襲来
第二章 襲来
「はあ……疲れた」
僕は家に着くと、自分の部屋に駆け込み、そしてベッドの上に転がった。
誰にも会いたくなかった。
とにかく怒涛の一日だった。まるでパンドラの箱を開けたみたいだ。いろんな災難が溢れだして、最後に胡散臭い希望だけが残った。その希望だって、希望面をしている災難なのかもしれないが、取り敢えずは希望が残ったのはよしとしておく。
もそもそと身を起こし、ベッドの脇に投げ捨てたスクールバッグをたぐる。ファスナーを開け、鞄から音楽プレーヤーと『契約書』を取り出して、『契約書』を勉強机に投げた。それはふわりと着陸した。心の中でガッツポーズをしながら、音楽プレーヤーを枕元のスピーカーに接続して再生ボタンを押した。
「癒される……」
帰ってきて電気を点けていないから、当然部屋の中は暗い。その中に鳴り響く音楽。
瞳を閉じる。
こうすると嫌な事も忘れられそうだ。これは逃避に違いないだろうけど、それでも寝る前くらいは逃げさせてほしい。なにせ今日は嫌な事があり過ぎた。
そしてそれはまだ無くなっていない。僕の両足に絡み付いて離れない。
逃げたい。どこかに桃花源でもパライソでもないものだろうか。そこでキャッキャッうふふと生活したい。誰か、神でも悪魔でもいいから僕を連れて……。
いや、まて! 前言撤回だ。やっぱり神と悪魔は御免──。
「呼んだか!」
前言撤回の願いは届くことなく、野太い声に、僕の現実逃避は遮られた。
この状態で僕に話しかけてくる事が出来る相手は二名しかいない。神と悪魔だ。神は男性で、悪魔は女性だ。この区別もいまいちピンとくるものではない。理由は追々わかる。そしてこの二名に共通するのは、ただただ迷惑で、僕が来訪をお断りしたいという事だ。
そしてイヤホンをした状態でも、はっきりと聞こえるこの声は神の方だ。
「おい! 聞いとるのか、おい馬鹿子孫! 阿呆!」
子孫が馬鹿なのは先祖の責任だと思う。
「うるさいよ、ヌケさく先祖」
うんざりしながら、僕は暗闇の中で目を開けた。
中空に浮かんでいるちっさいおっさんが視界に入ってきた。
これが須藤さんのトンデモ話をあっさりと信じられた理由。僕も同じようなトンデモ事象を抱えている。その一点であの『事象を水に流す』という話があっさり信じられた。
その理由というのが、このちっさいおっさんだ。
はじめてこれを見た時には、あまりの衝撃に声をあげる事すら出来なかった。常識で考えたら中空に浮かんだちっさいおっさんなんて、怪奇現象以外の何者でもない。
その時、僕は中学生だった。
それまでそういったモノとは無縁だった僕が受けた衝撃は計り知れないモノだった。例えるなら、万有引力を発見したニュートンだった。世界がひっくり返った感じだった。
僕はまず自分の正気を疑った。だが自分は正気だった。だから徹底的に無視をした。それでも消えなかった。ずっと僕に付きまとって、二十四時間在り続けて、二十四時間話しかけてきた。自分がおかしいと思われるのが怖くて、誰にも相談できなかった。気が狂いそうだった。
そんな状態がしばらく続いたある朝、僕はキレた。
朝の食卓でキレた。
家族が居る中で、浮かびながら悪態を吐くちっさいおっさんに掴みかかった。
結果、よくわからんが掴めた。だから、思いっきり壁に投げつけた。相手は飛んでった。
本ッ気ですっきりした。壁にぶちあたってのびてるおっさんを見て、今までのイライラが一気に融けた。非物理的な存在であろうモノに物理攻撃が効いた事など、その時の僕にとっては驚きに値しなかった。
なぜならその後の我が父親の台詞に、もっと驚かされたからだった。
「あれ? お前ってもう見える歳だっけ? ちなみにそれ先祖らしいから、あんま乱暴すんなよ。ムカついても小突く位にしとけ」
