虚空の音色
*お断り*
設定はかなり甘いです。元々、さらりとした仕上がりを想定していたので、特に考えてませんでした。
そして、主役が非常に分かりづらいと思います。ですが、こいつが主役かな? と思われた場合、恐らくはその通りです。
月夜の静寂を乱すは剣戟、銃声の轟き。
侍と銃士が、己が武を賭して月明かりの下ぶつかり合う。
ここに集いし二人の士に、勝つ理由はあれど敗ける理由はただの一つもない。
双方の得物に優劣はほぼなく、武術に関してもまた然り。その差を作るは、不条理な運のみかそれとも……。
決着は未だ着かず、その行方は神のみぞ知る――。
“怜悧なる銃士”は首筋に負った傷の具合を確かめ、出血の微量さに安堵した。アドレナリンの分泌で、痛みの感覚が麻痺しているため怪我の度合いを測るには触診する他にない。
しかし、これで何度目か分からぬ打ち合いだが、未だ一矢報いることすらできずにいる。
天色の艶やかな長髪を風に靡かせ、防具は青銅の籠手と胴鎧のみの鴇色の襦袢姿の美女は、その優しげで端正な面持ちに汗一つ滲ませず、左手に持つ日本刀の構え方には、ま花を持つようなゆとりと風情がある。
まるで、大和撫子を体現したかのような女の黒い瞳には、しかし情けなど微塵も感じられず、掛け値なしの殺意を漲らせていた。
女の左構えの剣術には一分の隙もなく、時を見て繰り出される“左片手平刺突”には、決め技とも謂えるキレと威力があった。
それに、その身のこなし。こちらの得物は飛び道具だけあって、剣槍使いを相手にする際の基本戦術としては、敵の間合いの外からの銃撃を主としている。が、それがどうだ。この侍は、そんな間合いなど、ものの数歩で埋めてしまう程の俊敏さを備えている。早々に戦略を切り換えた為、何とか渡り合えてはいるが……。
この女侍、まだ若いながらもかなりの手練れとみて間違いはない。いや、そう見計らって掛からなければ、確実に殺られる。
あの余裕の面持ちから、まだ奥の手を隠し持っているのは分かる。第一、収集したデータから、本来ならあの女は“右利き”のはずだ。
「さて、どうしたものかねぇ……」
粗暴な口調とは裏腹に、銃士、クラリス・ワースキーの内心には余裕というものが無かった。
そして素早く左右に視線を振り、ここぞと見定めたルートを念頭におき、それに見合うだけの行動を思い描く。
幸い、ここは工場跡地。建物は風化し寂れてはいるものの、忍び隠れるに苦労はせず、また物を隠すにはうってつけだった。
あれを取りに行けさえすれば、活路を開くことが出来る。
後はタイミングしだい。が、あの獣の如く獰猛な眼差しをした女侍が、そう易々と逃がしてくれるとは思えなかった。
なかなかに、煩わせてくれるじゃないか。
クラリスは乾いた唇をそっと舐める。
逃げ腰になってはいけない。ここは攻めの一手で、タイミングを見計らうべきだ。
雀音は自前の脚力をもって、女侍との間合いを詰めに掛かった。
それに対して女侍は刺突で迎え撃った。が、銃士はそれを見越していたのか、半回転しながら躱すと、その反動を利用して回転蹴りを右肩目掛け繰り出す。
咄嗟に地面を転がったことで難を逃れたが、その踵が空を切る音は異常な程に鋭かった。当たっていれば、右肩から先は使い物にならなくなっていただろう。
銃士の怜悧な碧眼に、焦躁の色が見えたのも束の間だった。小声で何か呟くと、次の行動を検討した瞬間、目にも留まらぬ速度で肉薄してきた。
煩わしい小娘だ。そう、苛立ち紛れに胸中で吐き捨てた。
こちらが負った傷は皆無。対して、銃士は首筋に僅かながらも切り傷を負った。それは紙一重の差で、致命傷になる箇所だ。
しかし、紙一重の差でこちらは勝機を逃している。
それは僅かながらも、至極致命的な差だ。元より、傷を負わせられたこと自体が、全くの僥倖と言える。それを逃したのだ。この先は、戦術を変えねば苦しくなる。
“清楚なる武士”は、銃士が構える小銃に目をやる。
それにしても何とまた、懈怠な武器を戦場に持ち出したものだ。骨董品の度合いでいうならば、こちらの方が格段に上回っているがあれは……。
最初に行動を起こした女侍は、得意技である左片手平刺突で、小銃を銃口から発射された銃弾を貫き、瞬く間に間合いを詰めた。
そこで一撃の下、勝負を着けるつもりだったのだが、あの銃士の接近戦闘への切り換えの早さはあっぱれと言わずには置けない。
その小銃は、第二次世界対戦時に米軍の主兵装だった単発式の小銃の銃身下部に、細く刺突に秀でた刃が取り付けてある。
それを付け焼き刃の対人兵装と考えていたのだが、銃士は銃剣とは思えない斬撃を繰り出して、女侍の日本刀と斬り結んだ。
そう、斬り結んだのだ。
他でもない、この『妖刀』と互角に渡り合った。
妖刀は、その製造工程からして普通の刀とは異なる。
鍛冶の場において、幾度となく熱した鉄を叩くと同時に、その都度、呪術を込めて鉄を鍛え上げる。そうして出来上がる刀身の強度と切れ味は、どんな金属をも凌駕する。例え魔力を纏っていなくても、だ。
付け加えるならば、この刀は戦国時代に打たれた名刀。数百年の時を経て、その刀身に蓄積された霊力は、測り間違えても銃剣のそれとは比較にならない筈だ。
しかし、それがどうだ?
