表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/12

相談

 第一章 相談


僕は今日、人生を失った。

正確には明るい未来を思い浮かべる事の出来る人生。これを失った。

全ては──始まったばかりだったのに。これからずっと続くと思っていた。

だが残念ながら、それは実にあっけなく終わった。何ひとッつとして、僕は味わう事が出来なかった。人生のフルコースは、味わう前にテーブルの上から煙の様に消えていた。

酷いイリュージョンだ。

 ふう──と、口から小さく溜息が漏れた。

今はゴールデンウィークが明けた五月の半ばだから。まだ入学してから一月半しか経っていない。TVでは五月病だなんだと煽っているが、僕は気力に満ち溢れていた。クラスだって、やっとみんな馴染みはじめてきていた。

全部全部、新しかった。全部全部、光り輝いていた。全部全部、僕の手の中に有ったんだ。

昨日までは。でも今日はその全てを失くしていた。

さっきより大きく、溜息がこぼれる。

ああ──何故だ? 何故僕が全てを失わなければならない? 誰か教えてくれ。その理由が正当ならば、僕は何も言わずに全てを受け入れよう。正当でないにしても、理由が分れば反論が出来る。だけど、だけど今は反論すら出来ない。抗う事も、闘う事も出来ない。

 ワケがわからない。僕が処分される理由ワケが。

そう──僕は母校から殺処分された。僕の人生を全て終わりにしてしまう処分。正確にはその処分の前段階。無期限の停学。退学にしたいけど、即退学にするのは体面が悪いからっていう理由からなされただけの中間措置。

 ただそれだけ。つまり、救われる望みは限りなく薄い。

この現代。この日本では。学歴がモノを言う。僕が生まれる前に比べれば、その重要度も下がってはいるだろうけど。なんだかんだ言っても、やっぱり大事なモノの一つには違いない。

それを今日失った。

 溜息は体全体から溢れ出して、止まる所を知らない状態。

未来への可能性を一つ失う。人生の難易度を一つ上げたって事だろう? 僕はこの先の人生をイージーにするために、僕は努力してこの高校に入ったというのに。大変だったのに。

僕の家はお世辞にも勉強をする環境が整っているとは言えない。どれくらい整っていないかと言うと、勉強机を僕は持っていない。そう言えば理解してもらえるだろうか? 何故、そんな状況になっているか端的に言ってしまえば、親のせいだ。

と言っても。暴力を振るわれて云々──だとか。ネグレクトされて云々──だとか。蒸発してしまって云々──だとか。そんな不幸で、陰惨で、聞くにも耐えないような話ではない。

全くない。じゃあ、どんな話かと言えばこの一語に尽きる。

 理解がない。

僕の父も母も勉強する事に理解がない。学校の勉強なんて意味がない! と本気で思ってしまっている大人だ。うちが自営業っていう事も原因の一端にあるだろうか? だがしかし! 世の中で事業を営んでいる方々のご子息、ご令嬢が勉強させてもらえないなんて話は聞いた事がないし、企業家のご子息などは勉強を強いられると聞く。だから関係のない話なんだろう。

とにかくまあ、そんな環境の中、僕は家業を継ぎたくない一心で勉強した。幸い、僕の頭はそんなに悪い方ではなかったらしく。やればやるだけ結果が出た。

そして──僕は憧れの高校に入った。入った途端に失った。僕の高校生活を崩すのは、砂の城を壊す事よりも、簡単だっただろう。なにせたったの一言で済むのだから。

無期停学です。

この言葉を、初めて見た校長から宣告された時には驚いた。寝耳に水だった。

そんな宣告によって僕は学校を追われた。

そして今、家にも帰らずに、この喫茶店にいる。名前は『宝船』。中学校時代から僕の行きつけであり、僕の心の拠り所だ。僕の足は自然とここにおもむいていた。

僕は溜息を吐いた。正確には吐きつづけている。既に呼吸なんだか、溜息なんだかわからない状態になっていた。過呼吸状態。

失いたくない。取り戻したい。失った僕の未来を取り返したい。何とかしたい。何とかしたい。どうしたらいいのかわからない。これを取り返すには僕だけじゃ無理だ。

「はああああ」

 僕は、とびきり特大で、とびきり陰鬱で、とびきり厭味な溜息を吐いた。

ほんっと……なんの因果で、僕はこんな目にあってるんだろう。

「ごほんッ」

 若き僕が悩み、突っ伏している。そのカウンターの中から咳払いが聞こえた。

 カウンターの中には一人の男がいる。この喫茶店、『宝船』の店主だ。きっと相変わらずの仏頂面で、煙管をふかしながら座っているんだろう。そんなだから咳が出るんだ。未成年がカウンターにいるんだからタバコは遠慮して頂きたいものだ。

