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異端者  作者: スティン
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神の視線

          一


 オレたちの毎日は寮中に響き渡る寮母さんの声で始まる。

「皆さーん、六時ですよー。起床の時間でーす」

 この声はいつもフライパンで頭を叩かれた(もちろん実際にそんな経験はないけれども)ときぐらいの衝撃を頭脳に与える。

 とは言っても、耳元で叫ばれているわけではない。

 部屋に備えられたスピーカーから流れてくるのだ。

 ……大音量で。

 残念ながらオレたちの部屋の側に音量を調整する装置は存在しない。音量は寮母さんが現在いるであろう放送室でしか調整出来ないのだ。それをいいことに彼女は音量をマックスにしているらしい(噂には、拡声器を口に当てて喋っているのだという、そこまでするか? と思えるような内容の物も存在する)。

 だから、毎日毎日、オレたちはこのくそうるさい声で目を覚まさなきゃならないんだ。

 この毎朝の不快感を防ぐ手立ては一つしかない。言うまでもなく、起床時間である六時前に目を覚まし、六時になる瞬間に部屋のスピーカーから最も離れた位置で(起床時間が過ぎるまで寮室から出ることは出来ない)耳を思いっ切り押えておくことだ。

 もちろん、耳栓をして寝ればいいのだということは分かる。けれど、それはいささか現実的ではない。何故なら実行した男がいるからだ。そして彼は寝坊して名前を剥奪された。

 決められた時間までに起きることは学生たちの本分の一つであり、神への誓いの一つなのだ。

 オレも同室の親友も決められた時間までに起きるなどという器用な真似は出来ないから(もちろん、偶然にも起きれた場合は速やかに相方の蹴りを腹に喰らいながら起こし、二人して部屋の隅で耳を塞ぐ)この毎朝の不快感を黙って受け入れている。

「全く、毎日毎日、ホントにうるさいな」

「そう言うなよ。寮母さんだって好き好んでしているわけじゃないだろうし。寝坊して名前を剥奪されたら元も子もない」

「もちろん、それはそうだ」

 お前にとっちゃな、という言葉をオレは呑み込んだ。

「けどさ、多少のストレス発散をしている節はあるだろう?」

 カジは腕を組んで少し考える。

「確かにそうかもしれない。あの人は僕らが名前を剥奪されようと気にしていないかもしれない。けれど、あの人のお陰でオレたちは名前を剥奪されずにいてるんだ。そのことに関しては、オレはとても感謝してる」

 オレは何も言わずに着替え始めた。それを見た友人も着替え始める。

 二人して制服に着替え終わるとパジャマを洗い物の棚に放り込んでおく。この洗い物はオレたちが学業に専念している間に学校に仕える奴隷たちが綺麗に洗っておいてくれるのだ。

 洗濯物ぐらい、自分たちでしてもいいようなものなのに。

 そんな疑問はオレ以外の誰も持っていないようだった。

 学校の提供してくれた制服をピシッと着た二人は部屋の扉の前に立つ。扉は木製で観音開きだ。顔が覗けるように胸から上の部分には何もない。

そのまま、寮母さんが回ってくるのを待った。

 やがて寮母さんがオレたちの部屋に回ってきた。

「うんうん、ちゃんと起きてるわね。あんたたちは本当に優秀ね」

 腰回りのふっくらした優しげな表情の寮母さんが扉の空白部分からオレたちの顔を見、いつもと同じようにそう言った。こんなにも優しげな表情をする寮母さんがどのような表情をしてマイクの前で叫んでいるのだろうかと、いつも疑問に思う。一度、必死そうな顔を想像して吹きそうになったことがあるのでそれからは疑問には思うけど、想像はしないようにしている。

 寮母さんの手によって鍵を開けられる。寮母さんは微笑んで次の部屋に向かっていく。

 どうして学生たちの部屋に鍵が掛けられているのか? 理由は簡単だ。大人たちは誰も明言しないけどほとんどの学生(低学年の子供たちは除くけど)は知っている。夜這いを防ぐ為だ。そして明言していないから低学年の子供たちの寮室も施錠している。

 基本的に学生間の恋愛は自由だ。学校はそこまで口うるさくない。けれど、関係を持つのは禁止である。教書の解説書(教書自体は抽象的な言い回しが多過ぎてほとんど何を書いているのか分からないものが多い。けれど、解説書にそうあるということは、教書のどこかにそう言う意味の話があるのを見つけ出した人間がいるということだろう)にも「学生の本分とは勉学に励むことである。しかし、異性との会話によって憩いを得ることまでは禁止しない。それ以上の行為に及んだ場合は神への誓いの裏切り行為である」とある。教書にあるということは精神的に禁じられているということだ。そして、施錠によって現実的に禁じられている。扉の空白部分は体が抜けられるほど大きくはない。出るには(入るにも)木製の扉を破壊するしかないはずである。それでも、夜這いを摘発されて名前を剥奪される学生は年に一組(男女の、という意味だ。夜這いを行った――あるいは行われた――学生の相部屋の人物は自分は知らなかったと言い張れば基本的に無実である。少なくとも、された方が知らなかったと言い張るのは無理があると思えるのだが……。教会にとって重要なのは行為に及んだか否か、ということらしい)はいる。彼らはばれないような工夫を考えているのだろうが、ばれているという時点でその程度の考えだったということだ。オレやカジはそんなこと考えたこともない。

 この場合の考えたこともないという意味はオレとカジで微妙に意味が異なってくるだろう。オレの場合は夜這いをしてでも会いに行きたい女性がこの学校にいないという意味で、カジの場合は教書に違反する行為をするなんて信じられないという意味だ。おそらくカジは扉が施錠されていなかったとしても夜這いなんて行為は絶対にしないだろう。

 オレたちは扉を開けると寮室の並んでいる廊下を歩く。

 いつもこの廊下は怖ろしく綺麗だ。ゴミ一つ落ちていない。何故なら、ゴミが一つでも落ちていた場合は奴隷が一人減るからである。

 だからと言って、わざとゴミを廊下に棄てる奴がいるけれど、そんな奴は最低だ。まぁ、そんなことをわざわざする奴は奴隷に何か嫌なことがあった奴だろう。何故ならその行為にはそれなりの勇気が必要だからだ。

 教書(正確にはその解説書だな)に「学校とは神への誓いを学ぶべき場所である。その神聖なる場所(寮も一応敷地内だからその神聖な場所とやらに含まれるらしい)を無闇に穢すことは神に対する不道徳である」とある。

 名前を剥奪するしないは、基本的に教書やその解説書の類には書いていない。けれど、教書やその解説書に、神への裏切りだとか、不道徳だとか、書かれている行為をしているのが発覚した場合には、教員会議に掛けられて処罰が決定(大抵の場合は名前を剥奪される)される。

つまり、わざとゴミを棄てているのがばれたら名前を剥奪されてしまうのである。普通なら、そんな行為は絶対にしないか、後々分かるように小さなゴミを隅の方にそっと置いておくかのどちらかだ。

 ……そのはずなのに、

 今日は、いつもはとても綺麗なはずの石畳の床にはゴミがたくさん落ちていた。これだけ落ちていたら誰が犯人か探りようもないだろう。全員無罪放免だ。

「まぁ、今日は仕方がないか」

 小さく溜め息をつくと、カジが噛みついた。

「ホントはオレだってゴミを棄てたいんだ。けれど、それは神への裏切り行為だ」

 そう公言する友人に、再び溜め息をつく。

 今日は何人の奴隷が減ってしまうのだろうか?

 そんなことを考えながら廊下を通り抜ける。

 目の前に広がるのは、今まで通ってきた廊下よりも一回り大きな通路。その通路には先程オレたちの出てきたのと同じような廊下がたくさん伸びている。その全てが男子寮である。

 オレたちは曲がって大きな通路に沿って歩く。

 前方には大きなガラスの玄関が控えている。今は学生が何人も通って行くので開けはなたれているが、夜にはもちろん施錠される。こちらは完全にガラスに覆われているので出入りする隙間もない。

 ガラスの玄関の少し手前を曲がったところに生活空間がある。寮母さんはそこで生活しているのだ。放送室もそこにある。

 玄関から寮の外に出る。

 隣には似たような形状の建物がある。女子寮である。男子寮と女子寮は完璧に別の建物だ。だから、たとえ寮母さんをたぶらかして(女に会いに行くのに別の女をたぶらかすというのもよく分からない状況ではあるが……)ガラスの玄関を開けてもらったとしても、女子寮のガラスの玄関が待ち構えているわけで(当然だが、女子寮には別の寮母さんが生活している)結果的に夜這いは成功しない。

 そもそも、最近夜這いに成功したという者を聞いたことがない。もし、そんな奴がいたら噂ぐらいは届いてくるはずだ。みんながみんな、カジみたく性欲よりも信仰心が勝っている奴らばかりではないのだから。

 あの玄関を越える方法を見出さない限り夜這いは不可能なのだ。

 そして、今だ、誰もその方法を見出していない。夜這いが見つかって名前を剥奪された学生というのはみな、ガラスをかち割るというお粗末な手段を取った者ばかりであった。ばれないとでも思ったのだろうか?

