説明
校長室に呼び出された僕の耳に一番に飛び込んできたのは、教頭のヒステリックな声だった。校長はそんな教頭を手で軽く制すると、僕をまっすぐに見すえた。
「坂嵜君、だったね」
人格者の声だった。年輪を感じさせる声。自然と身体に力がはいる。
「はい」
「君はなぜ、自分がここに呼ばれたか、わかっているか?」
「いいえ」
「君は先日、校内に警察を呼んだね」
確かにこの前、事件を目撃したので警察を呼んだ。市民の義務だ。そうか、警察に協力したお手柄高校生という事で、僕を褒めるためにここに呼んだのか。だが、それにはおよばない。
「はい──でも褒めていただかなくてもいいですよ。僕は当然の事をしただけですから」
その言葉を聞いて、校長は苦笑い。教頭は──ゆでだこのような、頭になった。
「ば、ばばばばっ! 馬鹿な事を言うんじゃないっ! 君は自分のした事の重要性を理解していない。いたずら目的で警察を学校に呼んで、それでそれで! 褒めなくていいだなんて! 馬鹿も休み休み言いなさいっ! 今日、君がここに呼ばれたのは処罰を受けるためだ」
「しょばつ! なんでッ!」
「なんで? 当たり前じゃないか。悪意ある目的で警察を校内に呼び、由緒正しき、我が校の評判を貶める行為をしたんだ。処罰が当たり前だ。なんで褒められるだなんて思えるんだ」
「普通、事件を目撃したら、通報するじゃないですか。それで褒められるじゃないですか」
僕は猛然と抗議した。褒められなくても構わないが、処罰はごめんだ。
「それは! 事件が本当にあった場合だ!」
一蹴。
「ぐ」
それを言われるとイタイ。確かに僕は事件を目撃した。だから警察に通報した。でも警察が到着した頃に、事件は陰も形もなくなっていた。
僕が見たはずのモノも。僕が見たはずの場所も。全部なくなっていた。
到着した警察の方を連れまわし、校舎内、学校内を探しまくったが、痕跡もなかった。
「私も途中から参加したがどこにも何もなかったじゃないか。警察の方も最後は呆れ顔で、夢でも見てたんじゃないかと言い出す始末。それで褒められると思っているとは、我が校に在籍している生徒とは思えない! これは伝統ある我が校を著しくはずかしめる行為だよ──」
教頭に再び火がつき、ヒステリックなお説教は止まらない。
「まあ、教頭先生」
しばらくして、再び校長が制するまでそれは続いた。
校長は教頭から僕に視線をうつすと、人格者の声で話し始めた。
「坂嵜君。確かに通報は市民の義務だ。大事な事だ。でもそれは教頭先生の言うとおり、本当に事件があった時だ。それ以外でみだりに警察を呼んだりする事はよくない。ましてやここは学校だ。学校というものは、基本的に外部の人間を入れないモノだ。とくに警察を呼んだ、呼ばれたという事は、周囲の人間に不要な憶測を呼ぶ。我が校は私立であり、進学校であり、伝統校であるから、そういう部分への影響は大きい。ちょっとした事ですぐに評判が落ちる。つまり、今回君がした事は、我が校にとって、とても悪いことだと言う事だ」
「はあ──」
何が言いたいんだ。大人の話しすぎて、よくわからない。
「それで、今回の君の処分なんだが、無期停学に決定したよ」
「無期──停学ッ?」
「ああ、そうだ。ゆっくりと自分のした事を反省してくれ」
「ちょっと待ってくださいよ! 僕は本当に事件を目撃したんですよ! 悪意なんてなかった。ただ、事件がなくなってしまっただけなんです。それで無期停学なんて!」
そんな、馬鹿な話があってたまるかッ!
★★★★★
「これが僕が無期停学になった事の顛末です。わかっていただけました?」
須藤さんは煙管をふかしながら言った。
「事の流れはわかった。でもわからない事が一つだけある。確認させてもらっていいかい?」
「ええ、なんでもどうぞ」
「重要な事だから、しっかり考えてくれ」
店主はそう言って、ラウンジチェアから身を乗り出して、カウンターに肘をついた。
「君は何の事件を目撃したのかね?」
一拍。
僕は店主を見つめた。それは決して夫婦のような視線ではなく、平常心を相手の心の中に探すような視線だった。店主も僕を見ていた。店主は僕の目を探るように見ていた。
「なんの……って──」
勿論、アレに決まってる。
アレだ、アレ。あれ? アレって何だよ? そうだ。僕は放課後、アレを見つけて、事件に巻き込まれて、学校を無期停学になった。
ここまでは店主に説明したとおりだ。だけど、僕は何を見たんだ。アレって何だ?