絶句だった。どうやら、僕を狂人寸前まで追い詰めたちっさいおっさんは、坂嵜家の先祖であり、坂嵜家の守護神的なモノらしかった。この家の人間は中学生くらいになると見えるようになるらしかった。本来は子がパニくらないように、親がきちんと説明する慣わしらしいが、我が親は忘れていた。完ッ全に。その所為でどれだけ僕が苦悩した事か。これに関しての親への怨恨は筆舌に尽くし難い。でもこの事件のお陰で小遣いがアップして、毎日喫茶店に通えるようになったのだから、災い転じて福と言えば、それはそうなんだけど。
でもムカつく。
思い出したら、ムカついてきた。苛立ち紛れに、ちっさいおっさんにでこピンした。
「痛ッ! こりゃッ、何をしおるか。儂は大黒天であり、お主の先祖じゃぞ! そんな尊い儂にでこピンするなんぞ、言語道断じゃ! 神罰と仏罰を総出であてるぞ!」
「ハッ」
思わず鼻で笑ってしまった。僕は続けた。
「数多の仏罰と、八百万の神罰と、唯一神の天罰が、総出であたってるのが現状だ。これ以上、何があたるもんか! てか、先祖で守護神なんだったら僕の現状をどうにかしろよ。ってかそもそもこんな状況になる前に何とかしろよ、役立たずがッ!」
言って思ったが、全くその通りじゃないか。何のための守護神だ。さっさとパライソに連れてってくれ。割と本気で。ん? いや、お前のパライソはやっぱいやだ。根の国に連れて行かれそうだ。それはパライソでなく、インヘルノだ。
「ふむ、それは無理じゃ。今回のは儂でもどうにもならん。ほぼ運命レベルでお主の人生に組み込まれておるからの。精々出来て助言程度じゃ」
役に立たない守護神だな。でもまあ、助言があるだけでも奇跡か。
「助言ってどんなの?」
「聞きたいかの?」
なんだ? その顔。うざい。
「いいからさっさと言ってよ。僕は忙しいんだよ」
僕はでこピンの溜めの形で指を止めた。
「うおッ、二度はやめるのじゃ。言う、言うから」
「だったらはじめっからそうしてよ……」
グッホン、と偉そうに咳払いをしてから話し始めた。
「今回の件は儂にはどうにもならん」
僕の意思とは無関係に、指が勝手にエネルギーチャージを始めた。
「いや! 待て待て、順を追って話をしておるのじゃ。その指を儂に向けるのはやめろ」
仕方なく荒ぶる指先を静めた。
「なぜかと言えば、さっきの『かふぇ』とやらでも話に出とったが、そういう『力』が備わっているんじゃ。それは神の儂にもどうしようもない」
「役立たず。役立たず」
と僕は半ば冗談で呟いた。半ば冗談と言う事は、半ば本気という事だ。
「や、役立たずとは何事じゃ! しかも、二度も言いおって。神と言っても万能ではない。特にこの国の神は範囲を持って共存しておるのじゃ。金子を現世利益にしとるモノ、色事を現世利益にしとるモノ、色々じゃ。その範囲を侵すと色々と面倒になる。決して出来ないのではないッ! しないのじゃ 仏罰神罰あてまくるぞ」
「だから──すでにあたりまくってるって言ってるじゃないか。そんな脅しとかどうでもいいから、さっさと助言してよ」
捨て鉢に言った僕の言葉に、大黒天は俯いた。心なしかサイズダウンした気もする。
「……馬鹿子孫め。少しくらい先祖を敬わんかい。儂、少し悲しくなってきたぞ」
拗ねやがった。神で先祖が、威厳の欠片もない。敬ってほしかったら、それ相応の態度でいろよ。そんなんだから敬意を払えないんだよ。
だが、このままだとめんどくさいのも事実。何とか機嫌を取ってみるか。
なんかないか。良い言い訳。良い言い訳。ええっと──ああ。
「あれだよ。そのぉ……なんだ。きっと親しみだよ」
「親しみ、か?」
大黒が少し膨らんだ。サイズアップ。おっ、これか。
「そ、そそ。そうそう! それそれ。親しみ、親しみ。孫が爺ちゃんに甘える感覚だよ。だから、な。あんまり落ち込むなよ」
って言ってから思ったけど、見た目はおっさんだから、爺ちゃんじゃないんじゃないか? むしろ年寄り扱いされてさらに拗ねられそうな気がする。逆効果だったか?