銃士の繰る銃剣は、数十にも及ぶ打ち合いに、今だ刃毀れ一つしていない。
自然と笑みが、口許に刻まれた。
ここに来て、ようやく現れた強敵を前に、自身の身体を流れる凶悪な血が滾るのを、女侍は確かに感じとった。
恐らく自分よりまだ若く、革製の黒いジャケットにズボンというラフな出で立ちで、短く適当に切り揃えた金髪、氷のように感情の読めない碧眼の女性の、その身に宿した闘争心は戦士のそれと変わり無い。
ここは、それ相応の礼をもって遇さなければ失礼だろう。
「今更ながら、互いに名乗らないままの戦いに名誉も何も無いでしょう。古月家長女、古月神流と申し上げます」
女侍の唐突な語らいに、クラリスは虚を突かれた。優しく慎ましやかな声色で、獰猛で苛烈な剣を繰る侍の声とは思えなかった。
「外見に惑わされ、実力の程を甘く見ておりました故、名乗る必要なしと手前勝手に判断致しておりました。何とお詫び申し上げればよいやら」
「……あ?」
相手の意図を汲むことが出来ず黙っていれば、古月神流なる女侍は、まるで客人をもてなすかのような物腰の低い、丁寧な口調で先を続ける。
次いで古月神流のとった行動に、クラリスは更に困惑の色を強くした。
「最早、言葉ではお詫びのしようがないと思い、せめて我が全力を呈してあなた様に報いよう、と」
言う間に胴と籠手を外し地面に棄てるように落とすと、次いで着物の右側をはだけさせ、そのか細くも真珠のような色艶をした右腕を月明かりの下に晒した。
その隙に攻撃を仕掛けることも、当然できた。しかし、意図も掴めないこの状況で、迂闊に動くことが出来なかった。だがせめて、その間にもっと間合いを広げておくべきだった。そうすれば、退路を確保することくらいは出来ただろう。
「思い至りましたしだいにございます」
次の瞬間、その右腕に紺色の筋が浮かび上がり、それは瞬く間にまるで刺繍のように模様を描いた。「刻印……」
そして右腕をゆらゆらと持ち上げると、ずっと左手だけで構えていた刀の柄に、そっと右手を添えた。それと同時に、銀色の刀身に毛細血管のような赤い筋が走った。
そこから陽炎のように揺らめき昇る魔力に、クラリスは全身の毛が粟立つのを禁じ得なかった。
「フフッ、では、古月家の名において、古月神流、推して参ります」
この時、クラリスは気付いた。
野性的で獰猛にギラついていた女の瞳が、抜き身の刀さながら鋭利で無機質な輝きに変わっていたことに。
恐らく、こちらが剣術家・古月神流としての本性。そして、女侍の本気の姿。
スゥッと音もたてず刀を振り上げた古月神流は、淑女の微笑みを浮かべた。
本能が警鐘を喧しく鳴り響かせるのを、クラリスは感じていながらも、動くことが出来なかった。
一度の踏み込みが神速の域に達しているならば、その斬撃は……。
ともかく、初撃目を躱せたことは全くの僥倖だった。咄嗟の判断で地面に転がったおかげだ。
ただ、その後は防戦一方どころか、一方的にダメージを喰らわされていた。刀による斬撃を免れはしても、矢継ぎ早に繰り出される火炎を逃れる術がクラリスには無かった。
暗黒の如く重く沈鬱な焔は、“焼く”というより“溶かす”という表現が正しかった。実際、焔の触れた箇所に火は勿論のこと、灰すら出なかった。
それでも黒のジャケットは既に大半が溶け落ち、ズボンも右足が剥き出しにされ、皮膚が無惨にも爛れてしまっていた。深刻なダメージだ。
不思議なことに、痛みはそれほど感じなかった。アドレナリンの分泌以外の要因だろうが、それが何なのかは想像するに足りた。
銃剣は胸元に刻まれた朱色の『刻印』を駆使して構造を強化していた為、ダメージはほとんど皆無だった。が、それを支える腕の方が、度重なる斬撃に悲鳴をあげ始めた。痛みは無くとも、音が骨を伝わる感触で分かる。
このままでは不味い、と意識を退路へ向けた事が、致命的な隙を生む結果となった。
古月神流という女侍から僅かの間だけ視線を逸らした刹那、右の乳房の上を貫かれ、コンクリートの柱共々串刺しとなった。
「ゥ――アァァアァアァァァッ!」
貫通した刀身が、内側から体を溶かす痛みは想像を絶するだろう。
『闇』という名の“焔”は、残酷なものだ。その暗い火炎は、標的を焼くこと無く溶かしてしまうのだから。そしてそれは、溶岩の熱量をも凌駕しているにも関わらず、一瞬で溶かし切らずじっくりと表面から溶解させるのだ。
「如何かしら? 私目の本領は?」
「ククッ、あぁ凄く愉しいよ……」
