刑事関&分析官鷹城 I want to go home. 「この世の終わりが届くときに」
※この話のコードネームは「うどん」です。
長編の前日譚的なお話になります。
蒼闇が世界を染めている。
白い貌が蒼い光に染められたように、闇の中に動くことなく浮き上がっていた。
瞼を閉じ身動きもしない容貌は闇にも蒼白な彫刻のように見え、僅かに黒い流れが二筋、頤を伝い襟許に落ちているのもまた彫刻にも似た冷たい生気の無さを感じさせる。
黒に近いだろう生地のスーツも、色味があるのか不明なシャツにも履いている靴にも、細かな砂ともつかないものが降り掛かっている。
僅かに額に落ちる髪が揺れて、だがその風にも鷹城は目を醒ますことはなかった。
一
「いやな、夢をみたな、…」
溜息を着いて目を閉じ、額を押さえて乱れた黒髪をそのままに身体を起こす。
きちんと整えられた寝室に一人身を起こして、鷹城は薄闇に僅かに首を振っていた。
蒼白い肌に黒髪が不吉な程に青黒く映える。
溜息を吐きながらシーツに片膝をついて身を起こしたまま目を閉じて動きを止める。
疲労が濃い。それは確かに、これまでの経緯を思えば、いま疲れが出てもおかしくないというものだろうが。
…―――事の最中には割と平気で、後からくるとかはよくいわれるものね。
思いながら、シーツにふれる汗の多さに眉をしかめる。
「とりかえないと。…」
健康診断でも受けるか?確か、寝汗が多いのは何か体調が、…まあいずれにしても。
一度医者にいって、カウンセリングくらいは受けた方がいいかもしれない、と。
苦笑して肩から力を抜き、瞳を薄闇にひらき、静かに窓の外を見詰める。
闇に見えるのは白い月だ。朧な雲に遮られて、淡く境を消している朧月の光が蒼白く室内に射し込むのに。
あの光景を思い出して、思わずも吐きそうになっていた。
「…――――、ったく」
口許を押さえて、冗談じゃない、と考える。
車酔いだけじゃなくて、衝撃を受けた際の映像が蘇ってとかって、PTSD?どう考えてもそんなに繊細じゃないけどね。
…――――いやになるね。
髪をがしがしと掻いて、床に足を下ろす。
思い浮かぶ情景は、まるで冗談だ。
―――蒼白い闇、青い闇に浮かぶのは、――――…。
自身の死体だ。…
「どうかしてる」
目を閉じて呟く。そういえばその幻が消えるというように、願うように強い口調で。
「…――――関、…。」
首を振る。強く歯を食い縛っていたことに気付いて、苦笑して。
闇の中に、血が抜けていく感覚。
闇に吸い込まれるような、力が抜けて冷たく、…。
「冗談じゃない、…関、たすけて、」
目を閉じて首を振り、微苦笑を漏らして。己の言葉にあきれてしまっていた。
いつまでも、こどもじゃないのに、…。
たすけを求めるなんて、…大人だろ?自分?
あきれて息を吐いて、無理に笑って立ち上がった。
―――…シャワーでも浴びて、この嫌な汗を流してしまおう。
闇に僅かにおぼつかない足取りで、壁に手をついて歩いて。
「…関、のばかに、とかはともかくとして」
…休暇をとって、実家に帰るか、すこし。
仕事で使っているこの部屋は、無機質すぎて。夢をみて、それを紛らせる何物も無い。
―――人間、休むのも大事だよね。
七月の大雪。
都市が機能を止めた。
あの事件は起きなかったことにされた。
観覧車を燃やした映像と、それらは、…―――。
そして、あの映像は、…。
―――、は、それもまた、…。
まあ、なかったことにでもしなければ、この世に既にいない犯人を、いや、もとよりこの世界の存在でなかった犯人を一体どうしろっていうそういう話だけどね。
―――…単純な唯一人を除いては、だけど。
その単純な唯一人にとってはその消された存在が何であろうと、単に逮捕すべき対象でしかないものらしいけれど。
その健全さにあきれて苦笑して。
目を閉じて、シャワーの水滴を受け止めて。身体を叩く水流に息を吐いて汗と嫌な思いがその流れに流されていくのを感じる。
―――本当に、きみの単純化する能力は本当にうらやましい。
苦笑して、そうして。
――――…関、
ふと目をひらいて、浮かびかけた映像を消す為にくちびるを咬み、闇でなくバスルームを照らす照明を見詰めた。
そんな世界は、もうみたくはない。
「ああ、…まったく、――――…」
真面目にカウンセリングが必要みたいだけど、と。
―――ああでも、まともな医者じゃ無理なのかな?