ん? むむ。──いやぁ……そうか、この店主の咳払い。

こりゃあ、あれだなあ。きっとこの咳。これがアウトブレイクの始まりなんだよな。実はこの店主は生物学者でバイオテロを目論んでいて。地下で殺人ウィルスを培養していて。間違って感染していて。いや、きっと覚悟の上での感染だったんだ。自分を拒絶した世界を巻き込んでの壮大な自殺! それに巻き込まれて死ぬ僕。きっとモブキャラの死に様だろうな。

「はああああああああ。いっその事──」

 そうなってくれた方が良いのかな……僕にはわからない。もう、何も考える気も起きないし、ここから頭を上げて何かをする気にもならない。

僕は希望を失っていた。どこの誰に頼んでも何も解決しない。

 僕は三度目の、大きな溜息を漏らした。正確には漏らしたというよりは、滝のように流れ落ちた。ナイアガラ瀑布も顔負けのネガティブ瀑布だった。これが本日最大級だ。

「はあああああああああああああああああああああああああああああ──」

 吐き出すごとに気持ちが少し楽になっていく。このまま全部が流れ出るまで溜息をつけば、今の気持ちも楽になるかもしれない。だがしかしついていない時はやはりついていないモノで、僕のネガティブ瀑布大会は途中で止められ、最後まで打たせてはもらえなかった。

「うるさいよ」

 静かでいて、しかしよく通る声が怒気を含んでカウンターの中から響いた。その声は渋く。太く。深みがあった。威厳のある古木のような声。

 うるさい? 誰が? 店内は静かに、それは静かにゆっくりとした時間が流れている。BGMにはJAZZが流れている。この店ではよく聞く音楽だ。店主の好みだろう。曲名は知らないが、僕もここでよく聞いて気に入っている。僕の思索を邪魔するものは何もない位に静かだ。店主は何をうるさいと言っているのだろうか?

店はこんなに静かだと言うのに──。

「仕方ない……」

僕は気力を振り絞って、カウンターに張り付いてしまっていた頭をベリベリと剥がした。すこし目眩がする。ずっと突っ伏していたから、頭に血が上ってしまったんだろう。目頭を抑える。そして目眩を振り払うように軽く頭を振った。

段々と目眩がひいていくのを感じる。僕はそこでやっと辺りを、つまりは今いるこの店内を見回した。通いなれた店。この中にうるさいと形容される何かがあるはずだ。気になりだしたら止まらない。この好奇心が満たされるのなら、今一時だけは人生の悩みを忘れられそうだ。これは大いに期待が出来る。

そんな思惑で見回した店内。結論としてはいつも通りだった。今まで身体を預けていたカウンター。これは木で出来ていて、重厚感と温もりがある。カウンター前に置かれた椅子。むき出しのコンクリート床。店内に所狭しと並んでいる本棚。これはちょっとした図書館のようで、僕がこの店を気に入っている理由の一つでもある。散在しているテーブル席。そのテーブル席のソファに膝を抱えて座っている常連の女性客。カウンターの中でラウンジチェアに腰掛けている店主。大体いつもこの店には僕を含めてこの面子しかいない。女性と店主は話をしているのを見た事があるが、僕はこの二人と話した事はない。むしろ目線すらあった事がない。僕はいつもこの店に来て珈琲を頼んでは本ばかり読んでいたからだ。決して、人見知りだとか、女性には緊張して声が掛けられないとかではない。そう断じて否だ!

まあ、つまりはいつも通りだ。

……いや、違うのか?

