調律師になったシューベルト + 4 +
公の場から姿を消したピアニストを気にかける物好きは、そうそういないのだろう。調律の現場でも、彼女の話題は事故から半年もしないうちにフェードアウトしてしまった。俺だけがその場に取り残されていた。
彼女はどこへ消えてしまったのだろう。傍にいてあげることができなかった自分がもどかしい。
風の便りで彼女の実家が親戚のものになったとか、彼女はピアノだけを持って親戚と絶縁したとか、ひどいものではどこかのパトロンになって異国に行ってしまったのでは、という憶測に近いものもあった。
ネメの消息は気がかりだったが、いまの俺は探しに行くだけの地位も財力も築けていない。はやる心を押し殺して、調律師と不動産業という二足の草鞋生活を無為に送りつづけていた。気が狂いそうになったら、軽井沢や嬬恋の自然にふれて深呼吸しつつ。
二度目に須磨寺の屋敷へ調律に訪れたのも、辛夷の真っ白な花が山並みを彩りはじめた四月下旬のことだった。このときも執事の添田が俺の仕事を見ていたが、前回とすこし事情が異なった。主人が三台目のピアノを寝室に置いたのだという。
そのピアノの調律を行うために寝室に入った俺は、サイドボードに飾られた真新しい写真を見つけてしまった。
真っ白なウェディングドレスを着て、恥ずかしそうに俯いている、ネメの姿、を……
* * *
再会したらなにを言おう。なんと言おう。
夢見ていた俺を嘲笑うように、彼女の写真が飾られていた。
「……こちらの方は」
「可愛いだろ? ねね子って言うんだ。わしの元に舞い降りて来た天使のような娘だよ」
寝室で俺のことを待っていた須磨寺は彼女のことをねね子、と言った。もうじきお迎えが来るから、看取ってもらうのだと。彼女は鏑木音鳴という名前があるのではないかと問いかけても、ここにいるのは須磨寺ねね子という彼の後妻だと、一蹴されてしまった。
わけがわからない。
困惑しつつも、頼まれた通りに調律を行い、シューベルトのピアノソナタから一曲披露した。
須磨寺のことだから悲劇のピアニスト、鏑木音鳴のことも知っているはずだ。けれども彼はそれ以上何も言わないで、俺のことを寝室から追い出した。
不服そうな顔をしていたからだろうか、見送りに出た添田が補足するように伝えてくれた。
彼女は昨年の初夏からここ、軽井沢にいるという。いまは家政婦と買い出しに行っているそうだ。ピアノを弾くのが上手で、主人とよく連弾をしているのだという。かつてなにをしていたか、どこの出身なのかは添田も深くは知らないらしい。ただ、東京から身一つでこの土地に来た彼女が別荘管理の仕方を熱心に学んでいるのを見ているうちに、情が湧いたと笑っていた。主が死んだら須磨寺の屋敷と別荘地はとっとと売り飛ばすつもりでいたというが、彼女が引き続き管理するのなら、どうにかして残したいと考えるまでになってしまったと、添田は訥々と語りだす。
「……紫葉不動産が“星月夜のまほろば”の土地を狙ってらっしゃるみたいですが」
「義姉の考えていることは俺にはわかりませんよ」
ただ、須磨寺亡き後の土地を、彼女が引き継ぎたいと思っているのなら、俺が義姉を窘めることは可能だと、添田に伝えた。
彼なら須磨寺にこのことをしっかり報告するはずだ。それならばいっそ、ネメのはなしを彼にするのも一考かもしれない。
そう思ったから俺は、ずっと蓋をしていた初恋の想い出を添田に口にしていた。
シューベルトの妻になると誓って、ピアニストになったものの姿を消した、ネメという名の女の子のことを。
サイドボードに飾られた花嫁が、彼女に見えて、動揺してしまったのだ、と。
――逢いたいですか、と問われて咄嗟に首を振る。
世の中には同じ顔をした人間が三人いるという、俺がネメだと思い込んだだけで、別人の可能性だってある。
添田は俺の要領の得ない応えを苦笑しながら頷き、告げた。
「奥様の存在は、ご内密に願います。主は余命いくばくもありません。それまでは、そうっとしてやってください……」
須磨寺の親族間にも彼女の存在は秘されているのだと添田はいう。それだけ深い愛情を与えられているのだろうか、それとも公にできない事情があるのだろうか。
写真のなかのねね子はネメだと確信を持てないまま、俺は須磨寺の屋敷を去ったのだった。




