第二日目 1節「食料調達」(アイミネア)
真夜中が過ぎた。
アイミネアとルーカは、まだ『生きて』いた。あのあとどこをどう逃げたのかすらよく覚えていない。シャティアーナたちと別れた直後、幸いにも西軍が華々しい活躍を見せ、東軍のほとんどが館を出払ってしまっていたから、逃げおおせることができたのだろう。とにかく、幸運だった。まさか一日目を生き延びられるとは、思ってもみていなかったのだから。
二人は今、南側の別館にいた。二階の、崩れかけた物置の中にいた。五十年前の戦争のとき、略奪の限りを尽くしていた敵たちが、いらないと判断したものを全てここに放り込んだのではないかと思えるような部屋である。打ち壊された机や椅子、もとはなんだったのかすら判別できない木切れや、壁の破片。ルーカの身にまとっていたカーテンのおかげで少しはマシだったが、壁の四分の一が崩れているようなこの部屋では、身震いするほどに寒かった。
「おなかすいたなあ……」
ルーカが呟いた。眠っているとばかり思っていたアイミネアは、その声に少なからず驚いた。アイミネアも空腹に耐えかねていて、眠れるルーカをひどく羨ましいと思っていたばかりだったので。
「おきてたの?」
「眠れるわけないでしょう」
ルーカの言葉はそっけなかった。空腹でいらいらしているらしい。それは当然のことだった、二人とも、夜明けが来る前に少しだけ、朝食を取っただけだったのだから。
「静かだねえ……」
アイミネアは何とか自分の思考をそらすために、カーテンにいっそう深くうずもれながら、呟いた。
東軍の陣はひっそりと静まり返っている。夜襲に備えて見張りが立っているらしく、火のぱちぱちとはぜる音と、時折沸き起こる話し声や笑い声が聞こえるほかは、虫の声しか聞こえない。
「ああ……もう、我慢できない」
ルーカがうめくように言って、急に立ち上がった。
立ち上がりざまにカーテンを思い切り引っ張ったものだから、しっかり包まっていたアイミネアは、吊り上げられてしまいそうになる。
「ど、どうしたの?」
「決まってるでしょ。食べ物を探しに行くの。あたしがあんたを生のままバリバリと食べちゃわないうちにね」
「でも、どこへ?」
何とかカーテンを取り戻そうとしながら、アイミネアは囁いた。食料。それは魅惑的な言葉だったが、今はこのカーテンを取り戻すほうが先だった。空腹と、初秋の夜気のために体は冷え切っている。カーテンから露出した左肩にぷつぷつと鳥肌が立つのまで感じられる。
「あたしは食料補給隊よ。食べ物は匂いでわかる」
「そりゃすごい」
ルーカがカーテンを放してくれたので、アイミネアはようやくそれに包まって立ち上がった。仁王立ちになったルーカが、あきれたようにこちらを見下ろしている。
「そんなに寒い?」
「寒い」
即座に答えると、ルーカは少しだけ、心配そうな顔をした。壁の壊れたところから、薄明かりがさしている。その光に照らされたルーカは、いつもよりすごく綺麗に見えた。
「風邪引いたとか言わないわよね?」
それは、一日目の朝、ギルファスにあたしが言った言葉だ。思い返してアイミネアはにっこりした。まだ一日分の時間も経っていないというのに、ずいぶん前のような気がする。ルーカに心配されるのはこそばゆかったが、嬉しくもあった。媛隊と行動をともにしていたときよりも数段、ルーカは優しい。このような空腹のときでさえ。
「それはないよ。ただお腹がすいたところに風に吹かれたからさ」
「そう? それなら……いいけど」
ルーカはちょっと微笑んだ。
「あんた骨と皮ばっかりだからね。食べるところなんてほとんどないみたい」
「あたしを食べても美味しくないよぉ」
「まったくだよね、スープにしかなりゃしない。よしよし、ルーカさんが太らせてあげよう。どうする? ここで待ってる?」
アイミネアは目を見開いた。食料を取って来てくれるというのだろうか。先ほどから思っていたが、今のルーカはまるで別人みたいだった。どうしたんだろう、とアイミネアは思う。昨日の、とげとげしいルーカの姿はいまやどこにも見えない。
「一緒に行く」
「そ。じゃ、行こ」
そっけない口調だったが、ルーカの浮かべた微笑みは、とても嬉しそうだった。
* * *
