七の②
と、先生は、すとんとその場に座り込んでしまった。胡座をかいて、しかめっ面しながら、少年を見ている。少年もさすがに、この態度には気勢を削がれる。
「ほら、君もここに座れ。ナイフは持ってくるなよ」
先生は分かりやすく、通常の行動を少年に示してやるつもりだ。が、少年もためらう。何せ、彼は正義に身心の八割方既に食われていた。
「ほら、早くしろ」
少年がためらうと、先生は促す。促す事をやめぬ。少年が突如襲ってくることなど、微塵も考えていないらしい。と思うと、少年は一寸先の未来を脳裏に描く。もしこのまま突撃したとして、きっと先生は表情をいささかも変えず、それどころか「ナイフを捨ててから来い」と主張を同じ調子で繰り返すようだ。——こうなると、妥協せざるを得まい。この場合妥協しても、まだ正義は生きる。
少年は正義の枝にしっかりしがみついていたのが、先生に呼ばれて宙ぶらりんとなったせいで、中途半端な存在となる。ナイフを捨てるでも捨てないでもなく、先生に寄るとも寄らないとも分からない。——少年は、ナイフを懐に仕舞い、先生から、二メートル程離れた距離に立った。
「おい、そのナイフはお守りか」
先生が胡座をかきながら少年に向かって呼びかける。少年はちょっとよろめく。
「うるせえ」
「何だ、昨日とは打って変わって、私にタメ口か」
「敬語で話す必要なんて無いだろ」
「……まあ良い」
先生も譲れる所は譲ってやる。ただ、譲れない所は殺されても譲れない。先生にも、正義がある。人と人とはいつも、この正義と、また別の正義との根比べである。
「さあ、座れ」
「命令すんな」
「座れ」
「だから、」
少年は座る。
「いいか? 僕は今から君に説教垂れるつもりは無いが、今し方君がどれだけの悪事を働いたか教えてやろうと思う。まず一つ、何も言わんのに思い任せに僕の小屋を蹴った。僕はこれが冒涜だとか名誉毀損だとかつまらんことは言わない。ただし、僕はこの小屋が好きなのだ。小屋にぞっこんなのだよ。だから、怒る。いや、怒った。すると、君は逆上して、自身の弱さを補う為の刃物を突きつけた。見苦しい。見苦しいが、やっぱりこの場合も僕は君の体裁に文句を言うんじゃない。その後、僕をその刃物で脅しておいて小屋を傷つけた。愛するものが傷つけられるのだ、良いか、命を思い切ってでも君を止めようとしたのが分かると思う」
少年はある先生の言葉に腹を立て、ある言葉に驚き、ある言葉に拍子抜けする。段々、正義は解されていく。
少年の正義は、少年を怪物たらしめるのに対し、先生の正義は先生を先生たらしめている。すなわち、少年を正そうというのでもなく、単に先生が先生を貫く上で、少年が少年を思い起こすのである。
先生は、要約して、簡潔に言いたいこと、を全て話し終えたらしい。
「分かったらもう良い」と少年を解放した。胡座を崩して立ち上がり、ズボンについた土を払う。少年はぽかんと見上げているが、何か言い返さなければならぬと思ったと見えて「分かんねえよ」と発した。少年は依然懐にあるナイフの存在を、この時既に忘却していた。
先生は少年にもう構わず、愛していると言う小屋をちょっと撫でてやって中へ消えた。少年は呆然と見送る。