どうにかして、コンタクトを取らなくてはならないかもしれない。常に世界中の予測もつかない場所に居て、かなり連絡が取りにくい相手らしいけれど。
―――…。
あの刻から。
正確にいえば、そう、…―――。
彼自身があの刻負った傷は、大したものではなかった。
その筈だったのだが。
だが、だからこそ、…―――――。
あそこで見たことの、意味が。
「相談するか、…それに」
それに、やっぱり、と。
――関。
単純に、会いたいんだけどね。
今度の件で、それに。
子供の頃からの安心毛布ではないけれど。
きみがいるだけで、安心できる。…まったく、いい大人なのにね。
小さな子供の頃からの習慣が、つまりこれは精神的依存とかって奴だろうか?と。
あきれながらも、シャワーを浴びて壁に手を置き、軽く拳を握るそこに額を押しつけて、あきれながら笑んでいた。
暖かなシャワーが物理的に身体を温めてくれるように。
息を吐く。
こどもの頃からの安心毛布な関に相談しようと決めただけで情けない話だが心が落ち着くのはどうしようもないことだけど、と。
あきれた話だけど、…けど、でもそれにね。
―――関って使えるし。
実際にいま起きている事件に関して、―――或いは事象と呼ぶべき事に関して。
例え専門外でも、関に相談して解決しなかったことがないしね。
まったく、どうしてあれで刑事なんて仕事にしていて解析とか分析のポストについていないんだか、と。
いつもあきれる本人の頑固さと職業選択を絶対に間違ってるって、と本人に対する度に思うことを考えて、思わず笑う。
まったくね、…きみは。
そして、そんなきみが安心毛布だなんて、僕もまったくね。
大きくあきれて、思わずそれに肩から力が抜けて。
―――…関。
とりあえず明日は安心毛布にケアしてもらうことにして、と。
随分と気楽に身体の緊張がとけるのを感じながら。
鷹城は明日のスケジュールを本人に問い合わせるつもりもなく勝手に関の分まで決めて細かな段取りや予定を立て始めていた。
二
「そ、れ、で?何だっておまえはいつも人の予定をきかずに勝手に何でも決めるんだ!おかげで今日は非番にさせられたんだぞ?解ってるか?おまえ!」
「ありがと、うん、美味しい」
しみじみ暖かいどんぶりに手を添えて、鷹城が温かなうどんをくちにしながらいうのにあきれて関が眉を寄せる。
「いいか?わかってるか?おまえ!おまえが突然人の都合も考えずにメールで突然連絡何か寄越すから、今日は突然休暇を申請することになったろうが!おい!聞いてるか?鷹城!」
しみじみ美味しそうにうどんを食べている鷹城を前に、関が睨んでいう。
ちなみに、しばらく事件が無くて暇な為、突然当日の朝に、しかも出勤した後に、突然携帯の画面を睨んで額を押さえて休暇を申請した関に、山下他、一課のメンツは課長も大歓迎して休暇を取らせてくれたのだが。
―――どういう事情か知りませんが、その事情ができるだけ長引くことを祈ります。
真面目に見上げていってきた山下と、感涙にむせびながら肩を叩いていった課長に。
―――幾らでも休暇を取ってくれていいぞ?関。というより、おまえが自分から休暇を申請してくれるとはなあ、…。おまえの有休、どれだけ溜まってるか知ってるか?普通の休暇だってとってないんだぞ?おまえ。
―――何処の誰か知りませんが、先輩に休暇を取らせてくれて感謝してます。
御礼をいっておいてください、という山下と、俺からもよろしくいっておいてくれ、本当に感謝する、と真面目にいっているらしい課長にかなり判然としないものを憶えた関だが。
―――まあ、いいんだけどな。
