潜入
第三章 潜入
翌朝。
僕は最悪な気持ちで目覚めを迎えた。この状況で、良い目覚めなんて有り得べきもないし、望むべきもない。しかしいくら寝覚めが悪くても、根が真面目な学生である僕は、いつもどおりの時間に起床して、朝食をとり、身支度を整えると、家を出発した。
うん、規則正しい生活だ。停学になったのを親に言ってないせいなんだけどね。
そんなわけで、僕は出発から、『宝船』の開店時間である、午前十一時になるまで、店の近所の公園で時間を潰してから、店の扉を開いた。
重厚な木のドアについている、ベルがガランと重い音を鳴らした。
「おはようございます」
「チッ」
ちょっと待て! 僕が何をした。朝の挨拶に対して、その返しはないだろう。というか、舌打ちという行為そのものがすでにない。少なくとも面識のある人間に対して滅多矢鱈に使うものではなかった筈だ。だけど、ここの店主、須藤公望ならそれも有りえるのか。
「まったく……何なんですか? 客に対して失礼ですよ」
言葉だけは怒ってみせたが、実質言葉は棒読み。この人に怒っても仕方ない。
「君が君だって事が気に入らないだけさ」
辛辣な言葉。よくよく店内を見回すと、山音さんがいない。ははぁ──朝一に見た姿が山音さんでなく、僕だったから不機嫌ってワケだ。どんだけ、山音さん好きなんだよ。いい歳して。
だがまあとりあえず言っておこう。
──ザマァ。
心の中で須藤さんを指差して笑う。
僕は笑いをこらえながら、真面目な顔してカウンターに腰掛けた。ホットコーヒーを注文すると、席を立ち、店内所狭しと据えられている本棚から、適当な本を物色する。フリをして、本棚の陰に隠れて少し笑った。そして以前から読みかけだった本を手に取り、席に戻った。
カウンターの上には既に珈琲が置いてあって、湯気を立てていた。これがまた鼻腔をくすぐる。たまらず僕は手に持っていた本をカウンターに置いて、カップに口をつけた。
美味い! 温度、風味、苦味、コク、酸味。全てがバランスよく引き立てあってる。口につける前に鼻に飛び込んでくる香ばしい薫。そして口に含んだ途端、口腔内に溢れかえる苦味と酸味。飲み込んだ後に鼻に抜けるコク。そして全てが終わった後のすっきりとした後味。
全てが素晴らしい。店主の人格はクソ以下だが、この珈琲と店の環境だけはホンットに素晴らしい。心底、珈琲を淹れる腕前と人格がリンクしてなくって良かった。
「んッ」
声とともに目の前に手が差し出される。須藤さんが手を出している。とりあえず握ろうとしてみた。肉を撃つ音が、静かな店内に響く。出した手をジンと痺れる。
「気持ち悪いよ。やめたまえ」
「冗談ですよ。それで? その手は何ですか?」
「昨日、渡した契約書だよ。書いてきてくれただろうね?」
「ああ、それなら」
僕は足元に置いていたスクールバッグを開くと、ゴソゴソと契約書を取り出し、店主に手渡した。須藤さんはそれを受け取ると、満足そうに微笑んで言った。
「契約成立だ」
普段とうって変わって爽やかな笑顔だった。
「契約成立は昨日も聞きましたよ」
「昨日の奴は口による契約だからね。今日は書類による正式な契約だ」
須藤さんはそう言って、受け取った契約書を、カウンターの下にゴソゴソとしまいこんだ。
そういうモノかと思いつつ、僕は珈琲を口に含んだ。多少ぬるくなっているが、味わいは衰えない。むしろ冴え渡っている。すこし寒気が走った。
「それで、だ」
須藤さんはラウンジチェアに深く腰掛けた。そして真剣な眼差しで、僕を見つめた。ゆっくりとした口調に変わっていく。仕事モードなのか?