 実は、三年前までは夜這いは可能だった。方法は簡単だ。ガラスの玄関が施錠される前に異性の寮に入ってしまえばいい。寮母さんは各寮室の部屋の施錠をする時、ちゃんと部屋に入っているかを確認するのだが、当時は人数を確認する程度のことしかしなかった。

 もちろん、夜這いをしに行った奴がいるのなら、そいつの相方の寮室は一人しかいないことになる。された方はしに行った奴が奥の方に隠れていたらばれないだろう。しかし、足りない場合はどうしようもない。が、この問題も簡単に片付くのだ。

 夜這いをされた方の寮室の相方が、夜這いをしに行った奴の部屋に行って適当に数を誤魔化しておけば良い。人数は誤魔化せるし、愛し合う二人は同居人の目を気にする必要もないというわけだ。

 この方法は随分昔からあったらしい。が、この数を誤魔化す為の方法が結果的にこの夜這いのやり方に終焉を与えた。

 三年前だ。ある男子学生が女子学生の部屋へ夜這いした。その女子学生は自分の相方と入れ替えることで恋人を招き入れた。この二人はきっと自分たちのことしか見えていなかったのだろう。悲劇は別の部屋で起こった。入れ替えられた女子学生の相方が男子学生の相方に襲われたのだ。

 この男子学生同士と女子学生同士はそれぞれ親友だったようだ。女子学生は親友の頼みということでその願いを受け入れた。まさか、そのような裏切りが待っているとは思えなかったのだろう。

 翌朝、その女子学生は堪らずに男子寮の寮母さんに泣きついた。結果、四人のうちで彼女以外は名前の剥奪処分となり、強姦した男子学生は退学処分となった。それから、施錠の時と解錠の時には寮母さんは学生の顔を覗き込んで本人確認をすることになった。

 事件を起こした(巻き込まれた)四学生のうち、今でも学校に残っているのはその女子学生――シナだけだ。彼女は今も虚ろな毎日を送っている。


          二


 私の足取りは重かった。

 もちろん、重いと表現するのならば、ここ数年はずっと重い。

 足取りだけじゃなく、体全体が。肩や頭に鉛を乗せ、さらに鉛の足枷を引き摺って歩いているような気分とでも言えばいいのだろう。

 いつも、そんな気分だ。だけど、今日はいつも以上に気分が悪かった。

 人間って、こんなにも悪い気分になれるんだ。

 そう、思える程に。

 けれど、今日がどれほど辛かろうとも、明日以降がマシになることもまた、ないのだろう。

 今日の苦しみは今日の苦しみで、明日の苦しみは明日の苦しみだ。比べることは出来るが、それで楽になることなんて出来やしない。

 全く、釣り合いのとれないイベントだ。

 ……そう、〈イベント〉だ。それが、特に今日、学校に向かいたくない理由なのである。

 考えたくもないことを、また考えてしまった。

そう思い、私の気分は一段と憂鬱になる。

本当に、どうして教会はこんなイベントを考えたのだろうか?

〈イベント〉自体も胸糞悪いものだし、勿論その〈イベント〉で見世物にされる男の存在も激しく嫌悪されるものだ。けれど、それを望んで見ようとする学友たちや、見せようとする教会の意図が分からなかった。

 むしろ、その存在を見せるべきは奴隷たちであるべきではないのだろうか? どうして自分たち学生にそれを見せるのだろう?

 余計なことを考えて、普段より一段と暗い雰囲気を醸し出していたであろう私の耳に、声が響く。

「大丈夫かい? シナ。今日は、来たくなかったんじゃないのかい?」

 声の主はページャンだ。振り向く必要もない。しかし、声で判断しているわけでもない。同級生で(正しくは学校全体で、と言うべきか。教職員ですら、私にはほとんど声を掛けない)私のような人間に声を掛けてくるのはページャンぐらいしかいないのだ。

 同居人も、私と口を聞くことはない。

 親友であり、寮室の相方でもあった彼女(名前を剥奪されたから元の名を呼ぶことは禁じられている。決して忘れたわけではない)はノンネーム(名前を剥奪された者の総称だ)となった後、自殺した。彼女の恋人(つまり夜這いを行った人物だ。彼ももちろんノンネームである)もその後すぐに自殺した。

 理由は知らないが寮に一人で住むことは禁じられている(でもまぁ、パートナーの体調を相互で確認し合っておくということを低学年の時に強調して教えられたからきっとその辺りの理由なのだろう)。そのため、女子でも男子でも学生の数が奇数になった場合には三人部屋が作られることになる。

 親友が自殺したことによって女子学生数は奇数となった。私は隣室に移されその部屋は三人部屋となった。

 けれど、強姦事件と親友の自殺によって暗くなり過ぎていた私に元の部屋の二人は声を掛けることはなかったし、私の方も声を掛けようとは思わなかった。誰とも関わりたくなかったのだ。二人の同居人は私をいないものとして扱ったし、私も二人を無視して生活していた。そのうち、またどこかのノンネームが自殺して私はその相方と同室になった。現在の部屋だ。そこでも私は同居人を無視して生活し続けていた。

 違う、誰もを無視して生活していたのだ。

 あるいは、誰からも無視されて生活していたと言うべきか。

 そんな環境下で、私に唯一声を掛けてきたのは事もあろうに男子学生のページャンであったのだ。

 正直に言って、女子学生ならまだしも男子学生なんかとは口も聞きたくなかった。それはもちろん、あの事件の影響だ。あれ以降、私は自分が酷い男性恐怖症に陥っていることに気付いている。男性教諭の授業は顔を上げて受けられないほどだ。

 ページャンがどういった人間なのか、多少は知っているつもりであった。同級生でもあったし、学年で一、二位を争う(争っているのはいつもカジだ)成績優秀者だったから有名人と言えば有名人だ。それに年齢にそぐわない落ち着いた雰囲気も持っている。後は、この年代の学生(特に男子)は奴隷たちを見かけると蹴り飛ばしたり殴ったりという行為を働くことが多いのだが、ページャンのそのような姿は見かけたこともないし、そういったことをしていたという噂が耳に入った(私は普段、誰とも口を聞いていないから勿論盗み聞きということになる。ただし盗み聞こうとしているのではなく、本当に偶々聞こえてきたというだけである)こともない。挙句の果てには転んだ奴隷に手を差し伸べた姿を目撃したという話すら聞いたことがある。

 要するにページャンに対する私の評価は「頭はいいはずなのに変な奴」ということでしかなかった。

同学年ではあるけれども、クラスが違う為、ただでさえ普通程度(事件が過ぎてからはさらに底辺の成績になった)の成績の私は彼と口を聞いたこともなかった。そんな私にとっては雲の上の存在といっても過言ではないページャンは何故か事件の後、よく声を掛けてくるようになったのだ。

 全く意味が分からない。

 ページャンが私のことを好いているとも思えない(ページャンは賢いから私が男性恐怖症に陥っていることぐらいすぐに分かるはずだろう。だから、本当にページャンが私のことを好いていたとしても、事件の後からいきなり声を掛けてくるなんてことはあり得ないはずなのだ。そんなことをしたところで避けるだけであるということに気付かないページャンではないだろう)。そもそも事件以前からページャンが私という同級生の存在を認識していたかどうかも怪しい。

 では、同情心だろうか? 彼が声を掛けてきたのが一時だけならばそう思うことも可能だっただろう。けれど、ページャンは毎日のように声を掛けてくる。果たして、人間の同情心とは三年も持つものなのだろうか?

 三年間、私は一度もページャンの呼び掛けに応えたことはない。それだけ無視され続けたらいくらなんでも続けるのをやめてしまうだろう。

 けれど、ページャンはまるで気にしていないかのように声を掛け続ける。

 私にはいよいよ彼が分からなかった。

 今日もページャンには声を掛けられるのだろうなと、予測はしていた。そして、いつも通り、いや、それ以上に無視するはずだった。

 正確には何の反応も出来ないはずだった。

 今日の憂鬱や男性恐怖症の症状はいつもより酷いから。

 それはもちろん、あの〈イベント〉のせいだ。

 けれど、ページャンの話す内容までは予想出来ていなかった。まるで予想外の内容だった。

 だから、一瞬立ち止まってしまった。

 もちろん、そのすぐ後には何事もなかったかのように歩き出した。

 けれど、今日の出来事でページャンがただの同情心だけで声を掛けているわけじゃないということが分かった。

 彼は、きちんと私のことを心配してくれているのだ。

 じゃなければ、あんなことを言い出すはずがない。

 相手に同情する人間のほとんどは、同情している自分が好きな人間でしかない。

 そんな奴にあんな発言を思い付くはずがないのだ。あの発言は、相手の感情を慮らないと絶対に出て来ない。

 なればこそ、疑問に思う。

 ページャンはどうしてあれほどまでに私のことを心配してくれるのだろう?

 どれだけ考えてもやはり分かりはしなかった。


          三


「大丈夫かい? シナ。今日は、来たくなかったんじゃないのかい?」

 そう声を掛けたところ、鞄を胸の前で抱きしめていたシナはビクリと一瞬立ち止まった。次の瞬間にはその手入れされていない長い黒髪を揺らして(その姿は何も知らない人が見たら少しばかり不気味に映ることだろう)歩き始めたが。

 ……これは、どういうことだろう? 今までずっと無視されていたというのに。

「また彼女に声を掛けていたのか?」

「そうだよ」

「暗い娘が好きなんだな」

 静かに溜め息をつく。全く。こいつときたら成績はいいのにそんな風にしか物を考えることが出来ないのだろうか?

 高尚過ぎる信仰心のせいで性欲を抑制されまくってるカジは、案外こういった発言が多い。

「そんなんじゃないよ」

 そうは言ってもカジは信用しないだろうが。

「どうしてあんなに無視されてでも声を掛けるんだ?」

 その言葉は聞き飽きた。だからオレもカジが聞き飽きたであろう返事を返してやる。

「お前には分からないだろうよ」

 そう言われちゃお終いだと、言わんばかりにカジは黙って歩きだす。

 カジの後を追いながら視線だけはシナの姿を追い掛ける。

 今日、立ち止まった意味を考えていた。

 一番分かり易いのは、オレの言ったことと同じことを彼女も考えていたということだろう。

 今日は、来たくなかった。

 その原因はもちろんあの〈イベント〉だろう。シナはどんな面持ちで今日の〈イベント〉を眺めるのだろうと考えると胸が苦しくなってしまう。

 けれど、オレにはどうしようもない。

 そう、もうどうしようもないのだ。

 彼女の苦しみを少しでも和らげてやりたいと思って今日まで声を掛け続けていたけれど、それも今日でお終いだ。もう、オレには何も出来ない。

 そのことが堪らなく悔しかった。

 けれど、計画を延期するわけにはいかないのだ。

 オレにとって本当に大事な人はシナではないのだから。

 でも、助けようと思った人を助けられないまま見捨ててしまう自分は堪らなく嫌だった。

 カジと一緒に校舎に入る。

 校舎の一階はただただ広い食堂になっている。入寮する八歳から十八歳までの十学年が一堂に会するのだから無理はない。一学年は大体百人程度だ。十学年で千人。男女で分けると五百人。それぞれの寮には五百人程度の学生が住んでいる計算になる。二人一部屋だから約二百五十室(構造的には三百室ある)の部屋を毎日施錠と解錠を行っているのだから寮母さんというのも結構な重労働なのだ。その代わり、それ以外の仕事はほとんどないのだが。

 オレとカジが自分の席に着いてしばらくすると学生全員が自分たちの席に着いた。テーブルの上には旨そうな料理がズラリと並んでいる。これらの料理は学校付きの料理人が作った――