大体、いきなり連絡してくるこいつがいけないんだ、こいつが、と。事前にわかってれば、あーいう言い方を連中にさせないんだが、と考えつつ。そして、もしそうした場合、突然ではなく、段階と順序を踏んで彼が休暇を取るなどとした場合、一課の一同の心臓が持つのかどうかといったことはまったく考慮せずに。おれだって連絡が事前にあれば事前に申請して休暇を取る、と思ったりしながら。
仁王立ちで腕組みをして台所を背に、しみじみうどんを食べている鷹城を睨んでいるわけだが。
「なんだって、うどん何だ」
「うん、―――きみが作るうどんって本当に美味しいよね」
「褒めても何も出ないぞ?まったく、来るなら来るでもう少し前に連絡を寄越せ!突然朝っぱらにメールを寄越すな!」
そういって、唯一言書かれたメールの画面を見せる。
―――うどん
たった一言、それしか書いていないメールの画面をみせる関に、鷹城がまったく視線を向けずに、うどんを食べながらいう。
「おいしいよね、玉子うどん」
「おい、ネギとワカメを避けるな。それにうすあげも避けるんじゃない!」
玉子うどんを食べながら、何気に箸でそれらを避けようとしていた鷹城に関が突っ込む。
「…みてたんだ」
「真ん前でよくみえるんでな。おまえ、人に作らせておいて食べる物を避けるな。ネギとワカメとうすあげは食え」
「…うどんと玉子だけでいいのに。」
ちら、と上目づかいに関をみあげていう鷹城に、関が怖い顔をして唸る。
「…おまえな。栄養が偏るだろうが!第一、人に作らせたなら文句をいわずに食え!」
「リクエストしたのはうどんだけだったのに」
くちを結んでわずかに頬をふくらせていう鷹城に関があきれて眉をを寄せる。
「おまえな、…。人がわざわざ作ってやったのに何いってる!第一、リクエストは、うどん、だけだろうが!」
「だから素うどんでも良かったのに。玉子はうれしいけど、ワカメとネギとうすあげは何で」
「ワカメとネギとうすあげはうどんには付き物なんだよ。玉子うどんに玉子とうどんだけなんて許されんだろ!」
「…妙な処で頑固なんだから、…」
いいながら箸でネギを避けようとする鷹城を関が睨む。
「…―――食べないと、ダメ?」
「当然だろう。二度と作らんぞ」
「…はーい」
気の抜けた返事をしてネギを眉を寄せてくちに運ぶ鷹城にあきれて息を吐いて。
それから背を向けて、窓枠のように仕切られた台所のカウンター越しに手を伸ばし、材料を手に取って。
薄味の鰹で出汁をとったうどんは実に美味しくて、身体が温まるのを実感しながら鷹城は食べているが。
――それにしても、何で関西風なんだろうね、出汁が。
いや、本当に関西風なのかどうかはよく知らないんだけど、と思いながら。関は根っからの横浜育ちだという割には、何故か作る料理はいろいろと混ざっていたりする。
このうどんは特に顕著だ。関東風の黒い汁のうどんではなく、関西風のやさしい淡い色合いの柔らかな出汁は鰹の風味が豊かで、ほっと息を吐きたくなる。
だからこそ、リクエストで関の携帯にメールで唯一言、うどん、と送り付けた訳だが。
「で、今晩は泊っていくんだな?いつまで休みを取ったんだ?今度は」
「どーして休みを取ったってわかるんだよ?」
「そんなもの、おまえが突然メール寄越して何か食わせろときたら、そのまま泊っていくに決まってるだろ。おまえ、それ以外の予定立ててるのか?」
背を向けたままカウンター越しに料理の下準備を始めている関を、その背中をつい眺めてみて。
「うん、それはそうだけど。この処仕事が立て込んでたから、いずれにしろ休暇とれとはいわれてたからね」
「…だろうな。おまえ、本当にちゃんと公務員なんだから、週休二日とかはとれるんだろうが?しっかりきちんと定期的に休みを取る生活をする気はないのか」
