再び
家を出て十分後には、僕は『宝船』の前に立っていた。
大黒の力を使うと、何故か身体能力が爆発的に上がる。大黒曰く、肉体が世界から秘匿されるが故に、物理的な抵抗を受けにくくなるとかなんとか。
よくわからない、トンデモ理論の説明を受けた事がある。
でも今はそんな事はどうでもいい。重要なのはここからだ。
僕は大黒の能力を解除して、勢いよく『宝船』のドアを開いた。
そしてそのまま、無言でいつものカウンター席に腰掛けた。須藤さんは文庫本に目を落としたまま反応する事はない。僕もカウンターに視線を落としたまま言った。
「──蒔苗が攫われました」
店内は静かだった。BGMも流れておらず、鳥の声だけが微かに店内に響く。
須藤さんは僕の言葉に反応しない。山音さんは後ろのソファーですやすやと寝ていた。
窓からは斜めに陽光が射していた。レースのカーテンを間に挟んだその光はとても柔らかく、まるで祝福のようだった。そして開いた窓からそよぐ春の風。山の木々の間をすり抜けて、そよそよとそそぐ風。幼い頃、傷にあてられた母の手のように、全てを包みこんでいた。
店内は調和していた。
僕はきっと調和を乱しているのだろう。でも今の僕にはそんな事は関係ない。
もう一度。
「──蒔苗が攫われました。須藤さんを尾行すると言った後に」
今度は声をはった。その声に、ねむっていた山音さんが跳ね起きた。
須藤さんは僕の言葉に、ゆっくりと顔をあげた。
「長柄さんが攫われた。私を尾行すると言った。という事実を私に告げるというのは──私を疑っているという事でいいのかい?」
そうだ。状況的には須藤さん以外の容疑者が存在しない。でも僕には答えられない。
「無言。という事は、肯定していると受け取らせていただくよ。その上で問わせてもらおう。君は本気で、私を疑っているのかい?」
本気で。そう言われるとわからない。でも状況的には須藤さん以外に犯人は考えられない。状況証拠だけで言うならば、真っ黒だ。人間性的にも真っ黒だけれど。
でも、心の片隅ではこの人はそんな事はしないのではないかと、信じている自分がいる。突き詰めれば、信じたいという気持ちになるだろうか。僕を救うと言った、この人を信じたい。という気持ちから、今の気持ちが出ているとしたら、それはただの希望的観測だというのもわかった上で。なお、信じたいという気持ちが残っているのだ。
こんな気持ちに気付き、僕は我ながら驚いた。
クソみたいな人間性で、朝の挨拶もろくに出来ないような人でなしを信じているというのだから。僕は自分が思っていたよりも、人に騙されやすい人間なのかもしれない。
須藤さんの問いに対する答えは。信じたいが、信じられない。信じたくないが、信じている。という答えになる。僕にはこの相反する複雑な気持ちを、どうにも言葉にする事が出来ない。
「どうなんだい?」
無言の僕に、再度須藤さんが問う。
「──蒔苗も救ってくれますか?」
問いに対する問い。答えになっていない答え。それでも僕には精一杯の答え。
それでも須藤さんは察してくれる。須藤さんは応えてくれる。この人はどうにも出来ない事件を解決する探偵なのだから。全ての未来が閉じてしまった事件を解決する探偵なのだから。
今度も何とかしてくれる。
きっと、きっと──。
「それは無理だね」
拒絶。それはきっぱりとしていて、凛としていた。心地よい程の拒絶。
淡い望み。儚い信用。これらは全ては僕の妄想に過ぎなかった。僕がそう信じたかっただけだった。この人は僕を拒絶した。
「どうして」
──貴方が犯人だから? それともメリットがないから? 普通の事件だから? 聞きたい事が心のうちでは溢れるが、心が安定しない。うまく言葉に気持ちをのせられない。
「どうして? どうしてって、それは当たり前じゃないか? 尾行をするという事は、彼女は私を疑っていたんだろう。そんな人間をなぜ私が助けるんだい? それに私は君にとって、空手小町を攫った容疑者なのだろう。容疑者が無罪を証明するために事件に協力するなんて、フィクションの世界だけの話だけさ」
言われてみれば、それはそうだ。自分に敵意を向ける人間を助ける道理はないし、容疑者は極力事件に関わろうとしないだろう。だけど蒔苗は攫われたんだ。いま、何処でどうなっているかもわからないんだ。助けたい! 助けて欲しい! 助けるといって欲しい!