銃士は笑った。不敵なまでに底意地の悪い笑みだった。
まるで痛みを感じていないかのような口振りに、神流は一瞬だけ恐れを感じ、左手が拳銃を抜き取った事に紙一重の差で気付けなかった。
次の瞬間、腹部の衝撃が走り数歩よろめいた。バンッ、バンッ、と二度銃声が鳴り響いたのは直後の話だ。
咄嗟に回避行動をとったが一発が右の脇腹を掠めて肉を抉って過ぎた。計らずも、素肌を剥き出しにしていたことが仇となった。
回避と同時に刀を引き抜いたことで自由になった銃士は、牽制射を行いながら廃工場の中へ消えていった。
神流はみすみす標的を逃してしまったことより、標的を逃したことに対して舌打ちをした自分に苛立った。
「何に焦る必要が……。相手の防具は削いだ。後はじっくり溶かし殺せばいい。それに、覚醒した私の剣を彼女は捌き切れなかった」
神流は自分に言い聞かせ、脇腹の傷の具合を確かめ、右手の人差し指と中指で傷口を撫でた。傷は嘘のように完治した。
魔術の為せる術、だ。
ジャケットを溶解させ、その下のノースリーブのシャツとズボンも半分以上溶かした彼女の姿は最早、半裸状態だった。彼女の体を守るモノは、無いに等しい状況だった。
この焔の弱点は、表面しか溶かせないという特性にある。つまり、衣服は一枚ずつしか溶解できないということだ。しかも、溶かせるのは焔が触れた場所のみに限られる。燃焼とは少し違うのだ。
「あの人、痛みを感じていないの? 常人なら耐えきれずに精神が崩壊するのに……」
痛覚の遮断? それなら合点はいくが、しかしそれは戦場に於いては愚行だ。痛みを感じなければ、傷の度合いを理解できず、治療が遅れて最悪死に至る。
ならば、常人を逸した我慢強さの持ち主なのか? そんな筈は無い。しかし、あの銃士は悲鳴をあげた。痛みを感じている?
「まぁ、いいわ。目的さえ果たせれば、何でもね……」
神流はゆっくりと廃工場へと足を踏み入れた。コツ、コツ、と足音が静寂の中を反響する。
その音は、工場奥の事務室跡まで逃げ込んだクラリスの耳にも、鮮明に届いていた。
「良いねぇ……」
まるで死神の足音だ。こいつを聞くのは、随分と久しい。
いや、意識しないようしていただけで、本当は常に聞こえていたのかも知れない。
死の感覚は、まるで麻薬だ。
日常を逸したこの感覚は、諸人を虜にする。一度味を覚えてしまえば、それを求めるために何だってしまう。クラリスがそうであるように。
あの古月神流も、同様に死の感覚を求めているのだろう。
「良い……滾ってくるね……」
傷に治癒魔術を施しながら、クラリスは沸々と上がってくる熱情に身を委ねる。
爛れた皮膚は完治出来たが、貫かれた刀傷は出血を止めることは出来たが、完治まではいかなかった。どうせ痛みは感じないんだ。
行動に大した支障はない。痛覚が無くなった理由は、そういう風に出来ているからだ。痛みの度合いに応じて、痛みが減るように刻印にプログラムしていたのだ。
溶かされた衣類は、この際仕方がない。“投影”だったかを使えば新しく作れないこともないが、クラリスにそれは使えない。
この際、中途半端に残った部分は破り捨て、行動の支障にならぬようにするほかにない。
「ブラまで溶けてるとはな。笑っちまうくらいアラレもない姿だ」
無駄な部分を取り除けば、ほとんど下着姿になる。
何せ、ジャケットは最早、元が何だったのか分からないほどに溶かされてしまっており、シャツも意味を無くしている。ブラジャーまで溶かされ用を為してなかったので、シャツの布地を胸に巻いて代用とした。ズボンは、左右で長さは違えど超ミニパンツとしか言えない。ギリギリ、ホルスターが確保出来ただけでも良しとするか。
「あの焔の前に、この姿は命取りだな。――まぁいい、特性は大体分かったし対策のしようはある」
あの焔は、確かに強力だが対策は既に出来ており、恐れる必要はない。が、あの剣術は不味い。
あれだけは、魔術ではなくあの女侍の実力に依るものだ。その昔、剣客と呼ばれる者達は、一度刀を抜けば必ず殺さなければならなかった。殺せなければ“士道不覚悟”、切腹を迫られるから。故に、侍は刀を抜く時、死以上の覚悟する必要があった。
あの女侍は、その境地に似た状態にある。
詰まるところ、自己催眠である。あの驚異的な剣閃は、自分に暗示を掛けることによって、潜在能力を引き出している為だ。
さて、と準備を終えたクラリスは、事務室の中に唯一残されていたデスクの引出しのひとつを取り出し、そこに納められた弾倉を検める。