手を動かしながらいう背を見あげて、うーん、と天井に視線を逸らしてみる。
「おい」
それが見えているように咎める関に視線を泳がせてみる。
「おまえな」
芋を剥きながら関が振り向いて睨むのに。
「ん、だってさ。おいしかった!ごちそうさま」
いうと空のどんぶりを前にいう鷹城に、関が振り向いて手を伸べて、どんぶりを取りカウンター越しに洗い場に置く。
なおも丸芋を剥きながら、手際良くすすめていく関の手をみながら、ぼーっと鷹城がしていると。
いつのまにか、芋を剥き終わってボウルを台所に置き、次に緑の豆をすじを取りながらさやと豆に別けている手をぼんやりみつめて。
ぼけぼけと、テーブルに腕をおいてこどものように眠り初めた鷹城をあきれた視線で関がみる。
「まったくな、…」
ハードな任務とやらが終わる度に、――ちなみに、すっごくハードな任務が終わったから癒されにきたー、と、まるでこどものようにいって戻って来てはいつもそういうのだが、――――こうして戻って来て本当にこどもの頃のようにだらけている鷹城に。
「まったく、おまえはな」
いいながら、軽く手を布巾で拭いて、鷹城の髪を掻き混ぜるようにして撫ぜる。
それにも起きずに、すっかり深い呼吸をして眠っている鷹城にあきれながら。
「―――…」
深く息を吐いて、グリーンピースを剥きながら、莢を別に切り、仕度を整えて。次に、カウンタの下にある貯蔵庫から、レンコンを取り出して軽く手に持って笑んで。
泥を取る為に洗い、良い音を響かせて切り、水にさらして準備をして。
冷蔵庫に入れて置いた牛すじを一度軽く焚いて味を染ませておいておいたものに、ごぼうの晒しておいたものを揃えて。
浅く沸かしておいた湯に散らした鰹節が散り、淡く色をつけるのに小口にしょうゆをすこし加えて、軽く味をみる。
さらさらと、水を湛えた鍋に剥いた芋とレンコンを入れて火を点ける。掬い取った鰹節を布巾で絞って、だしにグリーンピースの莢と豆に、刻んでおいたたまねぎをくわえて火に掛ける。
しばらくして火を止めて、煮立ってきた芋とレンコンから灰汁を取り、火を小さくする。パッドに置いた牛すじとごぼうを漬け込んでいた汁と一緒にしばらく経って煮えてきた芋とレンコンに足して。
そうしながら、土鍋に洗い置いた米を炊きはじめる。
ちら、と眠っている鷹城をみて。
台所に入ると、冷蔵庫から山椒を出して、布巾に絞った鰹節と合わせる。
粒山椒と鰹節をあわせて小鉢に盛り、缶詰のタケノコを出して軽く切り、煮立ってきた芋とレンコンと牛すじとごぼうが炊けてきている中に加えて。さらに煮立ってくるのに灰汁を取りながら、火を小さくしてグリーンピースの莢と豆に玉葱を加える。
味をみてすこし醤油を足して、火をさらに弱くする。
しょうがを軽く刻んで、それから。
炊けた飯に蓋をあけて、具の様子に軽く笑むと生姜を足して蓋をおいて蒸しなおす。
さらさらと小鍋に昆布を入れて出汁をとり、醤油を加えて澄まし汁の準備をする。
とろろに昆布をふわりと削り、器にいれて蓋をして、それから蒸した炊き込み飯の様子をみて具をさくりと混ぜ入れる。軽く混ぜて山椒を上に散らして。
もう一度蒸す為に蓋をおき、次に焼魚に添える為の大根を下ろしながら、漬けておいたはじかみをちら、とみて。
はじかみの漬け汁を何かに使えないかな、と考えながら大根をおろして、辛いのが苦手な鷹城の分に器に入れて山椒を刻んだものをまぜて少し空気にさらす。
はらわたをとり、始末をつけた秋刀魚の身を綺麗に切り分けてパッドに置いて。酢〆に薄く漬け込んでカボスを切って上に散らして焼く準備をしていく。
漬け汁にこれも実山椒に生姜を入れて、煮ていた芋の火を止めて、秋刀魚を漬けたパッドを冷蔵庫に入れ、沸いてきた鉄瓶の湯に、手製の玄米茶を淹れて暫し手を止める。
