第二日目 1節「食料調達」(アイミネア)(3)
沈黙。
「逃げ出したあと、ディアスを『戦死』させなかったのは失敗だったな。彼のおかげで我々は、あなた方の逃走をいち早く耳にした。……しかし十人からの兵士に追われて、それを見事にまいたのにはまた驚かされた」
ルーカは、まだ答えない。ガスタールは気にせず、次々に言葉を継いでいく。
「察するに、君は囮となったらしいな。シャティアーナと君の体型はよく似ている。君が囮となって媛を逃がし、媛隊は銀狼の手助けもあって、『宴』の第一日目の早い時期に見事、逃亡に成功した。……しかし君は館の中に取り残された。なんとも見上げたことだ。ゴードはよくも君のような人間を媛隊に配属したことだ。さぞ、鼻が高いだろうな」
「……」
「だが。昼ならともかく、夜になって闇があたりを包んでいるというのに。君のような人間なら、闇にまぎれて逃げ出すことなどやってできぬことではなかったろうに。なぜ、そうしなかったんだ?」
アイミネアは、籠の中で、息を呑んだ。
それは、あたりが闇に覆われてからずっと、アイミネアの心の中にわだかまっていたことだった。ルーカが言い出さないのをいいことに、アイミネアは敢えてそれを主張しようとはしなかったのだ。そう、逃げようとすれば逃げられたはず。なにしろ、まだ媛隊がこの中に残っていようとは、誰も思っていなかったのだから。
それをしなかったのは。ルーカに、逃げよう、と言い出せなかったのは――
「ゴードから、何か命令を受けていたんじゃないのか?」
ガスタールの言葉が、まるで自分に向けられているかのように、耳に突き刺さってくる。
違う、違う。そうじゃない。アイミネアは自分の意思で、ここから逃げようとはしなかったのだ。
スパイの存在に、気づいてしまったから。警告はシャティアーナがしてくれただろうから、あたしはなんとか、それが誰なのか、探り出したいと思ってしまったのだ。
意識はしていなかった、と思う。でもその考えがあったから、自分から積極的に、逃げ出そうとしなかったのは、事実。
ルーカを巻き込んでさえも。
「東軍の中にいる、西軍のスパイと接触をするとか」
ガスタールの言葉は続いている。
「東軍の情報をできるだけ探り出してから、脱出するとか」
ルーカは沈黙を守っている。
「そういうことを、ゴードから命令されていたんじゃないのか?」
「違います」
ルーカが、きっぱりと言った。声は相変わらずはっきりしていたが、先ほどより幾分、弱くなっている。
「あたしたち考えもしなかった。逃げるので精一杯だったから。ようやく追っ手を撒いてほっとしたときには、もう立ち上がれないような気がしたんです。だからじっとしていた。もう危険を冒したくなかった。できるなら、『宴』の最後まで、危険なことをしないで、うずくまっていたいと思ったんだわ」
「本当に……?」
探るような、ガスタールの声。なんだか催眠術でもかけられている気分だ。アイミネアはひざに顔をうずめて、じっとうずくまった。
「本当です。西軍のスパイと連絡をとるなんて、考えもしなかった。おなかがすいてどうしようもなくなったりしなければ、隠れ場所から出ようともしなかったと思うわ」
「まあ正直に話してくれるとは思っていないが」
ガスタールは苦笑した、ようだ。そして、ルーカが息をついた瞬間に、切り込むように、言った。
「西軍スパイは誰だ?」
「知らない!」
「君が? 媛隊だろう。媛隊は敵の本陣に堂々と乗り込んでいられる唯一の存在だ。逃げられなかったときは、どういう役目をするはずだったんだ? 東軍の情報を何とかつかんで、西軍に知らせるという大切な役目があっただろう。君が、西軍スパイを知らないとは、信じられないな」
「……」
アイミネアは唇を噛んだ。
ルーカは、確かに知らないのだ。媛隊の中で、東軍の中にもぐりこんでいるスパイの名を知っているのは、シャティアーナと、伝令隊であるアイミネアだけだ。他の三人は知らされていなかった。ゴードは恐ろしく用心深い。
でも、ガスタールは信じていない。それはそうだ。あたしだって、信じないだろう。
「信じないならそれでもいい。そもそも、知ってたって話すわけないでしょう」
「それもそうだな」
ガスタールはもう一度、苦笑した。燭台の明りが、揺らめく。
静まり返った部屋の中に、ルーカがつばを飲み込む音が、大きく響いた。
「それとも」
とルーカが言った。アイミネアはぎくりとした。何を言うつもりだろう。まさか。
先ほどから、危惧していることがあった。ルーカは既に、ひとつ、失敗を犯している。幸いにして誰も気づかなかったようだが、油断はできなかった。何しろここにはグスタフがいるのだから。
「それとも、あなた方が……」
言っちゃ駄目、ルーカ。
籠の中で、ひざに抱えたバスケットを握り締める。籐のつるが、きり、とかすかな音を立てて、心臓が飛び上がった。
「……西軍にもぐりこませている、スパイの名を教えてくれるのなら、考えてもいいわ」
――!