「では坂嵜君。これからの方針を説明しよう」
「はい、お願いします」
「まず、言おう。私は探偵だが、実際には動く事はしない。一切しない。これはいいかね?」
僕は頷いた。うん。大丈夫だ。問題ない。ない? んな──。
「ワケない! 動かないでどうやって調査や、証拠集めや、事件解決をするんですか!」
「今君が言ったそれらは君がやるんだよ。私が指示をするから、情報を集めてきたまえ」
「そんな! だって僕は素人ですよ。調査なんて出来るわけがないじゃないですか! 絶対に無理ですよ 僕がなんで……」
僕は必死で須藤さんの言っているその無茶さをアピールした。だけど、須藤さんはそんな事知ったこっちゃないという顔で続けた。
「ふむ──君がいくら言い訳をした所で、君が調査を行うしかないと思うけどね」
「ど、どうして?」
「一つ、君がやらないとしても、私は絶対に動かない。何が起こってもね。それでも調査はしなければならない。だが君も私も動かない。という事は他人を動かす事になる。そこにはお金が発生する。それこそ、君が昨日言っていた浮気調査を行ったり、様々な調査を行っている、普通の探偵さんにお願いする事になる。君にその調査料金が払えるかね?」
「……払えません」
即答だ。勿論無理だ。そもそも相場がわからない。いくら掛かるのかすらもわからない。というか、僕は既に探偵社である『宝船』に依頼してしまっている。これってまずくないか? 今から高額な成功報酬を言われても僕には払えない。
「二つ──」
「すみませんッ!」
僕は言葉を遮った。遮られた須藤さんは少しムッとした顔をした。でもこれは聞いておかなきゃならない。折角人生を取り戻せても、借金地獄に落ちるなら、取り戻せてないのと一緒だ。
「何かね?」
「さっきの調査料金なんですけど、『宝船』に依頼した僕の料金はいくらなんですか? 僕、何も聞かないで依頼したんですけど、もし高額なら、出来ればキャンセルとか──」
「タダだ」
「え?」
「無料だと言ったんだ」
「──そんな事言って、後々課金する気ですよね?」
「しないよ。君は私をどこの悪徳業者と勘違いしているのかね? 宗教って言ってみたり、マルチって言ってみたり、悪徳業者って言ってみたり、全く心外だよ。とにかく私は、君にお金を請求したりはしない。だから君は安心して、私の意図に従って調査してくればいいのだよ。わかるかい? 君の料金を無料にするため、君が実働部隊になるんだ。いいかね?」
無料で良かった。これで借金地獄の懸念は取り払われた。しかし、須藤さんという人はそこまで考えてくれてるなんて、案外いい人なのかもしれないな。だとすれば失礼な事言った。
「あの……そこまで深く考えてくれてたんですか。てっきり僕は──須藤さんが面倒だから、僕に押し付けてるのかと思ってました。色々と失礼な事を言ってしまって、ほんッとすみませんでした。案外、優しい人だったんですね」
「まぁ、わかってくれたならいいよ。じゃあこれで決まりだな」
「はい」
「これから、君は私の意図に従って動いてもらう」
「わかりました。その為にも、続きをお願いします」
「よろしい。では、今日のこれからのスケジュールを説明しよう」
★★★★★
「遅いんだけど」
仏頂面の蒔苗はイライラしながら、僕に向って言った。
僕らが立っているのは、僕と蒔苗が通っている高校の校門前。ここらへんにしては珍しく、日の暮れた時間だというのに、ちらほらと人が校門横の坂道をのぼっていく。最近、学校の上にパワースポットがあると騒がれているせいだろう。
何故こんな所に立っているかといえば。もちろん、パワースポットに行くためなどではなく。人を待っているからだった。
須藤さんからの命で、事件の現場である学校を調査する事になった。そしてなぜか山音さんが同行すると聞いて、僕は喜び、ワクワクしながら校門の前で待っていた。途中で下校する蒔苗に出会いワケを話した結果、蒔苗が同行する事になっても、それでもワクワクと待っていた。しかし待ち人は時間になっても来たらず。待ちぼうけで今に至る。
僕がここに着いたのが午後五時半。待ち合わせをした時刻は午後六時。そして今の時刻は午後七時。日が長くなってくる五月とはいえ、既に日はとっぷりと暮れていた。