思い出せない。いくら記憶の中を探っても、見たという記憶があるだけで、実際そのモノには霧がかかったようにしか思い出せない。
アレって──。
「一体、何なんでしょうかね?」
って、しまった! 我ながら何て間抜けな返答だ。自分が見たモノ。しかも、つい昨日見たモノがわからないなんて。さらに言うなら返答の仕方も間抜け以外の何ものでもない。完ッ全に店主に馬鹿にされる。最悪依頼の話がなかった事になるかもしれない。
そう思って、僕は恐る恐る店主を見た。
「そうか──」
僕の考えとは裏腹に店主の答えは至極あっさりとしたもので、それだけ言うと、乗り出していた身体を、再び椅子に埋めた。その店主から放たれた言葉は答えとすら言いがたく、しかもその一言を残して、思案顔で黙り込んでしまった。
「あのぉ……」
店主の言動の意味がわからずに僕は店主の様子を伺った。店主は静かに考え込んでいた。手にしている煙管の火皿がひょこひょこと上下する。僕はそれを視線で追った。
一、二、三、四、五、六、七、八、九……十まで数えて、僕は面倒になり、店主を見た。
店主は僕を見ていた。いや、見ているようで見ていなかった。確かに僕を見ているんだが、僕には焦点があってない。なんだか全身を俯瞰で見られているような感じ。こんな近距離でそんな筈はないが、とにかくそんな感じだった。
時間にして数秒だろうか、そんな視線が続いた後、店主の視線は元に戻った。そしてそのまま僕を見ながら、呟くように言った。
「君じゃないか……」
ワケがわからなかった。事件の事もわからなかったし、店主の言動も、この店の事も、何もかもがわからなかった。
「僕、完全に置いてかれているんですが……何かわかったんでしょうか?」
「ふむ、大体わかったよ」
店主は自信ありげにそう言った。
「え?」
そう言った僕の顔は、酷く間の抜けた顔だっただろう。自分でもわかる。それ位に、僕はびっくりしていた。まだ、ろくに話もしていない。説明も何一つわからないと言われた。その段階から別段情報が増えたとも思わない。なんせ、僕の駄目出ししかしていないんだから、新たな進展なんて望むべきもなかった。
でも、店主は大体わかったと言う。
ますます僕の混迷は深まった。
「僕には何一つわからないのですが、何がわかったのか教えてもらってもいいですか?」
「ふむ、いいだろう。簡単に言うとね。このままではこの事件は誰にも解決できない」
「はぁ?」
いやいや、もうこれしか口から出てこない。ふざけんな。あれだけ偉そうな事言っておいて、いきなりのギブアップ宣言か。
「私以外には。というのが正確だがね。この事件は私にしか解決できないよ。いや──違うな。この事件は私を求めてきたんだ。わかるかい?」
「いえ、まったく……」
断言する。本当に全くわからない。この店主は何を言っているんだろうか? 支離滅裂だ。
「ふむ──そうだろうね。少し興奮しているようだ」
小さな咳払いを店主が一つ。ゴホン、と。
僕はそれに呼応するように唾を飲む。ゴクリ、と。
「今回の事件はなくなったんじゃない」
「でも、いくら探してもなかったんですよ」
「それはなくなったのではなく、君が忘れたんだ。さっきも聞いたとおり、君は何を見たのか覚えていない。多分、どこで見たのかも覚えていないだろう?」
確かに──。事件を目撃した事は覚えているが、何を、何処で見たのかは覚えていない。
「はい……」
「そう。これこそがこの事件の中でもっとも肝要な部分だ。それがなぜだかわかるかい?」
僕は無言で首を左右に振った。
「君は全く鈍いね。鈍い鈍いよ。愚鈍だ。でもいくら愚鈍でも、君は自分が見たモノと場所を小一時間で跡形もなく忘れる事が出来るかい? いくら気が動転していたとは言え、警察まで呼ぶ余裕があった人間がだよ。肝心の目撃の記憶を忘れるとも思えないからね。という事はだよ。つまりはこの事件には力が干渉していると考えるのが自然だ」
「ちから──ですか?」
「ああ、そうだ。この事件には『事象を水に流す力』が干渉している」
「……」
僕は無言で店主の顔を見つめた。
