既に、四組の見張りを倒していた。森の中では良くわからないが、ここは既に東軍の館に程近い場所だろう。次に目指す東軍の拠点は、丸印とバツ印が重ねて描かれていた場所だということを思い出す。つまり、焚き火とともに見張りが立っている場所のはずだった。そしてそれは、見張りの人数が他よりも多いことを示唆する。
「ギルファス、まだか?」
ウィルフレッドが問い、ギルファスは闇の中でうなずいた。
「もうちょっとだ」
「それにしてもカーラも用心深いよな。地図を持たせてくれてもよさそうなものなのに」
マディルスがブツブツ言っている。銀狼隊の中にスパイがいるかもしれない、ということを知らない者にとっては、当然の反応だろう。この作戦はギルファスの記憶力にかかっていた。見張りの場所をちゃんと把握していないと、見当違いの場所に行ってしまったり、悪くすれば見張りを素通りしたりして最悪の事態を招きかねない。
「おい……」
ウィルフレッドが、警戒の声をあげた。
「後ろがついてきてないぞ」
「え?」
ギルファスは慌てて後ろを振り返った。
すぐ後ろにマディルス、そしてウィルフレッドの顔が見える。しかし、その後ろにいたはずの、ラムズ、ルーディ、そしてヴェロニカの姿がどこにもない。
「はぐれた!?」
マディルスが頓狂な声をあげるのを制して、ギルファスは背後の闇に向き直った。はぐれた? 冗談じゃない、とギルファスは思う。そんなことが起こるはずがない。暗闇とはいえ、一行は一列になって進んでいたのだ。前のものの背が見えなくなったら、警告の声を発するなり何なりするだろうし、『目付』がいないのも気にかかった。ちょっと遅れているだけだろうと思うものの、湧き上がる不安はどうしても消すことができなかった。
東軍に、急を知らせに行ったのではないか、と。
とっさに思ってしまってから、仲間の身を案じるよりも先に、そのことを思った自分に嫌気がさす。
――もう、こんなのはたくさんだ。
スパイという役目を負わされ、そしてその役目を果たすのは、確かに嫌なことだろう。しかし、こうして仲間を反射的に疑ってしまうというのもかなり嫌なことだ。
グスタフなら、きちんと対処するだろう。
あの完璧なまでのポーカーフェイスのままで。
もちろん、グスタフが何も感じないわけではないことは、ギルファスはよく知っている。グスタフだって嫌だろう。ましてや今は副将という立場にいるのだから、西軍銀狼隊の中にいるスパイに命令を出しているのはグスタフかもしれないのだ。しかしグスタフは、その嫌なことをやってのける。内心ではどう思っているにせよ、外見にはほとんど出さず、淡々と、冷静に、それをやってのけるのだ。
――だから、グスタフがいけ好かないとか気に入らないとか冷血漢とか、言い出すやつが後をたたないんだ。
本当は、違うのに。
そこまで考えて、先ほどの、シャティアーナの平然とした顔を思い出す。彼女は何も感じていないように見えた。いつもと変わらないように見えた。それは。内心を、必死で押し隠していたからなのだろうか。
シャティアーナのことを、俺はグスタフほどには、知らない。
どうして俺は、彼女のことが好きなんだろう。美人だから? 気高くて、優しくて、可愛いから? ゴードに言われるまで、彼女がアイミネアとルーカを置き去りにしてきたことを、気に病んでいるかもしれないなんて、想像すらしなかった。媛に選ばれたときに当然だと思えるくらいの知識はあった。けれど、彼女が『宴』における媛の役割について、どう思っているかなんて――この『宴』が始まるまで、まったく知らなかった。
「ギルファス?」
怪訝そうなマディルスの声に、ようやく我に返った。
周囲の暗闇の質感が、肌によみがえってくる。
「あ……」
なんでもないんだ、と続けようとしたギルファスの言葉を、がさり、という音が遮った。
反射的に三人が身構える。
はぐれた三人(プラス、『目付』)だろうと、半ば無意識に思いながらも、警戒してしまうのは、ここが夜の森だからだろうか。
がさ、がさ。
音はだんだん近寄ってくる。音からするに、どうやら一人らしい。何かを探すように、慎重に歩いてくる。ギルファスは、ふとあることに気づいて、二人に身を隠すようにと合図した。
音が、高い位置から聞こえてくるのだ。
銀狼隊の中で一番背の高いウィルフレッドは、今ギルファスのすぐそばにいる。今はぐれたと思われているルーディ、ヴェロニカ、そしてラムズ。この三人は、それほど背は高くない。それなのに、あのがさがさという音は、まるで背高のっぽが歩いてくるかのような高い位置から聞こえてくる。木の枝に頭が触れている、そんな音だ。
音は次第に近づいてくる。
今はもう、三人の鼻先といってもいいような場所にまで近づいてきている。
明かりも何も見えない。こんな暗い森の中、明かりもつけずに、たった一人で歩き回っている背の高い男。誰だろう。『目付』もいないようなのが気にかかった。東軍の見張り、だろうか……
がさり。
三人の真上の枝が音を立てて、その男が姿を見せた。
木々の梢を通して漏れてきている月光に、男の鉢巻が黒ずんで見える。白じゃない。敵だ。ギルファスは一瞬、ためらった。地面に伏せているこちらに、男はまだ気づいてはいない。しかしほんのわずかでも音を立てたら、男は即座に気づくだろう。左手に棍棒を下げている。もし男が気づいたら、体勢の悪いこちらが不利だ。
