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焔の鳥

ともしび

作者: 小糸

 

 この仕事に就いてから何年になるのだろう。忘れてしまった。


「あれ?」

 ミュンヘン中央駅から地下鉄で二十分ほど。

 去年から一人で暮らし始めた部屋にたどり着いた時、そんな声が出たのは玄関に自分のものでない靴があったから。

 赤いローヒール。

 あー、と再び声が出た。同時に両手で頭を抱えていた。そうだった。

 忙しさにかまけてわすれていた。

 今日は彼女が来る日だったのだ。それも、はるばるパリから、飛行機で。

「やべ……」

 この数日、小さなトラブルが続いてその対応に追われていたから、プライベートを顧みている暇がなかった。そもそも空いた時間はチェロの練習に回していたし。

 思い返せば彼女からのメールに返信したのもしばらく前だった気がする。

 そのことに気が付いて急にものすごい後悔の念に襲われた。ついでに疲労感にも頭から喰われそうになり、とりあえずネクタイをゆるめながら部屋の奥に入って行った。

「ごめん、遅くなって──」

 絶対に罵声に出迎えられると思っていた俺は先んじて謝りながらリビングを覗き込んだ。

 が、予想を裏切って、そこには怒った恋人の姿はない。

 あるのはテーブルの上にきちんと並べられた夕食だった。デザートにアップルパイまでついている。

おまけに部屋が驚くほどきれいになっていた。

近頃忙しさにかまけて全く整理整頓していなかった、目にするだけでイラつくような汚い部屋が、いまやほんのり良い香りまで漂わせている。

なんで? と鼻を動かして香りの元を探せば、どうやらソファに置いてある洗い立ての洗濯物だった。

 怒ってなんかないよ。

 そんな風に笑う彼女の顔が浮かんだ。そうだ。

 彼女はいつも俺を責めたりしない。

 遠く離れて会えなくても、仕事が忙しくて連絡できなくても。たまに会える日にこうして遅くなったりしても。

 ──がんばって!

 ただ笑って受け入れてくれる。

 いつも、こうやって温かな料理を作って、いい匂いで家を満たして。

「……ひぃ?」

 ブリーフケースをソファの上に投げると、俺は彼女の名前を呼んだ。返事はない。

「ひい、どこ?」

 声を大きくして自分の部屋のドアを開ける。

 するとベッドの上でもぞ、と動く影が見えた。胸が高鳴る。

「緋乃?」

「……んー」

 ぱちんと灯りをつけると、まぶしそうに目元を手で覆った彼女の姿が見えるようになった。寒かったのか毛布にくるまって猫のように丸くなっている。

 俺は心から安堵しながら彼女の傍に腰を下ろした。

「ごめん。……遅くなって」

 はぁ、と嘆息しながら身を屈め、彼女の頬にかかった髪を指で払う。

 緋乃はまだ眠たげな表情で俺を見上げ、ゆるやかに笑った。

「ううん。お仕事、おつかれさま」

「ありがと」

  俺も自然と微笑んでいた。ああ。幸せだ。

 彼女の腕が伸びてきて、頬に、首に触れる。

 そのままどちらともなく抱き寄せあって、ふふ、という微笑が耳をくすぐった。

「……おかえりなさい」

 やさしい声に喜びが胸に満ちる。愛おしさで何もかもが溶けてしまいそうになる。

 俺は、彼女を抱く手にぎゅっと力を込めて、生き返る、と思った。

「──ただいま」


 会えなくてごめん。

 寂しい想いをさせてごめん。

 我慢させてて本当にごめん。

 でも君がいるから頑張れるんだ。

 君がこうして待っていてくれるから、たどり着く場所があるから走って行ける。


 明日は久しぶりに休みを取ろう。

 そして君に贈り物をしよう。

 その華奢な手、左手の薬指にはめる指輪を買いに。


 ***


 大学を卒業してどのくらいになるのかな。

 数えるのが面倒になるくらいには年月が経った。


『遠距離になってメンドーになっちゃったんじゃないの? 界くんってば?』

 大学を出た後、紆余曲折を経てパリに住むようになった。

 途中からドイツのミュンヘンに移住した恋人とも、そりゃもういろんなことがあったけれど今はとりあえず落ち着いた。

 落ち着いて絶賛遠距離恋愛中である。

「そーゆー不安を煽るようなこと言わないでっていつも言ってるでしょ。まぁいい加減慣れたけど」

 わたしは肩に挟んだ電話機に喋りかけながらトランクに荷物を詰めている。

 電話の相手は日本に住む親友である。

 寂しがり屋の彼女は国を隔てた今でも一週間に二回は電話をかけてくる。スマホってありがたいことこの上ないよねー、と毎回口癖のように言いながら。

『だって会いに行くのに連絡ないなんてさ。しかも明日出発なのにさ。今までの彼なら考えらんないよ? パリから緋乃がぶじに着くか心配で心配で、空港でオールナイトスタンバッちゃう感じだったじゃん』

「……まあ、まあそうかもだけどさ……」

 親友の容赦ない指摘にずーん、と落ち込みながら私は声を暗くして答えた。本当に。確かにその通りなのだけど。

 でもあの頃と今は違う。

 私たちには、それぞれ仕事という生きがいがある。

「仕方ないよ。仕事忙しいんだもん」

『出たよ仕事!』

 私が言ったひとことに、親友は打てば響くはやさで答えた。おまけに、

『浮気されてるんじゃないのー?』

 とかなんとかさらにヒドイことを言う。

 さすがに腹が立ったので私は叫んだ。

「ちがう!」

『どーして言いきれるのよ? 仕事は最高の言い訳だよ。男は仕事が大切です、ハイ確かにその通りです。でもさメール返すくらいできるっしょ? いくらなんでも彼女より大事なものなんてないでしょ?』