でも須藤さんは、きっとその言葉を言ってくれる事はないだろう。
僕にはもう──わからない。この人は、善なのか、悪なのか。わからない。僕は騙されているのだろうか。わからない。この言葉で全てがわかるだろうか? 聞いてみたい。
──いや、聞かざるを得ない。
「須藤さん。貴方は、悪なのですか?」
自ら放った言葉で、信じられる。信じている。信じたい。そんな気持ちが、はらはらと散っていく。河原に舞う桜のように。浜辺に舞う砂のように。並木道に舞う枯葉のように。窓の外を舞う粉雪のように。
言葉にしてはじめてわかる。僕はもう──この人を信じてられていないんだ。
須藤さんは表情一つ変えずに答えた。
「君が悪だと思うのならば──そうだよ」
「僕を救うと言ったのも、嘘ですか」
「ああ──嘘だね」
「僕は救われない──んですね?」
「そうだね」
須藤さんはここで始めて、僕を見た。
「君は、私を、信頼──していないのだろう?」
「ええ──」
その言葉で、僕は席を立った。
★★★★★
「サキイカさん」
『宝船』を出た僕の背中に柔らかい声が降り注ぐ。山音さんだ。振り向かなくてもわかる。
「はい」
背を向けたまま僕は答えた。
「蒔苗さん……どこ行っちゃったのですか?」
さっきの話を聞いていたのだろう。山音さんの声は潤んでいた。
「蒔苗ですか……。攫われたんです。犯人も、どこにいるのかもわからないんです」
「さらわれた……よくわからないです。わたしは蒔苗さんに会いたいです」
僕の耳に、すすり泣くような声が届く。
「僕もですよ。でも、僕には探しようがないんです。須藤さんも、学校も、誰も彼も怪しくて。でも僕一人じゃあ、何も出来なくて。でもでも、それでも何とかしたい気持ちだけは、その気持ちだけは胸の奥から湧いてきて。僕にはどうしたらいいのか……」
言葉が溢れる。感情が溢れる。涙が溢れる。つつッと涙が零れそうになった僕は、慌てて天を仰いだ。子供の頃の蒔苗が空に浮かぶ。それを見て、今度は鼻の置くがツンッとする。
僕は子供のように、孤独の寂しさに泣き出しそうだった。
そんな僕を風が包んだ。
暖かく、柔らかく、芳しく、麗しい。
風に。風のような女性に。
山音さんに抱きしめられていた。
「ヒャッ、ひゃまねさん!」
「サキイカさん……」
「一人じゃないですよ。わたしがいます」
……一人じゃない。嬉しい。嬉しい言葉だけれど。
「ありがとうございます。そう言ってもらえるのは、凄く嬉しくて、救われた気がします。でも実際、僕には蒔苗の居所はわからないし、それを見つける手立ても持っていません」
僕はそう言って、肩を落とした。山音さんは可愛いし、手助けをしてくれると言ってくれたのは凄く嬉しい。でもそれで事態が変わるわけじゃない。
山音さんの顔を眺めた。不思議そうな顔で僕を見つめていた。
「どう、しました?」
「わたし、わかりますよ」
「え? 何がですか?」
「ですから、蒔苗さんの行方です」
「は?」
意外すぎる人間から、意外すぎる言葉が飛び出した。蒔苗の行方がわかる? 山音さんが? そんな馬鹿な。なぜそんな事がわかるんだ? そんなの犯人以外にわかるわけない。って事は、この目の前にいる可愛らしい人間が犯人だっていうのか? いやいや冗談がすぎる。
「なんで──そんな事が?」
「須藤さんが教えてくれました」
「ッ! やっぱり! 奴が犯人だったのか!」
「違いますよ。須藤さんは犯人じゃありません」
