外伝3 白猫ブランの日常
昼のわたくしは、気高く慎ましい姫君。だから今日も、花の代わりにお圭の枕元で前足を揃えて座っていた。
花によくしてくれるお圭がこんこんと眠っているから、心配していますのよ。でも、それを表に出すのは姫君の品位に関わりますわ。
――おやすみなさいませ、お圭。わたくしがついておりますから。
と、喉を鳴らして言ってやる。長年花と一緒にいるお圭にはちゃんと伝わっていたようで、眉が緩む。
あなたは生き長らえてくれないとーー。花の哀しみも苦しみも、花を変えてしまいます。
お咲がお圭のところへ来たから、わたくしはしばらく庭におりますわ。
ただ座っているだけなのに、昼のわたくしはどうしてこんなに気品に満ちてしまうのかしら。自分でも不思議ですわ。だって私は、夜になれば尻尾を振り回して駆け回ってしまうのに。
それでも、どちらの私も知っていることがひとつありますの。
――境を、護れ。
あれは“誰か”に命じられたわけじゃないんですの。人の言葉なんて、猫の耳に入ったそばから風で飛んでいくものですし。けれど、女神のお叱りだけは、さすがに骨の奥まで沁みました。あれ以来、境の揺らぎには鼻先が勝手に反応してしまうんですわ。
だから今日も、こうして日向でくつろいでいたところを、いやでも感じてしまったわけなんですの。
――きな臭い香り。表と裏の境が、わずかに揺れている。
「やれやれ。どうして昼間に限って、こういう面倒が起きるのかしら」
わたくしはゆっくりと尻尾を動かし、高麗屋の屋根から身を起こしました。花は店の奥にいて、あの子の足音はとても静か。その静けさが、外の不穏とよく響き合う。
「……銀座のほうね。高麗屋とは違うけれど、舶来の匂いがするわ」
ーーー志摩屋。
あの気の強い娘と、母親のきつい香り。あそこは何かと騒がしい。わたくしはあまり関わりを持ちたくないけれど、境が揺らぐなら話は別。
わたくしは、光を跳ね返す瓦の上で一度だけ、ちょっとだけ伸びをして、それから音もなく屋根を駆け、白い影は陽光にまぎれ、高麗屋の庇からついっと消えました。
「仕方ないわね。ちょっと覗いてみますわ」
風が揺れる。わたくしは、優雅な姫の顔を保ったまま、けれど確実に境の匂いを追ったのです。
昼に偵察に行った時には、志摩屋は普通の店の顔しか見せなかった。でも、……胸の奥がざわざわしているのも事実だ。家の風の流れが、なんだか妙だ。香りが薄い。花が眠れているのは悪くないが、こうも静まり返っていると、猫としても落ち着かない。
夜になると、私は「私」ではなくなる。
姫君の皮を脱いで、素の「僕」に戻る。
そっちのほうが気は楽だ。尻尾もよく動く。
さて、問題なのはーーー。
お咲は不自然に忙しそうだし、宗右衛門は帳面とにらめっこで目を細めている。番頭の勘兵衛は渋い顔をして、「表がどうにも」なんてごまかしているが、あれは絶対違う。
――様子がおかしい。花の“何か”を隠すために、屋敷全体が息を潜めている。
猫の僕の鼻は、ごまかされない。
だから僕は、夜中にそろりと屋根に上がって、東の空を見た。
花が眠る部屋に、薄い灯が揺れていた。
でも風は、屋敷の外にもざわりとした気配を運んでくる。
――やっぱり、志摩屋が動いている。
その名を聞くだけで、お咲の眉がわずかに跳ねるのを、僕は何度も見た。
だから、もう一度、僕は行くことにした。
猫の勘というやつだ。
志摩屋は銀座でも派手な店構えだ。昼は舶来の匂いでむせかえるよう店だが、夜は夜で、灯がやたら多い。まったく、あの家は光で自分を大きく見せたいのか。
屋根から見下ろすと、帳場には主人の政蔵が座っていた。がっしりした体に、肩で息をしている。
机の前には紙束。
顔は……うん、これは困っている顔だ。
僕は瓦の影から耳をひくつかせる。
志摩屋のお内儀のお松が店の奥に現れた。
「高麗屋は、何かあったんだよ。間違いないよ」
「何かって……そりゃ、いろいろあるだろう。大店なんだから」
「宗右衛門さんが、三日も表に顔を見せないなんて、ありえませんよ。店の商いも止まってる。おまけに――」
お松は声を落とした。
「……橙子さんが奉公に出たでしょう。あれも怪しい」
僕は尻尾を高く掲げた。
おいおい、橙子は関係ない。あれは結城家が勝手に進めた話だ。お前の夫もからんでいるぞ。
政蔵がため息をつき、机に額をのせた。
「高麗屋を越えたい、と若い頃は思ったさ。だが今は……ただ、無事で店が続けられりゃいい」
「甘いことを。商いは情じゃ動きませんよ」
お松の声はにべもない。だがその奥に、嫉妬の香りがひそんでいる。猫の鼻には隠せない。
そのとき、階段を下りてくる足音。娘の琴だ。
「お母様。橙子さんは……お元気ですか」
「知るわけないでしょう」
琴は眉を寄せたが、ほんの一瞬、頬が赤くなった。
ああ、橙子が気になるのだな。
橙子は誰に対しても品がある。
琴のように気の強い娘から見たら、敵か憧れか、その間だ。
僕は瓦の上でそっと身じろぐ。
――この家は、高麗屋の動きに敏感すぎる。
それも、ただの商売敵以上だ。
お松の目が、一瞬、鋭くなる。
「……動きがあるはずだよ。もうすぐ、高麗屋に」
僕の耳がぴくりと動く。
なんだ?
何を知っている?
政蔵は首を振った。
「余計な火種をつけるなよ、お松」
「火は、つけるものじゃなくて、見つけるものです」
にやりと笑ったその瞬間。
琴がちらりと窓の外を見た。
「……猫?」
やばい、見つかった
僕は反射で瓦を蹴った。
ふわふわの尻尾が宙に跳ね、夜風を切る。
「ちょ、ちょっと! 猫だわ!」
「琴! 追うな!
追えるものなら追ってみろ。
猫は風より速い。
高麗屋に戻ると、お圭の手を握って、花は静かに眠っていた。
灯が揺れる部屋の中に、安心の匂いがあった。
僕はそっと枕元に戻り、花の手に前足をそえる。
昼の姫君の声で囁いた。
――ご安心なさいませ、花。わたくしが見ておりますから。
夜の僕なら、こんなふうに言う。
――へへん、ちょっと見張ってきたけど、まぁ大丈夫。あいつらはまだ、何も知らない。
花は眠りながら、かすかにまぶたを震わせた。
そのほんの小さな動きだけで、僕の胸があたたかくなる。
この子のそばにいるのは、退屈どころか、毎日が騒がしい。
まったく、猫の寿命が縮むったらない。
でもね。
――花が無事なら、それでいい。
僕はそう思いながら、長い尻尾を丸く巻いた。
高麗屋の風はまだ静かだった。
でも、遠くにかすかな騒ぎの気配がある。
志摩屋が動き、隠世門もざわつき始めている。
それでも、今夜だけは。
花の寝息を聞きながら眠るのも、悪くない。
外伝はいったん、完結。
短編は続きを投稿できないことを知らなかったので、外伝1は短編、外伝2は連載、外伝3で短編となっちゃいました。
明日からまた、本編を毎日12時頃投稿予定。
第二部が始まります。
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よろしくお願いします。




