2.まあええワ
「唱ちゃん♪唱ちゃん♪」
学校から帰宅すると、父親の晶がドタドタと出て来た。
あんまりにも楽しそうな笑顔なので。つられて唱も顔がほころぶ。
「ご機嫌だね。何かイイコトあったの?」
「あんなあ。ボク、キックボクシング始めんねん」
「えっ!ええええ!」
パンチのフォームを真似て、よいしょよいしょと腕を付き出すけれど。
せいぜい相撲の張り手にしか見えないし。
丸いお腹はぷるんと揺れて足元はおぼつかない。
「どうしたの?急に。それもそんなハードなスポーツなんて」
唱は焦る。
晶は確かにぽっちゃりだし。身体を動かすのは良いことだと思う。
でも晶の身体にはちょっと問題も有って。激しい運動は却って負担。
「しょおちゃーーーん!なあ!ナンカ言うたって!止めたって!」
青ざめた竜太郎も走り出て来た。
その騒がしさにカンがにゃあにゃあ喚くし。玄関先は大騒ぎ。
「ロンにお刺身買うてあげよ思て。駅前通りに行ってん。
そしたら果物屋さんでもう枇杷が出とってなあ。しかも綺麗な色なんや。
ついようけ買うてもて袋いっぱいなってもて。ほんで道の真ん中で袋破れてもて。
お釣りも一緒に入れとったから。もう全部転げてもたんや」
薄い枇杷の皮を指で引っ張り。大きな種を外しながら晶はカプリと齧る。
まるで小動物みたいなカワイイ仕草。
ぽっちゃりの晶だけど。べつに大食いでも偏食でも無い。
AYAが解散に至るまでの騒動でメンタルを崩してしまい。
重度の栄養失調と自律神経失調で緊急入院した経緯があって。
それで内臓機能やホルモンバランスが一度大きく崩れてしまった身体だから。
食事も数回に分けて少しずつしか摂れないし。体型を維持するのがまだ難しい。
それでも、色がキレイだとか香りが良い果物なら食指が動くらしく。
見付けるとつい、食べ切れないほど山盛り買ってしまう。
「そしたらなあ。優しいお兄ちゃんが助けてくれてなあ。
エコバッグくれたし。お釣りも全部探して拾うてくれてん」
「それは良かったけど。そこからどうしてキックボクシングになるの?」
とりあえず唱も枇杷を食べながら話を聞く。
「見てや!コレ!」
竜太郎が鮮やかなアプリコットカラーのエコバッグを、唱の前に付き出す。
スタジオRockyとロゴがあって、結構しっかり使えそうなバッグ。
「なーにがっ『優しいお兄ちゃん』やねん!絶対っ勧誘や!
この無垢なムーミンからボったくろ思うて。声掛けたんに決まっとるワ!
晶、今から一緒にココ行って入会取り消ししよ。な?
運動しぃたいなら、ウォーキングでもサイクリングでもオレ付き合うし。
まずはゆるーいコトから始めようや。な?」
騒ぐ竜太郎のおかげで、唱も大体状況が理解出来た。
確かにまあ。晶は『チョロいヤツ』と見られて狙われても仕方ない。
「勧誘されて、すごい額の入会金とか払うハメになったの?」
(クーリングオフって言うんだっけ?
また弁護士さんのお世話になるのかなあ。
せっかく晶が楽しそうなのに。また騙されたり傷つけられたりしたら…)
それだけは避けたいと唱は思うし。きっと竜太郎も同じ心配のはず。
「ううん。そんなんちゃうよ。
そのお兄ちゃん川田さん言うんやけど。スタジオのインストラクターさんで。
ボクがなあ枇杷拾うンにウロウロしてすごい汗かいてもて。
ちょお貧血ぽくなっとったから。お水飲んで休んだ方がエエ言うてくれてん。
そんでスタジオの隅っこ座らせて貰うて。
レッスン見学しとったら、何んかみんな楽しそうでなあ。ボクもやりたあなってん。
申し込んだンも体験コースやから2000円や。袋いっぱいの枇杷より安いで」
2人の心配をヨソに。晶はニコニコ顔。
「外出ン時はボトル持ちて、いつも言うとるやん?すぐ脱水すんやから」
「お店近くやし。要らんかなて」
「落ちたモン拾うとかっ。頭下げたり上げたりしたら貧血するて判っとおのに!」
「竜ちゃん、ちょっと落ち着いて」
慌てて唱が割って入る。竜太郎はちょっと過保護な気もするけれど。
晶が一番酷い状態からずっと付き添って来た竜太郎だから。その気持ちもよく解る。
「ええと。とにかく。
詐欺まがいの話じゃなくて。晶が自分からやりたいって申し込んだんだよね?」
「そおや。ボクシング言うても戦ったりせえへんで。
テンポアップした曲ん中で、踊るみたいにみんなでパンチしたりキックすんねん」
「え?それって…ボクササイズってヤツ?」
やっと状況の辻褄が合って。
竜太郎と唱は顔を見合わせて、はああああと安堵の深いタメ息をついた。
のんびりした昼休み。
「ちょっ!能良くん!あの空実さんが呼んどるで!」
クラスメイトに肩を叩かれて、唱は驚いて振り返る。
リク部がグランドに出ていないかと、窓から乗り出して外を見ていたトコだった。
教室の入口にはジャージ姿の空実。クラスメイトはチラ見で当然ながら耳はダンボ。
この学校で空実を知らない者はいない。
長距離の高校タイ記録保持者だし。SNSトラブルに巻き込まれた話題の人だし。
そして何より、芸能人ばりの美形を間近で見ることが出来るなんて。
「あの、空実さんおひとりですか?何かありました…?」
(こんな時に限って篠原どこ行ったんだよ?)