「え? でもだって、須藤さんが教えてくれたって……」
「須藤さんが教えてくれたのは、蒔苗さんの居場所じゃなくて、その探し方です」
「探し方? 蒔苗の居場所をですか? それはどうやって?」
僕の問いに、山音さんは嬉しそうに胸をはった。
「においを追うんです!」
「におい、ですか?」
「はい! 須藤さんは仰いました。須藤さんを追って行方不明になったのなら、最後の足取りはこの店の前から始まっているだろう。そしてわたしなら、そこに残った匂いを追って蒔苗さんの行方を追う事は簡単だろうって。私は彼女を助ける気はないけれど、山音さんがどうしても助けたいと言うなら、サキイカ君を手伝ってあげなさい。って」
そんな事をあの人が。人間失格のあの人が。言ってくれるとは思わなかった。
「でも! 山音さん。本当に蒔苗の匂いを追う事なんて出来るんですか? 蒔苗は別に体臭が強いわけでもないですよ。人間にそんな事が出来るとは思えないんですけど……」
「どうぞ」
疑う僕の前に山音さんは小さなハンカチを差し出した。僕はワケもわからず受け取った。
「これは?」
「わたしは後ろを向いていますから、サキイカさんの好きな所に、そのハンカチを隠してください。それをわたしが見つけます。そうしたら信用できるでしょ?」
なるほど。僕は僕の手の中にある小花柄のハンカチを見つめた。
「じゃあ、どうぞ」
山音さんはそう言って、くるりと後ろを向いた。
どうしよう。どこに隠してもいいんだよな。ヘンタイはヘンタイらしい場所に隠すのがいいかとも思うが、そんな事をしたら、ますます僕の好感度がデフレてしまう。
ここは素直にいこう。 僕はハンカチを隠して、山音さんを呼んだ。その言葉に山音さんは、再びくるりと前に向き直り、スンッと鼻をひとつ鳴らした。
途端に表情に得意げなモノが浮かんだ。
「サキイカさん。もっとひねって下さい。ハンカチはサキイカさんの胸ポケットの中です」
当たりだ。驚いた。はずれるだろうと思っていた。まさか本当に匂いがわかるとは。しかもこんなに正確に。僕はごそごそと胸ポケットからハンカチを取り出し、山音さんに返した。
「これでわかってもらえました?」
ハンカチを受け取り、山音さんは満面の笑みで、僕を見つめていた。
「はい。信じました」
「じゃあ! はやくはやく。いそぎましょう。わたし、蒔苗さんにはやくあいたいです。蒔苗さんのにおいはこっちに続いてますよ」
山音さんは僕の手を引いて駆け出した。
★★★★★
山音さんの協力を得て、僕らが蒔苗の匂いを追った結果。たどり着いたのは学校。
その中でもさらに因縁深い。校長室だった。
『僕は』そこで途方に暮れていた。何故途方に暮れているかと言うと、原因は山音さんだった。山音さんは蒔苗の匂いを追って、僕をこの校長室までいざなってくれた。
ここまではよかった。
ここからがよくなかった。ここに着いたと同時に、山音さんの胃袋はからになってしまった。空になってしまったと言う事は、山音さんはナニをどうしても、空腹を満たさない限りは動かないと言う事になる。しかも蒔苗が囚われているであろう場所で。
つまりは一刻の猶予もない。そんな状況だ。仕方ないだろう。
僕はついつい山音さんに嘘を吐いてしまった。
「校長室の中に高級フランス料理がある」
と──。だってにっちもさっちもいかないんだもん。今回は想定外の行動で、食べ物も用意していない。こんな荒唐無稽な嘘を吐くしかなかった。嘘で釣るしかなかった。