「……」
店主も僕を無言で見つめかえしてきた。
「冗談?」
「いや」
冗談ではないらしかった。
「正常?」
「ああ」
正常らしかった。僕は軽く肩をすくめた。
店主はそんな僕の態度にも別に気分を害した様子はなかった。
「そう思う君の気持ちもわかるがね。だがこれは事実なのだよ。現にこの事件は『水に流された』かのようになかった事になっている。君の目撃情報を除いてはだけどね。その唯一の例外の君とて、何を見たのか、どこで見たのか、全てを忘れてしまって、事件があった事だけしか覚えていない。これじゃあ、誰に何を言った所で誰にも、何も、信用はしてもらえないよ。いい例として、君は警察を呼んだが、事件になっていないだろう? これが何を意味するか。君はきっと警察にも、私にしたのと同様の説明をしたのだろう。あの要領を得ない説明をね。だから、警察もこの事件を悪戯か、間違いだと判断した。私はこれは至極真っ当な判断だと思う。事件の痕跡はない。通報者の説明は要領を得ない。これじゃあ、調べようもない。確かに悪意のある悪戯だと判断されても致し方ない面もある。当然、警察としては何もする事はない。そうして結果、この事件は世界から洗い流された。理解できたかい?」
店主は椅子に身を預けながら、カウンターを人差し指でトントンと叩いた。
信じられない。そんな事があるのだろうか? 事象を水に流す? そんなおっさんのいい訳みたいな事でこんな事になったのか。そんな事があるのだったら、僕のここ数日の受難の全てを水に流して欲しい位だ。いくら願った所で、僕の停学はなかった事にはならないし、事件を目撃したという記憶もなくならない。常識的に考えたら、そんな機能あるわけはない。
そう──普通は、ない。でも、普通じゃなかったら?
実際問題、僕は何を何処で見たのかを忘れている。完全に。これは事実だ。自慢じゃないが、僕は暗記科目が得意だ。普通であれば、つい昨日あった出来事。しかも警察沙汰にせざるを得ないような出来事の原因を忘れるわけがない。これはどう考えても不自然だ。普通じゃない。店主に言われるまで気付かなかった事も、気付いた今となっては不自然に思えてくる。
店主が言っている事が全て正しいとは思えないけれど、こんな状況では何か不思議な力が働いているのではないかと考えたくもなってくる。
じゃあ、普通じゃなくて、そういう事が実際有ったとして。でも、でもだ。もし仮に、全てをなかった事にされてしまっているのだったら……。
それは、それはもう──。
「もう──どうしようも」
ない。と、そう言いかけた僕の諦めの言葉。
「私がいる」
それを遮る店主から放たれた力強い言葉。
「え?」
僕は呆気にとられた目で店主を見た。そんな僕を店主は静かな目で眺めた。
「私が解決すると言っているんだよ。最初から言っているじゃないか。君は話を聞いているのかい。私が掬うと言っているのだから、素直に掬われるべきだとは思わないのかい?」
「それは……」
確かにそうだ。『事象を水に流す力』を相手に、僕一人だけで、どうこうできるなんて全く思わない。だとしたら、店主に頼るのが、打てる唯一の手、と言っても過言ではないだろう。
そう。最初の思惑がどうであれ、今の僕に出来る事はこれだけだ。
「……お願いします」
僕がいま、唯一発する事の出来る言葉に、店主は心なしか微笑んだように見えた。
「ふむ──確かにこの事件はこの私。須藤公望が引き受けた。これで君は依頼者で、私が探偵だ。これが正しい姿。正しい形だよ。君は誰にも解けない事件を依頼する。私はその事件を解決する。結果として、君は退学を取り消される。世界は全ては元通りだ」
一息。そして。
「宣言しよう! 君は宝船にすくわれる」
宣言された。
救われるだって。なんて胡散臭い台詞なんだ。きょうび、悪役でもこんな胡散臭い台詞は吐かないだろう。でもいま頼れるのはこの人しかいない。その現実に少し泣けてくる。
気を取り直して、これだけは聞いておかなければならない。
「それで? 実際、どうやって世界を元通りにするんですか?」