いつもは遠目にファインダーを通して見ている空実が目の前に立っていて。
唱は緊張で身体は強張るし。何の用か見当も付かず、息が詰まりそう。
「うん。哲、撮って。
これから、後輩の参考に跳ぶって。ちゃんと跳ぶの、最後になるかも」
「えっ!!は、はいっ!すぐ行きますっ!」
カメラを掴み。唱は何も考えられないまま、空実に付いて行った。
「最後って、ずいぶんと急な話ですね…」
(今日は曇り空だし。影らないように撮れるかな。失敗したら…どうしよう)
どの位置から?どんな瞬間を?今までどうやってたっけ?頭の中はぐるぐる。
「跳躍種目って。リズムとか集中力とか。揃わないと、出来ないから。
練習続けてないと跳べないって。これで最後にして。受験勉強するって」
「そう、なんですね…」
空実の言うことは、唱にも少し解る。毎日哲が跳ぶトコを追いかけているから。
身体が感覚忘れてきたワ、と哲が苦笑いする通り。
最近は助走のリズムが合わなかったり。踏切のタイミングがズレたり。
少しずつ哲の動きが、嚙み合わなくなっていた。
(跳べなくなったら跳ばないって。潔くて、哲さんらしいけど。
でも、それって…オレとの接点が無くなるってことで…どうしよう)
ついタメ息が漏れてしまう。
それが聞こえたのか、空実が立ち止まって振り向く。
「だいじょうぶ?」
「あ!は、はい。あ、あの」
ふと空実の後ろ姿に、先日の記憶が重なる。
「空実さんは、足のケガ大丈夫なんですか?」
「ケガ?」
「あの、この間。公園で負ぶわれてたの、偶然見てしまったので」
空実はじっと唱を見つめた。
(訊いちゃいけないコトだったかな?)唱の背中を冷や汗が流れる。
「明博が診てくれたから。だいじょうぶ」
「あの背が高いヒト」
「うん」
「トレーナーさんですか?」
ほんとは訊く必要もないコトだけど。何故かはっきり知りたくなる。
「ちがう。明博は、オレの」
ちょっと首を傾げて。空実は自分の中を探るような表情になった。
「オレの」
(あの雰囲気って、トレーナーとかコーチとかそんなんじゃなくて。きっと)
恋人と言う単語が思い浮かんでしまい。勝手に唱は真っ赤になった。
「オレの。ぜんぶ」
「え?」
正しくない日本語に、唱はちょっと混乱。
でも。
当の本人は少し頬を染めて、にっこりと微笑んでいて。
それは温かみのある灯のようにほんわりと。柔らかく美しい笑みだった。
「ほんまに連れて来たんか」
空実と一緒に唱がグランドへ行くと。ランシャツに短パンで本番姿の哲が笑う。
「3本跳ぶからな。カッコ良う撮りや」
(やだな)
スタート前に腕をぐるぐる回している哲を見て。唱は複雑な気持ちになる。
でも何とか覚悟を決めて、カメラを構えた。
(たった3本で。哲さんのぜんぶを捉えられるワケ無いのに)
「ほな行くでー!」
「あ、はい」
そう応えながら、唱の心は反対のコトを叫んでいる。
(跳ぶな跳ぶな跳ぶな。オワリなんて言わないでください!)
ファインダーを覗いてもピントが合わない。滲んだようにしか見えないのは。
涙じゃなくて、自分の腕が悪いせい。
とにかく精一杯、唱はシャッターボタンを押し続けた。
宙に。伸び伸びと哲の腕と脚が舞う。
いつもなら歯を食いしばって重力に抵抗してるのに、今日は違う。
(哲さん笑ってる)
背景は曇り空でも。その姿はとてもとても眩しかった。
「はーあっ!キモチ良かったワー。
もお思い残すコト無いわあー。ありがとさんでしたっ!」
身体中砂だらけで、哲は深々とグランドにお辞儀をした。
跳躍種目の後輩達がお礼を言って、拍手を贈っている。
そして振り向いた哲は。思い切り困った顔になってしまった。
「おい。そこのんオレのタオルや。使てエエから顔拭け」
「すみま、せん…」
唱はポロポロと涙がこぼれて、止まらなかった。
「そんな感動したんか?変な奴やなあ。オレは予選落ちばっかの三流やで。
今の2年のが才能有るし。これからは後輩ら撮ったってや」
哲は晴れ晴れと笑ってるけれど。
唱は嗚咽を堪えるのに必死。
(ちがう。オレは跳ぶトコを撮りたいんじゃなくて。哲さんを撮りたい)
はっきりと唱はそう思うけれど。
それを口に出して言う資格は、自分には無い気がしてしまう。
写真部でも無いのに撮らせて貰っている立場だし。何か役に立ってるワケじゃなし。
そもそも哲が跳ばなくなったら。
自分は何を撮ればいいんだろう?写真を続けたいと思うだろうか?