勿論、日が落ちれば、気温も下がってくる。海からの風が肌寒い。その上、一時間半、外で立ちっぱなしという事になる。さすがに足が痛かった。
こんな状態なのだから、蒔苗の機嫌が良い筈もない。いやむしろ最悪の部類だと言っていいだろう。そうなのだ。真に蒔苗の恐ろしい状態はヒステリックに怒り散らしている時ではない。こういう──そうこういう風に静かに怒っている時だ。
山音さんの名前を出した時から、少し機嫌が悪かったが、時間が経つにつれ、徐々に悪化し、今は最上級に最高潮の機嫌の悪さだ。その証拠に、隣にいる僕の、疲れ果てた足は、蒔苗に踏まれ続けている。リズミカルに。しかも軽快なリズムで。痛い。
「あの……」
僕はありったけの勇を振りしぼって、無言で僕の足にダメージを与え続ける蒔苗の足に声をかけた。怖くて顔はみれないから。足に話しかけた。
「うるさい」
しかし、地から鳴り響くような轟とした一声に、僕の勇は踏みにじられた。そしていとも容易く、僕の勇は灰燼に帰していた。さようなら、吹けば飛ぶような僕の勇。
僕はいつまでも耐えよう。
この責苦を。
この痛みを。
この夜を。
延々と踏まれ続けている己の足を見つめながら僕はそう決意した。しかし、その決意はすぐに不要のモノとなった。なぜなら蒔苗の責苦は、僕の決意と同時に止まったからだった。
「あれが約束してた人? なの?」
地獄の行進のような足踏みを止めた蒔苗は、校門の前を通っている坂の下を指差しながらそう言った。僕は下に向けていた視線を、蒔苗が指差す方に向けた。
確かにそこには人影があった。その人影は明らかに様子がおかしかった。
どこがおかしいって。頭の先から、足の先までおかしかった。
なにがおかしいって。頭の先から、足の先までずぶぬれだった。
遠目に見てもわかる。僕は坂を転がるように駆けた。人影は街灯に照らされあらわになる。やっぱり山音さんだった。変わり果てた山音さんだった。寒さに身を震わせている山音さんだった。絹糸のような髪の毛は濡れそぼっていた。ばら色の唇は紫色になっていた。透き通るような白い肌は、本当に透けて血管が浮き出ていた。
「や、山音さん」
僕はそう言うだけで精一杯だった。その声に山音さんは足を止めた。足を止めて僕を見た。 そして言った。
「ああ、サキイカさん、でしたよね? わたし、お腹が空きました」
「え? いや、僕は坂嵜、坂嵜雑賀です」
「──ああ、そうですか。うん。そんな事よりわたしはお腹が空きましたよ、サキイカさん」
「お、お腹ですか? 確かにそれは困りましたけど、それより今はその格好をどうにかしないと……風邪ひいてしまいますよ。春とは言っても、まだ夜は冷えますし」
「サキイカさん!」
急に放たれた勢いのある言葉に、僕は「はいッ──」と飛び上がった。
「わたしはお腹が空きました。わたしは寒くないんです」
……ガタガタと肩を震わせている人間の、紫色の唇から放たれる、寒くないの一言にどれだけの説得力があるだろうか? ここは空腹など問題にせずに、まずは着替えをするという選択肢しかない気がする。と普通はそう思う。僕もそう思う。
だが──山音さんは違う、と。そう須藤さんは言っていた。
山音さんは食欲がなにものにも勝る。そしてそれが満たされない限り、何にも興味を示さないし、どんな行動も起こさない。とも言っていた。流石に山音さんに関しては一日の長がある。
そしてあの人はあらかじめこんな状況になる事も想定していた。
学校に来る前に『宝船』で須藤さんが僕に説明してくれたスケジュールはこうだった。
まずは学校前で山音さんと待ち合わせ。まずここで注意が入った。その注意とはいま、僕が陥っている状況への対策だった。須藤さんはこう言った。
「山音さんが時間通りに来る事はない」
断言だった。
「そして、何らかのトラブルを持ってやってくる。間違いない」
間違いなかった。
「なおかつ腹を空かせている──これは、確定事項だ」
未来予知だった。
「その時、何の用意もなければ、君は全てにおいて手詰まりになるだろう。きっと調査どころではなくなる。だから、これを持って行きたまえ。これがあれば空腹に関しては問題なくなるだろう。その他は……まあ、うん。君の方で臨機応変に対応したまえ」
