逮捕
「きみは馬鹿かね」
須藤さんの辛辣な言葉に、僕は言葉無く頭を下げた。
昨晩、僕らをつつんだ光は警察によるもので、山音さんが怯えていた原因はその気配を察知していたからだった。結果として不法侵入などの容疑で逮捕された。
その逮捕された僕がなぜここで珈琲を飲んでいられるかと言えば、それは須藤さんの力だった。無実という事になったらしい。どうやったらそんな風に警察を動かせるのだろうか? この人のコネクションが恐ろしい。
山音さんは釈放された後、そのまま須藤さんが家に送り、蒔苗はそのまま学校に向かい、終わった後ここに来ると言っていた。そして無期停学中の僕は一旦家に帰った後、『宝船』でこうやって珈琲を啜っている。
生まれてはじめて手に掛けられた手錠は、とても重たくて、冷たくて、鈍かった。ただの鉄の塊のはずなのに……なんだか絡みつくような感じがした。二度とはめたくない。
僕は左手首を握って、力の限りにこすった。まだ、手錠がこびりついている気がしていた。
「あれだけ、山音さんを危険な目にあわせるなと言ったのに。君は何も理解していなかったのかね。本当に度し難い」
「すみません」
似たような小言を数回繰り返し、最後に。
「まあ、美術品の連続窃盗事件が発生していて、たまたま厳重警戒中だったらしいから、一概に君のせいとも言えないのだがね。私が警察と懇意だったから解放されたのだよ。海よりも深く、天よりも高く、感謝したまえよ」
そんなフォローともつかないフォローを口にしてから、須藤さんは大きな溜息を吐いた。
「それで、私が命令した調査はしっかりとやったんだろうね?」
さすがに小言にも飽きたらしく、話は本題へと戻った。
「ええ、学校の見取り図、校長室の写真とかですよね?」
「ああ、そうだ。早く出したまえ」
ぶっきら棒に手を伸ばす。
「わかりましたよ」
僕はスクールバッグをがさごそと──? スクールバッグを──? スクール──?
「あああああああ!」
「うるさいよ。君は実にうるさい。さっさとモノを出したまえ」
ない……バッグがない。あれに全部入っているのに。失くした? 一体どこにいった? 逮捕された時に押収されて、釈放された時に返却されて、それを蒔苗に──。
「そこかあああああああああ!」
「うるさい!」
怒った須藤さんが煙管で僕の手の甲を叩いた。
「あっつあああああああああああああああ!」
火種の残っている雁首で叩かれたから堪らない。僕は反射的に引っ込めた手をぶんぶんと振った。本気で痛熱い。
僕はフーフーと手を吹きながら、恨みがましい目で須藤さんを睨みながら言った。
「すみません。写真を撮ったデジカメと見取り図の入ったバッグを蒔苗に渡したままでした。だから、今はモノがありません」
無言。
須藤さんは何も言わなかった。ただ、火皿から灰を落とし、新しい煙草を丸めてに火皿に火を点けた。ゆるうりと紫煙がたゆたう。
「役立たずが」
煙も言葉も毒なのか!
「ちょっと! しょうがないじゃないですか。逮捕されたんですよ。健全な高校生が逮捕されたらショックで忘れたりするでしょう?」
「君はその程度で、自分の未来を忘れるのかね?」
自分の未来? 鞄と僕の未来を同列に語られても困る。
「未来って大袈裟な……」
「大袈裟? これは大袈裟でもなんでもないよ。君のやった事はそういう事なんだよ。この世は一つのミスが命取りになるような環境だ。だから探偵はどんな状況でも優先順位を失わない。己を失わない。思考を失わない。君は探偵失格だよ」
僕は探偵ではないが、でも悔しい。正論だ。ぐうの音もでない。誰だって忘れる事はあるし、失敗する事はある。でもそうすれば死ぬまで行かずともダメージは負う。
真理だ。返す言葉がない。
「黙っているんだったら、さっさと帰ってバッグをとってきたまえ」
僕は無言で席を立った。悔しかった。立って、俯いたまま、歩いて出口に向った。
そして扉に手をかけた。しかし、扉を開けるはずのその手は、スッカリと空を切っていた。空を切った次の瞬間には、僕の眼前には星が飛んでいた。
体は宙に浮いていた。一瞬で魂は肉体の軛から解放され、天に開放されていた。
ワケはない。
実際は単純に店内に入ってきた客と、鉢合わせしただけの話だった。そしてその相手は蒔苗だった。運がいいような、悪いような。
僕とぶつかって、そのまま僕の上にのしかかった形になっている蒔苗は、一瞬で僕を視認した。電気信号が脳内でスパークしている音が聞こえてきた。同時に叫びも。
「さいかあああああああああああ!」
僕の襟首を両手で掴んで、僕の名を叫んでいた。これは死を覚悟するべきかもしれない。完全に命をとりにきている。と思った。しかし実際は違っていた。
「あたしも無期停学になっちゃった……」
その言葉と同時に、僕の頬にぽつぽつと雫があたった。きっと雨漏りだろう。
「空手の大会にも出さないって……空手部も廃部だって……何言っても駄目なの。大人は何も聞いてくれないの」
蒔苗はのしかかったまま、僕の胸にすがりついて、動かないでいた。だんだんと胸が温かくなってきた。きっとホットコーヒーがこぼれたんだろう。
