新入社員
僕はこの春に入社した会社員である。
今日、初めて先輩と一緒にお客様と打ち合わせだ。
憧れの先輩、長いきれいな黒髪を後ろでまとめ、てきぱきと仕事をこなしていく。
紺色のタイトなスーツの下には休みの日にはジムに通っているのか、引き締まった体は出るところはきちんと出ているナイスプロポーション。
スカートから見える足もすらっとしてさほど高くないヒールの靴でてきぱきと歩き回る。
同期の飲み会では先輩の下で働けることを羨ましがられる、そんな先輩と今日は初めての商談同行だ。
「ネクタイが歪んでるわよ」
そう言ってお客様に会う前に僕のネクタイを直してくれる。
近づいた先輩は甘い良い香りがした。
名刺交換
お客様よりも先に名刺を準備し、両手で持って名刺を渡す。
ただそれだけでも先輩の立ち振る舞いは可憐だ。
僕も先輩に見習って名刺を交換する。
名刺を着席順位に置き、挨拶と軽く世間話で場を盛り上げる。
軽く笑いを入れて場を和ませるなんて、さすが先輩。
そうしているとコーヒーが運ばれてきた。
「ありがとうございます」
運んでくれた方に軽く笑顔でお礼を言う先輩。
お客様の会社はどの立場の人もお客様だ。
商談は進む。
客先の要求に相槌を打ちながらこちらの要求に合うようにうまく誘導する。
商品の知識も豊富で話し方がうまく、同じ会社の僕も感心してしまう。
客先も僕も「ほう」と感嘆の声が漏れ、商談は盛り上がりを見せる。
商談は終盤へと進み、コーヒーでのどを潤いながら、僕はふと気が付いた。
先輩は出されたコーヒーに一切手を付けていなかった。
そういえば客先で出された飲み物をのむということは「相手の要求をのむ」ということになるとネットで見た気がする。
僕はほとんど飲み干した自分のコーヒーカップを見る。
しまった!
僕は震える手でコーヒーカップを置くと、カチンとカップとソーサーが妙に大きな音を立てる。
先輩がちらりと僕とコーヒーカップを見て、商談に戻る。
その先輩の目はいつも見られないような冷たい視線のような気がした。
気づかれた。怒られる。
せっかく先輩が客先からいい条件を引き出しても、僕のせいで客先の条件を「のんで」しまう。
僕のせいで先輩の経歴に傷がついてしまう。
そう考えると、嫌な汗が背中を伝う。
挽回する方法は無いのだろうか?
この後、自分から先輩に謝った方がいいのだろうか?
客先の男性が、僕の”コーヒーカップ”を見て、フッと笑ったような気がした。
相手にも気づかれた。万事休すだ!
その後の事は正直、あまり覚えていない。
商談は終わり、エレベーターホールまで送ってくれたお客様にエレベーターのドアが閉まるまで頭を下げて商談は終了した。
「事務所に帰る前に反省会を兼ねて、ちょっとコーヒーショップに寄りましょうか」
先輩はそう言ってコーヒーショップに入る。
コーヒーショップでの反省会。
つまりは……やっぱりそうか! 出されたコーヒを飲んでしまった事で怒られる。
これはもう、自分から先に謝った方がいい。
先輩はアイスティーを僕にはアイスコーヒーを注文し、席に着いた。
「今日の商談で君が今後改めないといけないことがあるわ。何かわかる?」
冷や汗が出てくる。
「はい。すみませんでした」
「やっぱり気づいていたの?」
「はい。出されたコーヒを飲んでしまいました。すみません」
先輩はポカーンとした顔をした。この期に及んでそのポカーンとした顔も可愛いと思ってしまった。
「へ? そうじゃないわよ。それは別に飲んでいいのよ」
「でも先輩は手を付けていなかったじゃないですか?」
先輩は何か納得したような顔でアイスティーを僕に見せた。
「私はただコーヒーが嫌いなだけで、紅茶かお茶が出てきたときはありがたくいただくわよ」
コーヒーが嫌いなだけ? じゃあ、先輩や客先のあの目は?
「じゃあ、僕の何が駄目だったんですか?」
それ以外は先輩の真似をして、商談中も先輩の話に相槌を打っていただけだ。
「あなたは私の話にお客と一緒になって、ふんふんやほうって相槌打っていたでしょう。お客の話に相槌打つならともかく、私の話には当然知ってましたっていう顔しないと、お客はどこの会社の人って思うわよ」
ビジネスマナー以前の問題だった。
ネットにあふれる変なビジネスマナーって誰が考えてるんだろう?