「爺ちゃん?」
そう言って顔をあげた大黒天の表情は、予想に反して、喜びの色を帯びているように見えた。そしてまた、サイズが大きくなっている。嬉しいと大きくなる仕掛けなのか?
「ああ、先祖なんだから爺ちゃんみたいなモノだよね?」
コクリと頷く、若干大きくなった、ちっさいおっさん。
それからグッホンと咳払いをしてから、少し恥ずかしそうに言った。
「じゃ、じゃあ、親しみをこめて、儂を大ちゃんって呼んでくれるかの?」
「あ、ああ?」
いい年したおっさんに『ちゃん』づけって。正直気持ち悪い。しかもちっさい癖におっさん顔だし。でも、まあ。僕も言いすぎたし。仕方ないのかな……って、すっごい期待した眼でこっち見てる。なんか、死人の癖に眼キラキラしてる。
こう期待されては仕方ない。
「だ、だだだ……大ちゃん」
「なんじゃ、雑賀?」
満足そうに頷く大黒天。出てきた時の倍くらいの大きさになっていた。
おええ、吐きそう。でもこれも孝行だよな。先祖孝行、先祖孝行。……とは言っても気持ち悪いモノは気持ち悪い。さっさとこの話から話題を逸らさないと、僕の精神が持たない。
「それで、話は変わるんだけど……」
「ふぅむ、なんじゃ?」
明らかに不服そうな態度の『大ちゃん』だったが、僕は気にせず続けた。
「助言の続きはどうなったの?」
「そうそう、助言じゃった。続きじゃの。ええっと……今はどこまで話したかの?」
「たしか……この事件は大黒天の──」
「大ちゃんじゃ」
「あッああ──だ、大ちゃんの力ではどうしようもない、って所までだったかな?」
「ふぅむ、そうじゃったの。儂の力ではどうする事も出来ん。これ即ち、あの『かふぇ』の主人に頼るしかない。という事になるんじゃが……」
少し口ごもる大黒天。
「なるんじゃが? どうしたんだ?」
「それなんじゃが、あの男……敵か味方か、儂には判断つかんかった」
「確かにね……僕も一概に信用しきってるわけじゃないから、判断つかなくても特に問題はないよ。言動が完ッ全に悪役のソレだったしね」
「それだけじゃないのじゃ……」
さっきまでとはうって変わって、真剣な面持ちになっている。相変わらずちっさいから威厳はないけど。さっきよりは守護神っぽい。
「まだあるの?」
「これが一番の問題じゃ」
「へえ、何さ?」
「あやつ、儂が見えておったぞ」
「え? そ、そんな事がありえるの?」
「ありえないから、言っておるのじゃ。儂は守護神じゃ。じゃが神とは言っても、この坂嵜家だけの観念。もっと言ってしまえば、この儂に限っては雑賀、お主だけの観念なのじゃ。つまり、お主と、お主の父親とでは見ている儂が違うという事になる。ただ、それを大黒天。守護神。と共通の呼び名で呼んでいるだけだ。それほどに儂は『ぱーそなる』な存在なんじゃ。そんなモノを坂嵜家以外の他人が見れるわけがないのじゃ」
「だ、だよね? 僕も親父にそう教わった」
「だが実際、奴は儂を見ておった」
「気のせい、じゃないんだよね?」
「ああ、奴は完全に見る世界を意識して変えた上で、儂を見据えおった。要は『ちゃんねる』を合わせて、『てれび』を見るようにな。奴はそうやって儂を見透かしおった。あんな芸当、気のせいで出来るモノじゃないわい」
「そ、そうッか……じゃあ、どうしよう?」
と言った所で、どうしようもないよな……さっきも大黒天が言ってたけど、現状だと確かに須藤さん以外で僕に協力をしてくれる人間なんていない。
「ふぅむ、今のこの状況では儂にもお主にも、どうしようもないからの。今は信用し過ぎない程度でよいぞ」
「う、うん。そうするよ……」
「さて、助言も終わった事だし、ここからはお爺ちゃんモードでよいな。さあ! 思う存分、儂の事を大ちゃんと呼び、且つ甘えるがよいぞ」
「え?」
それは本気で勘弁。無理だよ。無理無理。苦し紛れに言った言い訳が、神をこんなにしてしまうとは……恐ろしいスイッチも有ったもんだ。まさか甘々爺キャラだったとは。爺と孫の甘々コントなんてまっぴらだ。そんなの実際の爺ともやった事ない。
さて、どうしたものか……。
僕は思い悩んだ。思い悩んで、席を立って、窓を開けて、空気を吸った。
浮かべ解決方法! 悩め若人! 過ぎ去れ時間!