僕には何も言えなかった。ただ首を絞められて、床に頭を叩きつけられて、そんな状態でも。それでも何も言わずに、胸から珈琲を飲んであげる事しか出来ない。
沈黙。店内はしばらくそのまま止まっていた。扉は開け放たれ、その付近の椅子は吹っ飛んでいた。ただ須藤さんの紫煙を吐きだす息の音だけがしていた。
僕の胸の珈琲が冷めきった頃、蒔苗は無言で立ち上がった。
一緒に僕も立ち上がった。ぱたぱたと背中の埃を払う。蒔苗は軽く俯いた状態からそんな僕を上目遣いで見ていた。瞼が赤く腫れていた。寝不足だからな。仕方ない。
「ごめんね」
それは聞き取れない位の小さな声だった。
「は? なんか言ったか? よく聞こえない」
言った瞬間。
衝撃。棒鞭でふくらはぎを抉られたようだった。勿論それは蒔苗のローキックだけど。
「うっさい! バカッ! バカバカバカバカッ へなちょこ!」
痛い。痛いけど。胸で珈琲を飲まされるよりは、まだマシだ。
「あっ! そうだ! 蒔苗」
「なによ。バカ雑賀」
普段どおりだ。
「おまえ、僕のバッグ持ってないか?」
「これの事? なんで忘れてんのよ」
ぶつくさ言いながら、右手でぶらぶらと目の前に突き出してきた。
「そう! それそれ」
ほいっと、蒔苗が投げてよこしたそれを、僕は両手でキャッチした。中身を確認する。有った! 良かった。これが僕の未来。少し安堵してカウンターに座った。蒔苗も僕の隣に座った。
須藤さんは黙って珈琲を二杯淹れてくれた。
陶器のマグカップがカチャリと鳴って、二つの珈琲を啜る音が、重なって店内に響いた。
「あったかい……」
蒔苗が言った。珍しく僕も蒔苗の意見に同意だった。
★★★★★
一息。僕と蒔苗は一息ついていた。失せ物は見つかり、行き場のない不安を吐き出し、暖かい珈琲を飲んで、なんだか落ち着いていた。
しかし、そんな安息はまやかしだとばかりに須藤さんは現実を突きつけてきた。
「それで? 私が頼んだ物は揃ったのかい?」
「あ、はい」
そうだ。その話の途中だった。僕はさっき受け取ったバッグをゴソゴソとあさり、頼まれていた品をカウンターの上に置いた。
デジカメと見取り図だ。見取り図くらい、ウェブから取得できるようにしてほしい。そうしたら留置場で過ごした一夜はなかった事になっていたかもしれないのに。
「ふむ」
須藤さんは僕の言葉に返答なのか、鼻を鳴らしただけなのか、わからないような返しで、僕の手からデジカメを受け取った。
「見取り図はそこにおいてくれたまえ」
そう言いながら、デジカメをカウンター内のPCに接続し、データをPCに取り込んでいる。そのままPCから視線をそらさずに、須藤さんは言う。
「さて、これから君たちに危険を冒してまで、入手してきてもらった写真を検分していこうと思うが──いいかね?」
僕はカウンターの中に軽く頷くと、須藤さんもまた無言で僕に頷いて返した。
カチカチというマウスクリックの音とともにディスプレイに写真が映し出された。
僕の撮ってきた写真たち。職員室。学年主任の部屋。教頭の部屋。
その都度、須藤さんからは質問が発せられた。それに僕と蒔苗で答える。これは何。あれはそれ。これはこれ。何の変哲もない質問だった。この質問が何の役に立つのかわからなかった。
だが今はこの質問の一つ一つが僕の人生に繋がっている。
だから今はこの質問の一つ一つに丁寧に答えていこう。
質問、返答。質問、返答。質問、返答。質問、返答。
積み重なっていく情報。
それらがいつの間にかに拡大コピーされて、ホワイトボードに貼り付けられた見取り図に、一つ一つ書き込まれていく。骨のようにスカスカだった見取り図が肉をまとっていく。
そうして徐々に僕らの見知った学校になっていく。
一階と二階の見取り図がほぼ埋まった。ここまでで小一時間経っていた。残るは三階で、それは僕らの逮捕された場所で、僕と蒔苗が無期停学になった場所。
まずは廊下。
「これは豪華だね。明らかに他の階とは違うじゃないか」
「ええ、僕も最近見たばかりだったんですけど、驚きましたよ」
「あたしも今日で二回目……」
蒔苗は今日の事を思い出しているのか、心なし涙声になっていた。
「ふむ──君らは入学後、日が経ってないから、ここを見た事がなかったのかね?」
僕と蒔苗は顔を見合わせた。
学外の人間はそういう風に考えるのか。確かに普通に考えれば、校舎内で立ち入りを禁じられているフロアーなんて、存在自体がありえないもんな。
「いえいえ、違いますよ。ここはですね。生徒と一般教師は立ち入り禁止の階なんです。僕は無期停学の時に呼び出されたんで入りましたけど……」
「あたしも」
蒔苗に元気がない。そりゃそうか。生きがいの空手部を禁止されたんだもんな。家が空手の道場で空手はいくらでもやれるだろうが、道場と部活はきっと別なんだろう。
「じゃあ、ここに入れる人間は限られるんだね? 一体、誰が立ち入り可能なんだい?」
「そうですね……」
ちょっと考える。あれ? 誰が入れるんだろう? この間、校長室にいた校長と教頭は間違いなく入れるよな? そもそも校長は部屋があそこにあるんだもんな。
その二人以外で誰が入れる? 誰が入っていった?