(オレ、やっぱり。中途半端で空っぽだなあ)
借りたタオルを握りしめて。唱はヨロヨロと教室へ戻るしか出来なかった。
次の日、唱は学校をサボった。どうせ午後は水無月祭の準備で自習だし。
竜太郎は知り合いバンドのツアーに同行中。
ボクササイズのレッスンが気に入った晶は、週2回ジムに通っていて。
今日もリュックを背負って、遠足行くみたいに笑顔で出掛けた。
学校休むと伝えた時、晶は少し心配そうな顔になったけど。
「そーゆー時もあるやんな。ジムから帰ったら一緒に菊寿司さん行こ」
何も訊かずに頷いてくれた。
唱はベッドでごろごろしてて、時計を見るととっくに昼を過ぎていた。
まだ戻って来ない晶に連絡しようと、スマホを手にしたら。
着信音が鳴った。篠原からだ。
(サボリなのに心配してくれたのかな?)
「篠原?」
「おう。哲さんがどーしても用ある言うてココに居るねん。電話替わるな」
「えええっ!ちょ、ちょっと」
(顔合わせられないからサボったのに。用って??なに??)
心臓は跳ね上がるし緊張の汗がこめかみを伝う。で、耳元でいきなり大声量。
「おい!おまえタオル持って帰ったやろ。
間に何んか挟まってへんか?確認せえ!今すぐ!!」
「え…タオル?」
何を言われるのかとビクついたけれど。全然予想してなかった単語が出て来た。
借りたタオルは洗って返すつもりだったけれど。
何となくこのままにしたい気もして。持ち帰ったまま机に置いてある。
とにかく言われた通り、タオルを広げて見ると。
畳まれていた隙間に襟章が引っ掛かっていた。
「あ、これ?襟章ですか?」
「それやー!!!むっちゃ大事なモンやねん。
大通りの文化ビル、おまえんトコから近いやろ?
オレ今から行くから。おまえソレ持って来い!」
そして唱の返事を待つことなく、通話はブツっと切れた。
唱の頭の中は?マークがぐるぐる。(襟章って、そんな大切なモンだっけ?)
風紀もゆるい学校なので、襟章無しを注意されたことなんて無い。
ふと唱は気付いた。
(これ編入生用だ。哲さんは中学からの持ち上がりだから金色のはず。
もしかしてこの銀色って)
「空実さんの?」
襟章は古めかしいデザインだけど。
部活引退や卒業式には、先輩後輩や友達同士で交換したり引き継いだり。
実は隠れ人気アイテム。
そして「むっちゃ大事なモン」と哲の慌てた声を思うと、辻褄が合う。
小さいジップロックに襟章を入れ、唱は家を飛び出した。
文化ビルは、文字通り公営カルチャーセンター。
立派な鉄筋ビルが2つ並び建っていて。役所の出張所や相談窓口がある棟と。
プールやジムとか運動施設や習い事教室が入っている棟が、渡り廊下で繋がっている。
近隣住民は色んなプログラムを安い金額で利用出来て、結構評判が良い。
晶が気に入っているレッスンもその1つ。
(どっちの建物だろう?)
ビルの前で唱がウロウロしていると、哲が走って来た。
「よかったー。有ったかー」
息を荒げてそう言いながら、哲は手を差し出す。
(ほんとに…コレだけの用事なんだ)
急に唱の胸の中が渦巻く。哀しいような寂しいような、悔しいような。
だから勝手に言葉が飛び出してしまう。
「これ哲さんのじゃナイですよね。銀色って編入生用だし。
空実さんのでしょ?だったら空実さんに返します」
一瞬だけ、哲はぎくりとした顔になったけれど。
すぐいつも通りの口調になって唱を睨む。
「なに勝手なコト言うとおねん。誰のンでもおまえに関係ナイやろ。
空実は先輩から貰うたん着けとおから。他のなんか要らんワ」
「じゃあオレが確認します。もし空実さんのだったら」
「おまえに、そんなんする理由ナイやろ!」
「あります!!オレ哲さんのこと好きなんです!
なのに哲さんは、ずっと空実さんだけ見てて。
跳ぶのも写真もオワリって言われたら、オレとの繋がりは無くなって。
悔しいし寂しいし。邪魔したくなるのは、アタリマエじゃないですか!」
哲の目はまんまる。そしてジワジワと顔を赤くして。
唱からぷいっと視線を外す。
「ったく、信じられんワ。
いつもあんま喋らんヤツが、こんな通りの真ん中で。
オレより大きい声だして。大アホやな、ほんま」
「でも、このまま。黙ったままでオワったら…それこそ」
(大アホだ…)唱は最後の一言をごくんと飲み込んで。
アサッテの方向を向いたままの哲へそっと視線を向けようとして、息が止まる。
隣の棟から大柄な男が2人出て来て、その間に挟まれてるのは。晶だった。
「あ、あきらっ!」
さっきより大きな唱の声にびっくりして、哲も振り向く。
「晶っ!どうしたのっ?」
男2人の服装や髪型はかなりヤンチャで。じろりと唱を睨む顔付きも厳つい。
どう見ても、晶はトラブルに巻き込まれている。
青ざめた唱が駆け寄ろうとしたら、哲が唱の腕をぐっと掴む。
そしてあの番犬の唸り声みたいな低音を響かせた。
「おまえらあ。なにしとおねん」
間近でその声を聞くと、唱までもビビって身体が強張る。
「て、哲っ!?何ンでココ居るんや?」
「や、ちょお待ってや。ちゃうねん!何ンもしてへんで、オレら」
(あの2人、哲さんの知り合い?)