結果として。僕は山音さんに、恨めしそうな顔で見つめられている。
「ありませんよ、サキイカさん」
山音さんは、校長室の真ん中に鎮座して言った。実に不服そうだ。
校長室は荒れていた。山音さんを中心にして。歴代の校長の写真。トロフィー。書類。書籍。抽斗。筆記用具。文房具。部屋中のありとあらゆるモノが散乱していた。
その様子は局所的かつ、極小な竜巻が発生したかのようだった。しかし残念ながら、これは自然現象ではなく、山音さんが食料を探して、荒らした結果だ。当人はフーフーと息を荒げながら、散乱した部屋の中心でどっかりとあぐらをかいている。その様はまさにビースト。
獣バージョンの山音さんは、再度僕に問いかけた。淡々と。
「フランス料理がありません。嘘ついたんですか?」
山音さんは、革張りの椅子でくつろいでいる僕を睨んでいた。山音さんから見たら、ご馳走探しをサボっているように見えるだろう。そんな僕を睨んでいるその目、その表情は、鬼気迫るモノがあり、蒔苗が怒っている様よりも、狂気を纏っている分だけ、断然迫力があった。
そりゃあ高級フランス料理なんてあるワケない。嘘だから。だがこの事実だけは認めるわけにはいかない。認めた瞬間に、僕の肉体は山音さんの胃の腑に収まる事になるだろう。
「おかしいですね。ここにあるはずですよ」
「ありません」
無表情。
「もっと探してみてください。僕はここのどこにあるかまではわからないんです」
「もう探しました」
無表情。
「困りましたね。匂いはしませんか?」
するわけない。なにせ、僕の口から出るに任せた嘘なのだから。
「……匂いはします」
匂い、するんだ。予想外。
「匂いがするから、わたし一生懸命探したんです。でも匂いしかしません。どこにも食べ物がないんです。困りました」
匂い。するわけないだろう。人間と言うのは、思い込んだら匂いまで嗅げるようになるのか。確かに空腹が極限状態になると食べ物の幻影が見えると言う話を聞いた事はあるが、あんなのは作り物の話の中だけだと思っていた。だが、今の山音さんの様子を見る限り、実際そういう事もありそうだ。
「困りましたね」
僕は両手を後ろに伸ばし、思いっきり伸びの姿勢をとった。そのまま目を閉じる。暗い部屋がもっと暗くなった。何も見えない。目を閉じているのだから当たり前だが。
本ッ当に困った。
ここから先をどうするか、全く考えていなかった。この校長室に来た時。因縁を感じながら、全てが繋がった気がした。校長室の扉を開けば、事件の扉も開くと思っていた。
でも実際は何も起こらなかった。ただ部屋が散らかっただけだ。しかもこの惨状。これはもう──どこから見ても本当にタダの泥棒だ。警察さんに捕まっても、何の申し開きもできない。
そんな状態になった挙句、何も見つかっていない。
今は椅子にこんな状態になっている僕だけれど、実は来てすぐは山音さんと一緒に探していた。勿論探しているモノは、山音さんと違って、フランス料理などではなく、隠された空間へと続く道なんだけど。いくら探してもソレは見つからなかった。
結果として僕は途方にくれて、フランス料理探しをさぼっている。
「どうしよう」
僕はそう呟いて、僕は椅子に預けていた身体を起こした。胸にドンッと何か、固いものが当たった。目を閉じる前は、胸に当たる何かなどなかった。
何だ?