……学年主任くらいは入れるのかな?
どうだろうか? 三階に続く階段をのぼっていた姿を、見た事があるようなないような。
「校長と、教頭と。あとは学年主任くらいですかね? 学年主任はほんとに入れるかどうか、定かじゃないんですけど……蒔苗が呼ばれた時は、他に誰かいたか?」
「いなかったわよ。校長と教頭だけ。あいつら全く話を聞かないの! 今思い出してもむかつく。教頭のやろう。何がテレビや新聞に取り上げられたからと言って、君だけを特別扱いは出来ない! 調子に乗るな──よ! こちとら別に新聞やテレビに出たくて出てたんじゃないっての! 空手をやってたら勝手にむこうが来ただけだっての! 今思い出してもむかつくわ」
言いながら、拳をふりまわす。やめて! 紙一重で僕が避けてるからいいけど。おまえの拳は当たったら致命傷なんだから。
「だ、そう、です」
避けながらだと、どうしても言葉が途切れる。
「ふむ、そうかね。この見取り図には三階がないね。存在するが、入手し忘れたのか、それとも存在すらしないのかね?」
「存在しない、ですね。少なくとも僕は三階の見取り図を見た事がありません」
「ないのには理由が?」
思案。
「……それは僕らにはわかりませんね」
確かに三階の見取り図はなかった。というか、三階自体、生徒が普通に生活する中では意識の外にある。三階に繋がる階段すら、あるという意識が薄い。
何と言うか、存在自体が希薄だ。入るな。と言われてなくても入る事はないだろう。
「では三階には何の部屋があるかわかるかい?」
部屋?
「校長室と……」
「校長室と?」
何が有った? 記憶を振りしぼれ。絨毯、シャンデリア、窓、校長室。これらが頭の中で重なりあい、フラッシュを繰り返す。そこに浮かんできたのは違和感。
なんだ? この違和感。
「どうしたのかね?」
押し黙ってしまった僕の様子を探るように、須藤さんが声を掛けてきた。
「いえ、三階に何があったのか思い出してたら、何か違和感を思い出したんですよ」
「違和感?」
「ええ、違和感です。なんだか、不自然な感じがして……まあ、いいや。そうそう、質問の答えとしては、三階には校長室しかないと思いますよ、多分。それはそれで不自然なんですが」
「ほう──」
にやり。あの厭な笑顔だった。
「君の違和感の理由──教えて欲しいかい?」
「え? わかるんですか? 僕の違和感ですよ」
「ああ、勿論わかるとも。私は探偵だ」
「聞きたいです!」
「仕方ないな、教えてあげよう。その理由はだね。概ねは、さっき君が言った事実。一学年全ての人間が生活出来るような広大なフロアに、校長室しか存在しないという事実に起因している。でも、君の感じた違和感はそれだけで説明のつくものでは──」
一拍。
「なかった筈だ」
まだ言葉は続く。
「君の感じた違和感は、既視感を伴っていなかったかい?」
「……きしかん?」
「俗に言うデジャヴュだよ」
デジャヴュ……? ……?
「ああ!」
それだ! あの違和感。前に見た事ある感が半端なかったんだ。そうだ。はじめてあのフロアに呼び出された時の、あの感覚は既視感だったんだ。そして昨日も同じ感覚に襲われた。でも昨日は一回見た事があったから、はじめての時ほど違和感を覚えなかったんだ。
でも何で?
「何で既視感を感じたのか、わからないようだね」
「そうですね……わかりません。でもそもそもがデジャヴュの原因なんて正確にはわかっているモノではないでしょう? むしろわからなくて自然じゃないんですか?」
「違うね。考えれば答えにたどり着くよ。材料は出揃っているんだから」
「いやいや無理ですよ。わかってるなら教えてくださいよ。僕は素直に降参です」
「何を言っているんだ。探偵に必要なのは感じる力と、観る力と、考える力だ。よく観て、よく考えたまえ。じゃないと良い探偵にはなれないよ。とは言ってもいきなり全てが出来るようになるわけもないからね。ヒントだよ」
そう言って、須藤さんは灰になった火種を煙草盆に落とした。
というか僕は探偵になる気などサッラサラないんだけれども。何を言っているんだこの人は。
新たに火を点した煙管をくゆらせて、須藤さんは言った。
「君の元々の事件はなんだったのかね?」
「世界から洗い流されてしまった事件ですね」
「ふむ、なんで事件は洗い流されてしまったのだったかね?」
「僕が見たモノを忘れてしまって、警察にきちんと説明できなかったからですね」
「ふむ、そうだね──」
言葉を切って、煙管に口をつけた。
すうっと吸って。
一拍。
ふうっと吐いた。紫煙がくゆる。天にゆるゆるゆらゆらと昇っていった。
「では──最後に既視感とはどんな感覚なのかね?」
? 話が変わった。既視感とは──。
「見た事のないモノを、見た事あるように感じる事、ですよね」
須藤さんは得意そうな顔で、言葉を止めた。
で? 僕は須藤さんを見つめた。
「……まさか、まだわからないのかね?」
「ええ」
須藤さんの溜息が一つ。