しかし、その悩みは悩むだけ無駄だった。救いはすぐに訪れた。僕が気分を変えるために、話を逸らすために、時間を稼ぐために、ガラリと開けた窓から、ソレは訪れた。
ソレの名前は『長柄蒔苗』。
悪魔はこっち。全く萌えない僕の幼馴染。
若干、十五歳にして空手の師範代。中学では全国大会で優勝している。現状、日本で敵なし。無敵女子高生。僕らが住んでいる、我が町鎌倉の小町通にかけて、空手小町なんて呼ばれていたりもして、雑誌取材なんかも、たまに受けている。
友人たちはいっつも蒔苗が綺麗だ綺麗だと言いながら、僕に紹介するようにせがんできていた。それ位なのだから、確かに容姿は綺麗なのだと思う。
だけど、致命的に萌えない。
大黒天以外の、僕の平穏を乱す存在。来訪を是非ともお断りしたい二名の内の一人。
窓から、それが飛び込んできた。繰り返す。僕が開いたばかりの窓からだ!
つまり何を言いたいかと言うと。蒔苗が飛び込んできた時に、僕は窓辺に立っていたという事。そこへ蒔苗が頭から飛び込んできたという事。
つまりは物理衝突が発生したという事。
いッたいってもんじゃない。死ぬかと思った。
でも、その甲斐あって、この死の痛みと引き換えに、大黒天が消えた。他人が来ると基本的に大黒天は僕に話しかけてこない。というか姿すら消える。これは奴の存在を僕が認めた時に、僕と奴が交わした約束。それでも何度か、奴や僕の不注意で人前で話をしてしまって、大恥をかいた記憶がある。そういう事を数度経験して以来、大黒天と僕は人前では不干渉とする。
そういう約束をした。だから蒔苗が飛び込んで来た瞬間に大黒天は姿を消した。心なしか悔しそうな顔で。痛みと引き換えに僕はあまじじ地獄からは救われた。
と言っても。救いと言うよりは、毒を持って毒を制した感が否めない。むしろあまじじ地獄の方が、この新たな迷惑よりは性質が良かったのではなかろうか?
僕はそんな事を考えていた。
もんどりうって、痛みに耐えて、ごろごろと床を這い、転がり回りながら。
「雑賀! 大丈夫だったのッ!」
這いずり回っている僕の襟を掴んで、僕を持ち上げて問いかけてきた。
「痛いし、苦しい……」
「えッ! 痛いの? 苦しいの? 病気だったの! 今日、学校で呼び出しを受けてたのはそういう事? 病気はおもいの? 助かるの? 大丈夫なの?」
顔を真っ赤にして、ぐらぐらと僕を揺すりながら、蒔苗は僕を質問責めにしてくる。せめて、質問責めにするなら、物理的な責めはヤメにしてほしい。ギリギリと僕の首は絞まっているんだ。若干意識が遠のく。このままでは落とされる。
「ち、違う。く、くく苦しいのはく、び」
「くび?」
そう言いながら、僕の顔から首へと視線を落とした。
「わッ!」
己の手の悪行に驚いたのか、バッと掴んでいた手を離した。再び床に投げ出された憐れな僕の身体。一体全体何度、僕は地を舐めればいいのか?