僕は胸に当たったモノの正体を確かめるために、ゆっくりと目を開いた。そして前に向けていた視軸を下にずらす。その先にあったモノ。
それは頭だった。下げた視線の先には黒髪に包まれた頭があった。
「どぅわッ!」
目の前に急に生首が現れた。異常事態。ホラー。パニック。
僕はあまりの驚きに、身体をバネのように仰け反らせた。椅子が優しく、音もなくそれを包んでくれた。そのまま引き気味に生首を眺めていた。
「うるさいですよ」
生首が喋った! いやいやいやい。そんなワケがない。生首は喋らない。肺から空気が供給される事がないのだ。声帯が振動するワケがない。だから生首は喋らない。よし問題ない。
「大丈夫、大丈夫。怖くない」
「だから、サキイカさん。うるさいですよ」
生首は喋らない。生首の知り合いはいない。僕はサキイカじゃない。だから、怖くない怖くない……ってサキイカ? 僕をそう呼ぶのは、喫茶店の店主と、天使と獣のような少女だけだ。
胸元の生首を、パシリとはたいた。
「イタッ」
実体があった。つまり、これは生首ではなく、お化けでもなく、実際の人間であり、僕の知っている人間という事になる。
「何してるんですか、山音さん。机の上に乗るなんて、お行儀悪いですよ」
よく見てみると、それは生首などではなく、机の上で丸まって、机の下を覗き込もうとしている山音さんだった。
叩かれた頭をさすりながら、顔をあげた山音さんの頬は膨らんでいた。怒っている。でもその顔を上げた体勢が、香箱を組んで、顔を上げた猫みたいで愛らしい。
「この下から、美味しい匂いがするんです。邪魔しないで下さい」
残念ながら、そんな匂いはするワケがない。なぜならこの下には僕の足しかないからだ。
「僕の足は食べられませんよ」
山音さんの首が傾いた。僕の言葉を思案している様子だった。
そして首を戻して言った。
「サキイカさんの足は臭いので、食べられないのは知ってますよ」
ッ! 臭いですか? 僕の足ッ!
「じょ、冗談ですよね?」
「ん? 何がですか? サキイカさんの足が臭いのは本当ですよ。さっきからその足の臭いで、美味しい匂いが消されていたんです。だからわたし、美味しい匂いの出所がわからなかったんですけど、でもサキイカさんの足の臭いをかいくぐっても、ここから美味しい匂いがしてくるのです。つまりはここが美味しい匂いの出所です。だから、邪魔しないで下さい。そして出来ればここからどいてくれると助かります」
真剣な表情。嘘でも冗談でもないらしい。僕は無言で椅子から立ち上がって、部屋の隅に移動した。それを見てひとつ頷くと、山音さんは机からおりた。そしてさっきまで僕の足が、山音さん曰く、臭い足が、納まっていた机の下にもぐりこんでいった。
全てが、全てが解決したら、蒔苗に聞いてみよう。僕の足が臭うかどうかを。こんな事は誰にも聞けない。こんな事に真剣に答えてくれるのは蒔苗しかいない。これでまた一つ、蒔苗を助けなければいけない理由が増えた。
僕は部屋の隅で、自分の足の臭いを嗅ぎながら、決意を新たにした。
そんな中、山音さんはまだごそごそと、机の下をまさぐっているようだった。僕は両方の靴を脱いで、しばらく足を乾燥させてから、再び靴を履いて、机の近くにおそるおそる近づいた。
「山音さん、どうですか?」
また臭いと言われたら、僕は心が壊れてしまうかもしれない。
「やっぱり、ここです。ここから美味しい匂いがします。サキイカさん、こんな所にご馳走を隠していましたね。意地悪するなんて酷いです」
幸い、今度は臭いとは言われなかった。代わりに意地悪と言われたが、そんなの安いもんだ。むしろご褒美のように感じる。
「すみません。交代して、僕に見せてもらってもいいですか?」
確かに、机の下はまだ調べてなかった。何かが隠されていても違和感はない。──というよりも、何かを隠すのであれば、むしろ本命だろう。
