第二日目 0節(エストール)
エストールは、体の震えをとめることが出来なかった。
恐怖ではなかった。彼の脳はもはや何も感じてはいなかった。否、感じることが出来なかった。全ての感情は完全に麻痺して、怒りも、悲しみも、既に彼を遠く離れている。
しかし、体の震えだけは、どうしても止められない。
木々の根もと、藪の中に身を潜めて、彼はいつまでも震えていた。
出来ることなら、声の限りにわめきたてて、広場に躍り出ていきたかった。しかしそれはできない。彼にはやらなければならないことがあるからだ。どこかで生き延びているかもしれない、愛する故郷の人々を、何とかこの地獄から、救い出さなければならなかった。
生き延びているかどうかも、わからないというのに。
彼を縛っているのは、銀狼が最後に言った言葉。
『死ぬな』
銀狼は別れ際に、そう言った。それは懇願ではない。命令だった。傷ついたエストールの体を乗せて疾駆していたあの偉大な獣は、このやぶの中にエストールを隠し、断固とした口調で命令したのだ。死ぬな。生き延びろ。どんな境遇に陥ろうとも。
信頼、だったのだろうか。
エストールなら、例えどんなに敵に囲まれても、逃げ出して、生き残りのもとへたどりつき、彼らを導いてこの場を離れることが出来るだろう、と……銀狼は、信頼してくれたのだろうか。
「あ……」
エストールの口から、抑え切れないうめき声が漏れた。
目の前の広場で、殺戮は続いていた。
銀狼はまだ、そこにいた。美しい銀色の絹のようだった彼の毛皮は、敵の、そして自らの血に染まっていた。左の前足が既に、ない。それでも銀狼は立っていた。しかし百人を超えるような敵が彼を覆いつくし、倒しても倒してもきりがなく、銀狼に襲い掛かっている。彼の姿は人垣に覆い尽くされて、ほとんど見えないくらいだ。どんなに銀狼が強くても、どうしようもなかった。
エストールは、どす黒い血に染まった銀狼の右足が、宙に飛んだのを、見た。
「あなたなしで……これからの地獄を生きよというのですか」
彼はその光景を見据えつつ、うめいた。
「生き残りなんて、どこにもいないかもしれないのに。見つけるものは、八つ裂きになった無残な死体ばかりかもしれないのに。あなたとともに死ねといわれたほうが、どんなによかったか……」
目をそらしたくても、そらすことは出来ない。
銀狼を覆っている人垣が、少しずつ倒れていく。
少しずつ、銀狼の姿が見えるようになっていく。
屍で、小高い丘が出来ている。おぞましいのは、丘を作り上げている人間たちが、完全には死に絶えていないということだった。うめき声が辺りに満ちている。もがくように上げられて、宙を掻いている血に染まった腕。びくびくと痙攣している体。その体を覆っている鎧の残骸が、痙攣に合わせてかちかちと音を立てている。
どうしてこう何もかもが、よく見えてしまうのだろう。
屍の丘の上で、銀狼はまだ立っていた。たった二本の足だけで。下あごを切られたらしく、舌がだらりと垂れ下がっている。よろめくようにしながらも、銀狼は果敢に人垣を切り開き、少しでも、エストールのいるこの場所から、離れようと動いていく。
「なぜ……」
自分でも気づかぬうちに、頬がぬれていた。口の中に液体が流れ込んでくる。血なのか、涙なのか、自分でもわからない。
「なぜ。乙女を助け出したときに、この地を離れなかったのですか……」
少しずつ遠ざかっていく人垣を追いかけたい気持ちを押さえつけて、エストールは一人呟き続ける。
誓約は、乙女を助け出すまでだったのに。
乙女を助け出した時点で、二人、どこか遠くへ去っていくことも出来たのに。
未だにあなたは戦っている。――何故?
人垣は少しずつ、移動して行った。
その人垣が通り過ぎて行った後には、累々と、鎧を着た屍の流れが出来ている。赤く、白く、黒い……どろどろの川のように。
エストールは食い入るように、それを見つめ続けた。
涙か血かで、目がかすんでも、見つめ続けた。