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いじめについての考察

作者: T.ムルソー
掲載日:2020/03/11

             【いじめについての考察】


◉「いじめ」には以下のようないくつかの態様がある。それに応じた対応策を考えなければならない。

 

 1 暴力的なもの    2 悪口(ネット上も含む)・うわさ   3 シカト(無視)・仲間外し                (A)個人的なもの   (B)集団的なもの                       

               (ア)学級や部活、友達によるもの(イ)非行がからんだもの

◉「いじめ」への対応策

1 まず、相談体制を整えること。しかし、相談をとおしていじめを発見し、それに対する心のケアは出来るが、それで解決ということにはならないということをしっかり認識すべきである。いくらカウンセラーを配置しても、根本的な解決にはならない。むしろそこから指導が始まると言っていい。


2 集団をコントロール出来る人間(教員)がいるかどうかが重要。被害者が訴えてもそれを解決出来る(信頼出来る)人間がいなければ被害者は訴えようともしないだろう。


3 集団が自浄能力を有するかどうかも重要。ただ、いじめが発生するような集団はそのような能力を有しないのが一般的である。力のある教員は、自浄能力を有し、正義が貫かれる学級集団をまとめあげることが出来るが、残念ながら全ての教員にそれを求めるのは無理であろう。そもそもこの部分がしっかり担保されることが理想であるが。 


4 傍観者を責めることができるか。「いじめを傍観することはいじめに加担することだ。いじめを止める勇気をもとう」と多くの評論家、教育者が言う。しかし、いじめが発生している集団の中で、それに逆らってノーをいうことは、その集団の中でかなり上位にいる(力のある)者でなければ出来ないことである。さもなければ、自分がいじめのターゲットにされる恐れがある。だから、加害者と一緒にいじめの流れにノッテしまうか、知らぬふりをして傍観者を決め込んでしまうかである。ここでも集団の質が問われる。加害者に対してその集団が対峙して解決出来る力があるかが問題だ。個人の力を過大に期待するのは無理がある。


5 いじめの解決策にはいくつかの段階がある。

(1)まず、加害者に対して影響力を及ぼせる力が存在するかどうかである。それは主として担任教師(他の教師)であったり、親であったりするだろう。そのように影響力をもった存在は、事態を重く受け止めて、加害者(あるいは加害者集団)に対する指導を徹底すべきである。当事者同士を向き合わせて軽く注意を促す程度では逆効果になりかねない。時間をかけてしっかり指導した上で、その後の経過を追跡すべきである。そして、経過が望ましく無い場合は親(保護者)を巻き込んで指導すべきである。ことが起きると学校の責任ばかりがクローズアップされるが、加害者本人とその保護者に責任をもたせることが重要である。いじめの実態と責任の所在を被害者の保護者と加害者の保護者、学校が共有すべきである。よく事件があると、保護者は知らなかった、学校から何の連絡も受けていなかったというケースが多く見受けられる。一番の責任者は加害者本人とその保護者であることを加害者側に認識させることが必要である。


(2)非行がらみで、教師や親の影響力が及ばないケースはどうすべきか。特に暴力が絡む場合であるが、その場合は躊躇することなく外部力(警察力)を入れるべきである。社会で許されないことは学校でも許されない、暴力は犯罪であるという観点で毅然と対応すべきである。この点を曖昧にして、指導という甘い言葉で覆い隠そうという姿勢が悲劇を生むもとになる。教師に対する暴力や凄惨な殺人事件は、この段階を見過ごすことによって生じるのである。彼ら非行グループの論理は、やくざの論理にもまさるとも劣らないレベルまでエスカレートしてしまっている場合が殆どである。また、彼らの考え方の基準には大人社会、学校という温室空間への甘えが明らかにある。かつて非行生徒のつぶやきを聞いたことがある。「先生、こんなことしていられるのは学校時代だけだよ。社会に出ればこんなことしていられないからね」彼らは確信犯なのだ。こんなことをしても許されるだろうという甘えの物差しで行動しているのである。この場合に解決のブレーキになるのは、学校側が事件を大きくしたくない、何とか内部の問題として片づけたいという意識と、もう一つは、警察の姿勢である。学校に協力的でない警察は、そんなことは学校内部で解決してほしい、そうでなくても警察は大人の案件で忙しいのだからといった姿勢である。かつて校内暴力が世間を騒がせた八十年代には、学校の隠蔽体質が責められ、警察力の導入の必要性が叫ばれた。その結果、各地区ごとに学校警察連絡協議会なる組織が設置されたのであるが、もうその頃の状況を知らない昨今の若い警官は、むしろ学校のことは学校で解決してくれという姿勢に逆戻りしているきらいがある。もう一度学校と警察の役割について互いに理解しあうことが重要である。


(3)言葉の暴力や悪口、無視、シカト等への対応策

 言葉の暴力や悪口は表面化(可視化)するものなので指導しやすい。これは 記(1)によって指導すべきである。問題は無視、シカト等の場合である。これは指導しようにも加害者がその存在を否定する場合が多い。そうなると、表だった指導が入りにくいことになる。これに対する対策は、加害者への心理的アプローチしかない。被害者から聞き取った被害者の苦しみ、疎外感、そういったことをじっくり話して聞かせることにより被害者の立場で状況を受け止めさせるようにすること。また、加害者の歪んだ心の内にも耳を傾け、被害者への思いをじっくり受け止めてやることが大切である。このケースでは「叱って解決」ということは極力避けるべきである。それでも加害者の心を開くことが出来ない場合、被害者の避難を考えなければならない。具体的には加害者から被害者を心理的に、あるいは空間的に引き離してやることが必要になる。放っておけば、被害者自らがその手段を実行に移すかもしれない。それはつまり、まず登校拒否という形になって表れるだろう。しかし、それは被害者にとって一時的な避難にしか過ぎず、根本的な解決にはならない。さらには、次の最悪の段階として自殺という悲劇が選択されるかも知れない。そこで考えなければならいのは、クラス替え、学校に準じた教育機関への委託、転校といった手段である。それもまた、本来のあるべき解決策ではないかもしれないが、被害者を守るためのやむを得ない選択でもある。どうしても合わない人間関係、集団の中で、それを何が何でも克服させなければならないというのは無理がある。そもそも子どもたちには学級と言った閉鎖空間に機械的に囲い込まれる必然性はないのだ。


◉かつて、ある新聞の囲い記事にこんな童話が引用されたことがある。これは多くの「いじめ」に共通した本質を突いているように思われる。

(あるとき、子どもたちが池の縁をあるいていた。すると、池の蓮の葉の上に一匹のカエルがいるのを見つけた。一人の子が傍に落ちていた石ころを拾って、そのカエルめがけて投げつけた。それを見ていた他の子どもたちも面白がって石を投げつけ始めた。カエルはあわてて水の中に飛び込んだ。子どもたちは石がカエルに当たらなかったことを残念がりながら行ってしまった。やがて、水の中から顔を出したカエルはひとりつぶやいた。「君たちにとっては遊びのつもりかもしれないが、僕にとっては命がけなんだよ」)


◉子どもたちだけでなく、残念ながら大人の世界にも「いしめ」や「差別」ということが存在する。それは集団ヒステリーとでもいうべき集団心理がもたらすものや、他をおとしめることにより相対的に生じる誤った優越意識を保持しようとすることから生まれるものであろう。いつの時代にも、どこにでもそのような悪意をもった人々は存在するものであり、その存在をゼロにすることは難しいのが現実であろう。しかし、世の中の殆んどの人々は(たぶん99%の人々は)、良識と善意に満ちた存在であることを信じたい。



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