三の①
三
やっぱり先生は、大したことが無い。見栄えがしない。何の偉大な賞も纏っていないし、資格も掲げてはいない。くすぶっているようにしか見えない。けれども、山本くんは今日も森へ行く。先生は人に褒められるような存在ではないけれど、山本くんは彼を立派だと思っている。どこがどういう風に立派だと聞かれると、困る。先に述べた通り、やはり見た目にちっとも威は無いのである。目に見えないから、説明し難い。
だが、今日も前二日間とは別の客がこの森の中の小屋を訪れている。このことから考えても、きっと先生には、何かしら不思議な魅力があるのだ。
「ねえ、社会って、厳しいですね」
「うん? そんなことは無いさ」
今日の客は女性で、スーツを着ている。先生と彼女は、既に外に出て、暖かな午後の空気を味わっている。
「そんなことは無いって?」
「そもそも、社会ってのは、誰だか分からんじゃないか。分からんものを厳しいなんておかしなことだ」
「……先生、まともな仕事、したことあります?」
「まともな仕事ってのは何だ」
客は呆れ気味で、先生から目をそらす。
「ああ、先生が羨ましいなあ」
「おい、珍しいな。山本くん! この方は、僕のことが羨ましいって」
「ええ! そんな、こんな無精髭を生やしたおじさんのどこがいいんでしょう」
「本当に、アハハハ」
先生は気持ち良さそうに笑った。
「先生、やっぱり良いなあ」
「うん、君。僕をそんなに褒めるあたり、重大な病気に違いない。何があったか、話してみて」
先生はここに来て初めて、客を患者として認める。女性客は、一、二歩前に歩み出しながら、語り出す。
「私、社会には不必要な人間なんですって! 『君みたいに無能な人間は要らない』って、はっきり言われちゃいました。ほんと、私もそう思います。だって、仕事は遅いし、碌に業務もこなさないし、人間関係さえうまく構築できない」
「僕にはどれも、大した問題では無いように聞こえる」
「ええ! そうでしょうとも。先生は、ここでずっとのんびり暮らしていればいいんですから。——社会に受けいれられないことがどれだけ厳しい事か、先生には分かりっこ無い」
「何だ、くだらない。社会とは何様だ。殿様か?」
「――世の中です」
「世の中? それは、随分横暴だ。世の中は、ちゃんと、今君の眼前に広がっているじゃないか」
「そうじゃなくて……分からないなら、良いですよ、もう」
「ふむ」
先生も、もう良いと言われては黙るしか無い。ただ、一思いに消化できぬ憤りを抱えている。側で聞いていた山本くんは、口を真一文字に結んでいる。
先生は、「不愉快だ!」と一つ怒鳴って、小屋に籠ってしまった。残された客は、暫く目の前を眺めている。
山本くんが近づいて、「大丈夫ですか」と声かける。
「ええ。……私、先生の気分まで悪くしちゃった。ほんと、つくづく駄目ね」
「そんなことありませんよ。虐げられる人に限って、将来成功を収めるものです」
「ふうん。あなた、まだ若いのに、私を慰めようとしてくれるわけ? 今は辛くても我慢しろって? うんざりよ。正直」
客は、深いため息をついた。山本くんは暫く間を置いて、また話しかける。
「先生って、子どもみたいでしょ? ちょっと不機嫌になったくらいで、すぐああやってすねる。先生って、全然尊敬できる人じゃないんですよ。それこそ、たぶん『無能な人間』なんですよね」
客は黙って聞いている。
「それでも――何だろうなあ、おかしな魅力があるんですよ、先生には。褒めてるんじゃないんですよ? 僕だって、そんな善い人間じゃありませんから。僕、他人の悪口言うの大好きなんですよ」
客は思わず山本くんの方に向かって、その無邪気な笑顔を見つける。
「あと、人の失敗が好きだし、素直じゃないし――でも、先生を貶したことはありませんよ。と言うか、貶す気も起きませんし」
客はようやく、ちょっと微笑む。
「私も。先生って、ほんとおかしな人。ーーあなたもね」
「僕もですかあ?」
山本くんは不本意である。客は今度、声を出して笑った。
「きっとあなたは悪い人じゃないよ。本当に悪いのは――そう、本当に悪いのは私を散々罵倒した上司。そうだ、何だかすっきりしちゃった。私が屑ってなら、あいつの方がよっぽど屑じゃん」
「僕は最初からそう思ってましたけど」
「そっか」
客はしゃがみ込み、人差し指を池の水際にちゃぽんと入れた。山本くんもそれに寄って、そっと浸けてみた。
「冷たい、ですね」
「そうね」
「魚、食いつきますかね」
「まさか。私は、釣りをしようと思ったわけじゃないのよ? ただ――」
「ただ?」
「――世の中を知ってみたくなった」
「広いですからね、世の中は」
山本くんは何の気無しに発言している。客の女性は――ちょっと愉快な気分だ。
「ありがとう、すっきりしたわ。高いお金を払うだけの事はあるわね」
「払わなくたっていいんですよ? 先生が勝手に言うんですから」
「いいえ。払うわ、寄付を、ね」
「……そうですか」
山本くんは、ちょっと思案する。
「何だかね、世間の渦中にいると、お金の問題ってすっごく泥々してるの。善も悪も関係なくて、皆お金の話となると急にピンと張り詰めて——特に社会人はそうね。お金に凄く敏感」
「分かりますよ。僕だって、普段は街の大学に通ってるんですから」
「あら、そうなの。てっきりここで先生と住んでるのかと思った。——うん、じゃあ、分かるわよね。世間にいたらそうなのだけれど、ここに来ると、そのお金さえ大したものではないように思えてくる。凄く気持ちが良いわ、しがらみが消えて」
「身軽になったって?」
客は、ふんと鼻を鳴らした。
「私、もう頑張りたくないわ。でも……ちょっと喋り過ぎね」
「僕もそう思います」
「あら、」
客は一本取られたと思う。すっくと立ち上がると、「そろそろ帰るわ」と告げた。山本くんは、彼女の後ろ姿を見送る。身軽だった彼女は、一歩街に引き返すたび、だんだん重たくなくなっていく。枷をつけられて、足取りが鈍り、圧されて潰れそうになる。それでも、彼女は戻らなくてはならない。生き抜く為に、戻らなくてはならない。山本くんは、唇の端を緩く噛んだ。