渡されたのはたこ煎餅。たこを高温の鉄板でプレスして作る、江ノ島名物のアレだ。確かにウマい。だがこんなモノ一枚や二枚で空腹が満たされる訳がない。
だから。僕のスクールバッグはたこせんでパンッパンに満たされている。
僕はそれをバッグから取り出した。
どんなにスクールバッグがたこせんで満たされていようと、きっと今の僕の心の満たされ具合には適わない。理由は目の前の笑顔だ。たこせんを見せた瞬間の、山音さんの美しい笑顔。これ以上に僕を満たすモノはない。白く透き通っていた肌には赤みが差し込み、紫色だった唇は一瞬でローズピンクに色変わりしていた。
そしてその唇にむしゃむしゃとたこせんを放り込む姿は、まさに天使。この世に舞い降りたエンジェル。パンパンだった僕のバッグは、見る見るうちにスカスカに変わっていった。
そしてあっという間に、スクールバッグはぺらりとしたナイロンの袋に変貌していた。
さすが天使。全てを喰らい尽くした山音さんは、ぺたりと地面に座り込み、上目遣いに僕を見つめて、こう言った。
「寒いです」
僕はその視線に見惚れながら、こう返した。
「知ってますよ。山音さん」
★★★★★
幸福は反転する。僕はすっかり忘れていた。あの悪魔を。あの災厄を。
僕が顔に満面の笑みを浮べて、山音さんと視線を交わしていた。その次の瞬間。僕の身体を電流が駆け抜けた。その電流は右脇腹から入り、胴の内部を駆け、左脇腹に抜けていった。
僕は口を大きく開けて、仰け反り、天を仰いだ。
天には月が輝いていた。
のけぞったまま、僕は地に膝をつき、そのまま、仰向けに崩れた。
そこでやっと、その電流が痛みである事に気付いた。
「あんたのその顔。マジでうざいんだけど」
そんな言葉とともに、月の光を遮り、僕の視界に現れたのは、憤怒の空手小町だった。
電流の正体は渾身の抜き手だったらしい。なぜそんな事がわかるのかと言えば、蒔苗の右手は怒りのあまりに攻撃した時、そのままになっているからだった。
顔がうざいだけで抜き手を脇腹に刺しこむとは畏れ入る。顔は生まれつきだ。どうしようもない。そんな事で脇腹を抉られるいわれはない。断固抗議せざるをえまい。
「カヒュー」
しかし抗議の言葉は言葉になる事はなかった。仰向けに倒れた僕の口からは、ただ息が漏れるばかり。必死の抗議もかすれた息だけでは通じない。
「は? この顔は生まれつきだって? そうよ。でもね。あたしは昔からあんたがそのにやけづらをした時、容赦なくあんたを罰してきた。あたしはそのにやけづらだけは許せないのよ」
驚嘆。カヒューだけで僕の心情を理解するとは。さすが幼馴染。だが残念ながら、僕はにやけてなどいない。あの時、僕は至って真面目な顔をしていた。だから攻撃してきたお前が間違っている。謝罪を要求する。
「カヒュー」
「嫌よ! 謝んないわよ。それにね、否定したって無駄なんだから。後ろからだって、あんたがにやけていたのはわかってるの。あたしはあんたの事なら何でもわかってるんだから」
確かに、カヒューだけで心情を理解できる位には、おまえは僕の事をわかっているんだろう。
だったら、僕の恐怖もわかってくれ。抜き手で腹を抉られる痛み。正拳突きで胸を穿たれた衝撃。下段蹴りで執拗に責められるふくらはぎの腫れ。
それらを幼い頃から受け続けた。僕のおまえに対する恐怖心。これをおまえは理解する必要がある。断固ある。ちゃんと僕を理解してくれ。
「カヒュー」
「え? 僕の事をわかってくれてて嬉しい?」
いや! そんな事は一言も言っていないぞ! 逆だ。むしろお前は何もわかってない。
「カヒュー」
「雑賀の事をわかるのは、あたしだけだって? そそそ、そんな事有るけど、有るけれど。急にどうしたのよ! 照れるじゃない。何よ! 今更。そうね。その言葉はアレよね? 例の世間一般で言うアレよね? でもまだ、あたしたちには早いわよ。でもそっか。そうよね。やっぱりそうなるわよね。うん。仕方ないわよね。いずれそうなるんだしね。早いか、遅いかよね。幼馴染だし、家族ぐるみだし、あたし以外いないわよね」
そう言いながら蒔苗は必死で照れている。アレって何だよ! 意味がわからない。
