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閻魔堂シリーズ

山別れ

作者: 皇 凪沙


 木々の葉が紅く色づき、高い空にはうろこ雲が浮かんでいる。

 木々の狭間(はざま)に高く広がる空を見上げて、えんは小さく息を吐いた。

 これまで、山は遠くに望むものだと思っていた。赤く色づくのは木々の葉で、山ではない───山中で、紅葉した木々が頭上に折り重なるように繁る様を見て、えんは初めてそんな当り前のことを知った。

 山路を行くえんの額にはうっすらと汗が浮いている。時折吹きすぎる風はすでに冷たく、火照った肌に心地良かった。お留山(とめやま)峰続(みねつづ)きのこの山に、人気(ひとけ)は無い。しかし、山は何かの気配に満ちていた。

───生きている。

 遠くに山鳥の声を聞きながら、えんはそう思う。

 山は、生きている。

 虫や鳥や獣や草や花や木や───

 すべての命を内包して、ひとつになって、山は山というものになっている。此処では人も、山の一部になるのだろう。その覚悟がない自分は、此処に長くは居られない。

 そう、思う。

 そうして、所詮(しょせん)己は町でしか暮らせぬと苦笑して、えんは再び覚束ない足取りで山道を歩き出す。


 やがて、山道は行き止まり、行く手に視界を(さえぎ)る藪が現れる。道の終わりのように見えるその藪を大きく回り込むと、おとこの言った通り、そこには念入りに隠された道が続いていた。

 けもの道のようにも見えるその道を僅かばかり辿ると、やがてえんの目の前に突然小さな小屋が現れる───

───迷い家。

 思わずそんな言葉が浮かぶ。人も通わぬ山の中に、突如現れるという迷い家を思わせるその小屋は、掘っ建て小屋と呼ぶには立派で、粗末ながらも家の体を成していた。

 事実そこは、人の目から隠された家なのだ。

 しかしそこは、えんがおとこの話から想像していたのとは違い、人里からそれ程遠く離れてはいない。山というのは、たったこれだけ分け入っただけで、もう人の世とは離れてしまうものなのだと、えんは半ば感心しながらそう思った。

 山中の粗末な隠れ家───ここには、娘がひとり居るはずだった。

 えんは戸口の前へ行き、そっと中を窺う。

 中に人の気配がした。

「ごめんよ」

 声をかけると、人の気配が濃くなる。しかし、戸が開く気配はなかった。

 えんは再び声をかける。

「ごめんよ、親父さんに頼まれてきたんだ、開けとくれ───」

 ごとごとと音がした。

 人の気配が更に濃くなり、やがて細く戸が開いた。

 不審気な細い目が隙間から覘き、えんを見る。

「お父は、一昨日の朝から山へ行ってるよ。」

 それっきり閉じそうになる隙間に向けて、えんは一枚の絵を広げた。

 閉じかけた戸が最前よりも少し大きく開き、顔が覗いた。

 思ったよりも、丈夫そうな顔だった。髪は結い上げられておらず、後ろで簡単に束ねられている。山の娘らしく化粧っ気はなかったが、端正な顔立ちをしていた。

「あんたの親父さんから、頼まれて来たのさ」

 えんはそう前置きすると、なるたけ情を抑えて娘に告げる。

「親父さんはね、死んだよ。」

 一瞬、とても哀しそうな目をして、

───そうかい。

と、娘は乱れず、一言そう言った。

「山犬か熊にでも、やられたかい。」

───いや。

 えんは首を振った。

「親父さんは、役人に切られたのさ。首が、まだ刑場に晒されてるよ」

 がらりと、戸が開いた。ぷんと、血の臭いがした。

 娘の目が真っ直ぐにえんを見る。

「何が、あったんだい」

───そうだねえ。

 えんは一瞬迷った顔をして、手にした絵に目を遣った。

 そして、ゆっくりと息を吐き、娘に云った。

「最初から、話そうか───」




 遠くの山が紅く色づき、高く澄んだ空を無数の赤とんぼが埋めつくしている。秋が、もう深い。

 その日、えんは奇妙な引き回しを見た。

 列の先頭は、罪状を書いた(のぼり)に捨て札。(いか)めしい捕物道具を持った非人としかつめらしい顔をした役人に囲まれた中、本来なら裸馬に(またが)った罪人が居る場所に、粗末な白木の台に載せられた青黒い首が居た。