少し落ち着いたのか、蒔苗は心配そうな顔で僕を見下ろしていた。
蒔苗と天井をぼんやりと眺めながら、僕はこの悪魔の災厄にどう立ち向かっていくべきか考えていた。しかし、いくら考えても答えは出ない。
「雑賀……大丈夫」
動かない僕を見て、再び悪魔が触手をそろそろと伸ばし始めた。悪魔の災厄は人間に考える暇など与えないモノだ。それは歴史が証明している。考える暇があるのならば、動け雑賀!
「っと待って、待って! 僕は大丈夫だから。ちょっと待ってよ」
寝転がりながら、両の目で蒔苗を見据え、両の手で蒔苗を制止した。
「本当?」
しかし、それでもじりじりと災厄は距離を詰めてくる。
「ああ、本当だよ。だから、まず落ち着いてくれないか」
僕は上半身を起こし、その姿勢のまま、後ろへと追い詰められていく。
「だって雑賀、授業中にいきなり呼び出されて、教室にも帰ってこないし、先生に聞いても何も教えてくれないし、学校が終わってすぐ雑賀の家に来ても帰ってきてないっていうし……」
台詞だけ聞けば健気な台詞だが、言っているのは災厄の権化だ。油断はならない。
「うん……心配、してくれたんだよな。ありがとう」
その台詞を聞いた途端、蒔苗の顔色は一瞬で紅く染まった。それと同時に一足飛びで、僕に詰寄った。僕は勿論、逃げようとした。実際逃げた。しかし哀しいかな日本の住環境と言うのは劣悪なモノだ。致命的に狭い。後ずさりした僕は簡単に壁まで追い詰められた。
「誰が心配なんてするのよ。あれよ! あたしはあんたの保護者なんだから、あんたの行動を知らないのは困るのよ! 別に心配なんてしてないんだから! 勘違いしないでよね。あんたの荷物をここまで持ってくるのも大変だったんだから」
そう言いながら蒔苗は、僕の襟を両手で掴んで、ぐらんぐらんと揺すっていた。
幼馴染なんだから、普通に心配したでよくないか? 何でわざわざ心配してたの隠す必要があるんだ? 全く意味がわからないな。でもそれ言うと更に怒るから言わないけど。
何なんだろうな、全く。
そんな事を揺れる脳みそで考えていた。しかしこの疑問は昔から解決する事はなく、今回も解決するわけがなかった。だから僕は途中からこの状況を抜け出す事を考えた。
まず一手。謝罪。
「うん、そうか。ごめんな、荷物重かっただろ? ありがとうな」
揺られながらも、あくまで紳士的に礼を言う。じゃないと後が怖い事を僕は知っている。
「へ、平気よッ」
そう言って、僕を乱暴に解放すると、ぷんッとそっぽを向いて顔を背けた。
お次、二手。避難。
僕はそっか、と一言だけ言って、床から立ち上がって、蒔苗から少し距離を取るようにしてベッドまでたどり着くと、そこに腰掛けた。辛うじて今のところ、災厄は動きを止め、僕の命は救われている。少しは落ち着いて来たようだ。しかし予断は許されない。
「それで?」
蒔苗は変わらず、僕から視線をはずした状態で僕に問いかけた。
「何が?」
そして、三手。視線逸らし。
僕はベッドに腰かけた状態で、蒔苗を見ることなく答えた。
「勿論、呼び出された理由と早退した理由よ」
「ああ──っと、それ言わなきゃダメ?」
その言葉を聞いた蒔苗は、振り返って僕を見た。頬がふくれている。
ああ、ダメだ。
これに逆らってはダメだ。作戦はここまでだ。これはどうあっても回避不可能。小手先の技術は通用しない。むしろ小手先で行けば、僕の身が危うい。この状態から更に機嫌を悪化させて、何度僕は命の危険に晒されただろうか。
話すしかない。詰み。降参。
「わかった」
そう言いながら、僕は両手をあげていた。
「ただ、今からする話は多分、半分も伝わらないと思うんだけど……いいか?」