願いは、届かなかったらしい。
アイミネアはできる限り、籠の中で身を縮ませた。こうなったら、グスタフが気づかなかったことを祈るしかない。
「交換条件ってやつか。つくづく肝が据わった奴だなあ」
ガスタールが朗らかな声をあげる。
神様、神様、伝令の神様!
息を詰め、今までこんなに真剣に祈ったことはないと思うほど、狂おしいほどの強さで祈ったのだけれど。
祈りは、やはり、届きはしなかった。
グスタフの持っている明りが、初めて揺らいだ。
「ルーカ。この中に、もう一人誰か……いるのか?」
低い声。いつもはどんな音楽にも増して耳に快いその声は、今は氷の刃のように、アイミネアの心臓に突き刺さった。
「……え?」
声をあげたのは、エルリカだった。部屋の入り口のほうでずっと沈黙を守っていた彼女が、軽やかな足音とともに、こちらに近寄ってくる。
「この中に? ……どうして?」
「気になってた。媛隊でここに残ったのは、ルーカ一人じゃないんだろう」
「なんで?」
エルリカの声とともに、ティトルスがあたりを見回した。ガスタールから分けてもらった蝋燭を、部屋のあちこちにかざしてみている。アイミネアの隠れている籠にも光は向けられたが、素通りしていった。
今ほど、自分の体の小ささに感謝したことはない。
籠は中くらいのもので、人一人隠れるには少々小さかった。伏せられた籠は他にもたくさんあるし、音さえさせなければ、見つかるとは思えなかった。一つ一つひっくり返されれば、話は別だが。
「誰かを囮にするなら、俺ならまず、媛と同じ格好をさせて……で、供をつける。媛が一人で逃げることは考えられないから」
「ああ、俺もそうするだろうな」
ガスタールが重々しい声でそう言った。ルーカが慌てて、声をあげる。
「違う。あたしは一人で逃げたの。シャティアーナの護衛は、多いほうがいいでしょう」
「でもさっき、『あたしたち』って言っただろう」
グスタフの声は淡々と響く。アイミネアはいっそう、身を縮ませた。
やはり、気づいていたのだ。
「言ってないわ」
「言った。どうして闇にまぎれて逃げなかったのかと聞かれたときに」
「言ってない……!」
「それはいい」
ガスタールが口をはさんだ。燭台の明りが、グスタフの方に向けられる。
「言ったか言わないかはさておき、俺も、ルーカが一人ではなかったと思う。グスタフ、お前はそのもう一人か二人が、この部屋の中に隠れていると思うのか?」
グスタフは、うなずいたらしい。燭台の明りが揺らめいた。
「どうしてルーカが、西軍のスパイが誰かを気にするのか。ここで『戦死』するのはわかってるだろう。知ってもあちらに知らせる術はないのに」
「ここにいるほかの誰かに、聞かせるためだと……?」
もう一度、グスタフの持つ燭台の明りが揺らめく。アイミネアは覚悟を決めた。もし家捜しが始まったら、ここから一番近い出口はあの窓だ。ティトルスがあちらを向いた隙に、この籠を跳ね除けて、あそこから逃げるしかない。カーテンも、バスケットもある。グスタフはあちら側にいる。ガスタールにカーテンを投げつけて、逃げよう。そう思って、身構えたときだ。
ガスタールが、ため息をついた。
「しかしこの暗さで、隠れ場所のたくさんあるこの部屋の中を探すのは大変だな。西軍にいるスパイの名をここで言ってしまったならともかく」
「とりあえず、ルーカに『戦死』を宣言したほうがいいでしょうね」
ティトルスが口をはさむ。言いつつ、彼は一歩前に出た。窓からそれだけ離れたことになる。アイミネアは頭の中で、距離を計った。
「そうだな。西軍スパイの名を聞き出すことはできそうもないし、言ったとしてもでたらめだろうしな」
ガスタールがつぶやいて、燭台を左手に持ち替えた。右手で腰につるしていた棍棒を抜く。
「よくがんばったな、ルーカ。お前はここで『戦死』だ」
「西軍媛隊ルーカ、『戦死』」