ギルファスは、大丈夫だろうか。
音を立てぬよう注意して、暗闇をじりじりと進みながら、アイミネアはそう思った。
大丈夫だろうか。もう、眠っただろうか。シャティアーナは、無事に脱出できただろうか。スパイに気をつけろ、と、ギルファスとゴードに、警告してくれただろうか。
東軍の兵士たちから逃げ隠れしていたために、戦況が今どうなっているのか、といった情報は一切掴んでいなかった。媛が逃げおおせたのかどうかすら、わからない。ただ、媛が捕まったという情報も掴んではいなかった。だから、大丈夫だと思うことにする。
媛隊か、銀狼隊の中に、スパイがいる。
それはとても、気の滅入る考えだった。ルーカであってくれたなら、と願わずにはいられない。ルーカであったなら、ギルファスとシャティアーナは安全だ。でも、問いただすことがどうしても出来なかった。もしルーカがスパイだったら。あたしは敵軍の真っ只中で、たった一人の味方を失うことになってしまう。
別館を抜け、渡り廊下をはいずって進んだ。渡り廊下は夜気に露出しているから、外にいる見張りに見つかる恐れがある。カーテンをしっかり体の下に巻きつけ、ずりずりと這っていく彼女たちの上を、冷たい夜気が渡っていく。
その夜気に、下で焚かれている火の匂いが乗って流れてきた。見張りたちはかがり火を炊きながら、夜食にと干し肉を焼いて食べているらしい。香ばしい匂いが鼻をくすぐり、腹が素直に鳴ってしまった。思いのほか大きな音がして、下の兵士たちに聞こえてしまったのではないかと身をすくませる。
「聞こえるわけないでしょ、そんな小さい音」
ルーカが優しい声で言った。アイミネアは赤面した。では、ルーカには聞こえたということじゃないか。
「そ……そうかな」
「干し肉なんかよりずっと美味しいものを食べさせてあげるから、期待しといて」
囁きつつルーカは渡り廊下の端にたどりつき、身を起こした。暗くて今は見えないが、どうやら微笑みを浮かべているらしい。自信たっぷりの微笑み。アイミネアは、ルーカが食糧補給隊の中でも一目置かれる存在である理由がよくわかった。こんなときの彼女は、とても頼もしい。
「何を食べさせてくれるの?」
アイミネアも廊下の端にたどりつき、身を起こしながら囁く。するとルーカはふふふ、と含み笑いを漏らした。
「東軍の奴らの、朝ごはんをかっぱらってやるのよ」
ルーカは、その言葉どおり、十数分後には厨房に到達していた。
正確に言えば、二人が今いるのは厨房の隣にある食糧貯蔵庫である。その部屋は本館の一階、北の端にあった。
廊下には見張りすら立っていない。厨房には頑丈な扉がはまっていて、中からは明かりが漏れていたが、食糧貯蔵庫は真っ暗で、扉もなかった。
「音を立てないように気をつけて。それだけ気をつけていれば、誰も来ないよ」
ルーカは自信たっぷりにそう囁き、中に入っていく。
「どうしてわかるの?」
恐る恐る後を追いかける。アイミネアは生きた心地もしなかった。こんなに堂々と入り口から入って、ルーカは忍び足でありながらも、身をかがめてもいない。まっすぐに食べ物の積み上げられた大きな籠の間を抜けて、ずんずん奥に入っていく。
「食糧補給隊の心得、ひとつ目。おなかをすかせた見張りたちは、厨房へは食べ物をあさりに来ても、貯蔵庫には来ない」
「どうして?」
「答えは簡単。美味しいものはここにはない、と思い込んでいるからです」
ルーカは部屋の一番奥にたどりついた。あたりの籠をしばらく眺め、思案していたが、おもむろにひとつの中に手を伸ばす。中からつかみ出したのは、生のジャガイモだった。
「見張りのときは出来るだけ持ち場を離れるわけには行かないでしょ。あさりに来る奴らは、短時間で最大の収穫を上げねばならない。暗闇の中、手探りで生ま物の入った籠を引っ掻き回すよりは、明かりのついた厨房で残り物を探すのです」
「でも、叱られるでしょ」
「厨房には誰もいないよ」
言いつつ、ルーカは伏せてあった籠を取り上げて、アイミネアに手渡した。慌てて支えた籠の中に、ジャガイモがどんどん積み上げられる。
「ルーカ、これ、生だよ……」