 他にそれらしいものがないところをみると、それが幟に書かれた罪人の首なのだろう。年の頃は、四十か五十か───男の首は、赤茶けた蓬髪(ほうはつ)を形ばかり結い上げ、陽に焼けた顔色は血の気を失ってなお黒く、町の者ではないことが一目で見て取れた。

 首の引き回しは珍しい。辺りには(たちま)ち野次馬が集まり出す。えんは、野次馬の後ろから伸び上がり、先頭を行く捨て札に目をやる。拾て札には、その首の罪状が記されている。

 『───兼而禁令之於御留山狩猟及段───』云々───。

 首だけのそのおとこは、どうやらお留山へ立ち入り、禁じられた狩猟を行ったところを見咎(みとが)められ、その場で成敗されたものらしい。黒々とした文字は、同じような(やから)が現れぬよう、後の見懲(みこ)らしのため首を晒すもの也と結ばれていた。

 えんは首を(ひね)る。

 領内には領主が定めるお留山が幾つかある。町場で暮らすえんには馴染(なじみ)の無い事だが、そこでは木の伐り出しや狩猟が禁じられ、許可なく立ち入れば厳罰に処されるという。しかし、これまでにその禁を破って御仕置になった者の話は聞いたことが無かった。どうやら、立ち入れば厳罰というのは多く建前で、その場で手討ちになることなどはまず無いというのが現実らしい。それでも山の近くで暮らす者達は、そういったことには充分注意して暮らしているのだそうだし、鑑札(かんさつ)を受けた猟師には禁令以前に仲間内の厳しい掟がある。いずれもむざむざ首を打たれるようなことはあるまいと、そう思われた。

───このおとこは、何者だろうか。

 興味を引かれ、えんは野次馬に紛れて列を追った。首を取り囲む奇妙な列は、橋を渡り、小道を抜けて刑場へと向かう。秋の陽に照らされて、その列はどこか滑稽に見えた。

 やがて列は、閻魔堂に至る。流石にすでに死んでいる者を閻魔堂に参らせることはなく、奇妙な列は閻魔堂の前を過ぎて、真直ぐに刑場へと入った。

 竹矢来に四角く切り取られた刑場の真正面、野次馬の手が辛うじて届かない程のところに晒し台が設えられ、おとこの首が晒される。野次馬達が首の前へと群がった。

 その隙にえんは、傍らに立てられた幟や捨札に、もう一度じっくりと目を通す。そこにはおとこの素性は(おろ)か、名さえも記されてはいなかった。

───本人に、聞いてみるのが早道か。

 そう呟いて、えんは野次馬の群れからそっと離れた。

 今晩、閻魔堂には、きっと灯が点るだろう。

 この首の持ち主とは、そこでいずれ会うことになる筈である。

 夜にまた、来ればいい───そう思って、えんは静かにおとこの首に背を向けた。



 月の青い、澄んだ夜である。

 いつもの道を、えんは閻魔堂へと向かう。

 晩秋の夜気が肌に冷たい。辺りは凛とした気配に満ち、草陰からは寂しげな虫の音が響いていた。

 細道を辿ると、やがて閻魔堂の(ほの)かな明かりが闇に浮かぶ。近づくと、その向こうには暗闇の刑場が見えた。菱に組まれた竹矢来のすぐ向こう、晒されたおとこの首だけがぼんやりと白い。えんは一旦閻魔堂を過ぎ、刑場を囲む矢来の隙間からおとこの首を眺めた。