『M1ガーランド』用の弾倉は、少し特殊だ。『エンブロック・クリップ装弾方式』という装弾方式をとっているM1ガーランドは、弾丸八発の束をクリッ プに填めている。装填する時は、銃のボルトを引いて上部からクリップごと差し込み装弾する。
引出しに隠していたクリップは全部で三つ。二十四発のライフル弾がある。が、生憎ジャケットがお釈迦になった為、ズボンの二つのポケット以外に収納スペースが無い。
映画とかでは胸の谷間に隠し持っていたりするが、生憎クラリスの体に無駄な肉はほとんど無かった。つるペタでは無いが、隠すには足りなかった。
「クソッ、何だかチクショウだ……。ていうか、あっても入んないだろ。こんなもん」
ともかく、二つは持ち歩けるが、後の一つはどうすべきか。
今、M1ガーランドの中には四発のライフル弾が装填されている。このライフルの欠点は、撃ち切らなければリロード出来ないという点だ。
「位置を知らせるはめになるが、致し方あるまい」
が、無駄撃ちはしない。
クラリスはデスクの引出しをもう一つ取り出し、そこに納められていたモノを抱えて事務所を出た。
銃声が聞こえたと同時に、古月神流は走り出した。工場内の暗く狭い通路での銃撃は、言うに及ばず確かに効果的である。が、それは常人ならではな話だ。
神流は音速で飛来する銃弾は斬って捨て、神速に達する速度で銃声のする方へと駆ける。
通路は漆黒の闇に包まれているが、神流の目には銃士の笑えるほど情けない姿がハッキリと視認出来た。
二発目と三発目、そして四発目の射撃に間断なしの速射だったが、キンッという金属音と共に銃撃は止んだ。
弾切れね、とほくそ笑んだその時、踏み込んだ足にワイヤーのような物が引っ掛かった。瞬間、進行方向で爆発が起き、夥しい数の鉄球が神流に襲い掛かった。
「焔よ!」罠に魔術的な気配は全く無かったが、足に触れたワイヤーの感触で直感的に刀を振るい、暗黒の焔の火柱を目前に作った。
どっちが早かったか。
当然、先に爆ぜた鉄球の方が早いに決まっていた。しかし、神速を越える速度で振るわれた刀が形成する火柱は、鉄球を神流を襲う寸前に溶かし尽くした。
「無駄な足掻きを」
「無駄じゃねぇんだよ」
奇しくも火柱が神流の目隠しとなってしまっていた。目前の焔が消えた先には、銃剣を振り上げた銃士が不敵に笑っていた。
「リベンジといこうか!」
勿論、クラリスはそれを見越していたと言ったら嘘になる。一度把握した敵の能力を見謝る彼女ではないが、まさか『クレイモア対人地雷』を防ぎ切られるとは思ってもみなかった。
炸薬の破裂によって七百個あまりの鋼鉄球を扇状に撒き散らすこの兵器は、歩兵の部隊を待ち伏せして一掃する為に開発されたものだ。
どんな魔術師であれ、眼前で設置型爆弾が爆発したら、完全に回避する術は無いと思っていた。が、それがどうだ。最早、あっぱれとしか言いようがない。
しかし、だからと言って、それで殺せるとは“あわよくば”程度にしか思っていなかった。殺害まで至らずとも、デタラメに速い女侍の足が止まってくれれば、その隙にリロード出来る隙を作れる。
果たして予想を少し外しながらも、暗黒の焔が成した火柱が目潰しになるという思わぬ僥倖を得たことにより、目的を十分に達成する事が出来たクラリスは、女侍の不意を突くことが出来た。
振り下ろした銃剣を受け止めたのは、流石と言えた。が、“受け止めてくれた”ことにより、こちらの思惑は達成された。
「溶かして!」
銃剣と刀が打ち合った刹那、神流は暗黒の焔を発現させようとした。それとほぼ同時に、銃士は引き金を引き絞り、薬倉内の弾丸が明後日の方向へ発射された。瞬間、刀身に掛かる衝撃が増加し、神流は通路の端まで吹き飛ばされた。
一瞬の出来事だったが、神流は全てを把握出来た。今の一撃は、小銃の元々の役割を度外視した一撃だった。
「私はね、魔術師としての格は下の下なんだよ。使える魔術なんて、構造強化か簡単な治癒くらいさ」
小銃に込められていた弾丸は、恐らくは銃撃目的の弾丸ではない。斬撃に特化した銃弾なのだろう。
打ち合った瞬間に炸薬を爆ぜさせることで、銃身を振動させ銃剣の威力を増加した。
「刻印があっても、それを上手く使う術を誰も教えてくれなかったし、誰からも教わろうとしなかった」
しかし、本当にそれだけ?
確かに威力は絶大だが、それだけでここまで飛ばされるだろうか? 第一、ただの小銃と銃剣でそんなことが可能なのだろうか?