 わけではない。正確には学校付きの料理人が手先の優れた選ばれし奴隷たちを監督して作らせたものだ。料理人が実際に作るのは校長を始めとする教職員の料理である。

 ここは学校なのに。けれど、八歳で入学して育ってきた学生たちには何の疑問もないようだった。

 聖ルミスセレナ教国に存在する全ての学校は全寮制である。どの学校も八歳で入学・入寮し、一八歳となるまで自分の入学した学校に備えられた寮で暮らすのだ。成人(一八歳)となり、卒業するまで校外への外出は許されない。

 つまり、オレたちは八歳の年齢で親元を引き離され学校という隔離教育機関で徹底した教育を施されるのだ。

 その教育結果の模範生とでも言うべき存在がオレの隣に座っているカジ・ヴァ・オカルファだ。カジはまさに教会の望む通りの人物だと言えよう。

 ……ホント、どうしてこんなのと親友になっちゃったんだろな。

 成人になり、学校を卒業した者たちはそこから進む道が違ってくる。限られた成績優秀者(自慢しているわけではないが、オレやカジみたいな奴のことだな)たちにのみ神官への道が開かれる。そこまで成績が良くない者たちのうち男子学生は職人たちのもとへ弟子入りするか、入軍するかのどちらかとなる。職人たちのもとへ弟子入りした男子はやがてはその仕事を受け継いでいくのだが、その半分くらいは親元へ帰って親の仕事を受け継いでいる。入軍した者たちは言わずもがな、戦争や内乱の起きた時の為に日々鍛錬するのである。神官の道が閉ざされた女子学生たちは全員親元へ帰ることになる。そして親の決めた結婚相手と結ばれ一生を終えることになる。それが嫌なら女子学生は勉強して神官になるしかない。貴族の娘でもない限り、神官になれば親よりも高い地位を手に入れることが可能なので親の命令を聞く必要がなくなり好きな相手と結婚することも可能だ。

 もちろん、男子学生が神官になるという方法もある。ただし、その場合は女子学生の親が相手の男子学生以上の地位を持つ結婚相手を見つけないというのが条件になるのだが……。

 つまり、好きな者同士で結婚する為には最低でもどちらかが神官になる(もちろん女子がなる方が確実なわけだが)という方法を選ばざるを得ない。

 だからこそ、だろうか? 夜這いが後を絶たないのは。その点で学校も教会も非情だと思う。学生間の恋愛は自由なのに関係を持つのは禁止。そしてどちらかが神官にでもならない限り結婚は出来ないという。ほとんどの学生にとって愛し合う者同士で結ばれるには夜這いという手段しかないのである。

 若気の至りでするんじゃない。卒業してしまったら出来ないから今、してしまうのだ。

 オレの目の前にもその手段をとった女子学生が一人、暗い顔で座っている。

 テーブルは各学年で男女向かい合って座ることになっている。つまりはやたら長いテーブルが十席並んでいるというわけだ。

 オレの前に座っているのは現在学生の中でただ一人存在するノンネームである。夜這いを行った男子学生は玄関のガラスを割るという浅ましい手段で女子寮に向かった。そして六時になるまでに自分の寮室に戻ってきた。その恋人二人はどちらも必死に扉を偽装したみたいだが、ガラスが割れているということは誰かが出入りしたということだ。寮母さんと教員が目を凝らして調べれば簡単にばれてしまう。現に何人も見破られたカップルは存在するのだ。自分たちは大丈夫だとも思ったのだろうか?

 一週間前の話である。ノンネームとなった男子学生はつい先日自殺してしまった。彼女が自殺するのも時間の問題だろう。

 こんな風に慣れたように思考出来る自分が時々空恐ろしく感じてしまう。けれど、仕方がないのだ。八歳で入寮してからノンネームとなって自殺してきた学生たちを、それこそ何人も見てきたのだから。

 神に見守られていたいのなら、教書に書いてあることぐらいは守るべきだ。

 守らなかったのだから神に見捨てられて当然だ。

 そして、見捨てられて自殺するなんて何と愚かしいことか。

 オレもカジもこのように考えている。その根底に流れる根本的な考え方はまるで違っているのだろうけれど。

 校長が自分の席に着いた。学生たちはみな立ち上がる。

 そして全員が一斉に頭を下げる。校長の位置から見たらこの景色は爽快だろう。なにせ千人もの学生たちが同時に自分に向って頭を下げるのだから。

 オレだって、生き方次第じゃその絶景が見られるのかもしれない。

 でも、おそらくオレはその光景を見ることはないだろう。

 学生たちは頭を下げた状態で大声で叫ぶ(だから、千もの声が一斉に床に反射して非常に喧しい)。

「司教様、おはようございます」

 校長という役職は基本的に教会からの出向だ。その役職は司教になった者はほとんど通らなければならない道だ。在職中に特に華やかな経歴を残したものだけがやがて大司教となり、さらにその上の地位へと昇っていくのである。

「うむ、おはよう」

 校長が気取った声で言う。三年前の事件があったことからこの校長は大司教にはなれないだろうなと想像している。それは校長も分かっているのか、出向してきた当時と比べると若干のやる気の無さが目を引く。

 次に、校長は体を横に向ける。

 学生たちもそれに倣う。

 校長と学生たちの視線の先にはいくつもの石碑が立っている場所が見える。

 この場所からだと小さくしか見えないが実際には五メートル程の大きな石碑だ(見たことはないので正確には〈だ〉ではなく〈らしい〉が正しい)。

 そしてその石碑の後ろには宮殿が聳えている。

 その宮殿には――

 神が住んでいる。

 そして、この国のトップである教皇様は宮殿で神に仕えていらっしゃるのだ。

 石碑は神の御身の一部である。

 全て、教書の教えだ。

 校長が石碑に向かって恭しく頭を下げた。

 次に教職員が校長に倣い、

 最後に千人の学生たちが石碑に向かって頭を下げる。

 校長の声が響く。

「我、神との誓いを守りし者。神のご加護を享受する者。その御身に我が感謝の真心をささげん」

 次に教職員が校長の言葉をリピートする。

「我、神との誓いを守りし者。神のご加護を享受する者。その御身に我が感謝の真心をささげん」

 最後は、オレたち学生の番だ。

「我、神との誓いを守りし者。神のご加護を享受する者。その御身に我が感謝の真心をささげん」

 全員が厳かに言った……否、一人だけ言っていない人物がいる。

 言うまでもなく、オレの前にいるノンネームだ。彼女は既に神のご加護を得る資格を失ってしまったから感謝の真心を捧げようもないのだ。

 馬鹿馬鹿しい。


          四


 馬鹿馬鹿しい。

 私は祈りの言葉を口にしながら(正確には口元がゴニヨゴニョと動いているだけだ。声なんて出ていない)、心底そう思った。

 あの宮殿に神が住んでいる?

 そんなはずがないでしょう。

 あそこにはただただ教皇が踏ん反り返って座っているだけのはず。

 もし、神がいるのなら、私たちを見守ってくれているというのなら、自分はこんなことにならなかったはずだ。

 三年前の事件で、私は信仰を失ってしまった。

 祈りの儀式が終わる。この儀式は日課だ。もちろん、日課なんて表現は用いられないが(祈りの儀式は神がご加護して下さっていることの御礼として行っているものだから、行って当然なのだ。だから、あのノンネームは祈りの言葉を口にしなくても何も言われない。彼女はご加護を受けていないのだから。もし、私が何も言ってないことがばれたら(そんなことはおそらくあり得ないのだが。口元は動かしているし、千人もの人間が一斉に喋っているのである。誰もが自分の声すら聞こえていないのに違いない)大層怒られることだろう。最悪の場合、名前の剥奪処分だ。もちろん、信仰を失っているのだからノンネームにされること自体はそれほどきついものでもない。ただ、この先さらに生きにくくなるだけのことだ)……。

 この学校は石碑と宮殿で構成された首都からある程度近いところにある。だから、石碑の姿を生で見ることが出来る。遠い学校だと、石碑の方だけ向いて同じ儀式を行うらしい。

 全員が頭を上げ、校長がこちらに向き直る。

 学生たちも再び校長の方へ視線を戻す。

「さて、学生諸君、今日も神のご加護に感謝して一日を過ごしましょう。いただきます」

 そう言って校長が手を合わせる。

「いただきます」

 教職員と学生の声が食堂に響く。

 みんなが料理を食べ始める。

 その料理を食べながらふと思った。

 この料理を作っているのは穢れた奴隷たちだ。

つまり私たちは神に感謝しながら奴隷の作った料理を食べているのか。そう考えると少し可笑しくなった。

 僅かながらに笑みが漏れる。

 けれど、瞬時にその笑みは消えていた。

 あの事件があってから一度も笑わなかったわけじゃない。

 滅多にないことだけれども、少なくとも笑えてる瞬間はあの事件のことを忘れているのだと思う。

 でも、次の瞬間には笑っている自分が不思議になる。

 どうして、私は笑っているのだろう? と。

 そして事件のことを思い出し、笑みは消えてしまう。

 今日に限って言えば、この後の〈イベント〉のことも脳裏に浮かび、さらに暗澹たる気持ちになった。

 食事が不味くなる。

 もともと、旨いと感じていた訳ではない。

 三年前から味覚はなくなっていた。おそらく、精神的なものだろう。

 味が分からないのに不味いとは感じるのだなと自嘲する。

 今度は、笑みは漏れなかった。


          五


 食事が終わる。教職員の誰かが全校生徒に伝えることがない限り、普段ならこのままクラス別に分かれ教室に向かっていく。

 しかし、今日は大事な〈イベント〉がある。

 吐き気がするようなイベントだろう。

 校長が立ち上がる。学生たちも立ち上がり、校長の方へ向き直る。いつもならここで校長が「では、今日も勉学に励むように」と言って朝食が終了する。校長自身が何かを発表することはそうそうない。大抵は教職員が情報(例えば、誰かがノンネームになっただとか、ノンネームが自殺しただとか、試験の日程の発表だとか、だ)を伝える。

 一番最近で校長自身が学生たちに情報を伝達したのは確か半年前のことだったはずだ。内容は教皇の件だった。

「いつも我々を見守って下さっている神の最も忠実で敬虔な僕である教皇様がクレファナ家の遺児を養子に迎え入れました」

 オレは聞いたことがなかったが、クレファナ家というのは貴族の一つだったようである。

 その点が少し不思議なのだ。自慢しているわけではないが、オレは貴族の家名ならほとんど言える自信がある。だから、クレファナ家というのが本当に貴族なのだろうかという疑問を持ったのだ。もちろん、調べようなんてない。教科書のどこにも載ってない小さな貴族だったという可能性もある。

