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第一日目 1節 『宴』の始まり(ギルファス)

 ギルファスは唐突に目を覚ました。

 それは本当に唐突な目覚めで、はじめの一瞬は、自分がまだ寝ているのか、それとも目を覚ましているのか、分からないほどだった。天井の隙間から、その向こうに広がる満天の星空が見える。ギルファスが寝転んでいるその建物は、収穫した果実を一時的に保存しておくためのもので、しっかりした作りとは到底言えなかった。雨がだだもりとはいわないが、嵐の晩にここで夜明かしをしたいとは思わない。

 小屋の中には、足の踏み場もないほどに、若者たちがひしめいていた。この小屋の中によくも五十人もの青・少年たちが入れるものだと、毎年語り草になっているほどである。手足を縮め、折り重なり、体の下には堅い木の床の上に敷いた一枚の布だけ。窮屈で、体が痛く、おまけに薄い木の床を通して地面の冷気がじんわりと染み込んでくる。寝心地が良いとはお世辞にも言えない環境だったが、ギルファスを除く若者たちは、皆一様に深い眠りに入っていた。無理もない、とギルファスは思う。つい先程まで、明日――いや、この時間ではすでに今日か――から始まる『宴』の準備に追いまくられ、ゆっくり休めたことなどこの一週間なかったのだ。そして『宴』が始まってしまえば、またしばらく休む暇などない。この夜は、嵐の前の静けさとでも呼べるような、貴重な休息の時間なのだった。

 ギルファスは寝返りを打とうとして、そんな隙間がないと思い知りあきらめた。一度目が覚めてしまうと、この窮屈さは堪え難いほどだった。自分の回りで安らかな寝息を立てる戦友たちが恨めしく思える。目を閉じ、そしてまた開いてみる。天井の隙間からは、相変わらず満天の星空が見える。夜明けまではどれくらい時間があるのだろう。俺が、とギルファスは思った。俺が、『銀狼』になる夜明けまでは、あとどれくらいの猶予があるのだろう?

 眠るのを完全にあきらめ、溜め息を付いて、彼は起き上がった。眠れないのに、この窮屈な場で友人たちの寝息を聞くのは拷問に近い。隣で寝ているルーディの下から細心の注意を払って自分の防水布を外し、肩に掛けるとギルファスは歩き出した。人を踏まずに戸口にたどりつこうと努力はしたが、数名の若者が眠たげな抗議のうなり声を上げた。しかし目を覚ますまで強くは踏まなかったようで、ギルファスは罵倒もされず、足を掴まれてひっくり返されることもなく、無事に戸口までたどり着いた。

 戸口が外開きだったのは幸いだった。起き出してから数分後、きしむ扉を押し開き、彼は夜気のなかに滑り出た。

 季節は初秋である。『宴』が終われば、収穫の季節が始まる。昼間であればまだ汗を流すほどの陽気だったが、さすがにこの時間は冷える。寝起きでほてった体に夜気が心地好かった。

 ――銀狼には……

 耳の底に、ここ数日離れないゴードの声がよみがえる。

 ――大将として、銀狼には、ギルファスを推したい……

 その瞬間わき起こったどよめきの意味を、数日経った今でも、つかみかねているギルファスである。銀狼はいつも、十代後半の青年たちから選ばれる。だから、自分が選ばれる可能性もあるのだとわかってはいたものの、そのことについて全く考えていなかった彼には、それはまさに寝耳に水だった。一瞬ゴードの言葉の意味が分からず、ぽかんと口を開けた彼を、周囲のどよめきが包んだ。あれは決して不満や反対のどよめきではなかった、と、自信はないものの、おずおずながら彼は悟っている。しかしあのどよめきの中に、冷やかしの響きがなかったとは、どうしても断言できない。

 つまるところ、俺は自信がないのだ。

 ひどく情けない気持ちで、ギルファスは認めた。

 そして周囲がどう思うかよりも、ゴードの言葉を聞いて、心臓が張り裂けるのではないかと思うほど高鳴ったあの高揚感よりも、シャティアーナがどう思ったのかということが、今はひどく気にかかる。