「──じゃあ今言った君の答えを全部繋げてみたまえ?」
「ん? えっと……世界から事件が洗い流されて……それは僕が事件で見たモノを忘れてしまった事が原因で……既視感は見た事もないモノを見た事があるように感じる」
ん? それって……。
「僕は校長室を実は見た事があるって事ですか?」
「ご名答。まあ──気付くのは遅かったがね」
そうか、そういう事だったのか。僕は校長室でナニカを目撃して、それで事件に巻き込まれてしまったんだ。そうだったのか。なんだか事件がほどけていく感じがする。
僕は胸の前で手を打った。打った手を揉んだ。
その横で咆哮。
「ねえッ雑賀! それってどういう事になってんの? 全ッ然わかんないんだけど」
言葉と同時に繰り出される裏拳。僕は必死でよけた。蒔苗が話についてこれていなかった。完ッ全においてきぼりだった。
「つまりはだな──」
僕は蒔苗への説明を始めた。
「僕が目撃した事件で、僕が、何を、何処で、目撃したのかをね。忘れてたじゃないか?」
「うん、そう言ってた」
蒔苗のこの何事もなかったような態度。見習いたい。鉄のハートだ。
「その目撃したモノが三階にある、もしくは目撃した場所があそこだったって事だよ」
「うん……それで?」
「それで? って……それだけだよ」
「それだけって! そもそも、あんた何であんなとこ入ってたのよ。しかも入ってた事すら忘れてんじゃない。最初の話だと見たモノだけ忘れてるって話じゃなかった? 話違わない? しかも見た場所を忘れてたってのも絶対ってワケじゃないんでしょ? なんせ忘れてんだから。これってなんにも解決してないじゃない。何を解決した気になって嬉しそうにしてんのよ!」
「ぐッ」
正論。超正論。僕には返す刀がない。正論は卑怯だ。僕だって少しは自分に酔いたいのに。ここにいる連中は誰も酔わせてくれない。どころか、呑んだ傍から氷水を引っ掛けてくる。
僕は須藤さんを見た。案の定、いつもの笑顔だった。厭な、厭な笑顔。
「お嬢さん、ご明察だね。サキイカ君なんかより、よっぽど探偵の才能がある」
哂う須藤さんを、蒔苗は怪訝な顔でにらみつけた。敵を見る目だった。
「あんたもあんたで、さっきから偉そうに講釈をのたまってるけどね。あたしはあんたの事も信用してないの。山音の保護者だかなんだか知らないけど、あんた何者よ」
しかし、なおもわらって、須藤さんは言った。
「私はしがない喫茶店の店主で、ちょっと変わった探偵ですよ。それだけです」
「それが胡散臭いってのよ」
バッサリ。
くくっ──笑いがこぼれた。須藤さんだった。蒔苗が睨みつけると、すいっと顔を上げた。
「いや、失礼。他人にそんな態度をとられるのは久しぶりでね。ここに来る人間は、みんな私の事を知っていて、みんな私の事を頼ってくる人間ばかりだったからね。いやいや、せまい交友関係というのは人間の感覚を鈍らせる。確かに君から見た私はさだめし胡散臭いだろうね。そんな事すら忘れていたよ」
「誤魔化さないでよ。いッくら言葉を重ねたって、あたしはだまされないんだから!」
「ほう」
哂った。言葉は続く。
「──君は決して騙されない」
「あッたりまえよ。単純な雑賀と一緒にしないで」
おい! 脳筋。待て待て、それはこっちの台詞だ。
「ならば、私の言葉をオソレる必要はないんじゃないか?」
「恐れ……馬ッ鹿な事言わないでくれる? あたしはあんたの事なんてこれっぽちも恐れてないわよ。あたしは長柄空手道場の師範代なのよ!」
「では、何故私の言葉を聞かない? 何故私の言葉を遮る? オソレているのでしょう? オソレていないのならば、言葉を聞けるはずです」
瞬間停止。蒔苗の動きが一瞬止まった。
戸惑い。
「い、良いわよ。あたしはあんたの言葉なんて恐れてない。聞くわ。聞けばいいんでしょ?」
その言葉に、浮かべる須藤さんの厭な笑顔。思う壺にはまっている気がする。
「流石、空手小町。豪胆だ」
「あッたりまえよ……って! なんであたしの事を知ってんのよ!」
「貴女は自分で思っているより、有名人だという事ですよ」
複雑な表情。こいつ、案外目立ちたがり屋なんだよな。
「有名ね。あっそ……まあいいわ。じゃあ、話を聞くわよ。さっさとして」
有名って言葉に負けやがった。やっぱり、脳筋じゃないか。
「では、サキイカ君の事件の説明をさせていただきましょうか。お嬢さん」
「お嬢さんはやめて!」
ぷいっと顔を背けた。
「では。何からにしましょうか。ふむ。じゃあまずは、結論からにしましょう──」
え? いきなり結論? もう解決なの? ちょっと! 心の準備が出来てないんだけど。
いきなりの言葉に僕は固唾を飲んだ。
「この事件の黒幕は学校だよ」
「が、っこう?」
異口同音で発せられた言葉
「正確には学校の幹部連中の誰か、だけれどね」
「幹部……というと、校長ですか?」
「ああそうだよ、サキイカ君。いくら愚鈍でも、これくらいは流石にわかるんだね? まず校長が一番怪しいね。次点で教頭。例の三階に自由に出入り可能な人間が一律容疑者になるね」
