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二つの月が照らす、香渡りの少女〜白猫ブランと歩む道

外伝3 白猫ブランの日常

作者: 天望 抄音
掲載日:2025/11/20

 昼のわたくしは、気高く慎ましい姫君。だから今日も、花の代わりにお圭の枕元で前足を揃えて座っていた。


 花によくしてくれるお圭がこんこんと眠っているから、心配していますのよ。でも、それを表に出すのは姫君の品位に関わりますわ。


 ――おやすみなさいませ、お圭。わたくしがついておりますから。


 と、喉を鳴らして言ってやる。長年花と一緒にいるお圭にはちゃんと伝わっていたようで、眉が緩む。


 あなたは生き長らえてくれないとーー。花の哀しみも苦しみも、花を変えてしまいます。


 お咲がお圭のところへ来たから、わたくしはしばらく庭におりますわ。




 ただ座っているだけなのに、昼のわたくしはどうしてこんなに気品に満ちてしまうのかしら。自分でも不思議ですわ。だって私は、夜になれば尻尾を振り回して駆け回ってしまうのに。


 それでも、どちらの私も知っていることがひとつありますの。


 ――境を、護れ。


 あれは“誰か”に命じられたわけじゃないんですの。人の言葉なんて、猫の耳に入ったそばから風で飛んでいくものですし。けれど、女神のお叱りだけは、さすがに骨の奥まで沁みました。あれ以来、境の揺らぎには鼻先が勝手に反応してしまうんですわ。


 だから今日も、こうして日向でくつろいでいたところを、いやでも感じてしまったわけなんですの。


 ――きな臭い香り。表と裏の境が、わずかに揺れている。


「やれやれ。どうして昼間に限って、こういう面倒が起きるのかしら」


 わたくしはゆっくりと尻尾を動かし、高麗屋の屋根から身を起こしました。花は店の奥にいて、あの子の足音はとても静か。その静けさが、外の不穏とよく響き合う。


「……銀座のほうね。高麗屋とは違うけれど、舶来の匂いがするわ」


 ーーー志摩屋。


 あの気の強い娘と、母親のきつい香り。あそこは何かと騒がしい。わたくしはあまり関わりを持ちたくないけれど、境が揺らぐなら話は別。


 わたくしは、光を跳ね返す瓦の上で一度だけ、ちょっとだけ伸びをして、それから音もなく屋根を駆け、白い影は陽光にまぎれ、高麗屋の庇からついっと消えました。


「仕方ないわね。ちょっと覗いてみますわ」


 風が揺れる。わたくしは、優雅な姫の顔を保ったまま、けれど確実に境の匂いを追ったのです。




 昼に偵察に行った時には、志摩屋は普通の店の顔しか見せなかった。でも、……胸の奥がざわざわしているのも事実だ。家の風の流れが、なんだか妙だ。香りが薄い。花が眠れているのは悪くないが、こうも静まり返っていると、猫としても落ち着かない。