 あの時はことほぐ友人たちにあっという間に取り巻かれてしまって、彼女の表情を確かめる余裕などなかった。彼女の、可憐というよりは端整な顔立ちは、何か表情を浮かべたのだろうか。媛の発表は、銀狼の直前だった。シャティアーナが媛に選ばれたのは、ギルファスからすれば当然のことだった。シャティアーナは頭が良く、少々のことでは動じない肝の太さと、場の雰囲気を読み、周りを立て、気づかうことのできる濃やかさの両方を兼ね備えている。表情の起伏に乏しいところが欠点といえば欠点だ、と言う者もいるにはいたが、その端整な仮面の裏に優しく柔らかな素顔を隠していることを、ギルファスは良く知っている。

 ――俺は実力で選ばれたのだろうか。

 ここ数日、その考えにさいなまれている。忙しさに紛れて深く考えぬようにしてきたものの、不幸にも夜中に目が覚めてしまった。その事について考えぬわけには行かなくなってしまった。俺は実力で選ばれたのだろうか……それともただ単に、シャティアーナの許嫁だからこそ、選ばれたのではないのか?

 この考えは到底、口に出せるものではなかった。誰にもいっていない。一歩間違えば、ゴードへの侮辱へつながる。だから、親友であるルーディでさえ知らない。しかしそれは澱のようにギルファスの胸の奥に潜み、決して消えることはなかった。媛と銀狼は一対のものだ。『宴』において一番華やかな存在であり、そしてミンスター地区で一番有名なカップルである。シャティが媛になったのは実力かもしれないが、ギルファスが銀狼に選ばれた要素として、シャティの許嫁であるというものが占める割合というのは、どれくらいなのだろう?

 そんなことがひどく気になる。

 毎年楽しみでたまらなかった『宴』が、今はひどく億劫に感じられる。

 シャティはどう思っただろう。ほかの誰よりも、シャティのことが気がかりだった。ギルファスはシャティのことを、許嫁だからというわけでなく、純粋に好きだった。しかしシャティはどうなのだろう? このままではいつかやってくる婚礼を厭がっているという話は聞かない。けれど、彼女がギルファスのことを、好いているとは到底思えない。

 ――俺のことを好きだからではなく、単に許嫁だからという理由で、婚礼を迎えるなんて……屈辱以外のなにものでもないじゃないか。

 シャティはあの、兄によく似た端整な顔立ちで、何を思っているのだろう。

 脳裏に、グスタフの顔が浮かぶ。

 二人は実際、よく似た兄妹だった。寡黙さの度合いではグスタフのほうがかなり勝っていたが、顔立ちや表情、そして性格までも良く似ているような気がする。

 思考は取りとめもなく流れ、くじ引きが行われた一週間前のあの日に戻っていった。

 あの日も、空はあきれるほどすっきりと晴れていた。



 空はどこまでも青く澄み渡っていた。

 それは籤引きの神のいかにも好みそうな、雲ひとつない晴天だった。ひどく暑い日だった――居並ぶ人々は一様に汗を流していた。それはまだ十分な勢力を保っている太陽の光のためばかりではなかった。今はまさに籤引きが行われている真っ最中、人々は興奮のために異様なまでの熱気を、広場中に生み出していたのである。

 ギルファスは一列に並んだ少年たちのほぼ真ん中ほどで、次第に高まっていく心臓の鼓動を聞いていた。『宴』は娯楽の少ないこの地区での、ほとんど唯一と言ってもいい一大イベントである。人々の生活は楽とは言えず、子供ですら働かないことには暮らしていけない。勉強と労働という苦しい日々を、これから始まる十日間だけを楽しみに暮らしてきたものは多い。そしてその十日間の流れを決める籤引きが、今まさに行われているところなのだから――興奮するなというほうが無理だった。