「だからさ、私はこの魔剣を手に入れ、魔弾を作ったのさ」
「魔剣……?」
「ん? 気付かなかったかい? まぁ私程度の魔術師じゃ、魔剣たらしめるだけの魔力を供給できないんだよな」
魔剣だって? あの銃剣が?
そんな筈は無いと思いながらも、しかし思い当たる節があった。
焔が、いつもの威力を出せなかった。それはあの女の魔術とばかり思い、特に気に留めなかったが…………今、焔が出なかった。
「それを補うために、魔力を充填した銃弾を用意した。――ククッ、私の力不足で魔力を抑え込む程度にまで退化しちまっているが、この銃剣はね、魔を断つんだよ。」
銃士はさも可笑しそうに、ニヤリと口許を緩めた。「元は紅い槍だったらしい」と補足する。
“魔を断つ銃剣”か。それは魔術師にとっては命取りだろうが、生憎とこちらは侍だ。魔術の優位など、自身の剣術でなんとでもなる。
「さぁ、あんたの優位を一つ奪ってやったぜ?」
「その様ですね。しかし、それで勝てるとお思いでは無いですよね?」
神流はゆったりとした動作で立ち上がり、悠然とした面持ちで刀を振り上げる。
銃士は小銃を構え、引き金に指を掛けた。
魔力を断つといっても、魔力源と銃剣の刀身が触れ合っていない限り、全てを無効化できるはずがない。
焔さえ発現出来れば、こちらのものだ。
「焔よ、走れ――暗焔走覇」
女侍は厳かな声色で、妖刀に一命を下した。上段に構えた刀に魔力を充填し焔を纏わせ、振り下ろすと共に一気に開放する。旋を巻く超濃縮された暗黒の焔は、差し詰め猛り狂う暗黒龍のようだった。
しかしクラリスは怖じること無く、その龍の頭を狙い定め、トリガーを引き絞った。
シルバーメタリックのセダンのバンパーの上に寝転がっている青年は、呑気に口笛を吹いていた。
直ぐ傍の廃工場で、殺し合いが演じられているというのに、青年はそれに関心を抱かずに、星空を見上げていた。
それでも、全くの無関心というわけでも無かった。何故なら、銃士と侍の決闘を仕組んだのは、何を隠そうこの青年なのだから。
茶色みがかったセミロングの黒髪にモデル並みに整った顔立ちと体格をした、誰が見ても美青年である宇土京一郎は、ある魔術師同士の闘争の監督役を任されていた。
その任務が一段落しそうなので、つい気が抜けてしまっていたのだ。
コツコツと厚底ブーツの音が聞こえ、京一郎は体を起こした。チャキ、と乾いた鍔鳴りが鼓膜を震わせる。
「戦利品かい? それ」
「証拠品さ。私が勝ったって証拠」
クラリスは監督役の青年に、女侍の死体から奪い取った妖刀を放って渡した。
彼はさも興味無さげに妖刀を検めると、「いいだろう、次のステップだ」と言って車のキーを投げて寄越した。
「トランクを開けてみな。――にしてもお前、その格好……まさか、俺を誘ってるとか?」
「おいおい、そういうセリフは、もうちょい貫禄つけてからにしろよ。笑えないぜ? それより、トランクに魔道具があんだよな?」
「開けてびっくり玉手箱ってね。詳しくはないが、使えるモノだとさ」
クラリスは喜びにキーを一度放り投げてキャッチし、セダンの後部へ回った。
監督役の青年は、また鼻歌を始めた。よく知らないが、有名な歌だったと思う。
キーを差し込み逸る気持ちを抑えながらゆっくりと回して解錠すると、軽く深呼吸をしてトランクを開けた。
これで一つ目、魔術師としての初黒星だ。
クラリスは元々、魔術師でありながら兵士であり、それも金で雇われる傭兵だった。
多種多様な兵器に戦術を駆使し、確実に敵を殲滅してきた彼女は、その道では名の知れた傭兵だった。
しかし、魔術師としてのクラリスは駆け出しも同然で、魔術はほとんど独学で簡単なものしか知らなかった。
そんな彼女が一流の魔術師と渡り合うには、強力な兵器に頼る他になかった。
『M1ガーランド』に装備した銃剣が、その強力な兵器である。
名のあるブラックスミスが創ったとされるその銃剣は、傭兵時代のコネに手当たり次第に問い合わせ、ようやく手に入れたものだ。“魔を断つ銃剣”と今は名を変えているが、元は“紅い長槍”だという。
魔力を無効化するというのは、魔術師にとっては十分すぎる驚異になる。理論の外行く奇跡は、詰まるところ魔力に依るものだ。
しかし、魔術師としての格の低いクラリスには、その優位性を十分に発揮しうるだけの魔力の供給が出来なかった。
それを補うべく、取り寄せたものが“魔弾”である。
とある魔物の遺骸を磨り潰し魔術的に処置を施したこの魔弾は、火薬の爆発と同時に、副産物として銃剣へ必要量の魔力を供給し、本来の能力を発揮させてくれた。
そう、副産物として、だ。
この魔弾の役割は、決して魔力供給だけのものではない。この魔弾は、魔力を吸収して被弾者へその効果を返すという能力がある。