「それはだね──」
言葉が止まる。店内に響いたある音を契機に店主の口はぴたりと閉じられた。それは突然店内に鳴り響いた。地獄の釜の蓋が開いた。そう言われても納得できる音だった。しかし、それは実際は地獄の釜などではなく、一人の人間の生理的現象に過ぎなかったのだが。
「わたし、お腹がすきました」
山音さんの腹の虫だった。とてもじゃないが、女性の腹から発せられる音ではない。
「須藤さん、わたしお腹がすきました。夕飯はなんですか? 早く食べたいです」
山音は繰り返し、自分の空腹をアピールする。しかし残念ながら、今は僕の人生における一大事について、この後の展開を打ち合わせ中だ。流石にすぐには食事に与れる事はないだろう。可哀相だが、少し我慢してもらうしかあるまい。
そう思って、僕は確認するように店主を見た。
……そわそわしてる。完ッ全にそわそわしてる。今すぐにでも給仕を開始しそうな様子だ。
それは流石に困る。僕は先手を打つ。
「今は……僕との話があるので、その後ですかね? ねえ、須藤さん」
横から何も関係のない人間が、さも関係有りそうに言葉を挟んだ。挟んだのは勿論僕。
須藤さんはそわそわから抜け出し、僕ににっこりと微笑みかけてきた。それはとても良い笑顔だった。良かった。僕の事件を優先に考えてくれるんだ。先手を打つ必要なんてなかったな。流石の須藤さんでもこの状況下で、僕をないがしろにするような事はないんだな。
少し、見直した。
「君、帰りたまえ」
前言撤回。光の速さを超えた。超えない。ニュートリノ前言撤回だよ。見直して損した、正しい意味での汚名挽回だよ。帰りたまえってなんだよ。ふざけんな。
「本気ですか?」
僕はカウンターを叩き、鼻息荒く立ち上がった。
「勿論」
断言。
「じゃあ、僕の事件はどうするんですか? いまさっき僕の事件を貴方が解決すると宣言したばかりじゃないですか。それなのに、今後の展開への説明もなく帰れなんて、無責任過ぎます。おかしいですよ」
「ふむ──全部明日だね」
須藤は立ち上がりながら言った。
「明日って! そんな悠長な事を言っている時間は……」
なおも食い下がる僕に、須藤さんは強硬手段に出た。カウンターから客席に出てくると、席から立ちあがっていた僕を、無理矢理追い出すように、僕を出口へと押し出した。
「え、え、え? ちょちょちょ、ちょっと! ちょっと待って!」
抗議虚しく、扉は僕の背後にまわって、無情な音を立てた。僕は店外に追い出されていた。
「はぁ──」
あの様子を見る限り、僕が何を言った所で無駄だろう。山音さんの事となると気が狂ったようになるな、あの人は。くそ色ボケロリコンめ。
「仕方ない、帰るか……明日また出直しだ」
僕はとぼとぼと歩き始めた。が、しかしそんな僕を呼び止める声が背後から響く。
「君、ちょっと待ちたまえ」
須藤さんの声だった。僕はその声に振り返った。
うっすらと開いた扉から店内の光が、細く長く地面に伸びていた。そこから須藤さんの顔がうすぼんやりと浮かんでいた。
「なんですか?」
あんなに強硬に僕を追い出した後、すぐに呼び止めるとはなんて気まぐれだ。
「忘れていたよ。これを持っていきたまえ。そして署名して、明日また持ってくるんだ」
そう言って、扉の隙間から一片の紙をすべり落とした。紙はひらりと舞い、足元に落ちた。
「これは?」
「簡単な契約書だよ」
「契約書? そんなのが必要なんですか?」
「ああ、一応ね。形だけのモノだから気にしないでくれ。じゃ、頼んだよ」
扉は音もなく閉じられた。
契約書──僕はそう言われた紙を拾い上げ、紙面に目を通した。
しかし、そこに何の条文も記載されておらず、ただの白紙だった。いや、紙面の最後に二行だけ記述がある。それは『甲』と『乙』という項目であり、『甲』の横に須藤公望と記載が有った。つまりは『乙』に僕の名前を書いて来いという事なのだろう。
まあ形だけだと言うし、名前だけ書くのならば簡単な事だ。明日、書いて持ってこよう。
僕は『契約書』をスクールバッグにしまって、家路を歩き始めた。