 そして今、籤引きが行われているという興奮を、いやが上にも高めているのは、ギルファスたちの並ぶ目の前の広場を、二つに分けている人の群れである。広場は綺麗に二つの色に染め分けられていた。ギルファスからみて左側、つまり西側には、白い旗が幾本も掲げられ、時折思い出したかのように吹く風が白い大きな布をそよがせる。そして同様に、東側には青い旗。すでに籤引きを済ませ、両方の軍に振り分けられた人々が、新たに自分たちの仲間が誕生するのを、息を詰めて見守っているのだった。そして、両軍の一番大きな旗の下に立つ人というのが――

「おい、ギルファス。お前ならどっちに行きたい?」

 背をつつかれ、背後のルーディに語りかけられたギルファスは、一瞬返答に詰まった。東側、青い旗のはためく陣地には、威風堂々とした偉丈夫が、腕を組んでこちらを睨んでいた。あれはガスタール。ミンスター地区でもっとも名を知られた男の一人である。ギルファスがもっとも尊敬している男の一人でもあった。力が強く、指導力があり、人望が厚い。彼が東軍に入ったそのときに、将軍の地位は決まったようなものだった。本当ならガスタールがいるだけで、ギルファスはためらうことなく東軍に行きたいということができただろう。何しろ去年はガスタールを敵に回しただけで、散々な目に遭ったのだ。

 しかし、今年は、西軍にゴードがいる。

 ギルファスは手を上げて、目に入りそうになった汗をぬぐった。

 自分がひどく興奮しているのは、わかりきっていた。何しろ、ガスタールと並び称されるミンスター地区の英雄の片割れ、ゴードが、今年は西側にいるのである!

 ゴードはガスタールとは対照的に、物静かなたたずまいで、西の旗の下に立っていた。彼はガスタールの親友であり、ミンスター地区の強力な指導者の一人である。褐色に日焼けしたガスタールに比べ、ゴードは色素が薄い。髪にも白髪が混じり、表情はとても温和だ。しかし剣を握らせれば、豪力のガスタールに一歩も引けを取らない。ギルファスら少年たちに剣の訓練をつけるときの余興に、この二人の勝負は少年たちのひそやかな楽しみになっているほどである。この二人はとても仲が良く、二人と一緒にいるだけで、人々は安心と信頼の念をかき立てられずにはいられないというような――紛れもない豪傑。その二人が、何年かぶりに、別々の軍に分かれて戦うことになったのだった。

「そうだなあ……」

 ギルファスは次第に人数が減っていく、自分の前の列を眺めた。十七歳の少年の列が終わり、十七歳の少女の列が終わり、そして次は十六歳の少年、つまり自分たちの番が来る。どちらの軍に分けられても楽しめそうだと思う。しかし強いて好みをあげるならば――

「ガスタールかな、俺は。東がいい。もちろん西でも嬉しいんだけど」

 自然、口調は煮え切らなくなった。去年のことを思えば、迷うことができるというのはなんと幸せなことだろう。去年、ギルファスはあのガスタールとゴードを両方敵に回したのである。結果は惨憺たるものだった。勝負にすらならなかった。同じ軍だったグスタフが一計を案じ、それでかろうじて一矢報いたことができただけで――

「グスタフ、お前はどっちがいいんだ?」

 自分の目の前の背中を叩いて、ギルファスは聞いた。グスタフの目の前の列は、もうだいぶ短くなっている。すぐに順番が来てしまう。広場中の熱気に加え、いよいよ籤を引くのだという思いにこちらは心臓が張り裂けそうになっているというのに、グスタフ、この目の前にいるギルファスの親友は、いつもどおりに憎らしいくらいに落ち着いた風に、振り返った。

「東がいい」

 グスタフの答えは簡潔だった。

 彼の目をまともに見て、ギルファスは、この寡黙で無表情な親友も、内側から沸き出でる興奮を完全に制御しているわけではないということに気づいた。グスタフの黒々とした双眸は、とても珍しいことに、興奮の色をたたえて濡れ濡れと光っている。

