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(論文解説)「愛国教育から軍国主義教育へ ― ウクライナ侵攻以降のロシアにおける規律権力と静かな抵抗」(Russian Military and Security Research group)

Alava, Jonna. From Patriotic Education to Militarist Indoctrination: Disciplinary Power and Silent Resistance in Russia after the Onset of the War against Ukraine. Problems of Post-Communism, 8 Jan. 2025


フィンランド国防大学及びヘルシンキ大学のロシア研究グループ(Russian Military and Security Research group)が発表した論文となります。

1.Introduction

ロシアのウクライナ侵攻以降、愛国教育は急速に軍事化・国家主義化され、学校教育のあらゆる側面に浸透している。かつてからロシアでは、国家への忠誠と愛国心は教育の柱とされてきたが、2022年2月24日以降はその規模と内容が一変した。戦争を正当化するため、歴史の再編成や象徴操作が進められ、若者を対象とした思想統制が一段と強化されている。国際メディアでは若者の急進化が懸念されているが、実際には教育の内容や実施方法が曖昧であるため、効果は限定的であると著者は指摘する。


特に重要なのは、ロシア人の間で「公共」と「私的」な愛国心の間に強い分断がある点である。親世代や若者の多くは、国家主導の愛国教育に批判的で、軍事的要素を嫌悪する傾向がある。また、教育プログラム自体も理念や目的が曖昧で、「愛国ビジネス」と呼ばれる非公式な利権構造を生む温床となっている。政府による指導は形式的で、内容は空疎なスローガンに終始し、若者の心には届いていない。


さらに著者は、国家のプロパガンダが「ショー・パトリオティズム(見せかけの愛国心)」を生み出していると指摘。市民は内心では反感を抱きながらも、社会的な抑圧や報復への恐怖から建前上の忠誠を装う。この状況は、ティムール・クランが提唱した「選好の偽装」概念に通じ、表面上の一致が実際の社会的分断や不信を深める要因となっている。


著者は、戦時下の愛国教育は単なるプロパガンダを超え、国家の規律権力を行使する主要な手段となっていると論じる。そして、その実質的な効果は教育内容そのものよりも、教育現場での非公式な慣行や圧力構造に見出すべきであると示唆する。このような状況下で、市民の沈黙や形式的な支持は、国家による愛国支配の成果であり、同時に社会の原子化を加速させるリスクを孕んでいると結論づけている。


2.Wartime Patriotic Initiatives

ロシア政府は2022年のウクライナ侵攻以降、学校における愛国教育を戦時体制に即した内容へと急速に再編成した。その象徴的施策の一つが、月曜朝の国旗掲揚と国歌斉唱の義務化であり、すべての学年で「重要な対話(Razgovory o vazhnom)」という国家イデオロギーを教える特別授業も導入された。この授業では、伝統的家族観や「包囲されたロシア」といった国家主張を中心に、戦争の正当化が図られている。また、小学1年生から歴史教育が義務化され、政府公認の新しい教科書には「特別軍事作戦」が歴史的に重要な出来事として記載されている。これにより、子どもたちの戦争認識が政府の語りに基づいて形成されるよう設計されている。


さらに、軍事訓練の復活や制服の再導入といった施策により、学校の物理的環境や文化的雰囲気も大きく変容した。2023年には中等教育の高学年向けに160時間の軍事訓練が導入され、制服着用も義務付けられた。政府は「ビッグ・チェンジ」や「最初の者たちの運動」といった青年団体を組織し、1800万人の子どもたち全体を対象に愛国思想の浸透を目指している。また、4万校に「教育顧問」を配置し、子どもたちとの対話や政治的活動の促進を担わせている。


これらの公式施策に加え、学校では非公式な軍事化キャンペーンも活発に行われている。例えば、生徒による兵士への支援メッセージ「兵士への手紙」運動や、「Z」マークを使った戦争支持パフォーマンスが奨励されている。多くの学校では、生徒や教職員が軍や警察組織と接触し、戦争の正当性を直接聞かされる機会が増えている。さらに、戦争支援のために教師の給与の一部寄付が求められたり、職業訓練校では前線用の装備品を生産するよう指示されたりしており、生徒や教員の「自主性」を装いつつも実質的には命令に近い形で戦争への関与が進められている。