確かに違う。違いは一つ。それは目線。そうだ。いつもは目線すらあった事のない店主が僕を見ていた。そしてその視線はとても不機嫌で、僕をまっすぐに射抜くように見つめていた。

責めるような視線。

ん? 責める? 誰をだ? というか、何だ? え? その眼は何ですか? その非難するような眼差しは? もしかして、うるさいって言われてたのは僕?

 恐る恐る、僕は事実を確かめるように自分を指差した。

「僕?」

店主はこくり──とひとつ頷いた。

「溜息ですか?」

 店主はこくり──とひとつ頷いた。

「溜息、だけですよね?」

 店主はすす──と左右に首を振った。

「えっと……どこまで?」

 バンッ! 店主は大きく手を振りかぶって、カウンターを平手で叩いた。そしてそのままの勢いで跳ね上がるように立ち上がって言った。

「どこまで? どこまでか? って私に聞いたのかい? 愚問だよ。君。それは愚問だ。そんな愚かな問いに、私が答えるのかい? 真っ平だよ。御免だね。ずっと私は我慢してきた。君はまず、陰鬱な顔をしてこの店に入ってきた。そして力なくホットコーヒーを注文した後、カウンターに突っ伏した。その後! その後からだよ! 私はずっと我慢してたんだよ。この意味が君にわかるかい? わからないだろうね。なにせあんな愚かな問いを私にする位だ。君は愚かなのだろう。そんな愚かな君にもわかるように敢えて、その問いに答えるならば!」

 店主はそこまで言うと一旦言葉を切って、再びカウンターを平手で叩いた。

「全部! 全部だよ! 一から十まで、頭の先から足の先まで、一部始終、天網恢恢疎にして漏らしてない。全部だよ。あんなに声の大きい独り言を聞くのは生まれて初めてだ。てっきり私に話しかけているのかと思ったよ。でも違った。君は確かにこの店の常連だ。だが私も君も人間と話す事を喜ばない人種だったせいか、話をした事などない。二年来話しかけてこない常連が、話しかけてくるにはおかしなシチュエーションだ。じゃあ何かの悪戯か? とも考えてみた。だが暫く待ってみても何の変化もない。君の独白は続くばかりだ。結局今まで聞いてしまった。結果、僕は君の事を! 知りたくもない君の事をだよ? 君の言っていた全てが未知数だった友人なんかよりよほど詳しくなってしまったんだよ。知りたくもないのにだよ? 君にその苦痛がわかるかね?」

 大した剣幕だった。というか全部って──もうね。ツイてない時はとことんツイてないんだ。それが世の真理だ。僕の敬愛する鬼太郎も、毛がなくなった時にそう言ってた。

「えっと、僕には苦痛がいか程かは、わかりません。すみません……」

 僕はうな垂れて、力なく謝る事しか出来なかった。だが、店主の怒りは止まる所を知らない。

「私だけが迷惑を被るならばまだいい! まがりなりにも喫茶店を開いてしまっている手前、私の仕事は接客業だからね。客からの迷惑は想定内だよ。だけど、だけどだ! ここにいる山音さんに迷惑をかける事だけは許さない。絶対に許されない! そして君は山音さんに迷惑をかけた。見ろ! 君が薄気味の悪いひとり言を大声で発信していたおかげで、すっかり山音さんが怯えてしまったじゃないか」

 店主はそう言って、テーブル席で膝を抱えている女性客を示した。僕は振り返ってその女性を見る。その女性はカリモクのソファーに両膝を抱えたスタイル、つまりは体育座りの姿勢でちょこんと鎮座ましましていた。

美しかった。

本を読むその横顔は一種──神々しさを湛えていた。

 髪は黒くてしっかりと芯があり、でもそれでいてふんわりと風になびいて、不思議な程に光沢を放ちながら、それがショートボブの形にすんなりとおさまっている。肌は白く、透明感がある。そんな肌。キラキラとしていてまるで美しい白磁をみているかのようだ。膝を丸めて、体育座りをした状態で椅子に腰掛けている。履いているサンダルは脱いでいる。なんて行儀がいいんだ。そう──体育座りをしているからには勿論、ワンピースから伸びている足が見えている。そう! 脚だ。カモシカのような脚。そんな例えは忘れろ。獣の脚に例えるなんて言語道断だ。自ら光を放っているような光沢。はちきれんばかりの生気。細いのに力強い。以前からこの店を訪れる度にうすうす思っていたが、まじまじと彼女を見て、いまはっきり思う。

