シューベルトと春の再会 + 2 +
「ねね子や。わしはもうすぐ死んでしまうようだ」
亡き妻の夢を見たという。わたしが生まれるずっとむかしの、ふたりで過ごしたつかの間の、ままごとのような結婚生活の夢を。
わたしはそうですか、と素直に頷き、寝台で横になっている夫を見つめる。
彼が最初の妻を愛しているのは、周知の事実だった。四十歳を迎える前に死別した彼女の写真を見せてもらったことがある。どことなく雰囲気が自分に似ていると、彼は淋しそうに笑っていたっけ。
わたしをねね子、と呼ぶのも、亡き奥様の名前が峰子だからだと素直に暴露した夫である。貴女は死が近い自分のもとに遣わされた天使なのかもしれないな、と言いながら、彼は懇願する。
「そのピアノで、子守唄を弾いておくれ」
人前でピアノを弾くことができなくなったわたしに、唯一の我儘を告げるひと。
ピアノの弾けないピアニストなんて、生きている価値もないと蔑んでいたわたしを傍に置いてくれた、大切なひと。
夫と過ごした軽井沢の日々が、心の傷を癒やしてくれた。プロのピアニストとしてピアノを弾くことはできなくなったけれど、彼の前でなら、気負うことなく指を動かせる。
まるで、シューベルトのグラン・デュオを思いのままに弾いた高校生のときみたいに。
夫婦の寝室に備えつけられているアップライトピアノの前に立ち、わたしはゆっくりと蓋をひらく。
手入れの行き届いているピアノを見ると、嬉しくなるのは子どもの頃から変わらない。特に思い入れのあるこのピアノは……
「旦那様。このピアノは」
「わしが死んだらお前にやるよ。当然だろう、父の形見なんだから」
ポーン。という音で応答して、わたしは椅子に腰掛ける。旦那様がご所望しているのは子守唄。今宵は誰の子守唄を奏でよう。ブラームス、モーツァルト、それとも……
「葬式はしなくていい」
「……え」
「後のことは添田にも頼んでいるから。貴女のことも」
――ねむれ、ねむれ、母の胸に。ねむれねむれ、母の手に。
添田、とはこの須磨寺の家に長年仕えている執事のことだ。
夫が亡くなれば、この土地や複数台所持しているピアノなどの遺産相続で、遠い親戚たちが身を乗り出してくるだろうと、彼は忌々しそうに呟いていた。奴らに渡すくらいなら、すべてを貴女に遺したいと、信じられないことを口にした彼を滔々と諫めてくれたのが添田だ。
彼は主人の亡き妻に似た若い女であるわたしの存在を渋々認めてくれている。けれども夫が死んだら、彼はわたしを切り捨てるのではなかろうか。遺産目当てで結婚した女狐だと、そう思われていてもおかしくなかったのだから。
――こころよき歌声に、むすばずやたのしゆめ。
「最期に、教会で懺悔をしたかったが……無理だろうな」
わたしがゆっくりと弾くシューベルトの子守唄を耳に乗せながら、夫は嘯く。
敬虔な信徒でもなかったくせに、最期は教会で懺悔がしたいなんて、おかしなことを言うものだ。
「ねね子や」
「はい、旦那様」
――ねむれ、ねむれ、母の胸に。ねむれ、ねむれ、母の手に。
夫の声を聴き逃すまいと、耳を傾けたわたしに、彼は微笑む。
心残りは貴女だけだと言いたげな、淋しそうな微笑みだった。
「貴女はほんとうに、シューベルトがすきなのだね」
――あたたかきその袖に、包まれて眠れよや。
繰り返される旋律を無意識に弾いていたわたしは、その言葉にハッとする。
歌曲の王と呼ばれるロマン派音楽の巨匠、フランツ・ペーター・シューベルトは、わたしのピアノ人生に欠かせない作曲家になっていた。初恋のひとと奏でたグラン・デュオ、音大在学時にデビューした際に弾いたセレナーデ……数多あるピアノソナタに歌曲の数々を舞台で弾いた。そしてこの子守唄も。
「ええ……だってわたし、シューベルトの妻になるつもりでいたんですもの」
自嘲するように応えれば、夫は困ったような表情を浮かべている。
あれから九年。初恋の想い出は、自分の胸に眠らせたままだ。
「シューベルトは、生涯結婚なぞしてないだろうに」
ぽつり、と呟く彼の声をかき消すように、わたしはピアノの演奏をつづける。
あのとき、お金がないからと学校をやめて以来、そのままになってしまった彼は今、どこで何をしているのだろう。いつか逢いに行くと誓ってくれた彼と顔を合わせる資格など、もう存在しないけれど。
――わたしの恋心は、眠ったままでいいんだ。
シューベルトの子守唄を奏でているうちに、夫は眠ってしまった。
もうじき死ぬだろうと言いながら、一年くらい生きつづけている。
今年の春も、一緒に辛夷の花を見に行けたらいいな、と思いながら、わたしはピアノを弾く手を止めた。