このように、ロシアの学校現場は戦時国家のイデオロギー実践の最前線と化しており、愛国教育は教育の枠を超えて社会全体の動員装置となっている。


3.Implementation and Use of Power

ロシアの戦時下における愛国教育の実施は、公式な制度以上に、非公式な権力行使と命令の伝達によって支えられている。政府の方針は大統領演説や教育省の声明から始まり、急速に地方自治体や学校に下ろされるが、その過程はしばしば口頭やWhatsAppメッセージなど、公式文書を伴わない曖昧な形式で行われる。これにより、現場の教員は命令の正当性を問う術を失い、服従を強いられている。


教師たちは、国家の規律権力の中核に位置づけられる存在でありながら、同時にその被害者でもある。命令に従わなければ失職や告発のリスクを負う一方で、生徒に対して国家の意向を実行する役割も担わされている。多くの教師は恐怖や不明瞭な制度設計から、自身の行為を「局地的」「一時的」と認識し、道徳的負担を軽減しようとしている。


また、「自発的」とされる愛国活動も、実際には授業に組み込まれ、拒否すれば成績低下や退学、進学の妨げといった脅しを受ける。生徒や保護者は不満を表に出すことをためらい、表向きには国家の意向に従っているように見える。このような自己検閲は、ミシェル・フーコーの「パノプティコン」的な監視体制に相当し、自主的な服従を促す。


監視の手段も強化されており、学校では「Gerda Bot」と呼ばれる監視ツールで生徒のSNS投稿をチェックすることが求められ、教師がこれを拒否すれば「過激主義」とされ、解雇に至る例もある。さらには、教室内にカメラが設置され、授業の内容まで監視されている。生徒の思想や信条は、非公式なアンケートや教師の観察によっても評価され、国家に忠実であるか否かが判断される。


さらに、密告文化の再来も見られる。生徒が「反戦的」な発言をする教師を録音し、保護者が学校や警察に通報する事例が多発。その結果、教師や生徒は互いに疑心暗鬼になり、かつてのソ連のような社会的分断と孤立が再び広がっている。


このように、愛国教育の現場では、形式的には教育活動の体裁を取りながら、実質的には権力構造の再生産と従属の強制が進行しており、政府は制度的枠組みを用いずとも社会的統制を実現している。この支配は、曖昧さと恐怖を通じて人々の行動を規定し、抵抗を困難にしている。


4.Reception

ロシアの学校現場では、戦時下の愛国教育に対する反応として、教師、生徒、保護者の間で広範な困惑と不満が広がっている。教員や保護者はこの状況を「非現実的」「滑稽」「恐ろしい」と形容し、プロパガンダ授業は「無意味」「有害」「退屈」だと感じられている。特に「重要な対話(Razgovory o vazhnom)」の授業は反発が強く、国家の歴史改ざんや価値観の押し付けに多くの教師が良心の呵責を感じている。子どもに嘘を教えることへの嫌悪感から、抑うつ状態や離職の決意に至る者も少なくない。


一方で、生徒の反応も年齢層によって異なる。低学年の子どもは比較的無関心だが、高学年になると批判的な意識が芽生え、プロパガンダの虚構性に気づくようになる。形式的な儀式よりも、内容の空虚さや一貫性のなさに対する不信感が強い。例えば「伝統的な性別役割」や「英雄的な父親像」は、実際の家庭状況とあまりに乖離しており、若者たちにとっては滑稽ですらある。


しかし、プロパガンダがまったく効果を持たないわけではない。特に小学生に対しては、感情に訴える「兵士への手紙」などが一定の影響を与えている。さらに、教師がテレビと同じ言葉を用いて話すことで、子どもたちは内容に信頼を寄せやすくなるが、結果として教師への信頼そのものが揺らぐこともある。これは教育の質の低下にもつながり、保護者からの懸念も強まっている。


また、地域差も顕著であり、大都市と地方ではプロパガンダの受容度に温度差があるとされる。情報へのアクセスが限られた地方では、国家の語りが浸透しやすい一方で、都市部でも戦争を礼賛する事例が見られるなど、単純な二分法では捉えきれない。貧困や格差の拡大がプロパガンダの正当性をさらに損なう可能性もあり、経済的な背景も受容の一因となっている。