 闇に沈んだ刑場の晒し首といえど、別に目を()いたり、恨み言を言ったりするものではない。首は辺りに並べられた捕物道具や幟や捨札と同じように、ただそこに並んでいた。生きているところを見ていないせいか、その首はまるで作り物のようで、えんにはこの首をつけたおとこが生きて動いている様を思い浮かべることが出来なかった。

───さて

 僅かの間首と対峙(たいじ)し、えんは刑場に背を向けた。

 閻魔堂が闇の中、仄かに明るく浮かんでいる。

 えんは、いつものように閻魔堂の前に立ち、扉の隙間からそっと中を覗いた───

 堂内には蝋燭の光が揺れている。

 正面の須弥壇(しゅみだん)の上、一段高いその場所には亡者を裁く閻魔王。

 傍には、亡者の善悪の業を残らず記した鉄札(てっさつ)(たずさ)えた倶生神(ぐしょうじん)

 左右には、黒鉄(くろがね)の棒を手にした赤青の獄卒鬼(ごくそつき)

 (のぞ)いたその刹那(せつな)に───すべてが、生気を帯びる。

 閻魔王の衣がふわりと揺れ、金糸銀糸が蝋燭の炎を照り返す。倶生神の手が重たげに鉄札を取る。壇荼幢(だんだどう)に載った男女の首が表情を変え、獄卒鬼の手の中で、黒々とした鉄棒(かなぼう)がとろりと光った。

「えんか、入れ。」

 閻魔王の声が響く。

 そっと扉を開け、えんは堂の中へと入る。

 須弥壇の下に、おとこが膝を付いている。その顔は、刑場に晒されたあの首と同じ顔である。えんは、胴のついたおとこをしげしげと眺めた。

 さて───

 閻魔王がおとこを見下ろす。

 おとこは一度閻魔王を見上げ、深く頭を垂れた。

「刑場に(むくろ)を晒し、今此の閻魔の前に平伏(ひれふ)すからには、罪無きとは云わせぬ。倶生神───」

 閻魔王が傍に目を遣る。

「此の者の罪状を述べよ。」

 はっ、と頷いたものの、倶生神は鉄札を取り上げしばし逡巡(しゅんじゅん)する。そして、閻魔王を見上げて言った。

「この者の行いは、全て此処に記しております。またその行いの善悪も、全て此処に記されております、しかし───」

 閻魔王は心得顔で、

───構わぬ。

 と、そう言った。

「畏まりました───それでは、申し上げまする。」

 倶生神はそう言って、鉄札を取り直す。

「この者は───生前、多くの獣の命を奪っております。鉄札に記されたままを申し述べますれば、身勝手に近在の全野、全山の獣を狩り尽くし、悔いることなき悪業の者。元より殺生戒(せっしょうかい)は戒の筆頭に御座いますれば、有無を言わせず地獄へ堕とすべきところ、しかし───」

 言い淀む倶生神に閻魔王が頷く。

───分かっておる。

 閻魔王はそう言うと、須弥壇の下に(ひざまず)くおとこを見下ろした。

「───倶生神の申した事に、誤りは無いな。」

 閻魔王がそう云うと、おとこは「はい」と肯いた。

「間違いはございません。わたしは確かに、手に入る限りの獣を、手当たり次第に狩り尽くしました。また、その行いにつきましては、微塵も後悔はいたしておりません」

 そう言っておとこは閻魔王を見上げ、ゆっくり深く頭を垂れた。

「抗弁せぬか───良いのだな、それで。」

 おとこは頭を垂れたまま動かない。

 閻魔王は小さく溜息を吐いた。

───ならば、仕方があるまい。

 閻魔王の言葉に、おとこは頭を上げた。

「お待ちよ───」

 たまらず、えんは声を上げる。

「どうしたって云うのさ、誰も彼もはっきりしないことばかり言うじゃないか。」

 えんは、閻魔王の、倶生神の、そしておとこの顔を、順に見渡す。

「どんな訳があるのか、聞かせてくれたっていいんじゃないのかい?」

 えんはおとこを見る。

「さっきから聞いてりゃ、何やら理由があるんだろう? 覚悟の程は御立派だけれど、なにも地獄へなんぞ行き急ぐことはないだろう。どうせ、覚悟が出来てるんなら、今更何を隠す事があるのさ───」