気づかれる前に、倒すべきだろうか。
しかし、ここには『目付』がいない。
一瞬の逡巡がギルファスの対応を遅らせ、気づいたときには、すぐ脇にいたマディルスが跳ね起きて男に飛び掛るところだった。
「……!」
男は即座に反応した。下から飛び掛ったマディルスの攻撃を身をひねってよけ、大きく後ろに下がる。ギルファスは舌打ちして飛び起きた。こうなったら、助けを呼ばれる前に倒すしかない。ウィルフレッドも同じことを考えたようで、飛び上がるようにして立ち上がったのは二人同時だった。
男はマディルスの攻撃を受け流しつつ後ろに下がっていたが、新たに二人の敵が現れたことにあせったらしく、うろたえたそぶりを見せた。
大きく口を開ける。
叫ばれたら終わりだ。肝が冷える。マディルスの後ろを通って大きく男の右側に回りこもうとしたとき、月光の淡い光がギルファスの顔を横切った。本能的に光を避けて、暗がりから男の隙を狙う。しかし男はその一瞬を見逃しはしなかったらしく、マディルスの攻撃をいなして身を乗り出した。
「……ギルファスか!?」
「アルスター!?」
ギルファスはたたらを踏んだ。飛び掛りそうになっていた体に急ブレーキをかける。混乱する頭を一瞬で整理する。アルスター。背の高い、二十代後半の、優しげな顔をした男。この男は『戦死』させるわけにはいかない。ギルファスはマディルスとウィルフレッドに叫んだ。
「棍棒を引け! 敵じゃない!」
「……え!?」
二人が一瞬動きを止める。もしアルスターが敵だったら、この一瞬にどちらかを『戦死』させるなり、大声で助けを求めるなり、西軍銀狼隊にとっては致命的な行動を起こすことができただろう。しかしアルスターは構えていた棍棒を地面に置いた。そして、二人をなだめるように両手を軽く上げて見せる。
「銀狼隊の隊員には、知られてなかったのか。ゴードは本当に用心深いな」
「え……まさか?」
ウィルフレッドが、まだ油断なく棍棒を構えながら、こちらに視線を投げる。
ギルファスは、マディルスに近寄って、その手を抑えながらうなずいた。ごくごく声をひそめて――いまさらという気もしたが――囁く。
「東軍に潜入してるスパイの一人だ。証拠が必要か?」
ギルファスが求めるまでもなく、アルスターは鉢巻をはずす。
月の光にさらして見せたその鉢巻の裏側には、細く白い線が一筋、くっきりと走っていた。
* * *
アルスターは西軍の陣地に向かう途中だったと言った。ギルファスは眉をひそめた。スパイは普通敵軍の中に潜み、その連絡は伝令隊の精鋭をもって行われるのが普通だ。スパイが軍を抜け出して連絡を取りに来るのは、よほどのことが起こったと考えていい。
「何かあったのか?」
尋ねると、アルスターはうなずいた。
「お前がここにいるということは、夜襲の情報は嘘じゃないんだな。東軍が夜襲に気づいたぞ。俺はそれを警告しに出てきたんだ。お前に会えてよかった」
「気づいた……!?」
ウィルフレッドが抑えた声をあげる。ギルファスは目を見開いていた。ゴードはごくごく密かに、この計画を進めていた。どこから漏れたというのだろう? そしてその情報を得たものは、どうやって、東軍にそれを知らせたのだろう? 銀狼隊はできる限りの速さでここまで進んできた。そして銀狼隊の隊員はここに来るまで一塊になって進んできている。先ほどはぐれた三人のうちの誰かが、東軍に知らせたにしても、アルスターの行動は早すぎた。
アルスターも、ギルファスのその疑問には気づいたのだろう。身をかがめるようにして、早口で、囁いた。
「煙だよ」
「……煙?」
「見張りたちの近くに、ケムリ草の焚き火があったんだ。俺たちのいた見張り場所では、交代で木に登って、その煙の動きに何か異変がないか、見張ってたんだよ。お前たちがここへくるまでのどこかの見張りが、危機を知らせるために焚き火を動かしたり、したんだろう」
それを考えたのも、グスタフだろうか。
ギルファスは考え込んだ。ゴードの隣で『宴』の舞台を見回したときに、両側の森の中から、行く筋かの煙の筋がたなびいていたのを思い出す。そして一番初めの見張りを倒すために闇に潜んでいたときに、確かに、焦げ臭いにおいを嗅いだことも。あの煙の中には、西軍の焚き火も含まれていたはずだ。気にも留めなかった、あの煙の筋が、東軍に危機を知らせる役目をするかもしれないなどと。
――待てよ。
東軍が夜襲に気づいたのは、時期的に言って、あの一番初めの見張りを倒したときだろう。
何かが脳裏に引っかかったとき、アルスターが身を起こした。
「それじゃ俺は戻る。怪しまれずに東軍に戻れるか、やってみなきゃならないからな」
「ああ……」
「――待ってくれ」
半ば無意識にうなずきかけたギルファスを、ウィルフレッドがさえぎった。彼はそのひょろ長い体をアルスターに寄せるようにして、囁く。
「アイナがまだ東軍にいるはずなんだ。つかまったとか、そういう情報は入ってないか?」
「アイナが?」
アルスターは目を見開いた。アイミネアがまだ東軍にいるとは、思っても見なかったようだ。彼は抑えた音で、そっと口笛を吹いた。
「そうか、アイナが。いや、つかまったとは聞いてない。あの子のことだ、まだ逃げ延びてるだろう」
「頼むよ、アルスター」
「何とか探してみよう。あの子が自由に動けるなら、百人力だ」
そう言って、アルスターは、今度こそ本当に、闇の中に戻っていった。




