一の①
一
小屋がある。
小屋は赤い屋根を斜に垂らしている。壁はクリームに塗られて、ところどころネジの頭が覗いている。一つ入口が付いているから、この戸をコンコンと叩く。
小鳥が鳴いている。側の池で、チャポンと何かが跳ねた。後は、森の音がする。『森の音』と言うのは、その呼吸である。その只中で、ノックの音は軽快に鳴った。
叩くと、人が中から現れる。その人は、医者のように白衣を着ている。無愛想に中へ招き入れてくれる。進入すると、木材の匂いがぷんぷん漂ってくる。住人は、客を誘って、向かい合い席に着く。二人は話をする。
「私は近頃、幻覚を見ます」
「へえ、」
「……」
「どんな?」
「どんな……」
「お化けを見たり、するのかな?」
「いいえ。誰かが私を悪く言っているのです。それから、不気味に笑いかけてくるものが——」
「笑うもの……」
「ええ。何も人に限りません、壁だって、植木だって、ぬいぐるみだって、決まって私を小馬鹿にしたように笑うんです。……けれども、あなたはちっとも笑いませんね」
「ここに来るまでに、君を笑うものがあったかい?」
「……いいえ」
「それじゃあ、もう構わない。解決だ」
住人は白衣を着ているだけで、手持ち無沙汰である。
「悪口を言われるのは……我慢ならんのですが」
「我慢ならないなら、我慢しなきゃ良い。一遍ガツンと言い返してやりたまえ。てめえらは俺のことばかり言うが、貴様はどうなのだ、とでも」
「先生、それはさすがに……」
「何、何か都合悪いか」
「……いえ。でも、私はやはり、悪口を言われても仕方の無いような人間で……」
「知るか、そんなこと。不愉快なら言い返せば良い。気持ちが良いなら甘んじれば良い。それだけの話だ」
「はあ」
「良し、解決だ」
住人はとかく解決したがる。客は呆気にとられている。
カタカタと何か、風を受けて鳴る。客はぐるりと小屋中見回してみる。一通り生活に必要なものが揃っている。はてと、住人を認める。彼は俯いている。膝に手を置きながら、何を考えこむとも無く、俯いている。——客はふうっと息を吐く。こんな風に長いため息をついたのは、久しぶりのことだった。小屋の住人は、「他に話は?」と尋ねる。
「そうですね……何だかここに来ると、ほっとして何もかも忘れてしまう。話したいことなんて、無かったはずで、けれども話さなければならんことはたくさんあったのですが——何だか忘れてしまった」
「そうか」
住人は短く切ったきりである。後は、客を熱心に相手するでも追い出すでも無く、屋内をうろちょろして、遂には外へ飛び出した。客の方は暫くそこに居座って、すうはあと呼吸をしている。
住人は池の淵に腰を下ろした。正午近くの日が照って、水面が的皪と輝いている。その景観は、彼をみずみずしい気分に浸らせる。だから、飽きずにずっと座っている。
そこへ、客が寄ってくる。鳥がまた鳴いて、風がまた葉を揺らして、水面が段々に波打って、客は拍子に尻餅をつく。
「死にたいと思いました」
「へえ、」
「けれども、ここには生命が溢れている——誰も死ぬなんて、微塵も考えてないみたいだ」
また小鳥が鳴く。それも一匹でない。複数で、鳴き声を響かせ合って、枝を蹴り飛び立つ。一間先の枝に乗る。ぴよぴよと語る。
住人は暫く黙っていたが、ふと「死にたいなら死ねば良い」と漏らした。客は目を丸くする。
「そうですか」
客が嘆声しても、住人は目を細め、昼の日に照り返る水面を見つめている。
「ここには生命が溢れていると言いましたよね」
「うん」
「街には、こんなに生命は居ない」
「あるだろう」
「それが、無いんですよ。皆、死んでいるのと同じだ」
「それでもあるはずだ」
「強情ですね。無いと言ってるでしょう」
「いや、僕は生きている人間を——街に住んでいる人間の中に、少なくとも一人は知っているのだ。彼は僕の代わりに食料を街に調達しに行ってくれるし、街の学校に通っている。だから、街の人間と言って、差し支えなかろう。彼の瞳は、いつも萌え上がらんばかりに輝いている。ちょうどこの池のように」
「へえ、会ってみたいものです」
「もう会っているかもしれん。あるいは、これまで出会おうともしていなかったのか」
「はあ?」
「分からんか? 君には死んでいるように見えるか知らんが、生きている人間もちらほらいるよ」
「ちらほら……」
アメンボが汀に向けてすいと滑ってくる。かと思うと、ちょんと跳ね返って去る。
「でも、先生、先生は実際どうです? 先生は生きてますか?」
「失礼なことを。生きているから呼吸しているのだ。ここにおるのだ」
「でも先生、私のような心の弱った者と、適当に話を済ませて、で、お金をとって生活しているわけでしょう」
「お金をとる? 人聞きの悪い。支払いは寄付だ」
「寄付だと言いますけどねえ」
「なんだ、文句あるのか」
「いえ、」
客はちょっとしょんぼりする。
「まあ、何だっていいですよ。寄付だろうが代金だろうが」
「そうだな」
「カウンセラーの資格があろうがなかろうが」
「うん」
「社会の決まりごとなんか、どうだっていい」
「うむ」
客は段々上向きになる。
「人生って、一度切りなんですよね」
「ああ」
「じゃあ、なんと言われようと、どうなろうと、やりたいことをやるのが得ですね」
「損得は知らん」
「どうせ死ぬなら、色々やってからでも遅くはないですし」
「何かやりたいことがあるの?」
「無かったんですけど——そうですね、カードゲームやらボードゲームやら、何かみんなで楽しくワイワイ遊べるゲームをつくってみたいです」
「ふうん」
「できたら先生もやりません?」
「ああ。暇だから良いよ」
「……もしかして、その時も料金発生します?」
「当たり前だ」
客はまたしょげる。
「先生。私は自分のことを最低な人間だと思っていましたけど……先生も大概です」
「うむ。じゃあ、どちらかには違いない。最低と言うくらいだから、一番低い者を決めるべきだ」
「それじゃあ先生です」
「……別にそれでも良いだろう」
住人は——先生は特段することが無いから、ずっとそこに座っている。客がとっくに帰って、辺りが茜色に染められても、まだそこに居る。——居眠りしていたらしい。