 だからこそ、このようなことになった、とも言えるのかもしれないが……。

 遺児ということは、当たり前のことだがその子の両親が二人とも死んだということだ。その子の年齢にも依るが、これが貴族でなければ奴隷の身分に堕ちてもおかしくない出来事である。

 そう、貴族なら普通は親戚の誰か(貴族同士の血縁関係はかなり濃い場合が多い。それぞれがどのように結びついているのかを完璧に調べようと思えば十年は掛かって当然だろう)が引き取る。だから、貴族の遺児が奴隷に堕ちるようなことはない。

 その遺児を教皇が養子に引き取った。つまり他に引き取るような貴族がいなかったということだ。

 それほどに、クレファナ家というのは小さな家だったのだろう。

 そして、貴族の遺児を奴隷に堕とすのは忍びないから、教皇がその身を憐れんで養子にしてやった。それが事の真相だろう。

 このように校長の話は学校行事に殆ど関係ないことが多い。少なくとも、教職員たちの話の方が学校で生活していくのに重要だと言える。

 そして、それは今回の話にも言えることだ。校長の話すであろう〈イベント〉は学校行事とは何の関係もない。

 校長が口を開く。

「さて学生諸君。これから穢れた身であるのにも関わらず我々神の善なる申し子に逆らった非情の反逆者が護送されてきます」

 誰もが何の言葉も発しない。静かな空気の中校長の声が続く。

「我々に出来ることは彼女の冥福を祈り、憎き反逆者の末路を見届けてやることです」

 顔を向けなくても分かる。全校生徒の目は今、もの凄くギラギラしていることだろう。

 部屋の中はおぞましい程の殺気で満ち溢れていた。

「では、参りましょう」

 教職員達に統率されながら、全学生が移動する。

 果たして、どこに連れていかれるのだろうか?

 みなが辿り着いたのは、学校の敷地の一番端に存在する大きな広場だった。正面には整備された道路が通っており、その道路から見て今いる広場は少々高台に存在している。

 足下に敷き詰められた拳大の石を踏みつけながら感心する。この広場の存在価値が今まで分からなかったのだが、ようやく分かった。こういったことがあった時の為のものだったんだな。

 足下の石は今夜の計画に使えそうだと思ったので、拾ってポケットの中に滑り込ませておいた。

 馬の走っている音が聞こえてくる。馬車が見えた。

馬車の後部には両手両足を包帯でぐるぐるに巻いた傷だらけの罪人が磔にされて項垂れていた。

その姿を確認し、学生たちの間からどよめきが漏れ出す。

いよいよ〈イベント〉が始まるのだ。

そう思い、小さく溜め息をつく。

 〈イベント〉が行われるきっかけになった事件は、貴族・カルバン家で起こった。

 貴族というのはこの教国の成立に関わった者たちの末裔……だと言われている。正確なところなんて分かりやしない。教科書なんて自由に書き換えられるんだから。

 カルバン家は大量の奴隷を有し、彼らに畑を耕させることで収入を得ている一族(とは言っても大半の貴族がそうなのだが……)だ。

 そのカルバン家に一人の娘がいた。年は十九だったようだ。卒業して家に戻って来ていた。神官になれる程の知識はなかったようだ。オレたちの学校の出身ではない。

 彼女は勝気な性格だったのだろうか? それとも好奇心が旺盛だったのか? 真相は定かではないが、彼女は畑仕事をしている自分の家の奴隷に近付いた。

 彼女の世話をしていた召使(奴隷ではない。一般人から雇われた人物だ)は必死に止めたらしい。けれど、一般人の召使に貴族のお嬢様を説得出来るはずもない。「パパに言って辞めさせるわよ」とでも何でも言えば憐れな召使は引っ込むしかないだろう。

 奴隷に近付いた娘が何を言ったのかは分からない。おそらく正式な文書などには彼女は何も言わず遠くから見ていたなどと書かれているのだろうが、そんな記録はいくらでも書き換えが可能なはずだ。

 それに、この事件において彼女に非があったなどとは、カルバン家も、貴族も、教会も認めたくないのに違いない。

 これは、オレの完全な推測である。

 不用心にも奴隷に近付いた彼女は何かを言ったのではないのだろうか? 馬鹿にするような言葉か何かを。

 生まれながらにして奴隷という身分でしか生きることの赦されなかった彼を怒らせるような一言を。

 ここからは、事実である。

 奴隷はいきなり娘に襲いかかった。召使は慌てて間に入ろうとしたが奴隷に吹き飛ばされてしまった。これまた当然だろう。娘の世話しかしていない召使が一日中畑仕事をしている奴隷に敵うはずもない。召使が応援を呼んで、娘が叫び声を上げる。

 館から他の召使や私兵(彼らの仕事は主人の守護や奴隷たちの監督である。大抵は退役軍人が雇われる)が駆けつけた時には娘は凌辱された後だった。もちろん、駆け付けた私兵によって娘はすぐに助け出され犯した奴隷はその場で去勢された。

 しかし、奴隷が貴族の娘を凌辱するなどという事件は前代未聞の出来事(そもそも奴隷という身分の人間が、誰かを強姦するという事件自体が初めてのことだ)だった。娘の父親であるカルバン家当主・カルバン男爵は近くにいた何人かの奴隷を切り刻んだが、肝心の娘を凌辱した男については軍(教国の軍とは他国で言う警察組織というものも内包している)に護送を依頼した。

 もちろん、その場で奴隷を切り捨ててしまえば、娘に起きた事件を隠し通すことも出来たはずだ。その方が、娘にとっては良かったかもしれない。

 けれど、カルバン男爵はこれを良しとはしなかった。彼はこの事件を奴隷による貴族及び一般階級に対する反乱と捉えたのだ。彼はこの機に奴隷に対する弾圧をより一層強くすべしと教会に訴えたのである。

 娘を凌辱された彼の怒りは犯した奴隷に収まり切らず、全ての奴隷へと向いたのだ。

 けれど、その為に自らの悲劇を皆に知られることになってしまった娘はどうだろうか? 彼女は人の視線に耐えられなくなり(この部分はオレの勝手な想像だが、そんなとこではないだろうか? まぁ、どのように語ったところで男のオレに女の気持ちを想像し切ることなんて出来やしない)自殺した。

 それ以降、カルバン男爵の奴隷弾圧運動は激しさを増した。

 その後、カルバン男爵の娘を凌辱した奴隷に審判が下された。その内容は手足の指を切除し(包帯を巻いているのはその為だ)、その姿を国中に引き回す、というものだった。

 そして、この学校に犯人の奴隷が運ばれてくるのが今日なのだ。

 その出来事を学生たちは〈イベント〉と呼んでいた。

 誰が最初に言い始めたかなんて、今となっては調べることも出来ないだろうけど、胸糞悪い通称だ。

 馬車が停まった。

 〈イベント〉の時間は三十分間。その間、学生たちは身の程知らずの罪人を眺め、奴隷たちに怒りを燃やす。

 ……もちろん、それだけで済むはずがない。

 一人の学生が足もとにある石を掴んだ。そして、そのまま罪人に向かって勢いよく投げ付ける。

 石は罪人の顔に当たった。頬が切れて血が流れ出る。

 この学校に引き回されてくるまでに、一体幾度同じことがあったのだろう? 彼の体に付いた傷は投げられた石の数。

 学生たちの怒りの数。

 そして……奴隷たちの無念の象徴。

 罪人はゆっくりとこちらを見上げた。

 その顔を見て息を呑む。

 右目が……なかった。

 右目をくり抜くなんて刑罰はなかったはずだ。だとしたら、考えられることは一つ。

 護送中の兵士が面白がってやったのだ。

 けれど、その異様な形相を見て怯んだのはオレを含めて数人だった。皆、罪人に向かって石を投げ付けることに熱中していた。

 罪人に向けられる罵詈雑言に耳が痛くなる。

 この光景が、正しい光景なのだろうか?

 この学校の奴隷たちはこの光景を見て、何を思っているのだろうか?

 奴隷たちも、オレたちと同じ人間であるはずなのに……。

 けれど、そう思っているのはオレだけか。

 他の学生たちの胸の中にはきっちりとした境界線があるのだろう。穢れた奴隷たちと、輝かしい自分たちの境界線が。

 けれど、そんな考えはオレたちがこちら側に生まれたからこそ、都合よく抱けるものであり、結局は、ただ、生まれが違っただけだとしか言いようがないのではないだろうか?

 この世に生を受ける時に、運がなかった、それだけの違いでしかないはずだ。

 それだけで、それだけの違いで、オレは、オレたちは、あそこに磔にされているという可能性があるんだ。

 学生たちを見渡す。

 なのに、なのに、どうしてお前たちは平気な顔で石を投げ付けられるんだ?

 その行為を、楽しめるんだ?

 決して、あの罪人を擁護するつもりはない。あの罪人が、婦女暴行という赦され難い犯罪をしたことは間違いないんだ。それに、被害者は自殺してしまっている。

 でも、でも、それでもオレはあの罪人の姿を見て、そう、何だか申し訳ない気持ちになってしまうのを止められない。

 奴隷の男たちは一生童貞だ。

 生まれて、歩くことが出来るようになった後は一生働き続けなければいけない。

 休みの日なんて存在しない。

 教国に生まれた奴隷たちはオレたち一般人の為だけに生きて、死ぬ。

 彼らに自分の為の時間なんて存在しない。

 そんな奴隷に若い娘が一人で歩いてきたらどうだろう?

 もちろん、カルバン男爵の娘を貶める気なんて毛頭ない。

 けれど、もしオレがその奴隷だとしたら、

 したら――

 娘を襲わないと誓うことなんて出来やしない。

 襲っても、殺されるだけ。せいぜい酷い目に遭わされて殺されるだけだ。襲わなくても、自分の時間なんて永遠に来ない。

 死ぬまでただただ働き続けるだけだ。

 理性なんて、飛んでしまって当然じゃないだろうか?

 カルバン男爵の奴隷弾圧運動、その内容は男子奴隷は全て去勢せよというものだ。

 問題が、すり替わっていないだろうか?

 それとも、オレの考え方がおかしいだけなのか?

 カルバン男爵のやろうとしていることが正義なのか?