 夜になると、私は「私」ではなくなる。


 姫君の皮を脱いで、素の「僕」に戻る。


 そっちのほうが気は楽だ。尻尾もよく動く。


 さて、問題なのはーーー。


 お咲は不自然に忙しそうだし、宗右衛門は帳面とにらめっこで目を細めている。番頭の勘兵衛は渋い顔をして、「表がどうにも」なんてごまかしているが、あれは絶対違う。


 ――様子がおかしい。花の“何か”を隠すために、屋敷全体が息を潜めている。


 猫の僕の鼻は、ごまかされない。


 だから僕は、夜中にそろりと屋根に上がって、東の空を見た。


 花が眠る部屋に、薄い灯が揺れていた。


 でも風は、屋敷の外にもざわりとした気配を運んでくる。


 ――やっぱり、志摩屋が動いている。


 その名を聞くだけで、お咲の眉がわずかに跳ねるのを、僕は何度も見た。


 だから、もう一度、僕は行くことにした。


 猫の勘というやつだ。



 志摩屋は銀座でも派手な店構えだ。昼は舶来の匂いでむせかえるよう店だが、夜は夜で、灯がやたら多い。まったく、あの家は光で自分を大きく見せたいのか。


 屋根から見下ろすと、帳場には主人の政蔵が座っていた。がっしりした体に、肩で息をしている。


 机の前には紙束。


 顔は……うん、これは困っている顔だ。


 僕は瓦の影から耳をひくつかせる。


 志摩屋のお内儀のお松が店の奥に現れた。


「高麗屋は、何かあったんだよ。間違いないよ」


「何かって……そりゃ、いろいろあるだろう。大店なんだから」


「宗右衛門さんが、三日も表に顔を見せないなんて、ありえませんよ。店の商いも止まってる。おまけに――」


 お松は声を落とした。


「……橙子さんが奉公に出たでしょう。あれも怪しい」


 僕は尻尾を高く掲げた。


 おいおい、橙子は関係ない。あれは結城家が勝手に進めた話だ。お前の夫もからんでいるぞ。


 政蔵がため息をつき、机に額をのせた。


「高麗屋を越えたい、と若い頃は思ったさ。だが今は……ただ、無事で店が続けられりゃいい」


「甘いことを。商いは情じゃ動きませんよ」


 お松の声はにべもない。だがその奥に、嫉妬の香りがひそんでいる。猫の鼻には隠せない。


 そのとき、階段を下りてくる足音。娘の琴だ。


「お母様。橙子さんは……お元気ですか」


「知るわけないでしょう」


 琴は眉を寄せたが、ほんの一瞬、頬が赤くなった。


 ああ、橙子が気になるのだな。


 橙子は誰に対しても品がある。


 琴のように気の強い娘から見たら、敵か憧れか、その間だ。


 僕は瓦の上でそっと身じろぐ。


 ――この家は、高麗屋の動きに敏感すぎる。


 それも、ただの商売敵以上だ。


 お松の目が、一瞬、鋭くなる。


「……動きがあるはずだよ。もうすぐ、高麗屋に」


 僕の耳がぴくりと動く。


 なんだ?


 何を知っている?


 政蔵は首を振った。


「余計な火種をつけるなよ、お松」


「火は、つけるものじゃなくて、見つけるものです」


 にやりと笑ったその瞬間。


 琴がちらりと窓の外を見た。


「……猫?」


 やばい、見つかった


 僕は反射で瓦を蹴った。


 ふわふわの尻尾が宙に跳ね、夜風を切る。


「ちょ、ちょっと! 猫だわ!」


「琴! 追うな!


 追えるものなら追ってみろ。


 猫は風より速い。






 高麗屋に戻ると、お圭の手を握って、花は静かに眠っていた。


 灯が揺れる部屋の中に、安心の匂いがあった。


 僕はそっと枕元に戻り、花の手に前足をそえる。


 昼の姫君の声で囁いた。


 ――ご安心なさいませ、花。わたくしが見ておりますから。


 夜の僕なら、こんなふうに言う。


 ――へへん、ちょっと見張ってきたけど、まぁ大丈夫。あいつらはまだ、何も知らない。


 花は眠りながら、かすかにまぶたを震わせた。


 そのほんの小さな動きだけで、僕の胸があたたかくなる。


 この子のそばにいるのは、退屈どころか、毎日が騒がしい。


 まったく、猫の寿命が縮むったらない。




 でもね。


 ――花が無事なら、それでいい。


 僕はそう思いながら、長い尻尾を丸く巻いた。


 高麗屋の風はまだ静かだった。


 でも、遠くにかすかな騒ぎの気配がある。


 志摩屋が動き、隠世門もざわつき始めている。




 それでも、今夜だけは。


 花の寝息を聞きながら眠るのも、悪くない。

外伝はいったん、完結。

短編は続きを投稿できないことを知らなかったので、外伝1は短編、外伝2は連載、外伝3で短編となっちゃいました。

明日からまた、本編を毎日12時頃投稿予定。

第二部が始まります。


感想、評価をいただけたら、励みになります。

よろしくお願いします。

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