最も顕著なのは、「沈黙」の蔓延である。多くの生徒や保護者は、自身の意見が「周囲と違うのではないか」との不安を抱え、発言を控えるようになっている。この不安は、表向きの忠誠と内心の葛藤との間で自己検閲を生む。生徒は親の職場でのリスクを恐れ、親は子に「学校では話すな」と忠告する。教師同士も互いに話題を避ける傾向が強まっている。


このような状況下で、プロパガンダと現実との間の乖離はますます深刻化している。例えば、他者への優しさを教えながら戦争を称賛するという矛盾は、子どもたちに大きな混乱と不信感をもたらしている。家族が戦地にいる生徒にとっては、戦争賛美の授業そのものが苦痛であり、プロパガンダが教育そのものの破壊に繋がっている。


5.Resistance

ロシアにおける戦時下の愛国教育に対する抵抗は、目立ったデモや抗議という形ではなく、「沈黙の抵抗(silent sabotage)」という個別で慎重な形で展開されている。教育法により政治的中立が保障されているにもかかわらず、教師たちはその権利を十分に認識しておらず、制度的な抵抗はほとんど見られない。その代わり、教師や生徒、保護者による日常的な小さな行動が、国家の規律権力に対抗する手段となっている。


例えば、生徒たちは愛国授業中に無関心を装い、私語や遅刻、スマホ使用、仮病などを通して消極的に反発する。教師側も「重要な対話」の時間を試験対策や雑談に充てたり、教材の音声を消してビデオを流す、単調でわざとらしい口調で教材を読むなど、形式だけを満たして中身を空洞化させる手法をとっている。また、管理職が教師の思想を把握し、熱心な教員にだけ愛国教育を任せ、他の教師には回避の余地を与えるケースもある。これにより表面的には協力が保たれつつ、内部での抵抗が成立している。


保護者の役割も重要であり、教師との非公式な連携を通じて子どもを守る動きが見られる。一部の家庭では、旗揚げなどの儀式を避けるために登校時間を遅らせたり、私立校やホームスクールへの転校、国外移住といった手段を選ぶこともある。ただし、多くの親は抵抗を家庭内にとどめ、学校では波風を立てないようにしている。ある母親は学校行事への出席を拒否し「連邦法ではない」と反論したが、他の親は沈黙したままだったというエピソードも紹介されている。


教師たちの間では、フーコーが語った「規律への反抗」として、制度的な主体形成(subjectivation)への協力を拒否する形の抵抗が見られる。このような抵抗は、明確なイデオロギーではなく、職業倫理や子どもへの責任感から生まれており、教室内における「行間の語り」や「イソップ的言語(Aesopian language)」といった手法で表現される。これは旧ソ連時代の言論制限を回避するために用いられた方法と同様である。


さらに、学校内での露骨な愛国活動を嫌う教員の間では、役割分担や内輪の協定によって強制を緩和する動きもある。たとえば、愛国団体に所属している生徒にだけ国旗掲揚を任せるなどの工夫がなされている。このような柔軟な対応によって、全員参加を求める国家方針に対して、現場レベルでは部分的な拒否と黙認が同居する複雑な状況が成立している。


最終的に、こうした抵抗は政権への明示的な反発ではなく、個々の尊厳や信念を守るための行為として現れる。つまり、国家による規律化の圧力に晒されながらも、自らの良心と教育的価値観を保とうとする人々の静かな戦いが、ロシアの教育現場で今も続いているのである。


6.Discussion

このセクションでは、ロシアにおける戦時下の愛国教育がもたらした二重の現象――失敗と成功の共存――が論じられている。まず著者は、国家の意図したような「愛国心の高揚」や国民の一体化という意味では、教育政策は失敗していると指摘する。特に若者にとっては、内容の空虚さ、手法の古臭さ、概念の曖昧さ、そして教員による形式的対応が相まって、教育が退屈で意味のないものと化している。プロパガンダ授業は、知識の向上や市民意識の育成に寄与せず、むしろ不信感と反発を生む原因になっている。


一方で、国家による愛国教育は、抑圧的支配を合法化する「枠組み」としては十分に機能している。形式的な授業や行事、儀式的なパフォーマンスが、国家の統治正当性を象徴的に示し、制度的暴力の正当化に貢献している。教育の中身が無内容であるからこそ、その形式や象徴が重要視され、強制される。これにより、国家は表面的な「儀式的忠誠」を引き出し、愛国教育を通じた支配の維持に成功しているとも言える。