哲に吠えられて大男2人が慌てふためく様子に、唱は混乱。
そして大男2人の間から、晶のしょんぼり声がこぼれて来た。
「唱ちゃあん。ごめんなあ。怒らんとってなあ」
「晶…?」
よく見ると。晶の身体は、大男2人に左右から支えて貰っていた。
タクシーが到着すると。晶と唱と大男の1人が乗車する。
「勢、結果出たら父さんに電話せえよ。事務所に報告せんならんからな」
哲はキツイ命令口調。
「わかっとおワ。それくらい」
「帰りは家まで走れ。トレーニングや」
「ええええ?10K以上あるんやで?」
「は・し・れ」
冷ややかな哲の声が放り込まれて、タクシーは走り出した。
勢と呼ばれていた男は、身体が大きくて助手席では窮屈なので。
後部座席に晶と並んで座って、助手席の唱に説明してくれた。
「こん地区で救急車呼ぶとT病院連れて行かれんねん。
あそこヤブなんや。
よっぽどの緊急やナイなら、山手ン方の総合病院へタクるんがエエねん。
設備も医者も揃うとおし、ウチのおかんが看護師やっとおし。色々融通効くんや」
助手席から身体をひねって、唱が後部座席に座る晶の様子を確認すると。
目が合った晶は照れくさそうに笑う。
「レッスン終わって。みんなにサヨナラ言お思て振り返ったら。
階段8コくらい落ちてもて。
せやけどリュックあったからクッションなって。どこも痛ナイんやけど。
頭の後ろコツンて打ってもて。ポッケのスマホも割れてもて。
唱ちゃんの番号判らんし。川田先生の息子さんが付き添ってくれたんや」
「頭打った時は、絶対診て貰わんと」
「はい。ありがとうございます」
お礼を言いながら唱がちらりと勢を見ると。勢も、唱を見てにやっと笑う。
「せやけど。
めっちゃびっくりしたワー。目の前に哲が居るなんてなあ。
あんた1年?せやったら、も1人居った継と同んなじ歳や。オレは1コ上や」
(つまり1歳違いの兄弟なんだ。でもあんまり似てないなあ)
唱の心の声が聞こえたみたいに、勢はまた笑う。
「全然似てへんやろー?
オレら2人はオトン似やねんけど。哲だけはオカン似やねん。
頭もな、哲だけは勉強出来るねん。オレらはアホ集団の商業校やし。
せやけどキックだけはホンキやで。オトンの指導でプロ目指しとおねん」
「あんな、唱ちゃん。
川田先生んトコ、時々ほんまもんの選手さんが指導受けに来るねん。
みんなすっごくかっこエエんやで」
身体は大きい勢だけど、やっぱりまだ子供っぽいトコもあって。
晶と2人キックボクシングの話題で盛り上がる。
(みんなが哲さんて呼ぶから。苗字が川田ってすっかり忘れてた)
つまり晶が通っているレッスンの川田トレーナーが、哲・勢・継兄弟の父親。
全然気付かなかった。我ながらヌケてると唱は恥ずかしくなる。
「哲もな。
中学途中までキックやっとってんけど。身体が大きならんから止めたんや。
そんで、仲良え田畑さんと同んなじ陸上始めたんやけどな。
ほんま勿体ない。
フットワークの良さと。カワシからの立て直しはピカイチやった。
もし1R中に、哲からポイント取れ言われたら。今でも出来るか判らんワ」
哲の良さを自慢するように話す勢が、唱には羨ましく見える。
(哲さんが自分のコトを三流とか。後輩の方が才能あるとか言うのも。
そんな選択を経験して来たからなのかな…。
ちゃんと解ってくれてる家族がいるのに。オレだってそんなコト思ってないのに)
タクシーが大きな総合病院へ着くと。
小柄でキリっとした顔の看護師が、受付で腕組みして立っていた。
胸元のネームカードには『川田』とあって。おまえに『主任』の肩書まで。
「勢っ!遅いやんか。どこ道草食うてたんや」
「いや、タクやし。救急車ちゃうから信号守るし」
自分よりずっと背が低い母親を前に、勢はオドオド。
「お父さんには私が連絡するから。あんた早よ走って戻り」
「ええっ!ジム戻るんか?」
「あたりまえやん。あんた全然体重落とせてへんのやから、汗かかな。
能良さん、さ。行きましょ。貧血体質やて伺ってますんで。
ちょお時間掛けて。変調が起こらんかを確認しますね」
テキパキと采配を振る小柄な看護師さんに、哲の姿が重なって。
自然と唱に小さな笑みが浮かんでしまった。
晶がむううっと唇と尖らす。
「えー?竜ちゃんに言うん?」
「あたりまえだよ。隠してたコトが後で判ったら、その方が大騒ぎになるよ。
それにオレのスマホに、竜ちゃんからの着信がすごい件数なんだから」
診察の結果、晶は小さいタンコブだけで脳への影響ナシとの診断で済んだけれど。
足首を捻挫していて、ガッチリしたサポーターを装着することになってしまった。
そんなバタバタで、やっと夕方遅く帰宅すると。
お腹を空かせたロンとカンからは、にゃあにゃあ文句を言われ。
そして竜太郎からは「晶の携帯つながらへんのやけど!」と。
スマホの液晶画面から本人が飛び出して来そうな勢いで、着信履歴が並んでいた。
そして翌日登校すると、篠原が待ち構えていた。
「お、唱。昨日どうやった?電話の後、哲さんエライ勢いで出てったけど」
「あーうん。なんか色々あって」
「なんや?ソレ」
篠原は怪訝な顔付きだけれど。唱の方こそ何も判らないキモチ。
だから昨晩は全然眠れなかった。
(ケガのバタバタで。何もかも中途半端で、うやむやになったけど。
オレ…哲さんに告ったのに。哲さんも判ってるはずなのに。
結局、返事とか反応とか判らないままだし。これからどうしたらイイんだろ)
シャツの胸ポッケには、あの襟章がまだ入ったまま。
その硬い存在が、唱の胸の中までゴツっと不快さを植え付けて来る。
「おい!唱、例のブツ持って。ちょお来い」
その一言で目が覚めた。モヤモヤしてた唱の頭の中を、はっきりした声が突き抜ける。
振り向くと、教室の入口に哲が立っていた。
「うわっ、全然アカンやんか。朝イチで哲さん登場やで。
なんや物騒やなー。ダイジョウブか?付いて行こか?」
「ありがと。でも大丈夫」
心配そうな篠原から、顔を隠しながら唱は席を立つ。
だって。嬉しくて嬉しくて、顔がニヤけるのを唱は必死で我慢していたから。
(いま、今、哲さんに名前呼んで貰えた!)