こんな簡単な所に気付かなかったのは、完全に僕のミスだ。この時間のロスで蒔苗を救えなかったとしたらと考えると恐ろしい。
急ごう。
僕は山音さんと交代して、机の下に潜った。潜った先は真っ暗で、何も見えない。それに山音さんの言っていた美味しそうな食べ物、高級フランス料理の匂いなどもしない。かわりにするのは、木の匂い。重厚な無垢の木材で作られた机の匂いだった。
僕は机の下に頭を突っ込んだまま、ジャケットの胸ポケットからペンライトを取り出し、点灯した。途端に真っ暗だった机の下が、人工的な光に照らされた。
僕はペンライトを口に咥えて、両手を自由にした。そして床にはってある毛足の長い絨毯を力任せにべりべりと引きはがした。
「あった」
僕が小さく呟いたその一言に、山音さんは過敏に反応して言った。
「ありましたか! はやくはやく。わたしにそのご飯を下さい! 死んでしまいます」
後ろでバタバタと飛びはねている音がする。
「いえ、すみません。ご飯が見つかったわけじゃないんです。あとちょっとですから、もう少しだけ待っていて下さい」
僕の目の前には取っ手のついた、網柄の大きな鉄板が現れた。それを軽く叩くと、中からは空洞をしめす、うわんとした音が返ってきた。
取っ手がついている所をみると、この鉄板が扉代わりになっているようだった。左右のレールらしきものが鉄板を支えているのを見ると、上に開くタイプの扉ではなく、奥にスライドして開くタイプの扉だろう。机の下という特性上、正しい判断だと思う。
鉄板には鍵穴が見えた。
鍵か──鍵ね。ないよね。うん、ないない。鍵なんてかかってないと思う。
カチャリ。
やっぱりね。僕は鉄の取っ手に手をかけて、扉の仕様どおりに手前にスライドさせた。
重い手ごたえと、ガラガラとなるレールの音と共に、扉は僕の意図したとおりの動きで、その下にある空間をさらけだした。
「先は暗闇か」
僕は、机の下から体を出して、ぺたりと床に座り込んで、ペンライトの光では先の見えない。目の前にある闇を眺めた。
光に照らされた範囲だけで判断すると、それは大型のプール施設にありがちな円筒状のウォータースライダーのようになっている。とは言っても、健康的な感じではなく、真っ暗な世界へ繋がるそれは、まるで根の国に僕らを誘っているように見えた。
てことは、先にいるのはイザナミ状態の蒔苗って事? ブラックが過ぎる。
しかし、どうしよう。こんな得体の知れない所に飛び込んでいいだろうか。いや無理だ。
正直僕は尻込みしていた。それと同時に、油断もしていた。
僕が先に進む事を躊躇している後ろで、空腹の獣が狙っていたのだった。
獣は僕の肩に手を掛けて、後ろに引き倒し、僕の体を踏みつけ、闇の中に滑り込んだ。
「美味しい匂いがしますぅーーー」
そんな言葉を残して。獣はいってしまった。落ちる速度の早さに、その声はドップラー効果を引き起こしていた。
僕は一瞬、何が起きたかわからずに、僕を踏み越えていった山音さんのローアングルを堪能する事も叶わず、校長室の天井を眺めていた。
空腹の獣は、僕と言う障害を乗り越えて、高級フランス料理を求めて旅立った。
★★★★★
引き倒されて、阿呆のように天を仰いでいた僕は、山音さんの声が聞こえなくなった位に状況を認識した。そして認識と同時に脊髄反射で、すぐスライダーに飛び込んだ。
さっきまでの尻込みは消えていた。
体が加速に包まれる。飛び込んだ先は、かなり急勾配で、くねくねと曲がりくねり、道も二又だったり、三叉路だったりとかなり複雑な造りになっているようだった。
はじめはおっかなびっくりで、周りを認識する余裕もなかったが、加速になれるとそんな程度は認識できるようになっていた。
でも、人生はそんな甘くない。
少しだけ、このアトラクションを楽しむ心がうまれた瞬間。
僕の体は更なる加速に包まれていた。
しかも縦方向の。
道の途中にぽっかりと空いた縦穴に落ちたのだった。
