20/20 vision
How does it feel like to wake up in the sun?
Noel Gallagher
生まれた頃から目が悪かった。
*
他にも色々と良くないところがあったらしいから彼女は生まれてから暫くのあいだ、都内の海の見える病院に入院することになった。
*
人からこの世ではじめての記憶を尋ねられる時、彼女はきまってその病院の話をする。あまりにも周りがその頃は大変だったというものだから覚えている気になっているだけかもしれない。
*
その病院で、彼女は様々な“顔”を目にすることになった。
*
分娩室で、彼女がはじめて“顔”を見た時、彼女はとても怯えていた。それははじめて彼女が水に顔をつけることになったときにおぼえた恐怖にとてもよく似たものだった。彼女はとっさに瞼を閉じる。瞳の奥にはカクテルグラスのような容器がひとつ置かれていて、そこには並々と水をたたえた泉がピンと静かに張っていた。波ひとつ立っていない泉の中心に彼女が眼を凝らしてみると、そこに一つの“コトバ”が浮かんで見えた。彼女はその“コトバ”を次のような印象で記憶している。
*
“プラスチック製の歯ブラシのキャップ”
軽く、清潔で、何の香りもしない。
*
その“コトバ”は彼女のおぼつかない世界でもくっきりと捉えることができたので、彼女は喜んでそれを口にしてみようとした。グラスと彼女の周りには風はなく、月もでてはいなかった。
“コトバ”はじっと動くことはなく、彼女を待っているようにも思えた。
*
しかし“コトバ”が彼女に応えることはなかった。彼女が“コトバ”を声にしようとすると途端に“コトバ”は彼女の小さな手の届かない所にまで跳躍をして、萎むようにしてどこかへ消えていった。しばらくすると泉の真ん中にまたその“コトバ”は現れたが、何度彼女が試みても“コトバ”を口にすることは出来なかった。
*
彼女は時折考える。あの時、彼女が“コトバ”を口にできなかったのは、彼女がまだ言葉を知らなかったからなのか。あまりにも軽いその“コトバ”一つで、この世の全てを物語ってしまう虚しさを、幼い彼女が予感したからなのか。いくら考えても答えはでない。
*
「結局、泳ぎとかと同じなんだ。ラフティングも。」
*
月日が一度流れることをはじめると、彼女の眼には幾重もの“顔”が重ねられていった。
人々の“顔”はひとりひとりが異なる色や形を持っていて、この事実は彼女を心から驚かせた。そしてもっと彼女を驚かせたことは、彼女にはもうこの流れを止めることはできないということだった。
*
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、
*
“顔”は積み重ねられる程に深みを増して、輪郭はほどけ、混じりあい、次第にただの塊になっていった。
*
「あそこのソファ横のオイルヒーター、使っていないようだったら、こちらに」
*
もちろん流れに抗うために、彼女がなにもやってこなかったわけではない。
*
その塊となってしまった“顔”を言い表す絶対的な一言を求めて、彼女は言葉を身につけていった。
*
見渡す限り世界は明るく、どの言葉も彼女が生きる世界を正しく見据えるために寄り添ってくれているように彼女には思えた。彼女は青空に向けて、両手を拡げて泳ぎはじめた。
*
しかしそんな言葉は見つかるはずもないことに彼女はしばらく気付かなかった。彼女を寄り囲む“言葉”たちは人々を傷つけ、またそれらによって彼女も傷つくことになった。彼女が泳ぎ方をおぼえはじめたと感じたある日、彼女の首筋から血が噴き出してきた。爽やかな朝の陽ざしの中で透明なガラスが漂っていることに彼女は気付くことができなかった。
*
彼女がガラスと傷痕という言葉を知った時、彼女は首元を抑えながらもう二度と治らないかもしれないと三日三晩眠れなかった。それでもそのうち、気を遣うことにも疲れて眠ってしまい、眼が覚めるともう傷跡のことなど忘れてしまった。
*
今ではもうあの時の“コトバ”は思い出すこともできない。思い出すことも忘れようとしている。はじめて顔を水につけた時のことなんて中々覚えているものではない。
*
浮かんでいたあのキャップのような“コトバ”も同じく。
誰も歯ブラシのキャップなんかに注意を払うことはない。誰もが何の気なしにそれを捨てる。捨てたことも忘れている。
彼女は想像する。
いつか未来に、そんなことがあったとして、キャップも作れなくなった時が来たら、人々は「なんということだ」と恭しくその残った最後の一つを保存するのだろうか。
彼女は想像する。
そうしてまた時は流れて、荒れ果てたメトロポリタン美術館の一番奥の展示室、その台座に透明な歯ブラシのキャップはひっそりと収まっている。
彼女は想像する。
彼女によく似た少女が蔦の合間から現れて、一人佇んでそれを眺めている。
*
こんなことを考えている間も、イメージは日々彼女の意思を無視して流れ込んでくる。
歳月と共に眼に溜まり続けるこれらの無数のイメージの連なりは、塗り重ねる毎に濃度や比重を変え続けて、今に至る。
*
今、目の前にあるこの塊の色だけでも人に差し出すことができるとして、どうやって伝えるべきなのか。彼女には分からない。
*
「すみません。いつ到着するかまだ」