部室棟の裏側で、哲は唱を睨みつけて腕組み。
(ほんとに、あの看護師のお母さんとそっくりだ)
「なにニヤけとおねん」
「あ、いえ。あの。名前呼んで貰えて嬉しくて」
唱とは反対に、哲は益々ムスっと不機嫌な顔になる。
「しゃあないやろ。あんなハナシされたら、おまえ呼びしにくいし。
まあええワ。ほらコレやるから、アレ返せ」
ぽいっと哲が小さいモノを唱に投げる。受け止めて見るとそれは金色の襟章。
哲の制服に6年間付き添っていたせいで、あちこち塗装が落ちている。
「ほら。返せや」
ジロっと哲に睨まれるけれど。今の唱にはそれすらも可愛らしく見えてしまう。
才能があってもキックボクシングを諦めて。空実に惹かれても友人枠で我慢して。
伝えない想いの代わりに、空実の襟章を大切にして。
いつも強気で、遠慮や配慮なんてゼロに見えるけれど。
本当は誰よりも現実を見ていて。望みよりも諦めを基準に選択して来て。
でも、それでも。真っ直ぐ進んで来たヒト。それが哲の生き方。
だからその真っ当な誠実さが、唱にはあれだけ眩しかったのだ。
唱は自分の制服から襟章を外して。
ジップロックに入った少しくすんだ空実の銀色と。自分の真新しい銀色と。
2つ哲の掌に置いた。
「これから、受験の面接とか卒業式とか。
襟章無いと困るかも知れないから。オレのを使ってください」
はあ?と哲は困ったような怒ったような顔。
「哲さんにとって。オレって、ただの下級生で。
きっとスキでもキライでも何でも無いんだと、解ってます。
今のままじゃ、オレ選んで貰えないから。
だからオレこれからは、自分から哲さんのトコへ行きます」
2つの襟章が乗った哲の手を。自分の想いを込めて唱はぎゅうっと両手で包んだ。
ふわふわと地に足が着いてナイ気持ちで、唱は帰宅する。
(つい、口から出ちゃったけど。
あんなコト言うなんて。今頃すごく自分が恥ずかしいかも…)
でも帰宅して。
玄関に磨き込まれたレザーサンダルが並んでいるのを見て、現実に戻る。
「竜ちゃん?居るの?」
そおっと静かなリビングを覗くと。
ソファには困り顔の晶と、眉間にシワを寄せ不機嫌さを堪えている竜太郎が居た。
「竜ちゃん?ツアーは?まさか穴空けたの?」
「そんな無責任せえへんワ。
昨日が横浜で、明後日名古屋や。せやからちょお抜けて、様子見に帰って来たんや。
新しいスマホも買うて来たし。データも出来る限り復元したんで。
とにかく必ず連絡着くよおにしてくれや」
「ありがとうなあ。助かるわあ」
いつもの晶のほんわりした笑顔を見ると、竜太郎はぎゅっと抱き締めて。
頬をぐりぐりと押し付ける。
「ほんまに!勘弁してや!