蒔苗の照れる動作と同期して僕の脇腹に鈍痛が奔る。何故か照れながら、脇腹にサッカーボールキックを放つ。これって照れ隠しなのか? 常識的に考えれば、脇腹への蹴りが照れ隠しだとは思えない。どう考えても魂ァとったるけェのぉ的なアレか、それか魂は友達的なアレだ。
まあ蒔苗のいつものパターンでいくと、照れてるんだろうな……照れて、暴走しているんだろうな。でもなんで照れているのかも、なんでいきなり暴走をはじめたのかも、僕には何もわからない。そもそもこんな照れ隠し、相手が僕じゃなかったら完ッ全に傷害罪だぞ。
「あのー?」
そう言いながら倒れこんだ僕の視界に入りこんできたのは山音さん。実に眼福だ。
それと同時に脇腹に鈍く響いていた痛みが消えた。蒔苗も僕を蹴る事を中断して山音さんを見ている。と言うよりは、睨んでいた。俗に言う、メンチきってる状態。空手小町のファンが見たら泣き出しそうだ。それが失望の涙なのか、感動の涙なのかはわからないけど。
「何よ! あんた。あたしと雑賀の幸せな将来についての会話を邪魔する気? もし邪魔するんだったら、あたしは容赦する気はないんだけど」
そう言いながら両手を大きく回し、腰を落とし、左手を正面に伸ばし、右手を腰に構え、攻撃の体勢をとった。
蒔苗は凄んでいた。目で、顔で、拳で、構えで、体の全てで凄んでいた。山音さんはきょとんとして、それを見つめていた。そして僕はそれをローアングルで見つめていた。
ああ、宵闇が憎い。
これが日中であれば、僕の視線の先にはパライソが広がっていただろう。しかし今は宵の口。白いフレアスカートの中を照らす光源はどこにもない。太陽を。誰か! 今すぐ僕に太陽を。素晴らしき太陽を。陽の光に感謝を。愛を。
僕が人生初の太陽讃歌を心の中で歌っている、その横で山音さんが口を開いた。
「あのー」
呼びかけられた蒔苗は、さらに腰を落し、拳が握りこんだ。あと一ミリでも山音さんが蒔苗に近づけば、拳が空気を引き裂いて発射されるだろう。
発射寸前だ。
それに挟まれた僕は、一瞬視線を山音さんの顔に移しすぐ戻す。あと一ミリでも山音さんが蒔苗に近づけば、僕の視線はまだ見ぬパライソに到着する。
僕もまた、発射寸前だった。
山音さんはそれでも構わずに続けた。
「わたし……寒いんです」
「はぁ?」
戦闘態勢を解かず、蒔苗はイラッとした声を発した。
「だから、わたし……寒いんです」
「そりゃあ、見りゃわかるわよ。そんなずぶぬれで、この季節、外に立ってたら寒いに決まってるわよ。でもだから何だっての? 今、あたしは雑賀との幸せな一時を邪魔されて怒ってるのよ。あんたも雑賀を……その……アレなのよね?」
「……? アレって、よくわかりません。それに雑賀ってなにです?」
「は? 雑賀は雑賀よ。この下に転がってるコレよ」
蒔苗はあごで僕を指し示した。
おい! 流石にそれは失礼だろう。
山音さんはふいっと僕を見た。そしてああ──という顔をした。
「サキイカさんの事ですか。今日、初めてお話しました。それがどうかしましたか? そんな事はどうでもよいんです。わたしは寒いんです」
蒔苗は戸惑った表情で、僕と山音さんを交互に見ていた。
「あんた……なにしに来たのよ?」
「わたし、ですか?」
蒔苗の言葉に山音さんの表情がほころんだ。
「聞いてくれますか? 聞いてください! わたしは今日! 学校を見に来たんです。須藤さんが行って良いって仰ったんです。学校の中って見た事なくって、いつもは外から見てるんですけど、どんな所なのかなぁって思ってたんです。いっつも人が楽しそうにしてて、きっと美味しい物がいっぱい、いっぱい有って、ニッコニッコなんですよね? そうですよね?」
いつの間にかに山音さんは、蒔苗の両手をとってブンブンと上下にふっていた。蒔苗はその手を振り払う事もせず、複雑な表情で僕を見ていた。
そして大きく、大きく溜息を吐いた。
「あんた──敵じゃないのね?」
「? てきって……美味しいですか?」
とぼけた返答に、とぼけた顔。かわいい。
「はあ……こっち来なよ」
再度、深い溜息を吐き出してから、蒔苗は山音の手を引いて歩き出した。
待て! どこへ行く? 僕も行くぞ!