───此処は現世(うつしよ)じゃあないんだよ。

 えんがそういうと、おとこは静かにえんを見た。

「あなた様は、彼岸の方ではないとお見受けしましたが。」

 えんは少し躊躇(ためら)って、───ああ、と頷いた。

「此の世の人間には言えないとでもいうのかい。」

「いえ、此の世の方ならば、お話し致します。その代わり、お願いしたいことがあるのです。」

 そう云うと、おとこは懐から一枚の絵を取り出した。

「これは、わたしの戒めでございます。これを───」

───娘に渡しては、頂けないでしょうか。

 おとこはそう云うと、目を上げた。

「わたしには、娘がひとりおります。母親はすでに亡くなっておりますから、わたしが死ねばひとりで生きてゆかねばなりません───」

───生きてゆくには、覚悟がいりましょう。

 そう言っておとこは、えんの前に絵を差し出した。

 えんはその絵とおとこの顔を見比べる。

 おとこが差し出したのは、奇妙な絵だった。

 絵には、虫と蛙と蛇と猪、そして猟師と鬼の腕らしきものが描かれている。よく見ればそれは、それぞれが獲物を狙う様を描いたものらしい。虫を蛙が狙っている、蛙を蛇が狙っている、蛇を猪が狙っている、猪を猟師が狙っている、そして猟師の後ろから伸びているのは、猟師を狙う鬼の腕ということだろう。

 誰もが背後の危険には気づかずに、ただ目の前の獲物に気を取られている───これは、そんな愚かしさを表した絵なのだろうと、えんは理解した。

「これは、獣を狩って生きると決めた時に、戒めとして写したものでございます。」

 そう、おとこが言った。

「獲るからには、獲られることを覚悟せよと――そういう絵だと思っております。」

 おとこの言葉に、閻魔王が云った。

「それは本来、狙う者は狙われる、殺す者はいずれ必ず報いを受ける。だから殺生を止めよ、と謂う絵だ。」

 おとこは、閻魔王を見上げて頷いた。

「その絵を写させて頂いた寺の御坊もそう仰いました。しかしそれは、獲ることを止める、という選択肢のある者にとっての解釈でございましょう───わたしに、獲ることを止めることは、出来ませんでした。」

 おとこは閻魔王を見上げてそう言うと、えんの方に向き直った。

「お聞き下さいますか───」

 そう問うおとこに、えんは頷く。

───ありがとうございます。

 そう言ってえんに頭を下げ、おとこは口を開いた。



───わたしにはむすめがひとり、ございます。

  おとこは、そう云った。

 ようやく授かった、目に入れても痛くないひとり娘はしかし、幼い頃から身体が弱かった。医者の看たてでは、生まれながらに血の気の足りぬ質であるらしい。

 五つ六つの、赤い頬をして走りまわっている筈の年頃になっても、青い顔をして、起きているより寝ていることの方が多いむすめに、医者は所詮育たぬ子であろうと云った。

 医者が匙を投げるなら、自分達が手を尽すより他ない───そう考えて、おとこと妻はむすめのために、出来るかぎりのことをした。

 暮らし向きは楽では無かったが、薬になるというものを飲ませ、体に良いというものを食べさせて、少しでも丈夫になるようにと骨を折った。しかし、それらはなかなか(しるし)を現さなかった。むすめは、次第に弱っていくように思われた。

 何かむすめの病に効くものはないものか───薬でも、養生法でも、願掛信心(がんかけしんじん)加持祈祷(かじきとう)の類でも構わない。効いてさえくれるのなら、黒祠邪教(こくしじゃきょう)(いと)いはしない───

