第一日目 0節(エストール)
小屋の中には甘い香りが立ち込めている。
葡萄の匂いだ。
甘くて甘くて、少し酸味を感じさせる香り。葡萄酒をつくるために育てられた葡萄は熟しきっているから、嗅ぐだけでいい気持ちになれそうな、うっとりするような匂いを放っている。
老人は小屋の真ん中に積み上げられた、果実の山の前に座っていた。つやつやした深紫の葡萄の山は、少しいびつな形をしている。小さな手が次々に山にのばされ、一房ずつ山を崩していくのだ。
子供たちは山をぐるりと取り囲むように座っていて、葡萄を一房手にとっては、枝から外し、汚れを拭い、自分の籠に入れる、という作業を続けている。少し大きい子供たちは収穫の方に回されるから、ここにいるのはほんの小さな子供ばかりだ。
老人は目を細めて、幼い子供たちを見回した。
この子たちが今ここで、彼の周りで、仕事をしている。そのことは老人にとっては奇蹟のように思えた。みんな、生きている。生きて、動いている。
今でも、夢に見るのだ。親しい人たちの屍が累々と横たわるさまを。その中を、足を引きずりながら、生きている人を探して彷徨う自分の姿を。小さな子供を守るように、女性が倒れて死んでいる。子供が生きているかもしれないと、かすかな希望が彼をさいなみ、女性の体を引き剥がす。その下から出てきた子供の目は見開かれていて、首があらぬ方向に曲がっていて、空ろな目が彼を射抜く――
忘れられない過去、忘れられない記憶。彼らの屍の上に、今自分は生きている。幽霊が怖くなくなったのはあの時からだ。幽霊でいいから出てきて欲しいと、痛いほどに祈った。生き残っているのは自分だけなのではないかと思ったときの、あの、絶望。
しかし、あれは過去の話だ。
今は、違うのだ。
子供たちに囲まれていると、あの情景は既に過去のものなのだと確認することができる。
「おじいちゃん?」
彼のそばで、幼い声が上がった。
小さな小さな少女が、葡萄を拭く手を休めて、老人を見上げている。
老人はほっと息をつき、そして微笑んだ。
「なんだい、アイナ?」
「お話、して?」
小さなアイミネアの声に、周りの子供たちがいっせいに顔を上げる。どの顔も期待できらきら輝いている。老人は、みんなの顔を見回して、言った。
「今日は何にしようか?」
「銀狼の話!」
一番に声を上げたのはギルファスだった。人並はずれて体の小さい、でも人並はずれて元気な少年だ。老人はにっこりした。
「お前は銀狼が好きだなあ」
「僕も好きだよ!」
「僕も!」
少年たちが次々に声を上げる。老人はその一人一人に微笑んで、そうさな、と呟いた。
「そうさなあ、わたしも、銀狼が好きだよ。彼は巨大で偉大だった。優しくて、強くて、誇り高かった。体がとても大きくてな、体を覆う毛がふさふさしていてな」
「触ったの、おじいちゃん?」
ルーディが声を上げる。老人は微笑んだ。これは儀式のようなものだ。子供たちは、老人が銀狼に触れたことがあるのを知っている。でも老人の話を深めるために、誰かが必ず聞く。そして老人も必ず答える。にっこりして、少し自慢げに。
「ああ、触った。すべすべしてふさふさして、見事に銀色で。純銀で作られてるみたいなのに、温かくて、決してくすまないんだ。それどころかわたしは、銀狼の背に乗せてもらったこともあるんだぞ」
「いいなあ……」
誰かがうっとりした声を上げる。老人は、仕事の手を休めないようにと注意してから、ゆっくりと、口を開いた。
「五十年前。この国は『草原の宝石』と呼ばれた、小さいが豊かで美しい国だった。一人の乙女と、一頭の銀狼が、旅の途中でこの国に立ち寄った。乙女は可憐で優しく、銀狼は偉大で勇壮だった。二人はこの国にとどまり、かのガルシア国が侵略してきたときも、最後まで踏みとどまって我々のために戦ってくれた。
お前たち、忘れちゃいけないよ。ミンスターの民は、誇り高い民なんだ。何せ、銀狼と、あの奇跡のような娘の流した血を受けて、こうして生きているのだから……」
老人は小屋の中の甘い香りを吸い込んで、かつて何度も何度も話した物語を、また今日も紡ぎ始めた。
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