僕はそう言って断ってから、ここ数日で僕に訪れた凶事を話し始めた。事件の事。無期停学の事。人生に絶望した事。『宝船』での出来事。須藤さんの事。『宝船』の事。そして孤立無援状態から救われた事。ほんの少しだけど、自分に希望が残された事。
山音さんの事。は伏せておいた。なんとなく。怖いから。
それ以外の事に関しては、数時間前に須藤さんに話の進め方を指摘された事もあってか、思いのほか蒔苗にも理解できたようだった。しかし、僕が何を見たか覚えていない事には納得がいかないらしく、小首をかしげ、そしてそのまま、しばらく考え込んで、出てきた言葉が。
「あんた、ほんっとに病気なんじゃない?」
「は?」
僕はあんぐりと口を開けた。蒔苗はなおも続けた。
「確かにさあ……見た事は覚えてるのに、見たモノは覚えてないなんて、そんなのあたし聞いた事ない。その喫茶店のおっさんが言うように変な事が起こってるかもしれないけどさ。でもさあ、いきなりそういう結論っておかしくない?」
「おかしい……って何がおかしいんだよ」
僕には蒔苗が言っている事の意味がわからなかった。
「普通さあ、物忘れとかって、病気の方を疑わない? 世の中にはそういうのあるでしょ?」
「認知症とかか? っておまえ。僕はまだ高校一年だぞ。そんなわけあるかよ」
僕は蒔苗の言う事に呆れて、その意見を斬って捨てた。しかし、蒔苗は諦めない。
「一概に若いから認知症にならないってワケじゃないらしいよ。あたしの親戚にも結構な若さで罹っちゃった人もいたし。だからさ──」
と言ったまま、言葉を止めた。
「だから──何だよ?」
「うん……」
煮え切らない。普段の蒔苗では考えられない態度だ。自分の意見は断固主張する。まずは思った事を口に出してから考える。いや考えないな。だって超絶脳みそ筋肉だから。
「思った事は言えよ。おまえらしくないぞ」
僕は煽る。だって気になるもん。
「そう──だよね。そう! だよね!」
蒔苗は嬉しそうに言った。僕はああ──と頷いた。
「じゃあ、言っちゃうよ! そいつ怪しい!」
そいつ──
「って……須藤さんの事か?」
「そう! そいつ!」
「怪しいって……何が?」
「だってさ! そいつさ、いきなりワケわかんない行動をとりはじめた頭の変な高校生のさあ。意味のわかんない話を聞いた上でさあ。事件は私を求めてやってきた! とか言い出すんでしょ? これって立派に怪しくない? や、怪しいよ。言葉にしてみて思ったけど、これって怪しさしかないよ。これはほんと言いにくいんだけどさあ……」
そこで再び言葉に詰まった。そして詰まったまま、すすすと僕の隣までやってきて、僕の肩に手をまわしてから、囁くように言った。
「これって、宗教じゃない?」
まあ、そう思うよね。僕は肩にまわされた手を払い落としながら言った。
「それは僕もそう思った。意図して確認したわけじゃないけど、本人にも確かめた。それで本人が否定したから。多分その線はないと思う」
「そりゃ、本人に聞いたら否定するでしょ」
正論。そりゃあねえ、そりゃあ──。
「確かにそうだけど。でも他に確かめようがなくない? それに僕の味方をしてくれるのはあの人しかいないわけで、僕には何も出来ないし」
蒔苗は蔑むような視線で僕を見た。
「チョー騙されてる人の台詞なんですけど? ソレ」
視線だけでなく、言葉からも引いているのが十分に感じられた。僕だって普通なら蒔苗の言っている事が至極正しいと思う。でも僕には須藤さんの言っている事を、ある程度は信じられる、大黒という根拠がある。どんなに突拍子がない話でもあいつのせいで信じられてしまう。だけどそれは蒔苗にだって言う事が出来ない。このジレンマ。