こりゃ神だ。女神だ。

「山音さん……」

 可愛い名前だ。はじめて知った。店主と彼女の会話はいつも小声で、漏れ聞こえてくるような事などなかった。だから名前も知らなかった。

「山音さん……じゃないよ! 君は私の言っている事を理解していないのかね? 山音さんを怯えさせるな。と言っているんだよ。そんないやらしい眼で彼女を見るな」

「いいいいいいい、いやらしいって! そんな。そんな眼で見てないですよ。むしろ見てないですよ。そう! 僕は見てない」

「嘘を吐くんじゃない! 山音さんを見なさい。すっかり怯えているじゃないか。可哀相だとは思わないのかね」

 そう言われて、僕はしっかりと彼女を見た。ええ……と。

「あれって……怯えてる、んですか?」

「何を確認しているんだい? 見るからに怯えてるじゃないか。君の目は節穴なのかな? 愚かな上に節穴とは! 君は完全に人間、失格じゃないか」

 確かに今は穴があったら入りたいほどに恥ずかしいが、そこまで恥の多い人生じゃない。

 もう一度僕は山音さんを見た。変わらず神々しい。後光が差しているかのようだ。

だが、怯えた様子はどこにも見当たらない。夢中になって本を読んでいる。いつもは横目で、しかも、ちらっとしか見ていないから正確には言えないが、普段と変わりないと思う。

 僕が見る限り、彼女は本を読んでいるか、物を食べているかの、その二つの行動以外をとっているのを見た事がない。

恐る恐る、僕は店主に問いかけた。

「ふ、普通、じゃないですかね?」

「──節穴だ」

「え?」

「君は目だけでなく、もう存在が節穴だ!」

「いやいや、どう見ても普通でしょ。彼女のどこが怯えていると言うんですか」

 店主は僕の言葉に、ふうっ──と音にならない溜息を吐き、おもむろに立ち上がると、カウンターから客席に出て、山音さんの側まで歩み寄った。そして静かに山音さんの肩に手を置く。

「ほら見なさい。こんなに肩が震えている」

 確かに肩は震えていた。ガタガタと震えていた。だが、怯えているようには見えない……どちらかと言うと興奮しているように見える。なぜなら肩だけではなく、体全体をゆすっているからだ。興奮した動物が檻の網をゆするように揺れているからだ。

「ねえ──山音さん。気味が悪かったですね。こんなに肩を震わせるほど怯えなくてもいいのですよ。私がいますから。いつだって私は貴女を護りますよ。だからご安心なさい」

 甘い。甘すぎる。砂糖でコーティングしたような言葉。口にしただけで、リンパの辺りが酷く痛みそうな言葉だった。気持ち悪い。そんな言葉を掛けられた当人は、さぞかし不快な顔、もしくは陶酔した顔ををしているだろうかと思った。

が。

「え? 何ですか? 須藤さん。わたし、本に夢中で気付かなかったんですけど、何か仰いました? あッ! さてはご飯の時間ですね。わたしお腹が空いてきました。さっきまで満腹だったんですけど! でも、ご飯の話をしてたらお腹が減ってきましたよ。不思議ですね。でも、もうご飯の時間だから大丈夫ですよね? お腹空いても……? ってどうしたんですか、須藤さん? なんでそんな苦い顔をなさっているんですか?」

 僕は思わず吹きだしてしまった。

聞いてなかった。怯えてなかっただけじゃなくて、全く聞いてなかった。あんな言葉が! 届いてなかったとか、寒い寒い。寒すぎる。

節穴はあんたの目じゃないか。

店主は山音さんの肩に手を置いたまま固まっていた。そりゃそうだろう。こんな事になったら、僕だったら叫んでる。叫んで走り出して穴掘って自分で埋まるよ。

 だって完ッ全に滑ってたしね。甘い言葉なんて、互いが愛に酔ってなきゃ、寒い言葉を通り越して痛い言葉だからね。往々にして寒いを通り越すと痛いに変わってるものだからね。