あの瞬間、発射された魔弾は古月神流が放った焔龍を貫くと同時に吸収し、そのまま女侍の胸部に穴を穿った。
そして暗黒の焔の能力を得た魔弾は、女侍の体を内側から溶かし始め、瞬く間に妖刀のみを残して消失してしまった。
魔術師としての格が低くとも、傭兵として培った戦闘スキルと、魔道具さえあれば一流の魔術師とだって渡り合える。それが、この一戦で証明された。
そして、今回の報償である魔道具を手に入れれば、クラリスを更に強くする。そう、このトランクの中にある兵器を駆使すれば――――
突如として背後で轟いた爆発音と全身を揺さぶる衝撃に、京一郎は心臓が口から飛び出るかと思った。バンパーから降りてトランクを確認して見ると、銃士の上半身が挽き肉の如く細切れになりばら蒔かれていた。
残っているのは、下半身と右腕だけだった。
「いやはや、こんな……」
京一郎は“指向性爆弾”という対人兵器の威力を目の当たりにし、辟易とした。
つくづく、自分が幸運であることを思い知らされる。
京一郎は監督役だ。監督役といってもやることは単純で、十人の魔術師をトーナメント形式で対戦させ、勝った方に報償の魔道具を手渡して行き、最後の一人まで勝ち残った者へ聖遺物を渡すというだけの仕事だ。
戦いの模様を監督する以外に、対戦中にやることは皆無だ。一対一であれば方法を問わないこの闘争に、監督もへったくれもないが。
勝敗の行方さえ分かればそれで良い。しかし、どういった経緯があって決着が着いたのか、報告書に纏める必要があった。
故に今、京一郎はその赤い双眸を、銃士と侍の勝負の様子を見ることに使っていた。
使い魔を駆使すれば、こんな芸当は朝飯前。楽なものだ。
それにしても、この役目は年頃の青年にとっては精神的に辛い部分が多々ある。
魔術師には美男美女が多い。それは魔術による体質変化の産物だ。
世界有数の美美人たる魔術師同士の戦いを見せ付けるのは、健全な青年には刺激が強すぎる。場合によっては、魔術師の衣服が引き裂かれアラレもない姿を晒したり、また人間の死に方とは思えない方法で殺されたりもする。
普通は、その惨状を平静に見物できるはずがない。
しかし、魔術師に特別な嫌悪を抱く京一郎は別だった。
美人が醜態を晒したり犯されたり惨殺される光景に、何の特別な感情も抱かない。強いて言うなら、ざまぁみろ、である。
京一郎にとっては、どんな美女であれ魔術師で有る限り、それは嫌悪の対象にしかならなかった。全うな死に方で無いなら、それに越したことはない。
魔術師が勝手に殺し合って死んでくれるなら万々歳だ。
それがどうだ。自分の采配しだいで、効率よく魔術師を排除できるのだから、京一郎はこの監督役の仕事に天命めいた何かを感じていた。
だから、トランクにクレイモア対人地雷を仕掛けておいた事を、あの銃士に隠しておいた。
より多くの魔術師に、より効率よく死んでもらうためには、あの素人魔術師は役者不足も甚だしかった。このまま勝ち進んだとしても、次でお陀仏だろう。
「離せっ、無礼者!」
あれでプロの傭兵とはな。何せ、敵にまんまとしてやられた事にすら、気付いてなかったのだから、迂闊にも程がある。
自身の得意分野たる奇襲で、それも対人兵器で死んだというのは、皮肉としか言いようが無い。失笑ものだ。
「おめでとう、古月神流くん。君には、次のステップへ進んで貰うよ」
適当に短く切り揃えた黒髪に、何処かぼんやりとした面持ちの女性に拘束された古月神流は、恐怖にその端正な顔を歪ませていた。
その姿があまりに滑稽で、思わず笑みが溢れた。
「よくやった瑞希。何処に居た?」
「屋上で高みの見物」彼女の端的に答えるところが、京一郎は気に入っていた。美人でスタイルも良く、戦闘能力も高い。歪曲した境遇のおかげで精神はバランスを失っており、道具としてこちらの要望に疑うこと無く応じてくれる。女としては味気無いが、所詮道具に人間らしさを求めるのはお門違いか。
まぁ色々な観点から見て、彼女は傀儡として使うには、文句なしの魔術師だ。
京一郎が唯一侍らせている女魔術師は、古月神流の拘束を解き、銃士の遺体の始末に取り掛かる。
「良い子だ。そう思うだろ?」古月神流は答えない。代わりに、問いを投げ掛けた。
「何で殺したのですか? 貴方、監督役でしょ?」
「人聞きが悪いな。魔道具が盗まれないよう、トラップを仕掛けてたことをちょっと良い忘れてしまっただけだよ。まぁあの程度のトラップも見破れないようじゃ、どの道、生い先短かったろうな」
悪びれる様子も無く、監督役は妖刀を投げて寄越した。神流はそれを受け取らず、妖刀は地面を転がった。
「勝者はあの銃士でいい筈です。なのにどうして……!」
「そりゃあ、君が優秀だからさ」
監督役は妖刀を拾い上げ、無理矢理神流の手に持たせた。