顔を組んだ腕に落して座ったまま寝ている鷹城をみて、少し苦笑して。
それから、茶を呑んで、ふうと息をついて。
鷹城は、ゆっくりと夢をみているような、みていないような心地でいた。
良い匂いがする。…―――
それに、ときおり、気持ちを落ち着けるような包丁のおと。
リズミカルに軽く俎板を叩く音は、耳に心地良い。
だから、こうして、…。
昔から、関がご飯の準備をしながら何かいったりしている傍で、寝ているのが大好きだった。
それは、本当に子供の頃から、――――…。
微笑んで寝ている鷹城を見ながら、関が香ばしい炒った麦を混ぜた玄米茶を手に温めてゆっくりと呑んで、思わずも微笑んで。
微苦笑を零して、あきれながら寝顔を肴に玄米茶を呑む。
三
「ん、美味しい!関、どーして刑事じゃなくて、お店開いてないの?」
勢いよくご飯に向かって、いただきますをして箸を手に取るとまず炊き込みご飯の匂いをかいでうっとりして、満足そうに笑みを浮かべて食べながらいう鷹城に軽く頷く。
「勿論、引退後は飯屋をひらいて生きていくつもりだ」
「そうだよね、ずっと前からの人生設計だものね。料理屋の前に刑事があるのが理解しがたいけど。…うーん、良い香り!最高!あさりの炊き込みご飯なんて、もう本当に最高!生姜と山椒の匂いがもう素晴らしいし!関、お嫁さんにほしいよね、本当!」
「いってろ。吸いものもくえ」
「うん、…――とろろこんぶ最高、…――ふわふわ」
ふー、と息をつきながら、手削りのとろろ昆布がふわりと吸い物に溶けていくのを眺めて楽しんでくちにする。
「うーん、エンタテイメントだよね、良い香り」
昆布の良い香りが広がって、澄まし汁のしょうゆ味と溶け込んで柔らかく舌を刺激する。肩をそっと疲れが落ちて消えるのがわかるようで、ほーっと息をついてぼーっとしている鷹城に促す。
「ほら、熱いうちに魚」
「うん、…かぼす!いいなあ、…。かぼすだ、―――…実山椒とこの大根おろしって良いよね。からくないし」
焼き色のついた秋刀魚の皮と身を箸できれいに外しながら、鷹城がしみじみと焼けた身と大根おろしに山椒の効いたものに僅かに醤油を付けてくちに運んで。
しみじみ無言でしあわせに浸っている鷹城に、無言でちら、と視線をくれて。その後は、煮物の緑が綺麗な莢と豆に感動しながら、玉葱の甘さだけで軽く炊き上げて煮込んだ牛すじと丸芋の旨さに鷹城が感動して無言で目を閉じてしみじみ頷いていたり。
しゃきしゃきとしたレンコンの歯触りに感動していたり。
少しだけ添えられた鰹節と実山椒をあえて小皿に盛られたものに、白いご飯も食べたいっ!と騒いでいたり。でも、このあさりの炊き込みご飯最高―!と感涙にむせんでいたり。
忙しい鷹城を前に、黙々と飯を食いながら、関は明日の朝は蕎麦にするか、などと考えていた。
―――つけ汁にオクラと葱だな。それにとろろを少々、と。
明日の段取りを考えつつ、黙々と飯を食っている関を前に。
――ご飯、おいしいって本当に最高だよね。…
本当にご飯がおいしい、仕事がんばっててよかった、と。
かなり本気でしみじみ考えている鷹城と。
とろろ昆布、もいいが、山芋で本物のとろろ蕎麦もいいな。
山芋は無いから買い出しにいかないとな、と。市場の馴染みの親父の顔を思い浮かべている関。
平和に、穏やかに夜は更けているようだった。――――
四
「…おい!起きろ!鷹城!―――――…秀一!」
蒼白い肌に冷たい汗を掻いてまるで死人のような寝顔で。響き渡る悲鳴をあげたにもかかわらず目蓋が動くこともない鷹城の肩を揺さぶり、関は大声で喝を入れるようにその名を呼んでいた。
「秀一!起きないか!おい!」