「だぁいじょうぶだって。ルーカ様を信じなさい。……厨房には明かりをつけておき、飢えた若者たちのために、焼くだけですぐに食べられる練り粉の塊とか、スープの残りとか、そういったものをたっぷり隠しておくのが知恵なのよ。そうすれば用意しておいた朝ごはんを食い荒らされずに済むものね」
「それが心得のふたつ目?」
「そうそう。……あった」
彼女はジャガイモの入った大籠の中を覗き込んで、嬉しそうな声を上げた。アイミネアも重くなった籠を床に置き、背伸びをして隣から覗き込む。
「……うわあ」
「これが、明日の朝食ね。心得の三つ目。食べられて困るものは、貯蔵庫に隠すこと」
大かごの中には、大きな鍋が隠されていた。二人では鍋を取り出すことは無理だったが、ルーカはその辺を引っ掻き回して、程なく長柄のひしゃくを見つけ出した。手を伸ばして蓋をとると、ふわっといい香りが広がった。ジャガイモ、カブ、長菜などをたっぷり煮込んだシチューの香りが、アイミネアの空腹を刺激する。
「すごいすごい、ルーカ!」
「しぃっ! 今よそってあげるから、待って」
椀に盛られたシチューは冷めてはいたが、まだぬくもりの余韻を残していた。ねっとりしていて、煮込まれたジャガイモがとけ崩れそうになっていて、アイミネアは差し出されたスプーンには見向きもしなかった。
「お行儀が悪いねえ」
ルーカのあきれ声にも、反応する暇がない。空腹が満たされていく幸せな刺激に、大げさではなく涙がにじみそうになった。
椀をすぐに空にしてしまうと、自然にため息が漏れる。
「舐めないでね、頼むから」
ルーカが言いつつ、アイミネアから椀をひったくった。失敬な、と怒る気にもなれない。ルーカが再び立ち上がって、別の大籠に向かっていたからだ。
「ひとつの鍋からあんまり取ったら、ばれるでしょ」
言いつつどんどん中身――今度はにんじんだった――をつかみ出している。ようやく要領の飲み込めてきたアイミネアは、もうひとつの手かごをもって、そのにんじんを受け取った。
二人はそうして、次々と籠を暴いていった。にんじんの大かごには、煮物が入っていた。次の箱の中には、練られた練り粉がひと塊ずつ濡れ布巾に包まれてある。その次の籠の中には、なんと、ジャムがたっぷり詰まった焼き菓子が入っていた。アイミネアの大好物である。彼女はここぞとばかりに、そのべとべとする菓子を三つも食べた。普段なら一週間に一度食べられればいいほうなのだ。数が減って怪しまれてもいいからもっと食べたい。そう願うあまり、ルーカの目を盗んで、後二つ掴み取ってそ知らぬふりをしてみたりする。
「もうちょっと上手くやりなよ」
くすくす笑って、ルーカは、菓子紙を二枚出した。ひとつずつ上手に包んで、ポケットに入れてくれる。
ポケットに菓子が二つ入っていると思うだけで、顔がほころぶほどに嬉しくなってしまう。
べとべとになった両手をどうしようかと思いつつルーカを見ると、彼女はつまみ食いする傍ら、バスケットの中に、食べ物を手際よく詰めていた。その手つきはとても鮮やかで、そして正確だった。ガートルードの指先もちょうどこんな風だった、とその指先に見とれながら、ルーカがこちらを見ていないのをいいことに、手についたジャムは舐めることにする。
「お子様か、あんたは」
ルーカはすぐに気づいて、苦笑した。アイミネアは構わない。こんなに美味しいジャムをふき取って捨ててしまうなど、想像するだけで胸が痛む。
「そこに手桶があるから、布巾をぬらして手を拭いて。水音させないでね」
「はぁい」
素直に指示に従いながら、アイミネアはうきうきと呟いた。
「ルーカって、すごいねえ」
それは心底からの呟きだった。アイミネアは感心しきっていた。ルーカへの反感もすっかり消えうせている。もし逃げていたのが自分ひとりだったら、空腹に耐えかねて投降したかもしれない、などと冗談ではなく考える。
「アイナだって、伝令隊の仕事してるときは、すごいと思うよ。これはあたしの仕事だからね、いろいろ知ってるのは当たり前」
何気ない口調で言いながら、バスケットに布をかける。それで完成だった。手をきれいにしたアイミネアと二人で、大籠の中に元通り、今出したものをしまっていく。数分後、厨房は見かけ上は、元の秩序を取り戻した。
「……もう、いいかな?」
