五の④
相変わらず鳥があちこちで鳴いている。近頃は、風も強くなった。冷たい風が吹き抜けて、山本くんの前髪を揺らす。山本くんの髪は、素直で艶があるから、少々のことでは荒れない。途中から走り出して、先生の小屋へと駆け込む。
「先生!」
先生はいない。小屋の中は入口から全体が見渡せるが、どこにも見当たらない。焦った山本くんは、外へ出て、周囲をぐるりと見回してみる。さすがの山本くんの髪の毛も、タチの悪いものが五、六本立つ。
「先生ー!」と呼びながら、森を捜索する。あんまり遠くへ来過ぎると、小屋が見えなくなって迷ってしまう。こんな茂みの中に先生が隠れているとは思えない。山本くんには、どの木も同じに見えて、同じ木がどこにも伸びているので、やはり、踏み出す度迷い込んでいく。
とうとう、小屋がどちらだか分からなくなった。みるみるうちに緊張する。ずっと真っ直ぐに来たわけだから、くるりと振り返って元を辿れば良いと考える。——信じて行くが、先が現れない。ずっと景色は一様である。風が、汗粒の浮かんだ山本くんの体を冷やして抜けていく。——水流の音を聞く。
川だと思って、木々を抜けようと試みる。一刻も早く、この森の景色を覆したい。……ようやく出た。
後は、流れに沿って下っていけば、どうにか街には出られるはずだ。とんでもない目に遭った。更に、不幸中の幸い、山本くんはその中途で、水際にいて石を投げている先生と出くわした。
「先生!」
先生は、白衣を腕まくりして、鋭く腕を滑らせた。しなりのきいた指先から放たれた小石は、一回二回……と跳ねて、段々小刻みになって、一思いに消えた。そこは、幅の広くなった、川の湾曲地点である。
「やあ、こんな所まで追いかけてくるとは」
「偶然ですよ! 僕、迷子になるところだったんですから」
「ふむ。森は本来、都市に住む人間の立ち入るべき場所では無い」
先生は懲りずに、また石を投げ込んだ。山本くんは暫く、呆然とその運動を眺めていた。が、突如思い出して、先生に語りかける。
「先生! 先生、うちの大学の人に、酷いことを言われたでしょう?」
「酷いこと? ——ああ。酷くはなかろう。彼の言ったことは全くの正論だ」
「でも、先生は……」
「僕はちっとも気にしてないよ」
「でも、」
「何、少し考えていたのさ」
先生は、炯眼を発揮して、山本くんの一手先を読む。
「山本くん、僕はね、お客さんが死んでも構わないと言ったね」
「……はい」
「けれども、死んだら……そうか、死んだか、とは思うさ」
山本くんは先生の微妙な表現に戸惑う。
「僕はね、他人の死ぬほど辛い気持ちってのを理解したいとは思わないし、理解できるとも思っていない。何か専門的な知識を勉強して、そのどうにもできないものを解決してやる術が得られるとも思わない」
山本くんは段々耳を塞ぎたくなった。——大いに納得してしまうのである。先生の魅力も何もかも、説明されてやっとその正体が見えるのである。そのことが、堪らなく嫌だ。先生は、どうしても曖昧でなくてはならない。どっしりと小屋に居座って、つまらぬ徒事に没頭していなくてはならない。そうでなければ、先生は、ただの弱者である。世を避け森に籠る、一凡人である。そうじゃない。先生は堂々と、世の中など我関せず、心を痛めた者を気まぐれに相手して、はかりごとの無い仕事を至って真面目にこなす、超然とした人でなくてはならない。
先生はまだ続ける。
「けれども、彼らと話をするのは楽しいことが多いのだ。彼らは、人というものをはっきりと見据えている。僕は楽しいから話をするのだ、彼らをどうにか組み立て直してみようと思って迎えているわけじゃない」
先生はまたキレのある動きで、石を滑らす。いつ体得した技か知らん。山本くんは、これ以上先生が真剣な話をしないようにと思って、その動作を目で追った。
指先から放たれた石がいちいち跳ねるのに合わせて、首を微かに上下動させる。先生が不意に、「良し」と小さく呟いた。
「何がですか」
「とにかく、良いのだ」
先生は腕まくりを直して、山本くんがやってきた方へと戻って行く。ずっと無言である。山本くんが後から付いて、どうやら助かったと思う途端、先生は言い放った。
「山本くん。誰が通常で、異常なのだろう」