薄く掻く冷たい汗と、僅かに呼吸で動く喉のようすが見えなければ、本当に死体に良く似ている。
隣に布団を敷いて何事も無く就寝した夜中に、突然響いた悲鳴で飛び起きたが。
「鷹城、…おい、秀一?」
額が、黒髪がしずかに冷や汗でしっとりと肌にはりついていて、手でそれを撫ぜて歯を食い縛った。
「しっかりしろ、起きるんだ、…おい、…」
「…関?―――ああ、どうしたんだい?」
ぼんやりと黒瞳が蒼い翳を映したように彷徨ってまだ何か別の物をみているようにしてひらいて。
まだ動くことができないように、浅い息だけを零して。
おとなしく関の腕に支えられたまま、ぼんやりと鷹城がいう。
「僕は、…悪夢がね、…。もしかして、さけんだ?」
「ひどくな。家が一軒家で隣が離れてるのでなけりゃ、とうに通報されてるはずだ。いや、いまもされててもおかしくないぞ」
真面目にいってみせて、それから言葉を切って汗に濡れた黒髪を額から退けて、くちを噤む関に、微かに笑う。
「ごめん、…迷惑かけたね。刑事が通報されたんじゃ、困らないかい?」
「こまるな。…何のゆめを観た?」
穏やかに静かに落ち着いた声が問うのに、―――…ああ、関らしいな、と安心する。けして、こういうときに大声で責めたり、自身の感情を籠めたりはしない。それがどんなに大変な事か、結構随分経ってから理解した。ついでに、自分がどれだけ幸運だったのかも。
半身を抱き起こされて支えられたまま目を閉じる。
あの刻、何かが一つ違っていれば、自分は生きて此処にいないだろう。…
「昔のことか?」
穏やかに問う声に、どれほど支えられてきたことだろうか。
無言で首を振り、腕に支えてくれる体温に感謝する。
「うん、…違う。最近のね、…あっちの方なんだ。…あの刻、へんなものをみてね。きみに言おうとおもって、あの場では機会が無くてとりまぎれてた」
浅く息をついていう鷹城に。
「わかった。きいてやるから、―――…いま話すか?」
その声に、寝巻に着ていた浴衣が随分と濡れて冷えるのに気がついて。紺の絣模様の同じく夜着にする浴衣を着た関の衣に、自らの白に紺で井桁模様の浴衣の濡れて冷たいのが重なっているのに。
「ごめん、濡らしたね。」
「構わん。何にしろ洗い替える。…熱はないな」
額に手をあてていう関に、少しあきれて視線を送ってみせる。
ようやく目をひらいて、あきれたと目で伝える鷹城に。
子供にするように頭をぽん、と叩いて笑んで。
「風呂にでも入るか?」
「そうだね、…。汗がすごいね。布団も干さないと」
「おまえが明日やってくれ」
「わかった。けど、…」
目を閉じて手の甲に額を預け、息を吐く鷹城に。
「どうした?」
「いや、…つかれた、とおもって」
「なおさら風呂だな。此処にいろ」
頭を叩いて、立つ関を思わずみあげて。
あっさりと風呂を仕度にいく背に。
つい苦笑して、軽く叩かれた頭に手をやって。
息を吐いて、目をとじていた。
五
柚子が良い匂いをさせている桧が良い香りをさせる風呂に、久し振りだな、とおもいながら鷹城は身を浸していた。
つかれがほどけるというのは、こういうことだろう。
清らかな湯が波紋を投げ、ふう、と息を吐いて身をしずめる鷹城の周りで波紋がひのきの木肌にふれてくだけて消える。
それを見るともなしに見ながら。
手に掬った湯を肩に掛け、背を湯船に凭れさせて天井を仰ぐ。木肌のみえる天井は湯気に僅かにくゆって霞み、その湯の温かさに大きく息を。
目をとじて、湯をたのしむ。
温かな湯に、透明な水が生み出す波紋。湯気が周囲を僅かに白く煙らせて、湯船にそそぐ掛け流しの湯が立てる波紋と音色が心地良い。湯船から溢れた湯は、簾の子の板に柔らかくあたり、室内全体を温めて流れ落ちる。
――寝てしまいそうだな。