「言われてみると、確かにあの階が怪しいんですよね。何で今まで気付かなかったのか不思議ですよ。学校の誰もが三階の存在を知っていながら、誰も近寄ろうとしない。普通に考えれば、いくら立ち入り禁止とは言っても、あの階段を昇って、三階を見てやろうって人間がいる筈ですよね。高校生なんだから、むしろそんな人間がいない方がおかしい」
「でもあたし。今回の事があるまで、あの階の存在すら意識した事なかったよ。ううん、あたしだけじゃない。空手部でも話題に上った事すらなかったし、クラスでも同じ」
「それは僕も同じだ」
「それがこの事件の鍵であり、それは──」
にやりと厭な笑みを間に。
「神の御業なんだよ」
無音。息の音もしない。僕は昨日の話で体験済みだが、蒔苗は完全に固まっていた。
冗談で言っているのか、本気で言っているのか。昨日の話の流れを考えるに、完全に後者なのはわかりきっているのだけれど。
それに僕は──神を知っている。だからこの台詞を頭ごなしで否定できない。だからこそ、昨日のこの人の荒唐無稽な話も、すっきりとではないけれど、信用した。
でも蒔苗は違う。
「いや──」
蒔苗のフリーズが解けた。
「殺すわよ」
剣呑だった。しかもこいつの場合は本気でやれてしまう。
「それは困るね」
言葉とは裏腹に一向に困っている様子もなく、悠然と煙管をくゆらせていた。
蒔苗の椅子が後ろに跳ね飛んだ。音が遅れて聞こえた。僕はその音が聞こえる前に、蒔苗を制止していた。蒔苗はその僕の腕を、ぎりぎりと握りしめて言った。
「あたしが見極めて、結果ダメなら、殺るって言ったでしょ。あんたも了承したはずよ」
了承をした覚えはないんだが。
「待てよ。話を聞いてからでも遅くないだろう。言葉だけが神ってだけで、何か現実的なモノの暗喩かもしれないだろう。な、な?」
「言葉どおりだ。何の暗喩でもない」
言葉をかぶせてきた。おーーーーーーい! 空気読めよ、おっさん!
「やっぱ殺るわ」
いきり立つ蒔苗。ほんっと勘弁してくれよ。
「いや、ね。待とう。まずは話を聞こう。な、な、な?」
必死な説得。マジで僕がここまでする必要ってあるのかな? ここでほっといて殺しあってくれてもいい気がしてきたんだけど。
そんな事を考えていると、自然と蒔苗を制止している僕の手が緩んだ。
それに気付いて、蒔苗が僕の顔を見た。しばらくそのまま止まっていたが、ふっと視線をはずした。そして長く、永く、息を吐いた。空手の呼吸法だ。
自ら落ち着きたい時は必ずこれをやる。昔からそうだった。
「わかったわよ。でも聞くだけ。聞いたらあたしはここから出てくわ」
「OK。それでいい。だから荒ぶるのだけはやめてくれ」
言い終わると同時。紫煙が僕の顔を包んだ。
僕は思わず、むせかえった。
「な、なっに、ぐっほごっほ、すんですか」
吹きかけてきたのはもちろん須藤さん。無表情で僕と蒔苗の顔を交互に見てから言った。
「終わったかい? さっきも言ったが、夫婦漫才は外でやってほしいんだがね」
蒔苗じゃないけど──殺したい。他人に対してこんなに殺意を覚えたのははじめてだ。隣を見ると、驚いた事に蒔苗は微動だにしていない。但し、顔は真っ赤だ。煙が出てる。
動かないのではなく、あまりの怒りに動けなくなっているらしい。
不憫ではあるが、むしろこれは好都合。ここで蒔苗に暴れられて、同じ事を繰り返しても仕方ない。心情的には蒔苗に暴走してもらって、殺意を具現化させてもらうって案も、決してやぶさかではない。だがこれ以上話の腰を折りつづけるのは僕の本意ではない。
折角、話が真相に近づいてきたのだ。進めよう。未来を取り戻すために。
「蒔苗を挑発するのはもう結構ですから、早く話を進めてください、須藤さん」
「チッ」
うおッ! 舌打ちしやがった。これまでのくだりをを楽しんでたのか。本ッ気で性格悪いな。
「仕方ないね、説明しよう。さて……どこからだったか。君、覚えているかい?」
僕に問いかけてきた。
「神の御業って言ったとこまでじゃないですか……」
「そうだったね」
そう言って、また一息、紫煙をくゆらせた。
「君たちがあの階の存在を意識しなかった、いや意識できなかった理由を教えてあげよう」
僕も、蒔苗も、その言葉に反応しない。沈黙。無視。静聴。理由は違えど、無反応。
そんな中、須藤さんの話は続く。静かに続ける。
「この事件の真犯人には神が憑いている。いわゆる神憑だ」
神憑と言った。
この言葉。この視線。僕への言葉。僕への視線。僕の後ろへの言葉。僕の後ろへの視線。
──やっぱり見えてるんだ。昨日、大黒と話した事は本当だった。この人は見えている。全てが見えている。僕も、僕の事件も──僕の後ろも。
大黒は僕のパーソナル。僕の固有領域の話。これを他人に見られるのは僕の心に苦痛を与える。大黒に関してはトラウマが多すぎる。
「……そんな」
僕にはこれだけ言うのが精一杯だった。しかし僕の精一杯はさらりと無視されて、須藤さんの話は続けられた。