 オレには……どうしてもそう思うことが出来ないんだ。


          六


 オレは思い切り石を罪人に投げ付けた。

 石は大きく弧を描いて飛んで行き、罪人の鼻に直撃する。

 罪人の鼻から血が流れ出た。

「ナイス! カジィィィ。ありゃ折れたぜ。きっと」

 そう言ってきた学友と手をパシっとぶつけ合う。

「オレの当てた鼻が五十点だ。お前が目に当てれたら百点やるよ」

「よーし、見てろよ」

 学友の手から石が離れる。

 その石は罪人の顎に当たった。

「残念でしたー」

「ちっ。顎は何点だよ」

「三点」

「ちょっ、低すぎやしないか?」

「だったら目か鼻に当てろよ」

 学友はブツブツ言いながら石を拾っている。

 オレも再び石を拾った。

 奴隷が強姦?

 ふざけるな。

 お前らは自分たちがどういった存在なのかも理解出来ていないのか?

 神から生まれた輝かしきオレたちに触れることすらおこがましい存在だというのに。

 穢れたお前たちは、だからこうなって当然だ。

 投げようとした時、ふとページャンの顔が視界に入った。

 親友は暗い顔で学生たちが石を投げるのを眺めていた。

 ページャンはオレと同じくらいの成績優秀者だ。多分、今年度が終わって卒業したら一緒に神官になるはずの男。

 否、なるはずじゃない。なるんだ。これほどの人材を教会が放っておくはずがない。

 だけど、時々不思議に思うことがある。ページャンはオレや皆程に神を信じてはいないのじゃないかと、そう感じることが多々あるのだ。

 もちろん、分からないでもない。何しろ、ページャンはシナに恋してる(本人は否定しているけども)ようだから。

 本当に、神がオレたちを見守っているというのなら、シナがどうしてあんな目に遭ってしまうのだと、その気持ちは分からなくもない。

 けれど、シナは教書に違反する行動をとる親友を止めるばかりかそれに協力したのだ。

 その時点で神のご加護を受けられなくなったと言っても過言じゃないだろう? というのがオレの意見だ。

 もちろん、神の思考をオレごときが推測するなんておこがましいことだ。だからその意見が合ってるかどうかも分からないし、ましては強要する気なんてさらさらない。

 だけど、そう思ってはいるから、親友がシナに恋していることを良くは思っていない。彼女がノンネームにならなかったのはただ運が良かっただけだ。ただでさえ信仰心の薄そうなページャンが危うくノンネームになりかけた娘と恋なんてしたら、ページャンの信仰心が目に見えて減ることは明らかだ。

 ページャンは優秀な神官になれるんだから、信仰心を失ったりしてしまったら教国の損失だ。

 奴隷への憎しみを感じさせてやったら、少しは信仰心も戻ってくるだろうか?

 ページャンに声を掛ける。

「ページャン」

「何だ?」

「石、投げてないだろ。どうしてだ? あの男は奴隷としての本分を弁えていなかった駄目な愚人だぜ。いや、奴隷なんだから人とすら呼びたくもないな。そんな奴が輝かしき神の子孫である娘を凌辱したんだ。これは、神に対する反乱じゃないか。あんな奴に馬鹿にされた神の名誉を守る為にもオレたちはあの男を赦しちゃあいけないんだ」

「……あぁ、そうだな」

「だったらさ、あんな奴を可哀そうだなんて思わずに思い切り投げ付けてやれよ」

 そう言って、石をページャンに渡してやった。

「……そうだな」

 ページャンは暗い顔のまま、腕を振る。

 石は罪人の腹に当たった。

 どう見ても、ページャンは本気で投げちゃいない。

 オレは小さく溜め息をつく。

 ページャンはいい奴だけど、こういうところだけがホント煮え切らない。


          七


 横の方で歓声が上がった。

「……何だ?」

 不審げな声を出す。もう石なんて投げたくなかったから、渡りに船だった。

「さぁ?」

 カジも知らないようだ。

 やがて、その声がした方の人ごみが円形に広がった。どうやら、その円の中心に誰かがいて、それを皆で見ているようだ。

 カジと共にその輪に加わる。

 輪の中心では学友の一人が得意気な顔をして立っていた。

 そいつは右手を前に突き出していた。その手に握られているのは接着した一組の脚。

 学友は奴隷(見たところ、まだ子供だ)を一人捕まえて逆さに宙吊りしているのだ。

 奴隷は泣きそうな表情をしている。

 オレは自分の表情が真っ青になるのが分かった。

「こいつは薄汚い穢れた奴隷だ。あそこで磔にされている奴の同類だッ」

「そうだそうだ」と、怒声が湧きあがる。

「こいつらはオレたちに従順そうな振りをして、か弱い婦女子を凌辱せんと目をぎらつかせているのだッ」

 さすがにこの言葉には呆れてしまった。

 掴まれている奴隷は男女のことなんて何にも分からない子供じゃないか。

 少なくとも、普通に考えたらこのような結論に落ち着くはずだ。

 けれど、熱狂した学生たちは口をそろえて「そうだそうだ」と喚き続けるだけだった。

 学友が叫ぶ。

「薄汚い奴隷が、神の選民である娘に手を出すなどあってはならないことだッ。違うかッ」

「もちろんそうだッ」

 輪になった学生たちが叫んで言い返す。

「薄汚い奴隷は、神の選民であるオレたちに尽くしていればいいのだッ。そうだろッ」

「そうだッ」

「ならば、今こそ悲劇の娘を子に持ったカルバン男爵の意思を支持すべきではないかッ」

 ゾクリとした。

 背中を冷や汗が流れ落ちる。

 こいつは、何をしようとしている?

「奴隷どもの邪なる意思を砕こうではないかッ。こやつはカルバン政策の喜ぶべき一人目だッ」

「おーッ」

 学生たちが皆(とは言っても十二、三歳以上の子らがほとんどだ。それ以下の子供たちは上級生の身長に邪魔されて何をしているか見えないらしい。何をしているかも分からないだろう)右手を突き上げた。

 その中で、ただただ茫然としているオレがいた。

「お、おい」

 微かに声が出るが、歓声と怒声の入り混じった中では出してないのに等しかった。

――お前たちは、何をしようとしているのだ?

 これは完全に声にはならなかった。

 こんな状況で、どうしてこのようなことが言えるだろうか?

 学友は取り出したナイフでまだ子供である奴隷の衣服を切り裂いた。

 奴隷は半裸になって生殖器が顕わになった。

 もし、これが日常だとしたら女子学生から絶え間ない悲鳴が上がるはずだ。

 でも、どれだけ耳を澄ましてみても、聞こえてくるのは「やれーッ、やれーッ」という叫び声だけだった。

 今は、紛れもなく非日常なのだということを実感する。

 学友はその左手に持ったナイフで右手にぶら下げている男子奴隷の生殖器を切り取った。

 石の上に生殖器がポトリと堕ちる。

 そんな非人道的な行為を見て、何も出来ない自分が厭だった。

 何の行動も起こそうとしない自分が厭だった。

 どうしてオレは、率先して助けようとしないのだろうか?

 奴隷の悲鳴を聞くと、お前は見殺しにしたのだと、そう言われているような気になるとでも思ったのか、オレは気が付くと自分の耳を抑えつけようと腕を振り上げようとしていた。

 けれど、密集している人だかりのせいで腕を動かすことは叶わなかった。

 しかし、耳を塞がなかったはずなのに、奴隷の悲鳴は聞こえてこない。

 カルバン政策を断行した学生たちの誇りに満ちた夥しい歓声に、憐れな奴隷の悲鳴は呑みこまれてしまったのだ。

異常だ。

 こんなのは異常だ。

 異常なはずなんだ。

 股間を抑えて蹲る奴隷に誰かが石を投げた。

「何だよ。何をいっちょ前に痛がってるんだ?」

「屑が痛みを感じるなんておこがましいだろうがッ」

 そう言ってまた石が投げられる。

 ……屑は、どっちだ。

 誰かが言い出した。

「この屑を投げ付けてやろうぜ」

 ?

「それはいい」

 誰かが痙攣している奴隷を肩に担いだ。そのまま馬車の正面へと歩いていく。

 オレたちのいる場所は高台だから、下にいる罪人にはこちらの光景は分かり辛いだろう。

 性器を切り取られた奴隷が罪人に向かって投げられた。

 さすがの罪人もその残った左目を見開いた。

 すかさず、そこに石が投げ込まれる。

 ……駄目だ。もう、見てられない。

 異常な熱気に包まれた集団から、オレは一人後退した。

 ふと、後ろに誰かがいることに気付く。振り向くと、そこにはシナが座り込んでいた。

 その虚ろな目がオレを捉えた。

「ペ、ページャン? あれは、何?」

 三年前の事件以後、初めて聞くシナの声だった。

 事件は別だけれど、彼女は強姦の被害者で、罪人は強姦の加害者だ。今回の〈イベント〉で一番石を投げ付けたかったのはシナなのではないのだろうか?

 それと同時に強姦の加害者の姿なんて見たくもなかったのではないだろうか?

 そう思ったから、今朝はあんな風に声を掛けた。

 ホントのところは、どうなんだろう?

 彼女は、どんな気持ちで今日の〈イベント〉に参加していたのだろう?