オレ居らん時に、捻挫とか頭打つとか。もお心配で家空けられへんやんかー!」
「だいじょうぶやあ。
竜ちゃんがスマホ買うて来てくれたから。何んかあったらすぐ連絡するし」
「今回出来ひんかったやろっ」
「ん-そおやなあ。せやったら。
今度からスマホ、ポッケに入れへんから。壊さへんわあ」
「そーゆー問題ちゃうくて。なあ、やっぱりジム止めて。なんか違う…」
「やめへんよ」
ニコニコ顔だけど。きっぱりと晶は竜太郎に宣言する。
「やっと、ひとつ。自分から始めようて思えるコトが出来たんや。
ここ乗り越えな。ボクはいつまでも殻の外出られへん気ぃするんや。
昔の音はもお手離してもうて、空っぽやけど。
なんとか新しい音探したいんや。やっぱり音楽は、ボクの鼓動で呼吸で。生きとる証や。
もしかしたら、もお…無理かも知れへんけど…」
「何言うんや。そんなワケ有らへんやろ。
いつも音の方が晶に寄って来とった。晶ほど音楽に好かれとお奴居らんワ。
オレも晶の音に惚れ込んどるヒトリや。それは今でも、この先も変わらん。
空っぽとか無理とか…言わんでくれ…」
途中から竜太郎の声は小さく震えている。
「そおやと、エエんやけどなあ」
竜太郎の派手な柄のシャツを、晶のぽっちゃりした白い手が強く握りしめていた。
2人きりにするために。静かに唱はリビングを離れた。
そして3年前の解散報告の記者会見を思い出す。
マスコミを避ける為に、唱は彩子と2人でニューヨークに居たけれど。
突然、彩子に引っ張られて帰国して。
そして彩子に抱きしめて貰って、ホテルの大画面でニュースを見た。
サングラスは竜太郎のトレードマーク。自宅以外では必ず掛けている。
竜太郎は眼つきが悪い。と言うか、鋭くて。
細く、猫目のように吊り上がっていて。
彩子に言わせると「最後に主人公裏切るキャラの顔」タイプ。
オチャラけた雰囲気とはギャップが有り過ぎるから、サングラスで隠す。
だけど。
記者会見では、サングラスを外して胸ポケットに引っ掛けて。
そして恐ろしいほど冷ややかな視線で、まっすぐにカメラを睨んでいた。
当時の唱には、竜太郎が読み上げる難しい話はほとんど理解出来なかったけれど。
彩子が言うには。
多額の違約金を払ってでも事務所を離脱して。
1年間の活動制約も受諾して。実質的には解散して。
AYAの名前での活動は当面起こり得ないことを公言したらしい。
「事務所とケンカしたの?」
「サシでケンカ売って来たんなら、話合っても良かったんやけどな。
たくさんの知り合いにイヤな思いさせて。自分らあは表に出んと。
『大手に反発したらこうなるんや』て脅し込みで、手ぇ回して来たからな。
こっちから縁切りしたったんや」
「みんな捕まるの?」
「まさか!
逆や。憎たらしいモンは全部切り捨てて。私らみんな自由になるんや」
「でも。すごく高い罰金払えなかったら?」
「はは!勝てへんケンカを買うワケ無いやん。後悔しとるンはあっちの方や。
投資家のカレシのお陰で、竜は結構な資産持ちやで。南の島買う金額貯めとおワ」
「晶と一緒に南の島で暮らす話?冗談だと思ってた」
「いいや。
晶のコトになったら竜は何でもホンキやで。
老後は2人で、どっかの島の砂浜座って星空眺める計画らしーで」
彩子はケラケラ笑う。
「な、唱には判るやろ?
そン為にも、今の辛い状態から晶を解放せんとあかん。
少しでも早よおに全部終わらして。何んも心配要らんようにせなあかん。
竜も私も、優先順の通りするだけや」
「晶、退院出来るの?」
「もちろんや」
「でも。あんなにたくさん点滴とかコードとか着けられて。
なんにも喋らないし。オレのこと見えてないみたいし」
帰国して、真っ先にICUへ面会に行ったけれど。
ベッドに横たわる患者が晶だと、唱には信じられなかった。
元々子供みたいに小柄で細かった体が、血の気の無い肌で骨と皮になっていた。
あの姿を思い出すと涙がこみ上げてくる。
ぎゅっと力を込めて彩子が唱を抱き締めて、頬に温かなキスをしてくれた。
「大丈夫や。その為に、私ら家族が居るんやから」
そして。
これまでの色んなコトを終わらせて。この静かな場所へ引越した。
今の唱には、もう少し当時の状況が解っている。
専属契約満了が近づいた時。
事務所は、契約内容が満了後の独立活動について制約が不十分だと気付いて。
あの手この手で再契約を求めて来て。
でも晶は、ただ音楽が好きで楽しみたくて。
利益やしがらみを気にすることなく自由に曲作りをしたかった。
以前から事務所はそれも気に入らなくて、曲提供や編曲を止めさせたくて。
だから「AYAの方が不満を言っている」とコメントを流してイメージダウンして。
ファンや親しいアーティストを切り離そうとした。
そして計画通りSNSを炎上させ。これに対処出来るのは大手事務所だけだと。
独立の道も、逃げ場も無くなったAYAが頭を下げて戻って来るはず、だったけれど。
それは計画通りにはならなかった。
竜太郎が本気で怒ったから。
広い交友関係をフル活用して、事務所の作為の裏を取り。
事務所へ逆襲の通告を出すトコまで材料が揃った時に。
独り引き籠っていた晶が昏睡状態で発見されて救急搬送になった。
「あかん。怒りに振り回されて、何ンも見えんようになっとった。
一番大事なヒトをちゃんと見てへんかった。守れてへんかった。
オレは、ほんまに大アホや」
ICUの前で竜太郎まで動けなくなったと知った彩子は。
もう待ってられん、と唱を連れてニューヨークから戻って来て。
うずくまる竜太郎を怒鳴りつけた。
「とにかくっ、もおオシマイにしたらエエねん!
全部終わったで言うてキスしたったら、白雪姫は起きてくるワ!