ルーカに訊ねられ、アイミネアは勢いよくうなずいた。満腹とはいえなかったが、充分幸せだった。
* * *
二人は、来たときとは打って変わった幸せな気分で、貯蔵庫を後にしよう……と、した。
先にたったルーカが今にも、廊下に足を踏み出そうとしたときである。
こつこつと、音が聞こえてきた。どうやら二人分の足音らしい。
「……ルーカ」
吐く息だけで囁くと、ルーカはすぐに合点したようだった。即座に廊下から足を引っ込め、足を忍ばせて、部屋の一番奥に戻る。とりあえず入り口から一番遠い場所、大籠がたくさんある辺りに身を潜めた。アイミネアは台や垂れ下がった布の間に上手くもぐりこめたが、体の大きなルーカはそうは行かない。比較的上の開いた机の下という彼女の隠れ場所は、はなはだ心もとない。アイミネアはずっと羽織ったままだったカーテンをはずして、ルーカに手渡した。ルーカがそれをかぶると、暗闇の中では、机の下に布をかぶせた籠が置いてあるように見えなくもないだろう。動きさえしなければ。
ドキドキと心臓が脈打っている。
アイミネアは、食べている間、今が危険な状態だということをすっかり忘れていたことに気づいた。
伝令隊の精鋭と呼ばれたアイミネアにしては、不覚だと言わねばならない。
――泣く子と美味しい食べ物には勝てないのよね……
自分に言い訳をしつつ、彼女は隠れ場所からそっと頭をもたげ、近寄ってくる者たちの音をよく聞き取ろうとした。大きく息を吸い、そして吐き出す。自分の心臓に、静まれ、と命じる。目を閉じて耳を澄ますと、果たして少しずつ、足音がよく聞こえるようになって来た。
「……つくづく思うよ。お前も大変だ、本当に」
ため息交じりに、一人が言うのが、意外にもはっきり聞こえてきた。あれは誰の声だろう。伝令隊の血が騒いで、アイミネアはもう少し、身を乗り出した。隠れひそんで、その優れた聴覚を活かして盗み聞くのは彼女の得意技だ。
「グーレンがああ言ってたのは、何もお前を馬鹿にしてるとかそういうことじゃないんだ。あんまり気にするなよ? あの人ここ一週間ばかり、始終こぼしてたんだ。『なぁんで地図作成隊に来ないんだ、俺がこきつかってやるつもりだったのに!』」
その人が上手にグーレンの口真似をしたので、ようやく、それが東軍地図作成隊のティトルスだということに気づいた。グーレンというのは地図作成隊の隊長である。荒くれと言ってもいいような気性の激しい男で、大酒を飲んで管を巻き、その酔態はひどく見苦しいことから、アイミネアはグーレンをそれほど好いてはいなかった。あまりそばに寄りたくない男のうちの一人である。三十も半ばを過ぎたいい大人がぐでんぐでんに酔っ払い、野卑な言葉を声高にがなる様はあまり褒められたものではなかった。アイミネアのみならず、若い娘はほとんど、グーレンのそばに近寄ろうとはしない。しかし、地図作成隊に属し、一度でも彼の指揮で働いたことがある者には、絶大な人気を誇っている。ガートルードも、今年はグーレンと離れてしまったことをとても残念がっていた。
「……」
ティトルスと一緒にいる誰かが、低い低い声で何か言った。あんまり静かな声だったので、何を言ったのかまではわからない。
「そうそう。それで飲むと泣くんだ。『なぁんで俺のとこに来ないんだかなあ、俺嫌われちまってんのかなあ、なあどう思うティトルス?』――違うって言っても聞かないんだよ。それが毎晩。めげたね、まったく」
ティトルスがこんなおどけた口調で話すのは珍しい。アイミネアは暗闇の中で、目を一杯に見開き、耳も同じくらい開けたらいいのにと思いながら待ちかまえていた。ティトルスは何とか、相手を元気付けようとしている。話の内容から察するに、さきほどその相手は、グーレンから何か辛辣なことを言われたらしいのだ。
ティトルスと誰かは厨房の前にたどりついたようで、廊下のすぐ外で足音が止まった。ルーカの言葉どおり、夜中に食料をあさろうとする者は、まず厨房を目指すものらしい。ひそやかなノックの音がした。応えがないのを待ってから、ぎぃぃ、と重々しい音を立てて扉が開かれる。
「明るいな。こんなところで本当に待ち合わせしてるのか、グスタフ?」
ティトルスの声が最後に聞こえ、
そして、扉が閉まった。
――グスタフだったんだ!