愛の言葉なんて囁いた事ないんだけど。

「おッほんッ!」

 店主の咳払いが響く。心なしか言葉尻に(汗)とかついてそうな気がするのはきっと気のせいではないだろう。

「ねえ、山音さん。怖かったですよね」

 ──まだ言うか。

 なんと諦めの悪い。……いや、待て。店主の浴衣の懐から何か覗いている。ってあれは、江ノ島名物たこ煎餅じゃないか。

あれは! まさか買収? たこせんで? いっくらなんでもたこせんで買収はないでしょう。あんなうら若き乙女をたこせんで買収しようなんて……。

僕は店主の浅はかな行動を嘲笑うために、山音さんに視線を移した。

結果。

「ええ、怖かったです」

「って、ええええええええええええええええ」

 あっさり! 超あっさり! 買収されちゃったよ。いとも簡単に持論を捻じ曲げちゃったよ。たこせんで? マジでたこせんで? そんな物で人って買収されちゃうの? 怖ッ!

 驚く僕を横目に、店主はなおも山音さんと話し続ける。

「全ては彼の責任ですよ。怖かったですね。あんなに大きな独り言は、それ自体すでに怪事ですよね。怖いですね」

「ええ、怖かったです」

 いやいや。そう言いながら目線がたこせんから少しもそれないんですけど。全く人の話は聞いてなさそうなんですけど。

「でも、もう私が黙らせましたから安心ですよ。怖い奴はもういませんよ」

「ええ、怖かったです」

 なんか……壊れたレコードみたいになっちゃってる。それでもやっぱり目線は決してたこせんからそれない所が空恐ろしい。

「どうだね?」

 店主は誇らしげに僕を見て言った。だがどうだねもこうだねもないだろ! 完ッ全に買収だし、どう見たって山音さんは怯えてなかったし、あんたの発言は誰にも届いてなかったよ。

様々な反論が頭に浮かんだが、僕はそれを口にするのをやめた。どんな事を言っても、この店主には何も通じないだろう。だったらここはそんな言葉を発する時じゃない。

そうだ僕は真顔で、こう言うんだ。

「ええ、怖かったです」

 一瞬の間。

「ふッ──」

 店主は嗤った。ほんッとに厭な笑いだった。しかし、その笑いも一瞬だけで、またすぐにいつもの不機嫌な顔に戻っていた。

「君は面白い。いじり甲斐があるね。気に入ったよ。もっと早くいじっておけばよかった」

「そりゃ、どうも」

 そう言った僕の目は、きっと死んでいただろう。

「して──君は私に依頼するのかい?」

 店主はカウンターに戻って、ラウンジチェアに腰掛けると、急に居住まいを正して言った。

 ──依頼?

 僕は思わず固まった。

「依頼、ですか?」

「そう、依頼だ。するのかね、しないのかね?」

「え、っと……なにの、ですかね?」

店主の表情に怪訝な色が浮かんだ。

「──もしかして、君は何も知らずに、本当に偶然に、何も考えずにこの店でぶつぶつと悩みを口に出していたというのかい?」

「……それに関しては恥ずかしい限りですが。僕は一人で思い悩んでたつもりでして……決して誰かに聞いてほしいとか、相談したいとかではなくてですね。はい……」

「ふむ──」

 そんな僕を横目にも留める事無く、店主は考える姿勢をとった。

そして嗤った。そのとても厭な笑顔のまま、店主は言った。

「君は運がいい」

 僕は一瞬言葉を失った。

「ええぇぇ──っとぉ」

 ──やばい! 完ッ全にやばい。間違いない。僕の短い人生経験の中でもはっきりとわかる。そう、十ッ中十で間違いない!

 あの台詞をはく人間は──悪党だ!