ソレだけやろっ、さっさと動きっ」
AYAが活動していた時の晶は、痩せっぽちで目ばっかり大きく輝いて。
いつもピアノを弾いて、音に囲まれて過ごしてる「音楽オタク」で。
そしてピアノを奏でる晶を真ん中に、竜太郎と彩子3人笑い合って曲を作っていた。
でも3年経っても、あの時に戻るのは難しそうで。
カバーを掛けられ沈黙しているピアノが、そのまま晶と重なってしまう。
「明日の朝に名古屋向こうたらエエし。
唱ちゃんの学校終わったら一緒にメシ喰いに行こ。待っとおからな」
そう竜太郎に送り出されて、唱は登校した。
「唱!ちょお来い!」
「え?哲さん?」
午後の授業が1コマ終わったところで、またまた教室の入口に哲が立っていた。
(会えるのは嬉しいけど。
襟章のコトがあったばっかりだから。なんか恥ずかしいなあ)
顔が火照っているのが判るけれど、逃げるワケにも行かない。
心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかと思いながら、唱は哲の隣へ行く。
「これ。えらい騒ぎやったらしーんやけど」
目の前に付き出された哲のスマホには、ボクササイズのレッスン動画。
平日昼間の生徒なんて主婦ばかり。
それがみんなして満面の笑みで、腕振り回し脚振り上げて。
お腹抱えて笑ってる人もいて随分盛り上がっている。
いちおう教室だから消音している動画なのに、ライブハウスみたいな雰囲気。
そしてカメラが移動して映し出したのは。
小さい電子ピアノを叩く晶と、アンプ内蔵ギターを響かせている竜太郎。
「ええええっ!!」
思わず唱は身を乗り出して、大きな声。
「さっき継が送って来たんや。
捻挫で動けへんから見学だけする言うて、この2人が楽器持って来て。
何ンや生演奏付レッスンになったんやて。
ほんまゲーノージンの発想はすごいな。笑ろてまうワ」
唱のすぐ隣で哲が笑う。
スマホを覗きこむ姿勢のままだから、頬が触れそう。
唱の胸はどくんどくんと大きく鼓動を打つ。
そして動画の晶も観てると、唱の身体まで震えてしまう。
だって、晶が目をキラキラさせて思い切り笑っている。こんな笑顔を見たのはいつ以来?
嬉しいコトが重なり過ぎて。唱は唇を噛みしめ、溢れそうな涙を必死で堪える。
「そんで帰りに文化ビル寄れて言うんやけど。唱も行くか?」
「えっ!あ。はい。行きます!一緒に」
素直に嬉しさを顔に出す唱を見て。哲は照れたようにそっぽを向く。
「ラインでも何ンでもエエから連絡先教え。いちいち1年の教室来んのメンドイワ」
その言葉に。
とうとうぽろりと唱の嬉し涙が一粒落ちた。
放課後、哲と唱が文化ビルへ行くと。
晶の捻挫を介助してくれたお礼に、寿司をご馳走する話になっていた。
川田家の兄弟3人と能良家の3人で菊寿司の暖簾をくぐる。
入口には貸切の札が掛かっていた。
「哲っケースん中にネタあるで?どないして取るん?」
寿司屋のカウンターなんて初めての弟2人はヒソヒソと兄に訊く。
それを見た竜太郎は、気遣い無用な声を掛ける。
「苦手なモンあるか?」
「いえっ何ンでも食べますっ。めっちゃ食べます」
「そらエエわ。
大将、端からネタ全部握ったって。そんで気に入ったヤツ自分で頼み」
「ほらっ。おまえらお礼言いや」
哲が弟2人の頭を押し下げる。
「ゴチになりますっ!!」
晶と竜太郎は奥の席に座って、スパークリング日本酒で2人静かに乾杯。
暫くすると。好きなだけ食べやーと言い残して、2人は店を出て行って。
だから、食べ盛り4人は遠慮無しにひたすら寿司を口に運べる状況になる。
「う~旨っ!!
マグロの味めっちゃ濃いーっ!こっちの白いシマシマ一瞬で溶けたでっ」
「兄ちゃん、それなあ。大トロ言うんや。脂分が多いから白っぽいんやで」
「イカが!イカちゃうやん!
スっとしとおで?クチャクチャせんで?歯ごたえあるのに硬あナイで?」
「ウニーーー!甘ああああっ。もっと盛ったってくださいっ!」
板前さんも気を利かせて、ネタもシャリも大きめに握ってくれているのに。
次から次へとぱくぱく口へ放りこみ。いちいち美味しさを叫ぶ食べっぷりに。
給仕の人もお茶を淹れ替えながら笑ってる。
「哲さん、海老スキなんですか?」
やかましい弟達とは別に。哲は黙々と海老ばっかりお代わり。
「せやねん。哲はポテチより、かっぱえびせんやねん」
「うっさいな、勢。すいません。甘海老お願いします」
「ごめん兄ちゃん。海老終わってもたワ。今日は仕入れも少なかったからなあ」
「えっ」
すごく残念そうな哲の表情が。唱にとっては可愛いく見える。
「これ、まだ手付けてないから」
車海老が乗った皿を唱が差し出すと、またすぐ哲はムスっとする。
「旨いんやから。自分で食べえ」
「でもこれ今日最後ですよ?」
口をへの字に曲げて、哲は暫く我慢していたけれど。
「貰うワ」
腕を伸ばして摘まみ上げ。
シアワセそーな顔で最後の海老を、哲はゆっくり噛み締める。
そして唱は。もう何も喉を通らない気分になっていた。
さっき哲が腕を伸ばした時。
カウンターの下で、哲の膝が唱の膝に当たって。
しかもまだ触れたまま。膝から熱が伝わって全身を駆け巡る。
(うわっうわっ!!どおしよお)
「ごちそーさまでしたっ!」
「いやあ。お兄ちゃんらあエエ食べっぷりやったなあ。
もうネタ空っぽや。暖簾しまわんと」
板前さん達もご機嫌だ。
「あの、また食べに行きましょう。
海老たくさん仕入れてって、お願いしておきますから」
「旨いエビかあ。そんならまあエエか」
唱の精一杯の言葉を、哲はサラリと流して弟達と帰って行った。
その後ろ姿が見えなくなっても、唱はじっと見送った。
(連絡先渡せたし。海老がスキって判ったし。
小さいコトだけど。ひとつずつ哲さんに近付けてるみたいで。
なんか。すごく嬉しいなあ)
触れ合った膝はいつまでも温かだった。
唱が家へ入ると、リビングには誰もいない。
壁のコントロールパネルを見ると、地下の照明がONになっている。
地下室は演奏用に防音仕様で、楽器や編集用PC機材が置いてある。
(楽器の片付けでもしてるのかな?)