 その目を見て、ギルファスはひどく嬉しくなった。

 満面の笑みを浮かべて、親友の肩を叩く。

「お前もか! なあでも、楽しみだよな。どっちの軍でも楽しめそうだ。今年も同じ軍だといいな」

 ギルファスの明るい声に、しかしグスタフは返事をしなかった。籤引きの係に呼ばれたからである。話しているうちに彼らの前の列は途切れ、いよいよ順番がやってきたのだ。グスタフはどちらを引くんだろう、とギルファスは身を乗り出した。少し前に設えられた簡素な箱の前まで、グスタフはゆっくりと歩いていく。

 と――

「青を引け、グスタフ!」

 大音声が響き渡り、広場は一瞬だけ沈黙に包まれた。ギルファスは耳を疑った。今の――今のは、ガスタールの声だったのじゃないか……?

 仁王立ちになったガスタールは、そばにあった青い旗を引き抜いて、高々と掲げながら叫んだ。

「俺のもとへ来い、グスタフ! 東へ来いよ!」

 一瞬の沈黙の後、大地を揺るがすような東軍の人々の叫びが沸き起こった。興奮したルーディが自分の肩をつかむのを、ギルファスはぼんやりと感じていた。ガスタールが叫んだ。籤引きの前に。なんて――なんて名誉なことだろう?

 グスタフはゆっくりと、右手を箱の中に差し入れた。あのポーカーフェイスは、今どんな表情を浮かべているんだろう、とギルファスは狂おしいほどの気持ちでそう思った。グスタフがゆっくりと手を引きぬく。そしてその右手をまじまじと見詰めた後、高々と掲げる。

 その右手には、紛れもなく青く光る玉が、しっかりと握られていた。

 籤引きの神が、グスタフと、ガスタールの方に微笑んだのが、見えたような気がした。

 再び、広場が興奮の叫びで満たされる。

 なんて――なんて劇的なことだろう、とギルファスは自分も興奮の叫びを上げながら、頭のどこかで考えていた。人々の上げる声が耳に突き刺さる。なんてすごいんだろう、もし俺も東を引くことができたら、今年の『宴』は一生記憶に残るほど、すばらしいものになるだろう!

 グスタフは籤引きの係に青い玉を渡し、東軍の方へ歩きかけ、ふと、きびすを返した。籤引きの箱の前に進み出ようとしていたギルファスを、その眼光が射抜く。グスタフはとても珍しいことに、その日に焼けた頬を興奮に少しだけ染めて、ギルファスの肩をつかんだ。

 そして囁いた声はとても小さくて、ギルファス以外には聞こえなかっただろう――

 グスタフは、つとギルファスに顔を寄せ、こう言ったのである。

「西を引け、ギルファス――東に来るなよ」

 脳裏が真っ白になった。

 何を言われたのか、一瞬よくわからなかった。我に返ったときには、グスタフは既に東軍に向けて歩き出した後だった。ギルファスはその背に向けて走りよりたい衝動に駆られた。そしてもう一度聞きたかった――今なんと言ったのか、と。

 しかしその囁きは、はっきりと、ギルファスの耳に残っている。

『東に来るなよ』

 グスタフはそう言ったのだ。

 何故――?

「ギルファス、籤を引け」

 籤引きの係に促され、呆然としたまま、ギルファスは機械的に足を進めた。興奮にいきなり水を刺され、わけがわからなかった。寡黙なグスタフは必要なこと以外はほとんど言葉にしない。振り返って、足を戻してまで、囁いたのである。どうしても言いたかったことに違いない。しかし、何故? 紛れもない拒絶の言葉がギルファスの胸に突き刺さっていた。去年、ガスタールとゴードを敵に回した彼らが、敵に一矢なりとも報いたことができたのは、グスタフとギルファスの働きによるところが大きかった。今年も一緒に戦うことができたら、どんなに面白いだろうと思っていた矢先だったのに。

 ギルファスは、箱の前に足を進め――

 頭ではほとんど何も考えていないままに、箱の中に右手を差し入れ――

 ごろごろとした玉の感触を右手に感じ、手の中に飛び込んできたひとつを、何も感じないままに引き抜いた。

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