「カヒュー」
声すら出せない己が実に情けない。
「雑賀! あんたはそこで待ってな。悪いようにはしないから」
そう言われた僕は何とか上半身を起こし、門柱に体を預けるようにして地面に座り込み、小さくなっていく二人の影を、僕は見送った。
待とう。
あそこまできっぱり待てと言われれば、待つしかあるまい。蒔苗は僕にとっては災厄の悪魔以外の何者でもないが、嘘つきではないし、悪人でもない。むしろ、直情的な善人だ。嘘はつかない。あいつが悪いようにはしないと言ったからには嘘はないだろう。
僕は基本的にあいつを信用している。それだからこそ逆に僕への仕打ちが身に染みる。昔からあいつは、僕にだけあたりがキツイ。幼い頃は嫌われているのかと思ったが、そうでもないみたいだ。なぜならいつからか僕の保護者を標榜してはばからなくなった。嫌いならそんな事はしないだろう。ホンットにあいつは何を考えているのかよくわからない。昔からそうだったが、最近は特に酷いように感じる。なんなんだろうか? 色々と責苦を受け続ける人生だ。
そうやって待っていると、時間にして十分程度だろうか? 経った頃に、遠くから制服姿の女子、ジャージ姿の女子が並んで歩いてくるのが見えた。
──やっと帰ってきた。
「おそいぞ!」
僕は文句を言いながら、二人の人影に近づいた。
山音さんと蒔苗。その二人である事を視認した。その時!
僕に電撃が奔った。それはもちろん抜き手ではなく、正拳突きでもなく、後ろ回し蹴りでもない。その電流は視覚情報からもたらされた。原因は。
──制服。
今日から制服という漢字は征服に変えてしまったらいい。それほどの衝撃だった。僕の心は完全に制服に征服された。山音さんが制服を着ていた。我が校の制服をだ。なんだこりゃ。思わず頬がゆるむ。ゆるむというか融けて落ちそうだ。
でも僕の頬は融けて落ちる事は許されなかった。
「いふぁい! いふぁいふぁい!」
「だからッ。何度言ったらわかんのよ! その顔はあたしが許さないって言ってるでしょ」
僕の頬をつねり上げるジャージ姿の女。長柄蒔苗。この程度であれば、こいつにとっても僕にとってもじゃれてるようなモノだ。僕は頬をつねっている手を軽く振り払った。
「なんで、お前が着替えてんだよ……部活でもすんのか?」
「馬ッ鹿じゃないの! なんでこんな時間から部活するのよ。みんな帰っちゃってるわよ」
「じゃあ、なんで?」
「しょーがないじゃない! この娘が、どーしても制服着たいって言いはるんだもん」
そう言って山音さんを指差した。当の本人は実に制服が気に入ったらしく、胸元のリボンのようなネクタイのようなモノの匂いを嗅いだり、スカートの裾を軽く持ち上げてひらひらさせたりしていた。
実に愛らしかった。着る人間によって衣服の魅力がここまで変わるとは思わなかった。
「ありがとうございます。蒔苗さん! わたし、感動しました。蒔苗さん優しいです。好きになっちゃいました。こんど何かお礼をしますね」
一通り制服を愛でた後の山音さんは、蒔苗の手を握ってぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
「す、好き? あんた馬ッ鹿じゃないの! 女相手に……」
そう言いながらも蒔苗は満更でもない顔をしていた。
おい! 待て。なんで僕の名前はサキイカでインプットされて、蒔苗はしっかりと覚えられているんだ。しかもすすすすすきだなんて。
狼狽する僕に気付いた蒔苗が得意気な顔してんのがまたムカつく。
「じゃ、じゃあ!」
僕はこの雰囲気を打破するために、殊更大きな声で言った。
「もう時間も遅いですし、さっさと今日の目的を果たして帰りましょう」
一瞬、時間が止まって、僕の顔に女性二人の疑問符が突き刺さった。
「え?」
僕はそう言って、視線をそらしてしまった。蒔苗の視線はともかく、山音さんの視線は強力すぎる。僕が融けてしまう。
「ああ! そうよね」
蒔苗が言った。
「うんうん。今日は雑賀の無実を証明するために学校に来たのよ! あんたとろとろしてないで、さっさとあたし達を案内しなさいよ」
お前──完ッ全に忘れてただろ。山音さんの魅力にやられすぎだ。気持ちはわかるが……その山音さんは相変わらず、キョットーンって顔してるけど。これは忘れてたっていうか、はじめっから今日の目的を聞いてなかったな。
「まあ──ともかく行きましょうか」
僕はそう言って、グラウンドを横切る形で、校舎に向った。