「……醜いよ」

「……誰が?」

 聞くまでもないことだったかもしれない。

「あの人たち」

 そう言うとシナは再び俯いた。

 そのまま喋り始める。

 ホントに久しぶりに声を出すのだろう、ほとんど音になっていない。それでも、何とか聞き取ることは出来た。

「私は、今日来たくなかった。ページャンの言うとおり。人は違うけど、あの罪人がしたことはあの人と同じ。だから、そんな人間の姿なんて見たくもなかった。見るだけで嫌なことを思い出してしまうから」

 何も言えなかった。

 それに、彼女は半分独り言のつもりで喋っているのだろう。口を挟んではいけないはずだ。

「だけど、だけど、あれは何? あの小さな奴隷は何をしたの?」

 答えるまでもないだろう。その答えはシナも十分分かっている。

「神の名の下に置いては、何をしてもいいと言うの?」

「……」

「もし、そうなのだとしたら、そんなのは神じゃない」

 その言葉にハッとする。

小さくて聞き取りにくい声だった。だけど、

辺りを見渡して近くに誰もいないことを確認する。皆はまだ、罪人と奴隷に石を浴びせることに熱中している。

溜め息をついてシナに囁いた。

「滅多なことを言うもんじゃない。君までノンネームになってしまうぞ」

 神の名を貶めることは立派な裏切り行為だ。こんな言葉が教職員の耳にでも入ったらすぐさま名前を剥奪されてしまう。

「構うもんか」

 そう言って立ち上がると、シナは一人校舎の中に入って行ってしまった。

 〈イベント〉終了後は三十分間の休憩。その後は各々で各教室に戻ること、とあったから先に教室に戻ったのだろう。

 それにしてもさっきの言葉、どうやら彼女が信仰を失っていることは確実らしい。

 信仰を失っているからこそ、学生たちのあの行動を一歩引いた視線で眺めることが出来たのだろう。他の学生たちは神の名に罪悪感を忘れ、普段は優しい学生までもが周りの空気に呑み込まれた、そんなところだろう。

 人は集団になると、自分の思考をその集団に預けてしまうのだから。

 ……それしても、やはりシナが心配だ。

 信仰心を失った者にとって、この国は余りにも生きにくい。


          八


 この国では科学技術は進歩しない。

 授業を受ける時にいつも思うことだ。

 そもそも卒業後に科学者という職業に就く者がほとんどいないのだ。仮にいたとしても、とても周辺の国々の科学者たちには敵わない。

 何故なら、教国の学校で教えているのは神学だからだ。

 もちろん、読み書きや多少の計算方法などは教える。けれど、それ以上のことは何にも教えない。一学年でそれらのことを習った後、十学年に至るまでの九年間、徹底して神学を教え込まれるのだ。

 もちろん、神学にだっていろんな種類が存在する。教国の歴史や教会の仕組み(教国と表現した時は聖ルミスセレナ教国そのものを指し、教会と表現した時は聖ルミスセレナ教国の政治機関――他国で政府と呼ばれている組織に相当するもの――を指す)に始まり、教書にある神との誓いの意味を探ったり、独自の考察をする学問など様々な種類に分かれている。

 しかし、その中に科学という分野は入っていないのだ。

 その理由にはもちろんこの世界は神によって創られたものであり、科学などという野蛮な学問で世界を理解しようなどというのは神への不徳だ、という考え方もあるだろう。

 そして、それと同じくらいに(気付いている人は少ないだろうが)優秀な人材を科学という分野に取られるのが厭だという教会の意図が見え隠れする。

 そしてそれは、教会が優秀な人材を欲しがっているという意味ではないのだ。教会に勤める者である神官は言わば特権階級だ。少なくとも、卒業後に神官になれなかった者たちよりはいい暮らしが出来る(例外として貴族が存在するのだが、この際無視しても構わないだろう)のだ。

 つまり、教会は優秀な人材を教会という特権階級の中に囲いこんでおきたいのである。そうすることで民衆の中から教会に対する反乱を考えるような頭の良い連中が出るのを防いでいるのだ。

 時折、教会の運営する各学校は神官の養成学校だと表現する奴らがいるけれど、それは間違いだ。教会は学校で子供たちを育て上げ、頭の良い連中(つまり、将来反乱分子となる可能性を秘めた頭の切れる連中)と頭の悪い連中(反乱なんて考えもしないと思われる教会に従順な連中)とを振り分けているのだ。

 そうしておけば、将来反乱分子が現れても、そいつは既に教会という特権階級の中。人間は既得権益を失いたくないものだ。民衆の為の反乱など考えずに自分の為の反乱、つまり教会内での地位向上のみを考えて動くようになる。そして、そいつがトップになったら……やっぱり利権を失いたくないから自然、教会の為に働くようになる。それが、学生の振り分けだ。

 こうした輪廻がこの国では長らく繰り返されてきたのだ。

 それが、科学などという分野に優秀な人材を取られ、そこから反乱分子が現れてしまったとしたら、それは大変な脅威だ。

 科学がもたらす生活への利益は大きい。しかし、教会にとって科学なんてものは自分たちの利権を脅かす脅威でしかあり得ないのだ。

 だから、教会は科学を遠ざける。

 周辺の国々では科学技術は日進月歩で進歩しているというのに。そんなことだったら、いつの日かこの国は攻め滅ぼされてもおかしくない。

 もちろん、そんなことを学友たちに聞いたところでこの国には神のご加護があるのだから心配ないなどという興味のない答えが返ってくるのに違いないのだが……。

 それでも、時々他国の科学力が怖くなる時がある。

 誰も気にしちゃあいないが、寮にある放送器具だって他国からの輸入品(寮母さんが仕入れたものらしい。だから、女子寮には放送器具は存在しないのだ。どうして寮母さんにそんなものを仕入れることが出来たのか? 噂では亡き夫の遺産だそうだ。寮母に就職するのは大抵未亡人か婚期を逃してしまった娘のどちらかである)だ。

 だけど、あれを戦争道具に変えたらどうなるだろう? 前線の兵士に遠くから命令を伝えることが出来るのではないのだろうか?

 それに、他国の科学技術はそれだけじゃないはずだ。

 神のご加護なんてものだけで勝てるはずはないだろう。

 そして、そう思ってるオレは、この国では少数派なのだ。

 授業を聞きながらそんなことを考えていた。

 いくらオレやカジが優秀だと言っても、それは神学に関してでしかない。

 このように教国の歪みは奴隷だけではないのだ。探せばいくらでも見つかる。

 それにしても、今になってこんなことを考えるとは……やはり、それは今日だからだろうか?

 成績が優秀だという理由だけで躊躇っている自分がいるのだろうか?

 このまま何の行動も起こさなければ、無事に卒業して神官になれるのだろう。

 生活は安定してまぁまぁ良い人生を送れるのではないのだろうか?

 そんなふうに考えた自分に苦笑した。

 結局のところ、オレも既得権益を手放したくない人間たちと何ら変わらないということだ。

 だけど、そんな自分を必死で振り切った。生きる為に生きていたくはない。自分の目的の為に生きていたいのだ。

 自分の決意を確かめながら、最後の授業を受けた。

 〈イベント〉があった為か、やけに長く感じる一日だった。

 オレたちは八時頃に寮に戻ってきた。

 勿論、授業が八時まであるわけではない。一日の授業が全て終わっからといってもすぐさま寮に戻るわけではないのだ。

 学年によってもバラつきは多少あるが、授業が終わるのは大体五時前後だ。七時から例の食堂で晩餐会がある為、それまでの間は自由時間となる。晩餐会が終わると学生たちは寮に帰宅する。

 その帰って来た時間から消灯の時間までに寮にある大浴場に入っていなければならない。

 寮の消灯時間は十時。それまでは廊下に掲げられた松明が煌々と輝いて部屋の中にまで明かりが届いてくる。

 十時になると松明を手に寮母さんが各部屋を見回っていく。減ってはいないか、増えてはいないか、入れ替わってはいないか。それを一々チェックして回っていくのである。

 だから、最後にチェックされる部屋の消灯は実質十一時と言えるだろう。

 同時に廊下の松明の火を消していく。

 オレたちの部屋はちょうど中間当たりだった。

「もうすぐ消灯だな。オレ、先に便所行っていいか?」

 頷くとカジは席を立った。

 寮室の一つ一つにある便所は水洗便所である。昼間、オレたちが学校に行っている間に奴隷たちがタンクに水を溜めておいてくれるのだ。オレたちは用を足した後、レバーを引いて任意の量だけ水を流し汚物を流す。洗面所の仕組みも似たようなものだ。

 校舎にある便所も同じ仕組みである。ただし、こちらは学生たちが寮に戻っている夜間に水が溜められる。

 カジが戻ってきたので、交代で便所に行き用を足した。

 戻ってくると、ちょうど寮母さんが来たところだった。

「うんうん。ちゃんといるね。まぁ、学年で一、二位を争ってるあんたたちに限って、そんなことはないよねぇ」

「そりゃそうですよ」

 カジが明るく言う。

 今怪しまれてはいけないと思い、必死にいつもの表情を作ろうとする。けれど、いつもの表情にしようと思う程に自分の表情は不自然になってるような気がした。

 そりゃそうだ。本来、表情なんて作るものじゃない。自然に浮かぶものだ。それを作ろうと思ったら不自然になって当然だ。

 そもそもいつもの表情って何なんだ?

 考えても全く思い付かない。

 動悸が激しくなる。

 早く、早く去ってくれ。

 寮母さんは少し声を潜めて言った。

「ところでさ、今日のあれ、どうだったのよ? あたしはさ、仕事が残っていて見れなかったのよ」

 この野次馬が!

「そうですねぇ、散々痛めつけてやったんですけどどうなんでしょうかねぇ? 反省でもしてたらかわいいもんだと思うんですけど、何しろ神の輝かしい部分から作られた者を襲ったんですからね。奴隷には皆、邪の資質がありますけれど、あの男はそれが一段と濃かったのでしょうからね。自分の立場も忘れてオレたちを恨んだりしてたんじゃないんですかね」

 違う、と思った。

 オレは覚えている。

 あの子供の奴隷を投げ付けられた時の罪人の表情を。

 目を。

 あれは悲しみの表情だ。子供の奴隷に対して申し訳なく思っている目だった。

 自分の遭わされている仕打ちは事件を起こした時には予想出来るはずだ。その上で彼は事件を起こした。このまま死ぬまで働き続けるぐらいならその方がマシだとそう考えて事件を起こしたはずだ。だから、きっと彼は自分の仕出かしたことに後悔なんてしていないと思う。だけど、あの子供を巻き込んだことは別だ。彼にはそこまで予想出来なかった。だから、そのことに関してなら彼は悲しんでいたはずだ。

 少なくともオレはそう受け取った。

 だとしたら、あの高台の上から石を投げ付けていた学生たちよりもよっぽど人間らしい感情を持っていると、そう言えないだろうか?