 そう思い詰めた時、妻がどこぞから、血の気の足りぬ病には生肝(いきぎも)が効くという話を聞いて来た。けして目新しい話ではない。これまでもまことしやかに語られていた話である。

 しかしまだ、試した事はなかった。あまりに其処此処(そこここ)で語られて、その分胡乱(うろん)な話に思えたし、何よりむすめが嫌がった。

 が、しかし───むすめは益々弱っている。

 神仏、まして邪神に祈る前に、試してみたとて構うまい。これで駄目なら、鰯の頭でも箒の尻でも、何にでも祈ればいい───妻とそう話し合って、おとこはももんじ屋からこっそりと、兎の肝を手に入れた。

 むすめは、おとこが持ち帰った肝を見て、泣いた。

 山家の猟師の家とでもいうならともかくも、町家で生まれ育ったむすめには、獣の肉など馴染みが無い。まして血生臭い生肝を、むすめは気味悪がり、口にするのを泣いて嫌がった。

 むすめが余りに嫌がるので、おとこはそこまで嫌がるものをと弱気になったが、妻は自分の腹を痛めているだけに強かった。

 これを食わねば死んでしまうと、自らも泣きながら幼いむすめをかき口説き、とうとうむすめは細かに刻んだ生肝を嫌々ながら口にした。

 そうして───むすめは持ち直した。

 その胡乱で不気味な血腥(ちなまぐさ)い薬は、むすめの病に明らかな効験を現した。

 むすめの顔に、久方振りに血の気が差した。

 ようやく、希望が見えた。

 おとこはその後、幾度もももんじ屋に足を運んだ。数日生肝を口にしないと、むすめは青ざめて行くようだった。

 気の所為もあったのかも知れぬ。と、今はそう思う。

 しかし、その時はそうは思わなかった。

 度重なるにつれ、初めはあれ程嫌がった生肝を、むすめはいつしか好んで口にするようになった。やはり、体が求めていたのかも知れず、また、口にしてみれば存外美味しい生肝の味を、覚えてしまったのかも知れない。

 どちらにせよ、病には効くし、むすめは好んで食べる。

 おとこはますます頻繁に、生肝を買い求めるようになった。

 そうした時、巷に奇妙な噂が広まった。

───あの家では、何やら怪しげなモノを祀っているらしい。それは、獣の生肝を喰らうのだ───

───娘の病を治すため、怪しきモノに願をかけ、獣の血肉を捧げて下賜の生肝を病の娘に食わせているらしい───

───娘はもう、怪しきモノに憑かれていて、獣では足らぬ人の生肝を喰いたいと、夜な夜な墓場を廻って歩くそうな───

 獣の肉は、町場では穢れたものと敬遠されている。ももんじ屋とて、下手物商いと疎まれることが多いのだ。まして、幼いむすめが生肝を食らうなど、世間に知れてよいことではない。

 だからおとこは、この事実を、ひた隠しに隠してきた筈だった。しかし、何処からか漏れた事実には醜悪な尾ひれがつき、忌むべき真実として巷間(こうかん)に広まってしまった。根も葉もないことならば、言い訳のしようもあるが、根もある葉もあるしかし枝ぶりが少しばかり違っているでは、言い訳にもならない───

 むすめに危害が及ばぬ内にと、一家は夜逃げ同然に町を出た。

 行く当てなど、無論無かった。とはいえ、むすめの命の綱である生肝を手に入れるには、行くべき場所は自ずと決まって来る。

 一先ず一家はお留山近くの山里の、村はずれに落ち着いた。

 縁もゆかりも無い土地である。

 また妙な噂が立つかも知れぬと思えば、村に溶け込むことも出来ない。

 だから、その村はずれにいたのはほんの短い間のことだった。

 その間に、おとこがしたことは、猟の仕方を学ぶことだった。

 むすめの為に、生肝を手に入れなければならない。他人に頼ることが出来ぬのならば、自分で獣を狩るしか道はなかった。

 おとこはまず、猟師になる道を模索した。

 むすめに生涯生肝を手に入れてやるには、それが一番間違いのない方法だと思ったからだった。

 しかし、猟師になるのが難しいことはすぐに知れた。

───我々は山の神から狩猟の許しを得ている。

 猟師等は、そう言った。

 彼等は皆、代々猟師の家に生まれ育った男達で、山の神に狩猟を許された証を持っている。それだけではなく、決められた作法で神を祀り、決められた作法で山に入り、決められた作法で獣を狩り、決められた作法で供養する。そうして初めて猟師は、山の神から山で猟をする許可を得られるのだ。