『目付』の声が冷酷に響く。ルーカが、「ああ……」と声を漏らした。残念がっているようにも聞こえたし、ほっとしたようにも聞こえた。
「グスタフ、お前の言葉を信じないわけじゃないんだが。もう夜も遅いし、明日は早いし、人手を増やそうにもみんな眠っているしな。一人では何もできまいよ。ルーカを『戦死』させただけでよしとしないか? 明日の作戦を立てなければならないからな」
ガスタールの低い声が耳の中でわんわん響いている。
うそだ、とアイミネアは思った。ガスタールはそんなに甘くない。これは隠れているあたしを油断させようという、罠に違いない。
呼吸を整えて、気持ちを落ち着けようと試みた。冷静に考えなければ。感覚を研ぎ澄ませて、これからどうするか、判断を下さなければ。
朝までここにいるわけにはいかない、でも、罠とわかっているところに、のこのこと首を突っ込むわけには行かないのだ。
ガスタールの大きな影が、動いた。
ティトルスも動きだす。戸口のほうへ向かっていく。軽やかな足音と、普通の足音と、重々しい足音が、重なり合うように響きながら、戸口の外へと出て行く。足音は四つあったようだ。『目付』も一緒に出て行ったのだろう。
「……行くぞ、グスタフ」
最後に戸口でティトルスの声が響き、そして静寂が戻ってきた。
聞こえるのは自分の心臓の音と、息遣いだけだ。
ルーカはこれから、『安置所』へ行くのだろう。先ほど『目付』に宣言されたときに、鉢巻をはずしてガスタールに渡しているはずだから、ルーカはもう『生きて』はいない。『死人』は安置所へ行くしかない。そこに集まった『死人』たちと、『宴』の戦況について議論を戦わせるくらいしか、彼女にできることはもうないのだ。
「ルーカ」
グスタフが、つぶやくように言った。
「……残ったのは、誰だったんだ?」
黙りこんでいたルーカが、不機嫌そうな声をあげる。
「誰も残ってないってば。『死人』に話し掛けたら、『目付』に叱られるわよ」
「答えてくれないのか」
「誰も残ってない。あたしは一人で逃げたのよ。あーあ、どうしてあそこで音を立てちゃったのかしら。大活躍のチャンスだったのに」
「……そうだな。危ないところだった」
率直なグスタフの言葉に、ルーカが一瞬だけ沈黙した。
そして、つぶやく。
「あんたはあたしが一人だったって言っても、信じてないんでしょ。あんたは、誰だと思ったの? あたしと一緒に、誰がいると思ったの?」
「……」
グスタフは、沈黙した。
もう何でもいいから、早く出て行って欲しい、とアイミネアは思った。先ほどからずっと緊張し続けていて、そろそろ限界が近かった。今すぐにでも籠をかなぐり捨てて、外の空気を吸いたい。それよりも、ここでグスタフの声を聞いているのは、拷問にも近いような耐えがたさだった。
聞いてるあたしの存在を知ってもいないグスタフの声なんか、聞きたくない。
ふっと、明りが消えた。
手にしていた燭台を、グスタフが吹き消したらしい。
月光が勢力を取り戻した部屋を、返事をしないまま出て行くものだと思っていたのだが。ことりと燭台を机に置くような音がした後、グスタフの声が聞こえてきた。
「ミネルヴァか、ガートルード。だったらいいと思っていた」
こつこつと足音が響いて、グスタフが部屋の戸口へ向かうのがわかった。
――だったらいいと思っていた、って?
アイミネアは籠の中で、できる限り首を縮めた。押しつぶされたバスケットが、かすかに音を立てる。
今のはどういう意味だろう。背中に何か、重いものが落ちてきたような気がした。どういう意味だろう、グスタフは、何が言いたかったのだろう?
「だったらいいって……」
グスタフの後を追いかけて行きながら、ルーカが問う。
足音が少しずつ遠ざかっていく。
戸口を出たところあたりで、グスタフの低い低い声が、かろうじて聞き取れるくらいの音量で、ささやかれた。
「――媛隊の中では、アイナを敵にまわすのが、一番怖い」
その声を最後に……今度こそ、沈黙が戻ってきた。