僕の体はその穴を不思議の国のアリスよろしく落ちていった。重力が僕の体を愛していた。
アリスはファンタジーだから、落ちていくさまを楽しむ事も出来ただろう。それはそれは様々な落下描写も可能だろう。瓶詰めの画鋲ジャムをとって、指を突っ込んで、舐めて、顔をしかめて、それを別の棚にしまったって何の問題ない。
だけど、僕は現実だ。完全なる物理法則に支配された、物体の自由落下だ。
食道が、肺が、心臓が、胃の腑が、大腸が小腸が、僕の口から這い出ようとしてくる。
声も、息も、出せない。これは非常にまずい。
死ぬッ。そう理解した時。
「大黒ッ! 陰形」
僕は神の声を聞いた。精神が加速する。同時に風景が停止した。ワケではなかった。視認できる程度には落下している。精神が加速した状態で落下が認識できると言う事は、それだけ落下速度が速いという事だ。
危なかった。正しくは、現状でも危ないのだけれど。この精神の加速時間が終了すれば、結局は加速する前と状況は同じだ。むしろ時間が経過する分、悪化している。
「大黒ッ」
僕は神の名前を呼んだ。早く出て来い。
「なんじゃ?」
そんなのんきな台詞を伴って神は顕現した。本気でイラッとする。
「なんじゃ? じゃないよッ! この状況わかってる? あと一歩で僕は死ぬんだよッ。神さまだったら何とかしてよ」
大黒はそんな僕を見て少し笑った。
「儂を頼るのか? 我が子孫よ。そうか、儂を頼るのか。ふむふむ──」
「頼るよッ! 頼るに決まってるじゃないか。だって、お前は僕の守護神なんだろ?」
「守護神ッ!」
僕の言葉に、大黒の表情がさらにいろめきたつ。
「いまお主、儂を守護神と言ったかの?」
「言ったよ、言った。それがどうした? だって守護神なんだろ? こんな状況で違うと言われても困るからな」
「そうかッ! わかったぞ。守護神がいま、おぬしを救おう」
心底嬉しそうだった。守護神らしい事が出来て、実に満足そうだった。心なしか顕現時よりも体が大きくなっている。
でもそれだけだった。それだけ。救おう。と言ったきり、大黒は何もする気配はない。
「おい、大黒」
「なんじゃ?」
「だから、なんじゃ? じゃないんだよ。早く救ってよ」
「ふむ、実はじゃな──」
嫌な予感がする。
「おいッ! 実は──救えませんとか、ほんッとにやめてよ。冗談じゃすまないからな」
既に顔半分まで闇に包まれている僕。もうすぐ精神の加速状態は解除される。そうしたら、こんな悠長なやりとりは、それこそ闇に包まれて消える。
「いや──逆、逆じゃよ」
「は?」
「もう救えておるのじゃ。この状態で問題ない。この精神の加速時間が終了して、肉体の加速状態に移行すれば、この程度の高さからの落下は何ということもないのじゃ。強いて言うなら、ちょっと足が痛いなー程度の被害状況じゃの」
「は?」
「つまり、お主は既に助かってお──」
僕は大黒の声を最後まで聞く事は出来なかった。
その瞬間、僕に全てが訪れたから。
────────。
急に肉体が落下に包まれて、落下が衝撃に変わって、僕の精神の加速は、肉体の加速に移り変わって、落下の加速は、肉体の加速によってすべて吸収された。
タイムアウトだった。精神の加速時間の終了。確かに大黒が言ったとおりに、肉体的影響は足が痛いなと思う程度だったと思う。何の問題もない。本当に助かっていたと思う。
肉体的には。
でもそんなの認識する暇もなかった。だって精神的には無事じゃなかったから。
加速、衝撃、遷移、吸収。それらが落下の恐怖と組み合わさった。精神が加速している間は封印されていたそれら全てが、肉体の加速とともに全て同時に僕に訪れた。それはまるで雷に撃たれたようだった。
その雷を同時に全て処理する性能を僕の脳は持っていなかった。このままではやられる。そう判断した僕の脳は、精密機械が過電流を受けた時と同様の処理を行った。
ブラックアウトした。肉体の加速時間の始まり。