 子供の奴隷は死んでしまった。

 奴隷が死ぬのは日常茶飯事だ。

 だから、悲しいという気持ちが湧いて来ない。

 そんな自分が、堪らなく厭だった。

「じゃあ、おやすみなさい」

 寮母さんの声で我に返る。

「おやすみなさい」

 カジと異口同音で言った。

 しばらくしてここら一帯のチェックが終わったのだろう、廊下の松明が消されていき、部屋に明かりは届かなくなった。

「ページャン、今日はどうする? もう寝るか?」

「ん? カジがいいんならいいけど?」

「そうか。じゃあ今日はもう寝るか」

 基本的に寮にいる間にすることは授業で出た宿題を解いたりレポートを作成したりといったことばかりだ。けれど、オレもカジも手を抜いたりしない方だったので時間が掛かることが結構あった。そういう時は消灯の後も部屋にあるロウソクにマッチで火を灯して続きを行う。

 もちろん、この行為は教書でも認められている行為だ。じゃなければ、カジが認めるはずがない。

 カジはそのことを聞いてきたのだ。

 カジがやりたいと言うのであれば止める理由はなかった。逆に普段止めたりしないから怪しまれてしまう。朝にならない限り、計画を実行するのはいつでも良かった。

 当然だが、オレの方は元からやる気はない。提出する気もないレポートなんか作っていられない。

 二人して床に転がり、毛布を被った。

 いつもはこのまま眠る。

 けれど、今日はそういうわけにはいかない。

 間違っても寝てしまわないように目を開けていた。

 正直に言えば、辺りは真っ暗だから開けていても閉めていてもほとんど変わりはなかったのだが……。

 果たして、どれくらいの時間が経ったのだろう? 部屋に時計は設置されているが真っ暗なので当然見えない。見えないことから焦ってしまう。

 もういいだろうと思って、ポケットからマッチを取り出し擦った。

 部屋が明るくなる。

 時計を見るとまだ十一時半である。思わず舌打ちしたくなった。チェックの時間から一時間しか経ってない。さらには寮母さんが部屋に戻ったのは三十分ほど前のはずだ。まだ起きているかもしれない。

 全く、焦り過ぎだ。

 だけど、こうなったら仕方無い。何度も起きたり寝たりする危険を冒すわけにもいかない。

 ロウソクに火を移し、それを手に取った。

 そっと扉に近付いた。

「どこに行こうとしてるんだ?」

 今度こそ舌を打った。


          九


 浅い眠りだった。

 〈イベント〉の興奮がまだ冷めていなかったのだ。

 だから、部屋が明るくなった時に微かに目が覚めた。

 そして、扉の近くでロウソクを手にページャンが佇んでいるのを見て眠気が吹っ飛んだ。

「どこに行こうとしてるんだ?」

 ページャンは思い切り舌を打った。

「夜這いか?」

 ページャンは何も答えない。

「そうなのか? シナのところか?」

「……」

「何とか答えろよッ」

 なるたけ声を潜めて叫ぶ(自分でもよくこんな芸当が出来たなと、少し感心する)。

 ページャンが薄く笑った。

「済まないな。お前を気絶させるべきかどうかを悩んでいたんだ」

 その酷く冷静な声にゾッとした。

 こいつは……本気だ。

「おいッ、夜這いなんてしてどうするんだよ? ノンネームになっちまうのが関の山だぞ?」

 ページャンは冷静さを失わない。

「それでも構わない」

「ノンネームになったら、神官にはなれなくなっちまうんだぞ?」

「そもそも、神官になりたいと思ったことなんてない」

 何としてでもページャンを引き留めようと思うのだが、オレの問い掛けにこいつはいちいち冷静に返してくるから全くペースが掴めない。

「お前は、ノンネームになっちまうのが怖くはないのか?」

「そうだな。全く怖くない」

 その言葉は信仰心の高いオレにはまさに衝撃的だった。

「どうしてだよ? 神のご加護が受けられなくなるんだぞ?」

「……それがどうしたというんだ?」

 そんな風に返されて、どう言い返せというのだろう?

 ページャンは信仰心が薄いとは思っていたけれど、これほどにも無いなんて。

「でも、どうしてそこまでして夜這いなんか」

「……おい、誰が夜這いって認めたよ?」

 その言葉に僅かな希望を持った。

 親友はまだ、オレのいる世界に戻って来てくれるかもしれない。

 けれど、親友の口にした言葉はその希望を簡単に打ち砕く。

「オレがしようとしているのはな、カジ、脱走だ」

「な、何だって?」

 脱走。文字通り学校から逃げ出すことである。

 脱走する奴の理由はいろいろだ。閉鎖空間での生活が嫌だ。勉学が苦しい。同居人が嫌な奴だ。……上げていけば両手の指で数えることは出来ないだろう。

 ただ、脱走の罪は重い。まず、問答無用でノンネームにされてしまう。

 けれど、信仰心の無い奴ならそれぐらいなら多少は我慢出来るだろう。けれど、その次の罰が重い。

 罰と言っても、教会や学校が何かしてくるわけじゃない。むしろ、ほとんど何もしてこない。近隣の町に脱走者が出ましたよと、知らせるだけだ。それが、重い。

 基本的に町には子供はいない。奴隷はどこかで雇われているし、奴隷じゃない子供は学校に収容されている。もちろん、それ以下の小さな子供なら歩いていることもあるかもしれないが……。

 学校を卒業していない者は買い物が出来ないのだ。卒業式で手渡される卒業証書がないと町で買い物をすることすら出来ないのである。

 もちろん、普段から町の人が一々確認しているわけじゃない。顔みしりだったら顔パスだろう。知らない人だって普通は買わせてくれる。

 けれど、学校側からそういう知らせが来たら必ず卒業証書を確認するようになる。

 そんなことをされたら、買い物は出来ない。

 かわいそうな学生さんたち、と恵んでくれるような人間は教国にはいない。学校は神との誓いによって存在する教育機関である。そこから脱走すること即ち神への裏切りである、それが世間の常識だ。神を裏切った者に喰わせる飯はないと、そういうことである。

 それもまだ、金があればの話である。学生たちは毎月親から幾らかの仕送りをしてもらっている。

 その金で、時々学校にやってくるサーカス団を見たり、やってきた服屋で休日用の私服を買ったりするわけだ。

 何とか、近隣の町から抜け出して脱走者の情報が届いていない町に辿り着けたところで金がなくなったらお終いだ。

 後は餓死を待つか、それでも生きていたいのなら奴隷の身分に身を堕とすかのどちらかしか道はない。

 つまり、脱走するということは餓死するか奴隷になるか、そのどちらかしか道は残されていないのである。

 その先に続くのは果てなき絶望の道。

 それでも、数年に一人は必ず脱走者が現れる。一つの学校でこのような有様なんだから教国全体で見れば結構な数になることだろう。そういった者たちをカジとページャンは何度か嗤ったりしたものだ。馬鹿だよなぁ、と。

 なのに、なのに、そのページャンが脱走するだと?

 驚いた、という言葉ではとても言い表せないぐらいに、驚いていた。

「ど、どう」

「静かに。声が大きい」

 余りの驚きで小声にするのも忘れていたらしい。

 けれど、この状況でそんなことを冷静に指摘するページャンがもの凄く憎らしく見えた。

「どうして、どうして脱走なんか? 待っているのは絶望の道しかないんだぞ。このまま大人しく卒業したら神官になって楽しい生活が送れるんだぞ。なのに、どうしてそんな道に……」

 必死の訴えは、呆気なく遮られる。

「そんなことは言われなくても分かってる。だけど、オレは行かなくちゃならないんだよ」

「どうして、どうしてなんだ?」

「大切な人を、助ける為だ」

 また、頭が混乱する。ページャンの大切な人って、一体誰なんだ?

「シナか?」

 ページャンは首を振る。

「彼女をこのままここに置いていくことは正直忍びない。だけど、そもそもシナを気にしていたのはオレの大切な人の姿を重ねていたからなんだ」

 もう何を言ってるのか分からない。

 どうしても、どうしても、ページャンはここを出ていくと言うのだろうか?

 オレは親友が絶望の道へ進んでいくのを黙って傍観することしか出来ないのだろうか?

 その瞬間、一つの考えが頭に浮かび、オレはある決意をした。


          十


「分かった。じゃあ、オレも着いていく」

 カジがそう言った時、正直耳を疑った。

「……何言ってるんだ? オレに着いて来たらノンネームになっちまうんだぞ。それでも、構わないというのか?」

「構わない。親友が絶望へ突き進んでいくのを黙って傍観することなんて出来やしない」

「……だけど、お前の夢じゃないのか? あの石碑に名前を刻まれることは。そして、神の役に立ちたいんだろ? 神の視線となって!」

 神の視線。

 それは、教国に住む人々(奴隷やノンネームを除く)の最期の姿だ。

 オレたちが毎朝頭を下げる宮殿の前の幾つもの台形の石碑群。あれは、ただ神の御身だというだけではない。

 オレたちは生まれると神から名前が与えられる。オレはページャンという名前を、オレの前に立っている親友はカジという名を。それは神に与えられたもので、オレたちの魂と神を結ぶ役割を持っている。だからオレたちはこの自分の名前を大切にしなければいけない。カジならカジ・ヴァ・オカルファ。神から与えられたカジという名に加え、オカルファという姓、普通ならこれで十分なのであるが、カジにはヴァというミドルネームがある。これは親が付ける名で、他に同姓同名の者がいた場合に区別する為に使われる。カジの場合、過去にカジ・何とか・オカルファという人物が存在したのなら、その人物と同じミドルネームを親は付けることが出来ない。同じ名前が存在してはいけないのである。

 教国に住む人が死ぬと、神の御身である石碑にその名が刻まれるのだ。そして刻まれた名前は持ち主の魂と神の御身を結び付ける(同じ名前の人物が存在してはいけないのはそれ故だ)。神と一体化した魂は神の眼となり、そしてその眼で大地を見渡し人々の幸福を見守るのだ。

 つまり、神の視線となって神が人々にご加護を与える作業の手伝いをするというわけだ。人は死んだ後、今まで自分を見守って下さっていた神様の手伝いをするのである。

 だから、神のご加護というのは言わば前借りなのだ。そして、それが教書の根幹なのである。神の視線となりたる者、穢れていてはいけないということだ。それが教書による神との誓いだ。自分は穢れていません、だからあなた様の視線となることが出来ます。あれにはそういう意味がある。

 だから、誓いを破った者は穢れし者、奴隷特有の邪の資質が伝染した者、神の視線となるべき器足らず者ということになる。そして、自分たちの魂と神の御身を結ぶための名前を剥奪されるのだ。

 ノンネームである。

 名前を剥奪されたら死んだ後、神の視線になれない。しかし、神のご加護は人々が神の視線となることを前提とした前借りなわけである。だから、ノンネームとなった者には神のご加護は与えられない。否、それどころか今までご加護を不正受給していたことにさえもなる。

 しかし、どうやら神はご寛大なようで不正受給された分に対しては不問に為されるらしい。教書にもそのように記されている箇所があるらしい(つまり解説書に書いてあったというわけだ)。

 が、どちらにせよこれから生きていく上で神のご加護が与えられないことは同じなのだ。そのことに絶望し、ノンネームとなった者は次々と自殺してしまうのである。

 カジの夢はその神の御身たる石碑に名を刻まれることである。もちろん、刻まれるだけなら教書の教えを守って静かに暮らしていればいい。けれど、カジの場合はそうではない。

 同じ刻まれるにしても低い位置と高い位置とでは別物である。当然ながらより高い位置に刻まれた方が世界を遠くまで見渡すことが出来る。それだけ神の役に立つことが出来るというわけだ。

 その為にカジは教会に入ろうとしている。神官になればそれだけで一般人より高い位置にその名を刻むことが出来る。しかし、一番高い位置に刻むことが赦されるのはもちろん、神の最も忠実で敬虔な僕である教皇様、だ。

 それが子供の頃からのカジの夢なのである。

 そのカジが夢を放り出して着いて来るという。

 カジは子供の頃からそれを夢見て頑張ってきたというのに。

 そしてハッとした。

「……カジ、謀ったな?」

「何だ、ばれたのか」

「全く、この策士めが」

 カジの計略は単純だ。オレがカジの子供の頃からの努力を知っているということを分かっていて着いて行くと言ったのだ。

 カジを連れていくことを不憫に思ったオレが脱走を止めることを期待したらしい。

「一つ、教えてくれよ。オレが本気でお前に着いて行くって言ってたら、お前はオレも連れて一緒に脱走したのか?」

「……それはお前をこの場に残していくという選択肢はないんだな?」

「ない」

「そうか。……した」

 カジの表情が少し傷付いたものになった。


          十一


 ページャンの「した」という言葉に少なからず傷付いた。

 親友の夢を踏み躙ってでも、助けたい人とは誰なのだろう?