 猟師になど、(にわか)になれるものではない───

 そう知っておとこは、むすめの身を保つだけの獲物を手に入れられればよいと割り切った。たとえ山の神の許しが無かろうとも、構わない。むすめに必要な生肝を手に入れてやれればそれでよい。

 おとこは里山で手に入るウサギやイタチやリスなどの、小さな獣の獲り方を学ぶことにした。

 師は猟師等の幼い子供達だった。

 まだ奥山へ入れない猟師の子等は、里山で遊びの代わりにそうした獣を獲っていたからだ。追い、罠をかけ、巣を探して、彼らは巧みに獣を獲る。菓子を遣り、遊んでやって、おとこは子等とともに野へ行った。

 幾度かのささやかな狩りを経験し、獲物が得られる手応えを感じたところで、おとこはひっそりと村を離れた。

 人目を避け、獲物を求めて、行くべき所は山以外にない。とはいえ、山の神の領域を侵すのは気が引けた。だからおとこはわざと、人の手が入るお留山のぎりぎり外側に小屋を構えた。

 人は近付かないが、獣を獲るには分の悪い場所だ。

 お留山は普段猟を禁じられているから、獣の多くはそちら側にいる。人間の方は山の境界を越えることは出来ないが、獣はそれを簡単に越えて行く。

───それぐらいが丁度良い。

 そう、自分に言い聞かせて、おとこは細々と獣を獲る生活を始めた。道の終わりの藪を回って、けもの道のように見える木立の隙間を縫う道を少し登った、木立の中の窪地に隠れるような、小さな家での生活は、案外に順調で、生きる事に追われるままに、忽ち数年が過ぎた。

 この頃には、むすめは生肝と肉以外は殆ど口にしなくなっていた。山の生活では、穀物がむしろ貴重だったせいもある。時折町へ下りて、毛皮や余分の肉を米などに交換したが、それでも量は少なかった。

 おとこも肉を食うことが増えたが、妻はなかなか慣れないようだった。町で生まれ育った者には、日々生き物の生命を奪うこの生活は、堪らなく罪深く、厭わしかったのだろう。妻はただむすめの生命を繋ぐ為だけに、それに堪えていたのだろうと、そう思う。

 おとこが絵を写したのは、この頃のことだ。

 普通とは言えない生活が、それでも危うい軌道に乗ったこの頃に、おとこはふと恐ろしくなった。むすめの命を繋ぐ為である、猟をやめることは出来ないし、止めるつもりもない。

 しかし、おとこは代々の猟師達のように、山の神に猟の許しを得ているわけではない。山の掟を守っていない以上、おとこを守ってくれるものはない。そう考えると、日々生命を奪い続ける生活が恐しくなった。このままではいずれ自分は、恐ろしい報いを受けるのではないかとそう思えて、堪らなくなった。