そして耳許に口を近付けると、「逃げられちゃ困るんだよ。ちゃんと、死んでくれなきゃ」と、笑いを堪えるような声で告げた。神流は肝が冷えるのを禁じ得なかった。
神流は呆然と立ち竦んでいた。右手に妖刀、左手には魔本がある。
こんなはずじゃなかった。計画は完璧だった。
敵の目も、完璧に騙せていた。
勝者は銃士、敗者は神流で戦いは終わるはずだった。神流は、死んだことになるはずだった。
確かに神流は、古月家の中でも屈指の侍であり魔術師だった。こと剣術と人形術に於いては、他の誰の追随も許さない程だ。現古月家当主も、それを認めた上でこの妖刀を託した。
だが、古月家の人間は、古月神流という女性のことをまるで理解していなかった。
神流は誰よりも臆病であり、死の恐怖について誰よりも知っていた。とても殺し合いの出来るような、無慈悲な女性ではなかった。
本来の彼女は淑やかであり慎ましやかな、嶺の上にひっそりと咲く花のような女性だった。
だから、今回の女魔術師同士の闘争が、怖くて仕方なかった。何が怖いか、そんなの言わずともわかるはずだ。
死ぬこと、戦うこと、殺すことが怖かった。
“剣は神器”と父は言った。
“剣術は芸術”と師は言った。
“魔術は神の為す業”と話に聞いた。
それらを操る自分のことを、“天の申子”か何かとさえ思ったことがあった。
それが戯れ言、まやかしだと分かるのに、二十年という歳月を費やしてしまった。
現実を目の当たりにした時、神流は自分がただの人間だということを思い知った。
“剣は凶器”
“剣術は殺人術”
“魔術は呪い”
それを操る自分は、“ただの殺人者”
それが真実だった。そう気付いてしまった。それに気付いてしまえるほど、古月神流はただの賢しく臆病な人間に過ぎた。
「何で……こんな…………」
怖かった。戦うことが、死ぬことが、殺してしまうことが、どうしても怖かった。
だから、逃げる手段を必死に考えた。
周囲に悟られぬよう、密かに逃走手段を整えるのは、至難の業だった。名門と言われる古月家の長女と言えど、一歩外へ出ればただの人。世間知らずのお嬢様に、逃走する千恵も身分を偽造するコネも有りはしない。
そんな時、神流の前に現れた女性が居た。その女性は、魔術師同士の闘争を止めさせるため、十人全ての魔術師に声をかけていると言っていた。
願ってもない、来訪者だった。
その女性は、神流が逃げるための知識と、偽の身分証を授けてくれた。神流にとっては、まさに聖女のような女性だった。
その日から、神流は魔術師としての知識と技術を、逃げるためだけに費やした。
女性に言われた通りの方法、死亡を偽造する準備を始めた。
準備と言っても、大したことはしていない。
得意の人形術を駆使し、自分にそっくりの傀儡を造っただけだ。後は闘争のどさくさに紛れ、こっそり入れ代わって死亡したように見せ掛けるだけだった。
上手く行くはずだった。
人形は過去に造ったどの人形も遥かに上回る、精巧な出来だった。あの銃士も入れ代わったことに気付いてなかった。
しかし、まさか監督役が見破っていたなんて……。
「古月神流さん……」
いつまでもそこを動かない古月神流の姿が居たたまれなくて、夜雨瑞希は思わず声をかけた。
彼女は虚ろな瞳のままこちらを見ると、「嘘つき」と静かに罵った。
「逃げられるって、言ったのに! 何で貴女が!?」
「お詫びのしようがありません。ですが、彼には逆らえないように呪いをかけられ……」
「聞きたくない!」
古月神流は瑞希の言葉を遮ると、魔本を地面に叩き付け、妖刀を抜き放った。
それを瑞希の喉元へ突き付け、右腕の刻印を浮き彫りにする。ちりちりと、切っ先から怒りを含んだ魔力が陽炎の如く揺らめく。
「私にこれからどうしろって言うのですか!? 私は、私は戦いたくないから逃げたかったのに、もう逃げられないじゃないですか!」
「そんなことはありません。機を見て、再度実行に移しましょう。次は必ずや――」
「次って何ですか!? あの人形を造るのに、どれだけの時間と労力を費やしたとお思いですか!?」
ヒステリックに怒鳴り散らす古月神流だが、急に声色を落とし、静かに語りだした。
「あの人、何て言ったと思いますか? 『魔術師として魔術刻印を持つ限り、この闘争からは逃げられない。“勝ち進むか”か“死ぬか”のどちらか選べ』ですって。もう、逃げられないし、逃がしてもらえない」
「古月さん……」
古月神流の形相は、既に変わり果てていた。不敵に笑いながらも、瞳には恐怖の色がはっきりと見えていた。
「なら、私は戦いますよ……それしかないなら、私は戦います……みんな、溶かし殺してやります! フフフ……アハハハハハ、ハーッハハハハハハ!」
古月神流は高らかに笑いだした。
追い込まれたことで覚悟を決めたか。否、追い込まれて自棄になっただけか。