「うん。だからさ、なんていうかさ。だからさ、うん。僕だって──」
しどろもどろで煮え切らない僕の言葉は、背中に叩きつけられた衝撃によって、強制的に終止符を打たれた。背中に有ったのは女の手にしては武骨な掌。さっき僕が払いのけた手だった。
ソレに丸まっていた僕の背筋が伸ばされ、自然と俯いていた顔が跳ね上がった。
「いッたい! なにすんだよッ!」
背筋が伸びた勢いそのままに、僕は蒔苗に食ってかかった。しかし相手は僕より上手。
「うっさい!」
その一言と、背中へのさっきより強めの掌打で、僕の抗議は容易く一蹴された。
そして更なる追撃が、僕に襲いかかる。
「ぐちぐちぐちぐち、男の癖にうるさいよ! さっきから自分には何も出来ないだとか、暗いな事ばっかり言って! そんな人間は何も出来ないよ! マジでムカつく!」
「いや、だって──」
「だって──じゃないよ! もうッ! ほんっとムカつく! 何がムカつくって、なによりムカつくのがさあ、あんたがあたしの事を頼りにしてないってのがほんっとムカつくのよ。頼れるのがその人だけ? 冗談言わないでよ! あたしはあんたの言う事は信用してるし、話も聞くわよ! 子供の頃からあんたの面倒を見てきたのはあたしよ! いじめられては、ピーピー泣いてたあんたを守ってきたのはあたしだし。おじさんに怒られた、あんたをなぐさめてやったのもあたし。そこんとこわかってんのッ!」
台詞の終わりと同時に、こめかみ付近へ鋭い痛みが訪れた。頭突きだった。本気で痛い。長年に渡って正拳突きを正面から受け止め続けた蒔苗の額は、凶器と言っても遜色はなかった。
僕の体は横に倒れ、地を舐めた。さすがにもう立ち上がる気力もない。何度目だ。数える気も起きない。いくら自分の部屋だからといって、地べたを舐めたいほどは愛していない。
僕は脱力していた。
蒔苗はそんな僕の上に馬乗りになってきた。マウントポジション。殺られる。僕は祈るように目を閉じた。拳か、掌底か、それとも抜き手か? 抜き手は嫌だな。本気で死ぬから。
「わかった!」
その声に、僕は目を開けて蒔苗を見る。馬乗りになっている蒔苗は微笑んでいた。蒔苗の思惑は想定していたどれでもなかったらしい。というか攻撃する意思はなかったようだ。
「な、なにが?」
僕は恐る恐る聞いてみた。
「あたしが見て判断する」
「な、なにを?」
半ばわかって聞いてみる。これ以上の面倒は本気でお断りしたい。
「その須藤って人に決まってるじゃん。馬鹿じゃないのあんた?」
脳筋に言われたくはない。今の高校だって、空手小町の名声と、僕の学習指導のお陰で、スレスレで入れたんじゃないか。
「いや……」
「いや、じゃない! あたしはあんたの保護者なの。だからその須藤って人もあたしが判断するの! それで良さそうなら様子をみるし、駄目なら──」
「駄目なら?」
「殺るわ」
悪魔の微笑み。映画のタイトルみたいだ。じゃなくって! なんって物騒な事を言い出す女子高生だ。駄目だ、駄目だ。あの須藤さんを見たら、蒔苗は問答無用で悪と判断する。そしたら事件がもう一個増えてしまう。勘弁してくれ。
「ちょっと待て!」
しかし蒔苗は、僕に制止の言葉を発する隙を与えなかった。さっと立ち上がり、窓辺まで歩いていくとサッシの上に右手を掛け、下に左足を乗せて、
「じゃあ明日、学校が終わってから、迎えに来るよ」
そう言うと、閉じたピースを額に掲げてあばよの合図。同時に実に伸び伸びとした動作で、窓の外にその肢体を躍らせた。
センスが古いぜ。空手小町。