 怖ろしさを抱え、それでも生命を奪い続けていた時に、里の寺であの絵を見た。

 そして、おとこは自分の落ち着く先を知った。

───ああいずれ、自分は何かに()られるのだ。

 そう知って、おとこはは安堵した。

 自分は獣たちの営みの外にいて、それを脅かしているのではない。同じ輪の中にいるのだ。今は獲る側にいるが、いずれは獲られる───

 それでいい───と、そう思った。

 迷いが消えた。

 やがて妻が亡くなった。妻は一度も町へ帰るとは言わなかったが、山の暮らしにはとうとう馴染まなかった。

 そうして、おとこはむすめと二人きりになった。二人きり、生活は危うい釣り合いを保って、安定していた。この、夏までは───

 夏の暑さが祟ったか、それとも昨年の山の実りが少なかったのか。夏を迎える頃には目立って獲物が減って来た。生肝を取る為には獲れる時に蓄えておくという訳にも行かない。

 そうこうしているうちに、数日に一匹の獲物を得るのも難しくなった。むすめから、血の気の引いていくのを感じて、おとこはとうとうお留山に入った。

 お留山には流石に獲物がいた。

 おとこは何度か、罠をかけた。

 どうしても、必要な時だけ、必要な分だけ。

 その都度、見つからぬように細心の注意を払い、獲物が獲れるとあとを残さず片付けた───つもりだった。


───見られていたようです。

 そうおとこは言った。

 えんは、おとこの顔を見る。その顔には、穏やかに澄んだ覚悟が浮かんでいる。

「───それで、切られたのかい?」

 おとこは黙って、わずかな笑みを浮かべた。

 命を繋ぐ術もあったのかも知れない。それでも、おとこはこれを潮時と思ったのだろう。えんは、そう思った。

「そういう事だ。」

 閻魔王が云った。

「そのおとこは、何もかもを飲み込んだ上で、ここにいるのだ。おのれの堕ちゆく先さえも、承知の上でここにいる。」

 おとこがゆっくりと頭を垂れる。

───分かったよ。

 えんはそう言って、絵を受け取った。

 



「───と、云うわけさ。」

 えんは静かにそう言った。

 秋風が色づいた木々の葉を鳴らし、哀しげなほど爽やかに吹き過ぎる。戸口に差す黄金色の木漏れ日が、木々のざわめきにつれてさわさわと揺れた 。

「 信じるかどうかは、あんたの勝手だけどね。」

 えんがそう言うと、娘はおとことよく似た仕草で、静かに笑った。

「信じるさ。 だから、知ってたら聞かせておくれ、お父は何処へ行ったんだい。」

───ああ。

 えんは頷く。

「山へ行ったよ」

 畜生道へ、堕ちたのではない。おとこは望んで其処へ行ったのだから。

「なら、良かった。」

 娘は、つと、遠くに目をやってから、絵に目を落とした。

「お父はきっとこの山で獣になるだろうよ。そうしてあたしは、きっとお父を食う───」

「お父かもしれない獣が、食えるのかい。」

 問うと、娘はにこりと笑った。

「おんなじだろうさ。獣は獣に変わりない。お父かもしれないから食えないというなら、今まで食ってきた獣に申しわけないだろう」

───それに、と娘はさっぱりとした顔で言う。

「あたしもいずれはお父と同じにこの山の獣になるだろうさ。そうすりゃ、今度はお父があたしを食うこともあるだろう。」

「そうかい───」

 そう言ってふと絵に目をやって、えんは猟師の背後に迫る腕にぽつりと小さな蚊が描かれているのを見つけた。

───ああ。

 猟師を狙う鬼は己が小さな蚊に食われていることになど、気がついてはいないのだろう。その絵の内で、世界は見事に巡っていた。

「いい絵だ。」

 えんは、今は娘の手の中にある絵に目を向けたまま、そう言った。

「そうかい。」

 娘もまた、その絵に目を落とす。まだわずかに幼さを残すその顔には、巣立ったばかりの獣の様な寂しさと不安、そして揺るがぬ覚悟が浮かんでいる。おとこの覚悟を娘に手渡して、えんは帰路についた。



 