このような政策は、実質的には国家による「規律の再定義」にあたり、愛国心の有無ではなく、国家に対する従属や沈黙、儀式への参加そのものが重視されるようになった。これはフーコーが指摘する「規律権力の深化」の典型例であり、言説と実践の乖離を埋めるものとして国家権力が行使されている。また、国家は公式制度以上に、非公式な慣行や自発的に見せかけた参加、あるいは市民の「自己検閲」に依存することで、愛国的秩序の維持を可能としている。


著者はさらに、2024年から導入された新科目「家族学(Family Studies)」に言及し、これが国家の生物政治的(biopolitical)関心と愛国教育の延長線上にあると分析する。同科目は、結婚や多産、純潔といった価値を強調し、国家の人口減少問題を教育の課題として取り込もうとする試みである。このような政策は、国家の保守的イデオロギーと人口戦略が密接に絡み合っていることを示している。


愛国教育の将来的な帰結について、著者は悲観的な見方を提示する。制度の形骸化や市民の黙認が常態化すれば、抵抗のエネルギーが吸収・無力化され、社会はさらに分断・原子化される。特に「選好の偽装(preference falsification)」が社会の対話空間を狭め、信頼関係を破壊することで、長期的には市民社会の機能が損なわれるという危機感が示されている。


それでも、著者は完全な絶望ではなく「潜在的な変化の可能性」も示唆する。多数の市民が表には出せない不満を抱えている限り、ある臨界点に達したときには一気に変化が生まれる可能性がある。その兆しを読み取るには、プロテストや世論調査だけでなく、権力関係や抑圧構造の中での人々のふるまいや語りを深く理解する必要があると結論づけている。


conclusion


本稿の結論では、ロシアがウクライナ戦争開始とともに教育制度を大規模に再編し、国家主導の愛国教育を通じて国民の規律と忠誠を強化しようとするパラダイム転換を描き出している。著者Jonna Alavaは、フーコー的視点に基づき、愛国教育の実践が単なる知識伝達ではなく、主権的権力と規律的権力の複合的行使であることを強調する。教育はこの体制の中で、表面的には無害な授業や行事の形を取りつつも、実際には体制への服従と沈黙を内面化させる装置として機能している。


著者は、国家がこの教育政策を通じて、忠誠心そのものではなく、儀式的な服従と沈黙という形の「従順さ」を確保することに成功していると分析する。つまり、内容の貧弱さや制度的不備にもかかわらず、愛国教育は体制強化の実効的手段として機能している。制度的曖昧さや形式主義は、むしろ国家が責任を回避しながら支配を拡大するのに役立っており、「曖昧な愛国主義」という枠組みが、弾圧の正当化や国家統合の基盤になっているという指摘は鋭い。


しかしながら、著者はこのような愛国教育の実質的な成功の裏側に、社会的分断と不満の蓄積という重大なリスクが潜んでいることも明示する。人々が本音を隠し、形式的に従う状況は、ティムール・クランの「選好の偽装」の概念に合致し、一見安定した秩序の下に、不安定で爆発的な変化の可能性が存在する。つまり、今後のロシア社会における変化は、ある小さな出来事によって個々人の内なる不満が一気に可視化される「連鎖反応」によって引き起こされる可能性がある。


著者はまた、愛国教育における「静かな抵抗」が表面的には目立たないが、実際には体制の硬直性を揺さぶる存在であると評価する。形式的な教育への適応と内面的な不一致との乖離は、今後の体制維持に対する障害にもなり得る。体制はこうした乖離を抑えるためにさらに弾圧を強化するかもしれないが、それは同時に社会の原子化(atomization)を深め、国家と市民の断絶を拡大するという逆効果を生む危険も孕んでいる。


最後に著者は、教育現場での沈黙や形式的忠誠の背後に、深い政治的無関心と幻滅が広がっていることを警告する。こうした傾向が続けば、若い世代が「二重思考」や「偽装された従順さ」を常態と認識するようになり、ロシアにおける長期的な権威主義の再生産に寄与することになるだろう。その一方で、社会の奥底には依然として変革の可能性が秘められており、それを理解するためには、従来の抗議行動や投票行動では捉えきれない権力・抑圧・沈黙の関係性に注目する必要があると締めくくっている。

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