「そ……それは……」

 まくしたてられて上手く言葉が返せない。

 それは違う。男の人にとっての仕事って、女性にとってのそれより多分ずっと大切。あくまで私の考えだけど。

『それは違うって? アンタは相変わらず、いい子ちゃんだねー、緋乃。よくそれで遠距離続いてるねぇ。ラブラブの秘訣を教えてもらいたいもんだわ』

 わたしを自分勝手に動揺させておきながら、沙絵はいつのまにか自分の話をしはじめた。どうやら今日も愚痴を聞いてほしいらしい。

 でも私はといえば、彼女の言葉に心をかきみだされてしまって、最近彼と交わした言葉を必死に反芻しはじめていた。

 忙しいのは本当よ。だって忙しくてカップ一杯のコーヒーも飲みほせない時があるって言ってた。

 経営の勉強をするために総裁の秘書としてついて、だからこまごまとした仕事が多くて。

 外資だから取引先の時間に合わせなきゃいけないから眠れない日もざらだって。

 だから、メールが返せないくらいで文句言えないでしょ。

 電話してとも、会いに来てとも言えるわけない。

 わたしが彼にかける言葉は、頑張って、と、お疲れ様。

『あたしも似たよーなもんだよ、雄輔の野郎、警察がどんだけ忙しいか知らないけど、配属先が決まった途端に連絡が激減してさ! メールなんて五日に一片!おまけにたまの休みは疲れて寝てたとか、寝坊もざらだし!』

「……」

 でも同じ国に住んでいるだけ良いじゃない。

 心に浮かんだことばをぐっと飲み込んで、私は受話器を握る手に力を込めた。


 結局ミュンヘンに着いてもメールは返ってこなかった。

 まぁ彼の家の鍵は持っているし、仕事がどうしても抜けられないから家に入っていてとは言われているけど。

 どうしてもおざなりにされているような気がしてしまう。

 わたしのことは二の次なのかなと。

 学生のときはお互いが第一だった。でも今は、仕事ができて。めったなことでは会えなくなって。

 界の心から、わたしは少しずつ、薄れて行ってしまっているのではないかって。

 そう不安でたまらないのは……本当よ。

「おう、カイの彼女か。久しぶりだね」

「こんにちは」

 ミュンヘン空港から電車にのって中央駅まで。そこから地下鉄で移動して、彼の家へ向かった。

 無愛想な管理人さんに挨拶をしてから階段を上り、合鍵で部屋に入った。

「……きたな」

 とても、散らかっていた。

 割ときちんとしている界にしては珍しいほどだ。

 机の上には開きっぱなしのノートパソコンに散らかった書類。キッチンはあまり使っている形跡が見られず、かわりにレトルト食品の残骸が。

 体に悪い……と呟きながら洗面所にも顔を出せば、洗濯物がやはり溜まっていた。シャツだけは洗っているみたいで、ストックと見られる数枚が壁に雑にかけてある。

「ほんとうに、忙しいのね」

 私は嘆息しながらつぶやいた。

 同時に、疑ったことを申し訳なく思いつつリビングに戻った。

 コートも脱がずにちょこんとソファに腰かけ、考える。彼のことを。

 私たちが成長するにしたがって、ライフスタイルも変化した。

 そしてその変化に合わせて彼の在り方も分化した。

 ビジネスマンとしての彼。チェリストとしての彼。そして私の恋人としての彼。

 忙しくてとっつきがたい彼。そっけなく感じてしまう彼。愛情深い優しい彼。どれも本当の彼で、そして私が愛する彼だ。

 今までは、彼にばかりしてもらうことが多くて……でもいまは。

 私は思う。彼のためにしてあげられることが、あるはずだって。


「ひぃ?」

 彼が帰ってきたのは、夜遅く。

 そうじと料理と洗濯でくたくたになった私の元に、申し訳なさそうにやってきた。

「ひい、どこ?」

 疲れてうとうとしていた耳に、大好きな低い声が届く。

 私が眼をこすれば、暗い部屋が明るくなって。

「緋乃?」

「……んー」

 まぶしくて良く見えないけれど、確かに彼だ。

「ごめん。……遅くなって」

 眼をこすれば、彼の顔が視界いっぱいに映り込んだ。

 やっぱり疲れてる。

 シャープに引き締まった輪郭、目元のクマ。

 はぁ、とため息をつきながら、それでも私の髪をすくう手つきがひどく優しい。

 それだけで、私はもう、しあわせでいっぱいになる。

「ううん。お仕事、お疲れ様」

「ありがと」

 ぎゅっと抱きしめてもらえば、なんだか全てを許されたような気がして。

「……おかえりなさい」

「──ただいま」

 交わした微笑みが不安の答え。


 いつも疲れてるのに、メールくれてありがとう。

 電話もくれてありがとう。

 会いたくて、会えなくて、怖いのはいっしょだよね。

 でも、あなただから待っていられる。


 綺麗に部屋を整えて。

 おいしいご飯を作って。

 洗濯物をふわふわにして。


 あなたのことを待っているよ。





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