「そうだね。君たちが三階に意識を向けられなかった理由は、神によって引き起こされていたんだよ。そしてその神は恐らく水蛭子だろう」
無反応の中、須藤さんの話は続く。
「この神はだね。元来は水に流されて棄てられた神だ。そして水に流されて訪れてくる神だ」
水に流された神が事象を水に流すというのか。皮肉な話だ。
「水に流された神が、事象を洗い流したんですか?」
「そうだ。水で記憶を、事件の痕跡を、洗い流したのさ」
「水蛭子ってそんな事をする神なんですか?」
「いや。違うよ。でも今回はそれが起った。それもこの事件の『鍵』だ」
事件の鍵。神様。水蛭子。よくわからない。
店内を沈黙が支配する。僕も蒔苗もどう反応したらいいのかわからなかったし、須藤さんは言うべき事を言ったのか口を閉じている。
「……そいつのせいで、僕が見たモノは忘れたっていうのが須藤さんの見解なんですね?」
「そう。でも君は見たモノは忘れても、見た事実は忘れなかった。つまり、水蛭子は君の記憶の事象の全てを洗い流す事は出来なかった。きっと、君の中のナニかが──」
意味ありげな微笑。
「邪魔をしたんだろうね」
大黒の事だ。この人は大黒の事を言っている。
「そうですね。なんでしょうね?」
僕はとぼけた。
あんたがわかっているのは、わかったから。さっさと話を進めてほしい。今は僕の個人的な話よりも、事件の話だ。いまや、これは僕だけの話ではなく、蒔苗も巻き込まれているんだ。さっさと解決して、僕らの日常を取り戻さなくては。
「というわけだよ」
僕の意図を理解したのか。須藤さんが話をまとめた。
「それだけ?」
今まで黙っていた蒔苗が口を開いた。
「ああ──これだけだね」
あっさりと。
「は? それじゃあなんの解決にもなってなくない? 雑賀の無期停学も解決してないし、悪い事をしてる人間もいないじゃない。これじゃあ、何も変わってない。結論だ! なんて偉そうに言っておいて、なんの結論でもないじゃない」
「ふむ、確かにお嬢さんの言うとおりだ。じゃあ、今までの話を整理しよう。いいかな?」
異論はない。話が四方八方に散りすぎだ。ナニがナニやらわからない。
「まず、この事件には鍵がある」
突然。改まった、真剣な表情。深まった、低音な声音。纏う雰囲気がさっきまでとはがらりと変わっていた。僕はその雰囲気にけおされて、恐る恐る尋ねた。
「鍵、ですか? さっき言ってた三階を忘れてた事ですか?」
須藤さんは無言でそれに対して、首を左右に振った。
「じゃあ鍵って何なんですか?」
「坂嵜君の言った三階も鍵だ。そしてそれは『物』の鍵だ。その『物』の鍵も不十分。あくまで場所がわかっただけ。その中身もわかっていない。しかも事件を解決するためには『物』だけでは足りないだ。神の事件の扉は、神の閉じた扉だ。それを開く鍵は一つだけでは足りない。神の扉を開くには、『物』『因』『力』の三つの鍵が必要なんだ。私たちはまだ『物』と『因』の鍵の、一部しか持っていない」
わからない。今までの話を整理していた筈なのに、今までで一番、話がわからない。僕は蒔苗を見た。完全にあらぬ方向を向いていた。理解する事、考える事を完全に放棄している顔だった。いいなあ。僕も放棄したい。しかし、当事者たる僕が放棄するわけにもいかない。
「すみません。全部理解していない状態で言っちゃいますけど、神の扉とかを全部ぶっ飛ばして話をしちゃうと、ですね。僕の生活を元通りにするためには、とりあえずいま言った鍵が必要だって事でいいですかね?」
僕は理解不能ながら、やけになって、なんとかわかった所だけ、かいつまんで聞き返した。どんな罵倒が返ってくるだろうか。少し楽しみではある。
「──概ね、正しい。坂嵜君が言ったとおり、この事件を解決するには、三つ。『物』と『因』と『力』の鍵が必要になってくる。それを詳しく説明するとだね。まずは『物』。これが始まりだ。どこの場所で、どんなモノが、事件に関わってきているかだ。つまりは事件の環境になるね。今回で言う所の疑惑の三階や、その構造がそれにあたる。次が『因』。これは事件を引き起こした原因だ。つまりは犯人、犯人の動機、事件の構造などがこれになってくる。狭義の事件そのものだな。これは扉の奥にいる神の名に相当する。この鍵がなければ扉の奥に隠れている神を呼ぶ事もままならない。そして、最後が『力』だ。これは扉の向こうに隠れてしまった神を引きずり出すための力だ。これは普通の事件には必要ではないのだがね。私たちの相手にしている事件は、誰にも解決できない事件だ。神が引き起こした事件だ。普通の事件だったら警察と司法が事件を引きずり出して、事件を型にはめる力を持っている。しかし神の引き起こした事件は誰にも逮捕は出来ないし、誰にも裁く事はできない」
一呼吸。
「だから、裁く『力』が必要なんだ」
言葉と紫煙がくゆる。
『物』と『因』と『力』……か。
「『因』はさっきも言っていましたけど、学校の幹部って事になりますか?」