先に夢に訪れた冷たく血を失い寝る―――最期の眠りとは随分と違う。
いや、案外最終的には死ぬ際には、――――…。
気持ち良い死に方なんて、無いものかもしれないけど、と。
苦笑して思い出し掛けた悪夢を首を振っておいやり、温かな湯に一度頭まで沈んでつかって。
息をとめて潜って、勢いよく顔を出して。
笑顔になって、さて、と思っていた。
温かな湯に、いくらか悪夢は後退した。
それでも、退治するには、まだ向き合わなくてはいけないことが多いけれど。
それでも、…――――。
いま、この陣地を選んだのはわるくないよね。…
闘いを挑むのに、それが何であれ、対するに味方を得て、できれば得意な陣地で行うのが最上というものだと。
一人で何もかも抱え込んでも、何も解決しない。
援けてくれる手があるなら。
それがいかに貴重で、一人だけで闘わなくてはならない刻もあるからこそ、必要だと。
死ぬほどの悪夢、…―――――。
別にそれが比喩じゃないなんてね。
微苦笑をして、目を閉じる。
夢に蘇るもの。
あの刻にみた、…――――――――。
―――それは確かに、転がる、己の死体だった。
あの刻、自分は死んだのだと、―――――。
湯の掛け流される音が、ゆるやかにきこえている。
六
「どうした?ふやけたか」
関がいうのに、手に温かな茶を受け取って見上げる。
「ふやけてないよ。ありがとう」
軽く頭をぽんぽん、と叩く関に何もいわずに御茶を手に口許に運んで。新しい浴衣に身をつつんで、さっぱりしたな、と思いながら。
紺の着物を着たままの関に訊ねる。
「きみは入らなくていいのかい?」
その鷹城に手を大きく伸ばしてきて。
手を頭に置いたまま、視線をあわせて覗き込んでくる関にくちを結ぶ。
「あのね、こどもじゃないんだから」
「世話が掛かるのは一緒だけどな。少し落ち着いたか」
柔らかく微笑む関の眸に、少しあきれて息を吐く。
「あのね?…うん、ありがとう」
ぽん、とその鷹城の頭に手を軽く放して。そうして、大きく抱き寄せる手に、ほっと息を吐いていた。
このまま、顔を見せたまま泣くのは絶対にしたくなかったから。
肩に額を置いて、零れてくる涙を問わずに。着物の紺絣に染みる涙を問い掛けずに、関はしずかに鷹城を支えていた。
七
いつの間に寝てしまっていたのか。
「…せき、」
こどものようにおもわず無防備にみあげて、瞬いていた。
「…まったくな、しっかりしろ。大人なんだろ?」
僅かにからかうように温かく笑んで。またしても頭に置かれた手に苦笑する。
「関、…―――そうだね。大人だよ」
あきれに笑んで、見返す鷹城に軽く頭に置いた手をぽんぽん、と叩くように動かす。
「確かにな」
あきれた声でいうとあぐらをくずして立ち、何処かへ行く関に。
さらに、戻ってきた関が手にしていたものにあきれて見返していた。
「おまえ、いまはこれでも飲んでろ」
「いうに事欠いて、ホットココア?牛乳なんだ?つまり?…甘いんだけど」
「甘いものも神経を落ち着ける。とりすぎなければだがな」
「…――子供扱いも極まってる、…。」
「他に何があるんだ」
「うーん?」
思わず牛乳ベースのミルクココア、―――ほっと温まる飲物なのは実に確かだが、―――をつい、誘惑に負けて飲みながら、考え込んで眉を寄せる。
ちなみに、職場では大人としてコーヒーをブラックで飲むが、実をいうと甘めのココアが大好物な事は秘密にしているのだが。
「ひみつなのに」
つぶやいてココアをじっとみる鷹城に、関が冷静に指摘する。
「おい、こぼすぞ」
「わ、…ありがと、ごめん」
慌ててココアの入ったカップを持ち直す。
「まったくな、…。おまえ」
「…ぼくはこどもじゃありません」
主張する鷹城に関が鷹揚にうなずく。