「お前の、お前の大切な人って誰なんだ? 学校にはいないのか? 一体、どこにいるんだ?」

 もう、ページャンも黙っているわけにはいかないだろう。

 親友は躊躇いがちに答えた。

「……彼女は、〈穴〉の住人だ」

その答えにはさすがの自分も表情が凍りついたのが分かった。

「〈穴〉……だって?」

「そうだ」

「……それはもともとか? それとも、堕ちたのか」

「堕ちたんだ」

 この答えで、今までのページャンに対する疑問のほとんどが解けたと言っていいだろう。

 学校での神学に関しての教育は実に上手く出来ている。学生の中でもかなり信仰心の高い方だと自負出来るオレでさえそう思うことがある。

 一学年で読み書きと簡単な計算を習った後の授業、それから二学年と三学年での授業の内容は半分洗脳だ。オレでさえそう思うのだからよっぽどだろう。

 もちろん、脅迫観念で信仰心を植え付けたりするわけではない。徹底的に神の尊さを説くのである。そうやって子供たちに信仰心を植え付ける。

 神との誓いを守りなさい。

 そうすれば、神は我々にご加護を授けて下さる。

 そのご加護で神は邪悪なるものから我々の人生を救って下さるのだ。

 救われた人生を全うした後は、救いを与えて下さった神の役に立ちなさい。

 そういった内容の話をいろんな角度から、いろんな例え話で子供たちに教え込むのだ。何度も何度も、徹底的に。

 だから、この三学年を終了した時点で信仰心のない人間なんてほとんどいない。

 例え、それが洗脳かもしれないと思ったとしても、信仰心がぐらつかないほどに神の存在は心の基盤となっている。

 他の学生たちも同様だと思ってた。

 でも、少なくとも目の前にいる親友だけは別だったのだ。

「彼女は幼馴染だった。でも、この学校に入学する少し前に、〈穴〉に堕ちてしまった。それはもちろん、彼女の責任じゃない」

 入学する以前の子供たちだって神の存在を信じている。もちろん、その頃に信じていた神の姿と、今信じている神の姿とでは微妙な違いがあるだろう。子供の頃に信じている姿はもっと薄ぼんやりしたものであるはずだ。親が信じているから自分も信じる。神様というのは何だか立派なものだ。偉い存在だ。そんな風に。

 それだけに、子供の信仰心というのは大人の誰よりも純粋だ。

 そして、それは子供の頃のページャンや〈穴〉に堕ちたというその幼馴染とて同じだったはずだ。

 その幼馴染を神は救わなかった。

 幼いページャンにそれは衝撃だったのに違いない。

 彼は入学する以前に、既に信仰心など持ちようもない子供だったのだ。

 学校側の洗脳など、心の一端にも届かなかったのに違いない。

 ふと怖くなって親友に問い掛けた。

「ページャン、オレは、オレは、ひょっとして、お前に失礼なことを言い続けていたんじゃないのだろうか?」

「……カジ、オレは神の存在すら疑ってる。仮に、そんなものがいたとしても、一人一人の人間を救ったりするはずがないと思ってる。現に、オレの幼馴染は救われなかった。だから、お前みたいに何の疑いもなく神の存在を信じている奴にはイラッとすることもあった」

「……」

「逆に、お前たちみたいに何の疑問も抱かずいられたらどれだけ楽だろうと、羨ましくなることだってあった」

「……オレは」

 言い掛けたその声をまたもページャンが遮る。

「だけどな、それでもやっぱりお前のことは親友だと思ってた。これだけは理屈じゃないみたいだ。お前とオレでどれだけ立場が違うとしても、だ」

 そう言われたら、何も返す言葉はない。

「だから、親友としてお願いする。このまま、黙って行かせてくれないか?」

「……こんな言い方しか出来ない自分が嫌なんだけど、今更じゃないか? それに、後少しで卒業なんだ。卒業証書さえあれば買い物も出来る。お前の能力があれば、適当に紛れて生きれるかもしれないんだ。だけど、この国じゃ卒業証書がなければ何にも出来ない。後少し、待てないのか?」

「いろいろ準備してたんだ。ホントなら、もっと早くに脱走するつもりだった。けど、準備に手間取っていつの間にかこんな歳になってしまってた。それから二つ目の質問だけど、それは出来ない」

 待てない、ならまだ分かるが、出来ないとは何事だろう?

「どういうことだ?」

「卒業証書というのは逃げだ。仮に彼女を助けることが出来たとしても、生活が立ち行かなくなる可能性ぐらい容易に想像出来る。でも、証書があればこの社会に戻ってくることは可能なんだ。その時に、彼女を見捨ててしまうかもしれない。それが嫌なんだ」

 親友の決意の固さに少しゾッとする。

「見捨てるって、そんな」

 神官になれる道を放棄してまで助けた人を見捨てるかもしれないなんて。神官になることを絶対的な目標としていたオレにはいささか信じられなかった。

「可能性はあるんだよ。オレはこの十年間、数えきれない奴隷たちの犠牲のもとに成り立つ生活でのうのうと暮らしてきたんだ。そんなオレが外の世界ですぐに独り立ち出来るだなんて、そんな甘い想像はしていない。何かあると、すぐにこっちの社会に戻って来たくなるかもしれない。その為の、逃げ道を無くしたいんだ」

 ……もう、ページャンはオレが何と言ってもここを出ていくのだろう。

 そしてオレは、それを黙って見送る。

 ……本当に――

 本当にそれでいいのか?

「ページャン、やっぱり、オレもついて行く」

「……は?」

「だから、ついて行くって言ってんだ」

「……その手には乗らないって言ったはずなんだけどな」

「そうじゃない。今度は……本気だ」

「……分からないな。脱走したら夢を叶えられないどころか、ノンネームになっちまうんだぜ。いつ自殺するか分かんない奴を連れて歩けってのか? それに、どうしてついて来る気になったんだ」

「……お前は随分前からこのことを考えていたんだろうけれど、オレの方は今日聞かされたばっかりなんだ。正直に言ってまだ混乱してる」

「だったら……」

「オレは神を信じてる。いや、信じていたいんだ。今までの自分が間違っていたなんてそんなことは絶対に認めたくない。だからオレは必死に神官になろうとしていた。そうやって神の役に立つ為に生きていれば救われると信じていたからだ。でも、お前がそうじゃないと言ってここを発ってしまったら、オレはその意味をずっと考え続けなきゃいけなくなる。きっと、お前がどこかで朽ちてしまっても、オレはそれを知ることなんてないだろう。そんなんで、オレは救われるのか?」

「……カジ」

「分からなくなってしまいそうで怖いんだ。オレの夢は、確かにあの石碑にその名を刻まれることだ。だけど、それ以上にオレは神の存在を信じ続けていたい。ここでお前と別れたらそれが出来なくなってしまいそうで怖い」

「だけどさ、ここを出たらその時点でノンネームだぞ? 連れ人に死なれるほど面倒臭いことはないと思うんだけどな」

 よくもまぁ、そんなことを平気で言えるものだ。少なからずの感心を覚える。

「大丈夫だ。神のご加護は常にオレと共にある」

「……いや、だから」

「オレを殺せ」

 ページャンは目を丸くした。

「は?」

「本当にどうしようもなくなった時は、オレをお前の手で殺してくれ。そして、神の御身たる石碑にお前の手でカジ・ヴァ・オカルファの名を刻んでくれないか」

 親友はしばらく呆然としていたがやがて呆れた表情になった。

「全く、本当に面倒臭い奴だな。分かったよ。そんな時が来ないよう願っているが、そんな時が来てしまったら殺してやるよ。それで刻んでやる。後、お前が普通に死んだ時もな。じゃないと、そんな時が来ない限りお前はご加護を得られないことになってしまうぞ」

 ……それをすっかり忘れていたようだ。

「そうだな。……オレより先に死ぬんじゃないぞ」

「じゃあお前がオレより先に死ねばいい」

 容赦のない言い方に少したじろいだ。

「酷い言い方だな」

「その通りだろ? その変わり、安心しとけ。ちゃんと刻んでやるから。うんと高い所にな」

 最後の言葉に思わず笑みが漏れた。

「頼むぞ」

 そして、天井を見上げる。

「神よ。オレを見守っているのなら、今の会話も聞いていたな。オレは死んでから必ず貴方様の眼になってやる。だから、オレからご加護を取り上げるんじゃないぞ」

 もちろん、返事なんて聞こえて来ない。一人一人に返事が出来るほど、神は暇ではないだろう。

 そう宣誓したオレをページャンがやはり呆れた目で見つめていた。

「何だ?」

「ホント、学年で一番信仰心の高い奴の言葉とは思えないな」

「言葉なんて問題じゃない。どれだけ信じているかだ」

「……行くんだな」

「ああ」

 親友にとってこれから歩く道は希望の道なのだろうか?

 それとも絶望の道か。

 オレにとっては、自分の信仰を守る為の道だった。


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