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古典を読む意味

掲載日:2026/05/15

 noteというサイトを見ていたら、作家の中村文則と平野啓一郎の二人がドストエフスキーについて話していた。その中で中村文則は、次のように言っている。

 

 【中村:学会でもお話したのですが、ナスターシャが自分に加害行為をした相手に反抗するという意味で、『白痴』は初の「Me too小説」かもしれない、その萌芽がある小説だと思っています。当時のロシアには、女性の権利を考える風潮があり、ドストエフスキーも敏感に反応をしていたのだと思います。】

 

 これを読んで、私は(駄目だ、こりゃ)と思った。何が駄目かと言うと「MeToo」みたいな現代の流行を通してドストエフスキーを読もうとする視点だ。

 

 もっとも、こんな風に言っている私の方が今の世の中では少数派なのは私も理解している。私はそれほど年を取っているわけでもないのに、玉手箱を開けた浦島太郎のような感じで生きている。私よりも若い人達は私よりも若く、私より年上の人達も私より若い。

 

 現代で文学と言われているものは、かなりな部分、その価値をジャーナリスティックな部分に依存している。「推し」とか「MeToo」とか、何かそういったものと関連付ける事によって文学が「現代にアップデート」されたという風に感じる。メディアも大衆もそういうものを評価する。というのは、人々はそのように生きているからだ。

 

 今、アップデートという言葉を使ったが、中村文則という人は「アップデート史観」とでも言ったほうが良いような時間感覚を持っているようだ。


 …いや、これは「持っている」というより、中村文則が自分の価値観について無自覚なので必然的に現代の普通の感覚を当然だと前提している、と言った方がいいだろう。要するに中村文則は普通の人だ。

 

 中村文則が「アップデート史観」を吐露している場面が他にもある。彼は次のように言っている。

 

 【中村:ある時、ドストエフスキーができないことは何かと考えたんですね。その結果、ドストエフスキーは最新の科学や物理学を知らないので、これを使って書けばいけるぞと発想して書いたのが、『教団X』という小説です。】

 

 私はこれを読んで同じように首を傾げた。というか、文学というものを常識的に考えていけば、このような考えはおかしいという事になるのではないか。

 

 というのは、中村のような考え方だと絶えず「最新」の知識がある作品が優れていて、良いのだという事になる。中村文則は(自分はドストエフスキーより上だ)とはいくらなんでも思っていないかもしれないが、しかし、「最新の科学や物理学を持ち込めば過去の文学作品を越えられる」というような発想は多少なりとも文学を知る人間には安直過ぎる考え方だろう。

 

 それでは、文学とは何かと言うと、一つには垂直的な価値観というものがある。ドストエフスキーがキリストにまっすぐに通じるのは何故なのか、歴史という絶えず変化し続けていくものの中で、何故そこだけ空洞が空いたようにその精神の通路は作られているのだろうか。

 

 これも中村文則には想像し難いだろうが、そうした通路が開ける為には、ドストエフスキー自身の人生の苦難や苦痛が必要であったし、またロシアの近代化という状況が必要だった。それら全てを紐解くのはこの短い文章では不可能だが、いずれにしろ、文学とは最新のものであるというより、むしろ古いものに還ろうとする事によって新しくなっていく存在であるように思われる。

 

 それは何故かと言うと、おそらくは人類という種が「精神」とか「魂」とかいった永続的な観念を絶えず発明しなければいけないからだろう。

 

 この事は今、考え中だが、どちらかと言うと文学は最新の流行と闘う事によって、真の意味で「新しい(と同時に古い)」ものとなる。ドストエフスキーの場合、当時の流行としては無神論があった。


 ドストエフスキーは無神論と、キリスト教的な信仰を独特なやり方で対決させたが、無神論とは西欧近代が生んだ人間中心主義であるし、キリスト教の要素は、近代以前の社会の価値観を代表したものだった。要するに、歴史の激突は、近代化するロシア、またドストエフスキー一個人の人生によって、巨大な形で再演された。

 

 まあ、中村文則の言う事をおまけで認めるなら、たしかにドストエフスキーに「MeToo運動」的なものはなくはない。それは女性の自立とか女性の権利を認めるという近代の問題である。ドストエフスキーはそうした問題を先駆的に現したジョルジュ・サンドをリスペクトしていた。ジョルジュ・サンドを「MeToo運動」の先駆けとして考える事はできないでもない。

 

 しかしそれなら何故「MeToo」みたいな事を言うのだろうか。何故「推し」のような今のキーワードをメディアは全面に押し出すのだろうか。「推し」であれば、人間の偶像化という形で本質的に描いていかなければおそらく文学にはならないだろう。

 

 何故このような形になっているかと言うと、本質的に文学というものが存在しないからだと私は考えている。文学というのは流行らないし、難しいし、面白くない。現代の流行、ちらちらと移り変わる大衆の嗜好に見合う表面的な概念を追いかけたもの、そうしたものを文学という形で流布させれば、難しい事を考えなくても少しばかり賢くなったような気がする。

 

 現代はそもそも文学不在の世界なので、文学そのものも「MeToo」だったり「推し」だったり「オタク」とか「腐女子」とか、現代の表面的な概念と関連付けてやっと意味のあるものとされる。

 

 真っ赤なフィルムを眼鏡に貼り付けて世界を見れば、世界は赤いだろう。何を見たところで全てが赤いだろう。そこで、現代の賢い人々は、現代の好みの概念が過去にもあったと知る。(なんだ、簡単じゃないか。わかりやすいじゃないか)

 

 古典を色眼鏡で見れば、それは色眼鏡の色に染まったものになるだろう。人々は全てが自分の知っているもので染められている事に安堵する。

 

 だが、古典もまた現代という時代を向こうから見ているのではないか。私はそんな風にも考える。時間の厚みから現代の薄さを見てみれば、それはどんな風に映るだろう。私ははしゃぎまわっている人々が、見ているだけではなく、見られている存在であるとも考える。

 

 そういう人々が時間の向こう側、歴史の厚みから見られている時、その存在は、"向こう側"の瞳にはどのように映っているのだろうか。私にとっては古典というのは、そのように向こう側の視点を得て、自分がそこに見られている存在と考え、そのように自己を批判し、鍛え上げていく為に必要なものだと考えている。

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