ともかく、これ以上は言葉を交わすことは出来そうに無い。
瑞希は刀を振り回しながら笑いこける古月神流に何の感慨も残さず、物陰に停めていたライトバンまで静かに立ち去った。
「――以上が古月神流の状態です。今のところ、計画通りかと」
ライトバンを運転する片手間に、夜雨瑞希は携帯電話をハンズフリーにして宇土京一郎に事の成り行きを報告していた。
「ハハッ、いいねぇ。あれは魔術師としての格がかなり高い。順当に勝ち進んでくれるだろうな。――ところで、魔術師が壊れる様は愉快だったろ?」
「…………私にそんな感情はありません」
「あぁ、そうだったな。悪い悪い」
京一郎はさも満足げに、ケラケラと笑っている。
結局のところ、全ては京一郎の手のひらの上での出来事か、と瑞希は機械的に状況を判断した。
瑞希が古月神流とコンタクトをとったのは、京一郎の命令に依るところだった。
彼は監督役の特権で、魔術師の個人情報を得ることが出来た。魔術師の殺戮をこの機に為そうと考える彼は、その情報を検討し効果的に魔術師が死んで逝くよう、トーナメントの割り振りをした。
そこでどうしても、殺害が難しい魔術師があった。それを唯一殺せる魔術師が、古月神流だった。彼女の妖刀の特性がどうしても必要だった。
古月神流に逃走の千恵を授ける必要は、元々なかった。逃げるだけの手段もコネも無い彼女は、放って置いても闘争の末に死んでしまっていただろう。
何故、わざわざ彼女に千恵と手段を授けたのかは、彼女の精神を追い込んで、嫌でも闘わないといけない状況に追いやる為だけであった。
彼女には闘う意思がなかった。そんな状態で、一流の魔術師にぶつけるわけにはいかなかった。必ず殺されてしまうからだ。少しでも勝率を上げるには、こんな手の込んでいるようでいない茶番劇を演じなければならなかった。
結果、古月神流の精神の脆さも相まって、彼女の闘う意思を確立させることに成功した。
二回戦目に、彼女はある魔術師と対戦することになる。そして彼女は勝つだろうが、予定では三戦目で退場することになる。恐らく、次の戦闘で精神を磨り減らし尽くすと京一郎は予想していた。
「じゃ、今日はそのまま帰っていい。明日には次の準備があるからな」
「了解しました。失礼します」
瑞希は通話を終えると、一息吐いてからハンドルを切った。
向かった先は、都心から外れた公共マンション。そこの駐車場にライトバンを停めると、瑞希はエレベーターの無いマンションの六階へと上がる。601号室の部屋の前まで来ると、慣れた動作で鍵を開けて中へ入った。
「お帰り、小羽」
声がしたかと思えば、玄関のライトが点灯し、短い廊下の先に立つ人影の輪郭を浮き彫りにした。
夜雨瑞希――転じて、緋純小羽は愛する夫、緋純刻代に「ただいま」と優しく笑い掛けた。
彼の腕の中には、まだ一歳になったばかりの愛息子、緋純刻が安心しきった面持ちで眠っていた。
正真正銘、刻代と愛し合い、小羽がお腹を痛めて産んだ可愛い息子である。傀儡として身を落とす前の、小羽が一人の母として生きた証しだ。
京一郎には妻を亡くした夫に暗示を掛け、偽の妻を演じていると信じ込ませている。小羽の十八番である催眠魔術を使って。
小羽は、自分を傀儡足らしめる為に、自らにマインドコントロールを施し精神を壊し、夜雨瑞希という人格を作り上げた。
協会への定時報告のみを覚え込ませ、後は京一郎の調教により壊れた人形となるだけの女。それが夜雨瑞希だ。
その為に体も変成し、死亡診断書も偽造し、小羽という女を徹底して殺し存在を消した。
本来なら、そのまま本当に夜雨瑞希という人格のみが残り、緋純小羽という女は居なくなる筈だった。
しかし、人間の精神とは可笑しなもので、緋純小羽という人格は夜雨瑞希に殺されること無く体内に残り続けている。運命に必死に抗った末、夜雨瑞希という人格と共生し生き延びた。今の小羽の状況は、言うなれば二重人格のようなものだ。
刻代は魔術師ではない。けれど、全てを理解した上で、そんな変わり果てた妻を愛してくれている。他の男に玩具同然に扱われていると知りながら。息子も、母親の姿が変わっても変わらず信頼してくれている。
今、小羽が生きている事は家族だけの秘密である。それを徹底するために、夜雨瑞希になるときには、刻代と小羽とに口外出来ないように暗示を掛けている。
今はまだ、偽者としか接することが出来ないが、いつかは本当の妻、母として生きる事ができる。全てが終わり、夜雨瑞希という人格が不必要となったとき、緋純小羽は自分を取り戻す事ができる。
「それまで、待ってて」そう夫に願うと、彼は優しく微笑みながら頷き、そっと小羽の唇に自分の唇を重ねた。
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