扉が閉まるや否や、アイミネアは隠れ場所からまろび出た。ルーカがぱっとカーテンをはねのけ、同じように机の下から出てくる。暗闇の中で、二人は顔を見合わせた。アイミネアが興奮しているのに対し、ルーカはなにやら懸念しているような、重苦しい顔つきをしていた。闇に慣れた目には、小さな窓から入る月明かりだけでも、それがよく見える。
「聞いた? 今の」
アイミネアは囁いた。何とかして扉の向こうの会話を聞きたくてたまらなかった。今の言葉からすると、グスタフは厨房で誰かと待ち合わせしていたらしい。誰と、なんて考えるまでもなかった。この時間、そしてこんな人目をはばかる――しかし例え誰かに見咎められても、たまたま食料を取りにきた風を装うことが容易な――場所で、会う相手なんて決まっている。
西軍に入り込んでいるスパイと連絡を取ってきた、伝令隊に決まっていた。
この役目は、できるだけ知られぬようにするのが常だった。言うまでもなく、こちら側にもいるはずのスパイを警戒するためである。
アイミネアも何度か、厨房でこそなかったものの、敵方にいるスパイと連絡を取る役目をしたことがある。そのときの経験から言っても、間違いないことと言えた。
「何とかして、むこうの話を聞けないかな? スパイが誰だかわかるかも――」
「言うと思った」
ルーカはため息をついた。
「あたしはすぐここから逃げたほうがいいと思うけど。でも言っても聞かないよね」
「う……」
アイミネアは一瞬だけ返答につまり、そしてうなずいた。
「うん。だって、すごいチャンスだと思わない? スパイが誰か突き止めて、なんとか西軍に伝えられたら、大手柄だよ」
「わかってるよ。さっき『目付』まで撒いちゃったのが悔やまれるね」
ルーカはため息混じりにそういって、もっていたカーテンをアイミネアに手渡した。そして南側の壁に歩いていき、壁際に押し付けられていた台の上から、伏せてあった中くらいの大きさの籠を取り除ける。伏せた籠の下から、木の椀をたくさん積み重ねたお盆が出てきた。そのお盆も邪魔にならぬ場所に注意深く運んで行ってから、綺麗になった台の上に覆いかぶさるようにして、壁に手を当てた。
どうするのだろうと見守っていると、ルーカは壁に当てた手に、ほんのわずかずつ力を込めた。
ほとんど音も立てず、壁が横にずれ、細い細い光が隙間の形に流れ込んできた。アイミネアは目を見開いた。暗くてわからなかったが、そこは厨房と貯蔵庫をつなぐ、人がやっと通れるくらいの狭い窓になっていたのだ。
後になってルーカが説明してくれたことによると、大量の料理を作る際、厨房は蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。いちいち扉を潜り抜けて食料を運ぶ手間を省くために、貯蔵庫に人を一人置いて、必要な食材を手渡してもらうための窓なのだそうだ。
指一本が通るくらいに隙間が開いたとき、ティトルスの声が聞こえてきて、二人はぎくりと身をこわばらせた。グスタフとティトルスは、思ったよりも近くにいたらしい。
「……遅いな。つかまったりしてないよな?」