二の①
二
第一、先生は患者を患者だと思っていない。心を痛めている? 気を病んでいる? 先生には、何のことだか分からない。
第二、よって、先生は相談者を救おうなどとは考えない。救うも何も、良くなるも悪くなるも判別つかない。相談者が自ら死のうと言うなら、それでも一向に構わない。生きると言うのでも、きっと、君の自由だと告げるのみであろう。
第三、先生は社会的立場を欲しない。何故なら、彼は彼で十分自立し、十分有意義な人間だと自覚しているからである。明日死のうが、それでも良いと思っている。百まで生き長らえるなら、それだけ暇を持て余すつもりでいる。何故そう悠長なのかと言えば、先生は後にも先にも、既に充実感で満たされているのである。
どうして先生はこんなに幸せそうなのだろう。山本君などは、何度もこれを考察した。が、なかなか納得のいく答えは出ない。だから今日も、山本君は先生の元を訪れる。
先生は既に、この日の客の相手をしている。客は色白の青年で、不健康に痩せこけている。
「私は幻覚を見るんです」と青年は口を開いた。
「幻覚を見る人は多いよ」
「でも、私は幻覚を幻覚だって分かるんですよ。あっ、これは幻覚なんだなって、静観している自分がいつもいるんです」
「へえ」
「医者に行っても、信じてもらえませんでした。そんなわけあるかって」
「僕は実際どうかよく分からない」
「私が、あなたの奥に今人影を見ていると言ったら、信じてくれます?」
先生はちょっと肩越しに振り向く。
「……見るものは人によって違うからね」
青年は軽く頷いた。
「じゃあ、信じてくれるんですね——あっ、あなたの左肩に、奇妙な青い蛾が……」
先生はいちいち確認しない。苦々しい顔をして、真っ白の紙に目線を落としている。
「一度外に出てみてごらん」
「外には猛獣がいる。ずっと私たちを見張ってます」
「いいから、どうせそれも幻覚だ」
「……それもそうですね」
やり取りを一線隔して見ていた山本くんは、客の方が何だか狂気染みていて怖いと思う。それを平然と相手にする先生には、やはり感嘆せざるを得ない。
森の空気に触れた二人は、誘われるがまま湖畔へ足を運ぶ。今日も昨日に続き、気持ちの良い晴天である。木の立ち姿を鮮やかに映した水面を見ると、客は忙しなく自身の足元の周辺を探し始めた。先生はちょっとその様子を一瞥しただけで、後は全然気にかけない。山本くんばかりが、その所作を大いに注意する。すると、客は徐にしゃがみこみ、腕を伸ばして地面に落ちていたものをつまみ上げた。石だ。一センチ程度の小石である。これを客は、思い切り池に投げ込んだ。微かに、ぽちゃんという音。
「ねえ」
客が先生に呼びかける。
「幻聴って物凄く辛いんですよ」
「だろうね」
「突然警報みたいにぐあんぐあんがなり立てたり、きいんと超音波みたいに締めつけてきたり、またどこかで低く、鈍い音が響いて、段々近づいてきたり——それから、人の話す声は、聞こえるはずが無いのに聞こえるから、恐ろしいんですよ。幻聴は幻だって分かるから——つまり、鳴り止みようが無いと分かるから、恐ろしいんです」
「……良くそこまで話してくれたね」
「幻聴が襲ってくるんじゃないかって思うと、話せなかった。でも、今は多分、大丈夫だって、思ったんです。——ああ、蝶々が飛んでる、これも幻覚ですか」
「いや、確からしい。ねえ! 山本くん」
「え?」
山本くんは唐突に呼ばれて、二人に接近する。
「ここに蝶々がいるよね」
「はい。とても、とても綺麗な紺色の蝶々です」
「うん。そして、とても不安定な存在だ」
「あなたもそう思いますか」
「君も?」
「はい。……じゃあ、これは、実在している」
客は蝶々を掴み取るようにしたが、それはすり抜けた。そして、高く、舞い上がっていった。