地下への階段を降りて行くと。竜太郎がぼんやりとソファに座っていた。
「竜ちゃん、お寿司ありがとう」
「おう。あの子らあ満足して帰ったん?」
「うん。もうスーパーのパック寿司食べられないって感動してた」
「はははは。そら良かったワ」
「晶は?」
「さっき寝た」
薄暗い照明の中で。
竜太郎は上半身ハダカでGパンにもベルトが通っていない。
唱はそれに気付いたから、静かにソファの端っこに座った。
「竜ちゃん。良かったね」
「え?」
「長い初恋やっと叶ったね」
竜太郎は一途に晶を追いかけて来たのを、唱は知っている。
竜太郎にとって晶は、尊敬する音楽家で。それ以上に愛おしい存在。
でも晶は彩子と入籍して、家族を得ることを選んだから。
竜太郎も家族の枠より先へは踏み込まなかった。
だから彩子はいつも唱に「あんたには3人の親が居るンや」と笑ってた。
それがそろそろ違うカタチになる時が来たらしい。
竜太郎はチラリと唱を見る。その表情は照れて恥ずかしそうで。
(竜ちゃんのこんな顔、初めて見た)
だから唱はもう1回言葉にする。
「オレほんとに良かったと思ってるよ。
ジムで演奏してる動画観てよく判ったから。晶には竜ちゃんが必要だよ。
竜ちゃんが居れば、晶はまた好きな音楽が出来るんだ」
「ほんまに?そない思う?」
「うん」
念押しするようにはっきり応えると。
竜太郎はくしゃっと崩れた笑顔になる。子供みたいに嬉しさが溢れ出てる顔。
「晶がな、言うんや。
ジム行って身体動かしたら、リズムが生まれて。
リズム重ねたら、身体ン中が音でいっぱいンなって。
あの時無くしてしもた音楽が、また戻って来たて。
オレに、一緒に感じて演奏しよおて言うて。触れさせてくれた…」
竜太郎は独り言のように呟きながら、じっと自分の手を見つめる。
それは触れた肌や温もりを思い出してるようで。笑みも浮かんでいる。
「ただ肌重ねただけやけど。オレめっちゃ満たされた。幸せやあ」
「やっと晶も竜ちゃんも先へ進めるね」
「晶と一緒にずうっと音楽やって来て。
そんで、これからも一緒にやって行けたら。
オレの人生そのままぜんぶ晶の人生や。こんな幸せ他に無いワ」
ふと唱は思い出す。
(前に空実さんが、恋人のことを『自分の全部』って言ってたけど。
それってこういうコトなのかなあ)
「竜ちゃん。明日からの名古屋に晶も一緒に連れて行ったら?
ツアー最終日には彩子も合流するんだよね。
3人揃ったら、また新しいAYAの音楽が生まれそうだよね」
「せやけど…」
「オレもう高校生だし。ロンとカンが居てくれるから独りじゃないし。
この場所も、学校も結構気に入ってるし。心配しないで。
そのまま彩子とニューヨークに戻ってもイイんじゃない?
やっと自由に好きな音楽だけをやれる時が来たんだよ」
突然の、唱からの親離れ宣言。
竜太郎はまばたきするのも忘れて、じっと唱を見つめていたけれど。
ゆっくりといつものスカした顔に戻ってニヤっと笑う。
「そおかあ。
そおやなあ『いつかきっと』て望んどった時がとおとお来たんか。
この機会逃したらアカンな」
ソファから立ち上がった竜太郎は、もう次のステージを思い描いていた。
今回、竜太郎がヘルプに入っていたのは結成40年の大御所バンド。
毎年行う全国ツアーでは、国内外の実力者とのセッションが盛り込まれていて。
バンドのファン達は、その当日発表のサプライズも楽しみにしている。
それがまさかのAYAの復活。
ツアー最終日は伝説になるような盛り上がりになった。
AYAが解散した時、著作権は音楽会社のものだったけれど。
不本意に楽曲を使用された時は、著作者人格権を主張すると竜太郎は啖呵を切ったから。
そんなトラブルに巻き込まれる可能性がある楽曲を使おうとする関係者は無く。
AYAの曲も、存在も。この3年間で幻のようになっていた。
それが突然甦ったのだから、観客はもお大歓迎。
彩子の5オクターブの歌声が、過去の事件から解き放されたように響き渡り。
新しい自由を求めてAYAは再出発した。
ロンとカンを膝に抱いて。送られて来た短いステージ動画を何回も再生して。
懐かしくて新しいAYAの音に唱は聴き入った。
ロンとカンも静かにシッポを揺らしていた。