「そうだな。明日は蕎麦じゃなくて、鮭におぼろどうふにするか」
「それって?…焼鮭におぼろどうふ?」
期待につい目を輝かせる鷹城に頷く。
「いただきものの西京漬けがあってな。上司にもらったんだが。柚子味噌を試作した処だから、あれときゅうりに豆乳掛けのおぼろどうふの椀を出そう」
「いますぐ朝食でもいいんだけど」
「いってろ」
頭を軽くはたかれて、ミルクココアを飲んで、少しだけ鷹城が笑う。
そして、そっと考える。
――この世の終わりが届くときに。
できれば、僕はきみといたいなんて、…。
あまえていると、怒られるよね、と。
微笑むと、あまさに眠気がまた訪れて。
ゆっくりとねむりにのまれていく秀一を、関が見守って。
ぽん、と。
頭を軽くたたかれて、布団にねかせなおされる頃には、すっかり鷹城はねむりについていた。
翌朝。
実に美味しい朝食を食べながら、鷹城は何か黒塗りの御重に詰めている関の背をみながら首を傾げていた。ちなみに、おぼろどうふは豆乳からその場で関が作ったもので、実に温かく美味しかった。
「それはなに?」
「弁当だ。おまえにな」
「…―――え?至れり尽くせりなんですけど、どうしたの?関?」
「しっかりめしを食わないから悪い夢をみるんだ。ちゃんとしっかりくえ」
「そ、それは、…ありがたいけど」
関の作った弁当、と手許を覗こうとしながら、見えないのにあきらめて。
きゅうりの軽く塩をして絞ったものに柚子味噌をつけて感動する。
「…美味しい、―――」
しみじみしてしまって弁当の中身を訊きたかったのをわすれる鷹城に。ちら、と背中越しに視線を向けて、あきれながら関が思う。
――しかし、みえないな。確か、二佐っていうのは中佐なんだよな。
ようやく最近仕入れた知識を思い返して。
――二佐って中佐ですよ、わかりやすくいうと。鷹城さんって偉いんですね。
仕入先の山下が感心していっていたのを思い出す。そして、無言でおぼろどうふに感動している鷹城を眺めて。
――絶対に、みえん。
眉を寄せて、どうしても普段はそうみえない鷹城に。
―――これも詰めておくか。
黒塗りの重に一つ仕切りが空くのに、思い出して先日作った肉味噌も入れることにする。
綺麗に詰めて満足して蓋をして。
「食ったか?」
「うん、ごちそうさま!美味しかった、――――」
しみじみして余韻に浸っている鷹城にいう。
「しばらくしたら出るぞ」
「うん、…。御茶が美味しい」
ほっこりと手にした玄米茶を呑んでしみじみしている鷹城に。
顔色は戻ったな。
そう思いながら、風呂敷に御重を包む。仕事は待ってくれるものではない。そして、当然ながら、このばかにいつもついてなどいてやれるような仕事でもない。
――本当に、料理屋をはやくひらくべきかもしれないな。
関が考えながら、始末をして。
「――行くぞ」
「うん」
明るく返事をして立ち上がる鷹城が、いつも表に出しはしないが、重い何かを抱えていることは知っていた。
そして、それを仕事にしていることも。
「今日は送ってやる」
「えー?それって、至れり尽くせりというより、唯のいやがらせ?」
「うるさい。おまえが車酔いするからいけないんだろう!」
「しずかな運転なら大丈夫なんです!」
「なら、おまえが運転してみろ」
「確かに免許はあるけど、ゴールドのペーパードライバーだからね?命預けられる?」
「…―おとなしく車酔いしていろ」
えー、酷いっ、と鷹城が返して。
賑やかに、関家を後にしていく関と鷹城の二人。
いましばらくは、悪夢も届かぬ明るい朝に。
そうして、賑やかに声はあかるく響いている。
――この一刻の平穏に、――。
「この世の終わりが届くときに」
I want to go home.
了