 運がいいだと! 良いワケがないじゃないか。入学早々の学校は退学寸前。さらに、一人で抉られたばかりの傷を眺めて、舐めてたつもりが、それをうっかり公衆に垂れ流し。挙句の果てには怪しい人間からの完全ロックオン宣言。

最悪だ。これが人生最悪と言わずして何と言おうか! いっそ死にたい。いや生きたい。まともに生きていきたい。

僕は隠す事も、悪びれる事もせずに、店主の前で頭を抱えた。逃避だった。せめてここからだけは逃げ出したかった。このまま言ったら、変なモノ売りつけられて、借金地獄突入だ。

 僕は意を決し、抱えていた頭を持ち上げた。

「壷か! 腕輪か! 宝石か! 来るなら来やがれ! どんなモノも買う気はないぞ。いや、買えないぞ! 自慢じゃないが、僕は金を持っていないからな!」

 ──ふぅ、言いきってやった。

 店主はそんな僕を哀れなモノを見る目で見つめていた。そして店主は首を二三度横に振った。

「君ねえ。壷でも、腕輪でも、宝石でもないから安心したまえ。というか失礼だろう。はじめて話した相手に面と向って宗教だの、マルチだのって……違ったからいいモノの、本当だったら危ない事この上ないよ。甲高い声で、マルチじゃないんです! って始まっちゃうよ」

「でも……」

「怪しむのは無理もないが、私はそういう怪しい人間ではない。ねえ──山音さん?」

 店主は山音さんを見て言った。

その山音さんはさっき店主から受け取ったたこせんをちびりちびりと噛みしめていた。

「え? 何ですか? たこせんですか? おいしいですよ。あげませんよ」

 全く話にならない。でもそこがカワイイ。

「グホンッ。まあそれは信じてもらうしかない。それで? 結論として君は依頼するのかね」

 店主は気を取り直してさっきと同じ質問を繰り返した。

「さっきも言いましたけど、依頼とは何ですか?」

 僕も阿呆のように同じ質問を繰り返した。店主はそれに頷いた。

「ふむ──はじめから全部説明した方がよさそうだ。君はこの店に数年も通っているのに何も知らないようだからね」

「すみません……」

 僕がそういい終わると、店主の説明が始まった。

「ここは君も知ってのとおりに喫茶店『宝船』だ。だが、それだけではない。ここは同時に探偵社『宝船』でもあるんだ。君も知っていると思うが、宝船とは福を運んでくる船だ。厄を祓い、福を持って、授けにくるモノだ。あらゆる福を運んできてくれる。そういうモノだ。ここもつまりはそういう所だ。わかるかね?」

 店主はそう言うと満足げに息をついた。そして煙草盆の引き出しを開けて、そこから煙草を一つまみ取り出した。そんな店主の横顔に僕は言った。

「宝船どうこうはよくわかりませんが、つまりここは探偵社なんですね? 探偵ってあれですか? 浮気調査とかやってる、あれですか?」

 店主は僕の言葉に、深い溜息を吐いた。

その溜息は淡い紫色をしていた。俗に言う紫煙。煙草の煙だ。

先ほど煙草盆の引き出しから取り出された煙草は、くるりと上手に丸められて、店主の手の中にある煙管の火皿に収まって、こうこうと紅い光を発していた。

「間違ってはいないよ。だが、それは世間一般の探偵の認識だろう。と言ったら語弊があるか……世の探偵さんが、浮気調査ばかりやっているように聞こえてしまうからな。うむ、そうだな。こう言おう。君の言っているのは、ありとあらゆる依頼を請け負っている探偵社さんの、その業務の一部だろう? うむ、これが正しいな。だけれど、残念ながらここは違う。ここに来る依頼は、誰にもどうにも出来なかった依頼だ。警察が、探偵が、依頼者が、表から裏から手を回して、それでもどうにもならなかった事件が──ここに来るんだ」

 店主はそう言って、紫煙をくゆらせた。

宝船? 探偵? 依頼? ワケのわからない事件を解決してくれる?

 そんなウマい話があるわけないじゃないか。でもそんなウマい話が……有ったとしたら? そんなウマい話が……あるのか? あってくれるのか? ソレがあったとしたら、僕は……。

僕は──。

「救われますか?」

 静かに呟くような僕の言葉に、店主は小さく頷いて言った。

「溺れるモノを掬うのが、宝船ここの仕事だよ。話したまえ」

 僕は事の成り行きを話しはじめた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