「正解だ。だけど確たる証拠がない。しかも幹部と言っても幅が広い。校長、教頭くらいだとは思うが、それも推測だ。敵を把握しないでは、動機も把握は出来ない。動機が把握できなくては、事件の構造も把握できない。これでは隠れている事件に触れる事もままならない」
敵か。いるんだよな、敵が。僕の学園生活を全て破壊した敵が。
「どうやって敵を正確に把握するんですか?」
「今回はあぶりだし、だね。狙いは絞られているからね。自らご登場願おうか」
「どうやります?」
「それは秘密だよ。ここは君たちが関与する必要がない。私が動かなくても煙は流せるからね。それはそれは嫌な煙を、狸穴にまいておくとするよ」
にやりと哂う。厭な笑い。
「ならいいです。僕は須藤さんに全部お任せしてますから。じゃあ、次は──」
「『力』かい?」
「はい、それです」
「これは水蛭子だね。今回、事件を打ち砕く力を持っているのは、事件を隠している水蛭子以外ない。これが一筋縄じゃいかない。神が人に憑くのは理由がある。神が使役されている。人が支配されている。神が祀られている。人が祟られている。神が見守っている。色々だ。その理を知り、神を識り、それをほどく。そして必要とあらば、別の所に結びつける……」
結び……それは、無理だ。別の所。自分でも他人でも無理だ。大黒と結びついた時の苦悩を思うと、他人にそんな苦悩を味あわせるなんて、とてもじゃないけど、考えられない。
じゃあ自分にって……。無理無理無理無理。考えただけでも怖気がする。大黒とだって、やっと最近折り合いがついてき始めたばかりだというのに。新しい神と一から? 吐きそう。
「無理ですね」
須藤さんが、フッ──と厭な笑みを浮べた。
「そうだろうね。まあ、それについてはいいだろう。何とかなるさ。それで、今後の坂嵜君にやってもらう事だが。いいかね?」
「はッ、はい」
「君にやってもらう事は『物』の解明だ」
「『物』? 鍵のって事ですか?」
「ああ、そうだ。『物』の鍵だ。つまりはあの学校の三階についてだ。三階の構造にはいまだに謎が多い。一階、二階の構造を見るに、同様にワンフロアの広さはあるのに、校長室しかない理由はなんだ? 他に何があるか? それを君に探ってもらう。お願いできるかね?」
無理難題だ。僕は昨日、それをやって逮捕されている。そんな事出来っこない。
そんな事──。
「出来るわけないじゃない!」
咆哮。叫んだのは、燃える幼馴染。蒔苗だった。
「あんた! 何言ってんの? あたしたちはそれで逮捕されてんのよ! そんで、逮捕した人間がここにいるのよ。その目の前でそんな事言われて、はい、そうですかって了承なんて出来っこないじゃない。もっかい逮捕されちゃうわよ!」
「駄目かね?」
須藤さんは、蒔苗を見ずに、まっすぐ僕を見ていた。
「……普通は駄目、でしょうね」
蒔苗の言うとおり、この場でそんな事を言われて、了承する事は出来ない。それが自分のために言われた事であったとしても、了承する事が自分のためにならない。
完ッ全なパラドックスだ。
「あッたりまえよ!」
須藤さんは小さく、虫を吹き飛ばすように、息を吹き出した。
「私は、坂嵜君に話をしているんだ。君は黙っていてくれるかい? むしろ帰ってくれ」
「かかか、帰れですって! 帰るワケないじゃない! 馬鹿いわないで!」
「ふむ──そうか。なら君の父君に連絡して引き取りに来てもらうよ」
父君という言葉に蒔苗が目を丸くした。
「ぱっ! ぱぱっ!」
「ああ、君の父君、長柄和美さんだ」
「カッ! カカカ」
蒔苗は完全にパニックに陥って、なんか妖怪じみた声をあげていた。
そうか。須藤さんは警察にワケのわからないコネクションがある。そして蒔苗の親父さんは警察の空手の講師的な事もやってたよな。そりゃあ面識もあるよな。
「ぱ! ぱぱと知り合いなの?」
正気を取り戻した蒔苗が叫んだ。
パパって。アノ人、パパって面じゃないだろうよ、そりゃあ、和美さんって名前だけ見りゃあ、女みたいだけどな。でも顔を見たら、完全にゴリアテか、フンババか、神話上の剛力自慢のキャラにしか見えんだろうよ。ちなみに、おまえもパパってキャラじゃないから。
「ぱぱ……」
父の名を聞いた途端に、蒔苗は小さくなった。きっと世界で唯一、蒔苗が恐れる物だろう。
まあ、怖れるのも自然だ。僕もあの親父さんは怖い。うちの家が放任主義だったせいか、僕の躾は、ほぼ蒔苗の家の親父さんとお袋さんに世話になったと言っても過言ではない。
……厳しかったなあ。っと、やばいやばい。僕までいらぬトラウマをほじくりかえしそうだ。
僕は不吉な回想を、必死で頭から振り払って言った。
「蒔苗」
「なによ」
声に力がない。
「親父さんに心配かけないように、今日は帰っておけよ。それと、無期停学の事は、言わなくてもいいぞ。僕がおまえの事もまとめて何とか出来るように頑張るから」
無言で睨まれている。何故?
「生意気よ」
呟いて、頭をはたかれた。何故?
