第一日目 6節 「業務連絡」(???)
彼は、夜気の中にそっとすべり出た。
あくまでも用を足しにいく風を装って、小屋の戸をそっと閉める。ギルファスはよく眠っていた。それは間違いない。昼間にあれだけの大活躍をしたのだから、当然だった。小屋の中の若者たちは、皆泥のように眠りこけている。
重苦しい気分で歩きながら、彼は鉢巻をはずした。白い鉢巻の裏側には、細いがくっきりと青い、糸が縫いこまれている。
どうしてスパイなんかに選ばれてしまったのだろう。
地面に沈み込みそうな気持ちで、ため息をつく。
でも、やらなければならない。これは『宴』なのだから。ゲームなのだから。
媛の交換よりももっとひどい設定だ、と、スパイになってみて彼ははじめて気づいた。やりたくない。裏切りたくはない。ギルファスは、彼がスパイだなんて、思いも寄らないだろう。彼がスパイだったと発覚したとき、ギルファスはどんな顔をするだろう?
「――来たわね」
木立の中から声がした。彼女は東軍の、伝令隊の一人だった。夜陰に乗じてここまで忍んでくるのだから、大したものだと彼は思う。
「明日の策は?」
単刀直入に聞いてくる。彼の方としても、長居をするつもりはない。淡々と、囁く。
「川から攻めるつもりらしい。銀狼隊がそこにいくことになるかどうかはわからない。同時に北側の廃墟の裏を通る部隊も。人数まではわからなかった」
「そう。……で、銀狼の体調は?」
彼はぎくりとした。
触れられなければ、黙っていられたのに。
青く膨れ上がった、ギルファスの左腕を思い出す。折れてはいないという話だった。しかしあの腕では、これから二日間、かなりの不便を強いられるに違いない。黙っていたかった。それを告げるということは、ギルファスへの攻撃が今以上に熾烈になるということ。西軍の情報を流すよりも、もっとひどい裏切り行為であるように、思えた。
しかし、この情報が、東軍にとってどれほどの価値があるか……
「……体調は、悪くないの?」
畳み掛けるように囁かれて、彼は決心した。
スパイという役目を押し付けられたときに、長老に言われている。自分の命よりも大事なものを、助け出すためだと思いなさい、と。
「左腕を」
搾り出すように、彼は呟いた。
「左腕に打撲がある。折れているかもしれない」
「あら」
伝令隊の少女は、一瞬だけ『敵』の仮面をはずした。とても心配そうにゆがめられた顔が、月明かりに浮かび上がった。『宴』が終われば、彼女もギルファスの、よき友人なのである。
「左腕を痛めたようだ、とは聞いていたけど、そんなに悪かったの……」
「知ってたのか」
呟くと、少女はあでやかに笑った。
「怒ったの? 知ったのはついさっき、森の中を歩いてくる途中だった。黙っていて悪かったわ。でも何とかして確かめてくれって、グスタフに言われていたものだから」
「グスタフに?」
「そう、だって、銀狼隊に配属されるような人物に、スパイの籤が当たるのはめったにないことだから。もしかしたら、スパイの役目を捨ててでも、銀狼を守るかもしれないじゃない?」
「……」
下を向いて唇をかみ締めた彼の手を、少女の柔らかな掌が包んだ。
「あなたの情報をどこまで信用していいか、わからなかったんだもの。……正直に話してくれていたのね。ありがとう。もう疑わないわ、誰も」
伝令隊の少女は、膨らみかけた二つの月に照らされて、怖いほどに綺麗だった。
なんて厭な役目だろう――
彼は重い重い吐息を漏らした。スパイも、そして、それを使う参謀という立場も。
グスタフとギルファスは、普段はあんなに仲がいいのに。
「また明日の夜、会いに来るわ。元気出してね」
そんなことを言って、ひらひらと手を振り、足早に遠ざかっていく。
帰る途中で、彼女が西軍に見つかって、捕らえられればいいのに。
そしたら、俺の流した情報が、グスタフに伝わることもないのに。
グスタフ。あいつは、俺が流した情報を、どのように使うのだろう。
「今日の作戦とか見てたら……俺なんかいなくたっていいじゃないか」
小屋の方に戻りながら、彼はこの夜何度目かの、重い重いため息をついた。
短いので本日2話投稿しています。