 一杯に開け放たれた堂内に、秋の日の乾いた光が差し込んでいる。

 穏やかな光に彩られた堂内は、風に運ばれて来る気持ちよく乾いた枯葉や土の匂いと、日々焚きしめられた香の香りがした。

 山から帰って幾日か過ぎ、腿の痛みも治まった頃、えんは小さな寺の本堂の片隅に立って、一幅の絵を見ていた。

 おとこが写したと言うその絵は簡素ながらきちんと表装され、寺宝然として、外の光が直接には届かない奥まった一角に掛けられていた。

 左下から右上に向かって一匹の虫を始まりに、虫を狙う蛙、蛙を狙う蛇、蛇を狙う猪、鉄砲で木の上から猪を狙う猟師。そして、猟師の登る木の葉陰からは、赤くて太い鬼の腕が猟師に向かって伸べられている。

 その鬼の腕に、おとこの絵で見た小さな蚊が止まっていないのに気づいて、えんはほんの少し笑みを浮べた。

───如何(どう)かなさいましたか。

 声を掛けられて、えんは顔を上げる。まだ若いこの寺の住持が、廊下に立ってえんを見ていた。

「先ほどから熱心にご覧になっておられるようですが───」

 えんの方に歩み寄りながら、住持が言う。

「難しい、絵だと思ってね」

 えんが答えると、住持は笑った。

「そうですか? これにはお話が付いておりまして、猟師は猪を撃とうとする刹那、自分を待つ運命に気がついたのだそうです。蛙のように蛇のように猪のように自分も獲られてしまうのだと。そこで、その輪を断ち切ろうと撃つのをやめた。すると『撃っておれば喰ってやったものを』という声が山に響き、猟師はそれからきっぱりと猟をやめたそうです。この絵はその猟師が、戒めに描いたものだとか。」

 住持の話に、えんは微かに笑う。

「後ろで狙われてるのが分かってたって、蛙は虫を喰わなきゃ死んじまうだろうし、蛇だって猪だって、同じことだろう。」

 えんが云うと、住持は僧らしく笑った。

「だからこそこれは、畜生道の絵なのです。人とは違い、畜生等は食い合う事を止めることは出来ない。いやそもそも、それに疑問を持つことが無いのです。それが、畜生道が三悪道のひとつとされる所以(ゆえん)です。」

 そう言って、住持は軸を見上げた。

 えんもまた、その絵を見上げる。

 この絵を描いた猟師は、獲られる覚悟ができなかったのだろう。その代わりに猟師は、それまでの暮らしを、猟師であることをきっぱりと捨てた。人と獣は違う筈だと、人ならばこの連鎖から抜け出せる筈だと、そう思ったのかも知れない。

「きっとその猟師は、鬼の腕をちゃんと見なかったんだね。」

 そう云うと、住持は訝しげな顔をした。

「何でもないよ───」

 えんはそう云って、開け放された扉の外に見える山に目を遣る。

 遠く見晴らす山は、紅葉を金色の陽が染めて、美しい絵のように輝いている。あの中では、輪が巡っている。集まった一本ずつの草木、一匹ずつの虫、一羽ずつの鳥、一頭ずつの獣が皆、知らず覚悟を持って生きている。だからこそ、あれ程に美しいのだとえんはそう思う。

───敵わない。

 えんはそう呟く。

 おとこや娘のような覚悟も、絵を描いたという猟師のような潔さも、自分にはない。山は半端な思いで臨む者を受け入れはしない。だからやっぱり、自分は町でしか生きられない。

 美しい山を少しだけ羨ましげに見上げてそう思い、えんは苦笑した。

「きれいだね。」

 えんがそう云うと、住持は

「山は、今が一番美しゅう御座います。」

と、そう言って、清々しい顔で笑った。

 しばらく秋の陽に照り輝く山を眺めて、えんは寺を出た。

 高い秋の空を、若鷹が飛んでいる。

 初秋に山別れした若鷹も、そろそろ一人前に見えてくる頃である。これから秋が深まれば、山は一層に厳しくなるのだろう。

 それでもやっぱり盛りに装い、錦繍(きんしゅう)に映える山は美しい。そう思いながら、えんは山に背を向ける。

 日暮れまでには自分のねぐらへ帰り着けるだろう。

 日は西へ、少し傾きかけていた。

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