「頼むよ」
僕ははたかれた頭を下げた。
「わかったわよ!」
少しの沈黙を挟んだ許諾の言葉とともに、荷物をかき集めると、蒔苗はさっと外に飛び出した。動くとなると早い。しなやかで、伸びのある挙動。確かに動作はきびきびとして、美しいと言えるかもしれない。
扉に手を掛け、勢いよく開いた。外に人がいたら、間違いなくノックアウトだろう。
扉が開いた瞬間。春の風が店内を駆けた。
湿気と埃が程よく混ざった春の風。
「任せたわよ」
春の風に乗せて、そんな事を蒔苗が言った。
そんな風に蒔苗は行った。僕はその背中に無言で頷いた。
確かに幼馴染同士は分かり合っている事もある。
蒔苗が帰った後、僕と須藤さんは綿密に打ち合わせをした。長かった。帰った頃には、僕はぐったりとしていた。だからそのまま寝てしまった。
これが間違いだったのかも知れない。
そして翌朝。ここ最近の通例のように寝覚めの悪い朝だった。
僕は長柄家の人間の騒ぐ声に起された。寝間着のまま、階下に降りて、僕は大人に囲まれた。蒔苗が家に戻っていない。という悲痛な声に囲まれた。
複数の大人が。蒔苗が消えたというのだった。何か知らないかというのだった。
僕は知らないと言った。
本当に知らなかった。とりあえず、寝間着から普段着に着替えるために、部屋に戻って、着信ランプの点灯した携帯の中身を確認するまでは。
僕の携帯に、蒔苗から二通のメールが送信されていた。
「やっぱあの男怪しいよ」という内容のメールの後に。「尾行してみる」という内容のメールだった。明らかにこの事件に関係している。しかもあの男とは、須藤さんだろう。
そして今。着替えを終え、階下に戻った僕は、再度大人たちに囲まれている。
行方は知らないまでも、手がかりを掴んだ状態で。
でも。僕には何も答えられない。
僕の責任だから。蒔苗を巻き込んだ僕の責任だから。容疑者は僕の命綱だから。どうしたらいいのかわからない。蒔苗からのメールを見た後、全ての音が雑音に変わった。
何に騒いでいるんだろう。婉曲な言葉。遠回りな言葉。優しい言葉。言葉言葉言葉。
こう言えば良いのに。はっきりと言えば良いのに。
「お前が原因だ!」
円座に囲んで、指を指して、険のある視線で。言えば良いのに。みんなわかっているんだ。あのメールも。あの事件も。だから、こうやって僕の所に来ているんだ。
知っているんだ。
でも、僕には答えられない。
答えたら、僕の命綱は斬ってとられる。そもそも、僕がいまここで昨夜のメールの内容を答えた所でどうなる? 言ったならば、須藤さんに疑いの目が向くだろう。いや──普通ならば容疑者に断定されるだろう。しかし、須藤さんは普通じゃない。警察からの絶対的な信頼がある。特にこの鎌倉周辺では絶大だろう。
もみ消される。
しかも、まだ須藤さんが犯人だと決まったわけではない。ここで僕が情報を公開する事によって、いたずらに捜索を混乱させるわけにはいかない。
僕は決意した。こうなった原因は僕だ。僕が責任をもって蒔苗を探し出すべきだ。
その犯人がたとえ誰であったとしても。
ならば、こんな所で周章狼狽した大人たちに付き合っている時間はない。一刻もない。向うべきは、『宝船』だ。何をおいても、あそこへ行って、一手を打つべきだ。
わかりきった事だ。
でもここで急に抜け出せば、変な疑いが僕にかかりかねない。
どうする?
「お主」
悩む頭の中で声がした。
「何だ」
僕も頭の中でかえす。
「使うか」
一瞬。逡巡する。しかし、すぐに僕は決意した。僕には時間がない。
「ああ──」
僕の首肯と同時に、大黒が顕現した。と言っても、僕以外の誰にも見えていない。唯一見える親父は不在だ。誰にも見えずとも、今まで絶対に禁止してきた人前での顕現。仕方ない。
「大黒」
大黒が己が名を呟き。続けて。
「陰形」
言った途端に僕の足元から、闇が立ち昇る。シューシューと。シュルシュルと。黒煙のように。黒霧のように。立ち昇った闇は僕の足をつたって、徐々に僕の体に巻きついてくる。段々と体が闇になっていく。足元から消えていく。消えているのに感覚が残っている。この自分の存在が危うくなっていく感覚は、きっと何度使ってもなれる事はないだろう。
『陰形』これは大黒天の能力の一つだ。暗黒で身を包み、包んだ存在の姿を隠す。
闇に包まれていく時間が準備期間で、全てを包まれて能力発動となる。そしてこの闇が巻きついてくる間の時間は酷く、ゆっくりに感じる。しかし実際は凄い速さで巻きついてきている。簡単に言えば、僕の時間が加速している。証拠に準備期間はまわりの人間の動きが止まる。正確には酷くゆったりと動いているんだが、加速している間は動いていると認識できた事はない。
これだけ聞くと、加速だけでもチートに余りある能力のように聞こえるが、そんなに良いものじゃない。何故なら、僕自身の肉体が動かせるわけじゃないんだから。
どうやらこれは精神だけが加速した時間に対応しているらしく、肉体は一切対応していない。しかも自分が消えていく感覚が酷く不快だ。
やがて闇が僕の身体を全て包み込んだ。
同時に加速が収まる。これも気持ち悪い。ギュルリと身体を伸ばされて、元に戻されるような感覚というんだろうか。なんて表現したらいいかよくわからない。
闇に包まれた僕は、存在が世界から秘匿されている。とは言っても、それは存在認識だけ。ようは見えなくなるだけだ。実存在は感覚どおりに世界に存在している。だから触れれば触れられるし、感覚は自分にも相手にも残る。
僕は用心深く大人の輪から抜け出した。
そろりそろりと。こんなのなれっこの動作だ。息を殺し、気配を殺し、最終的には自分も殺して。誰にも気取られずに動く。そうやって大人の輪を抜け、玄関から外に飛び出し、庭を抜け、家の前の道に出た。
蒔苗は僕が救う。