第1冊 夏目漱石『こころ』 貴様、それでも先生かッ! 前編
令和。
東京・神保町。
古本の匂い、カレーの匂い、そして人の群れ。
その中を、俺は今日も歩いている。
詰襟の学生服に、くたびれた学帽。足元は下駄。頭は七三分け、眉毛は生まれつき濃いめ。
何人かがすれ違いざまにちらっと見るのは慣れた。
そりゃそうだろう。いまどき、アルミの弁当箱を二段ぶら下げて歩く高校生なんて、まずいない。
俺にとっては、これが正装だ。誇りだ。信念だ。
学生服は二年前に中古屋で買ったやつ。
最初から多少破れていたが、縫い直したりはしない。
それが味になる。
洗濯もしない。埃と汗が染みついて、俺の歴史が刻まれている。
襟の内側なんて、すでに真っ黒だ。ボタンも三つは欠けてる。
学帽も色あせて、ツバの革が割れかけてる。
だが、俺はこれを脱がない。
ブレザーを着ろだの、ローファーにしろだの、教師どもはうるさいが──聞く耳は持たない。
なぜかって?
俺はバンカラだからだ。
手に持っているのは、いつものセット。
特大のアルミ弁当箱ふたつ。
中身は、白飯。
それぞれの真ん中に、梅干しが一粒ずつ。
ただそれだけ。
「米は力、梅は魂」
それが俺の昼飯哲学だ。
あとはポケットに英語の辞書。
ジーニアス英和辞典・初版。
ボロボロ。もはや背表紙など存在しない。
ページは黄ばみ、角は擦り切れ、雨に濡れた跡さえある。
俺はそれを片手で開いたまま、神保町の歩道を進む。
ページをめくり、ひとつ単語を読む。
目を細めて、脳に刻み込む。
──そして、破く。
ビリッと音を立ててページを破り、そのまま口に放り込む。
二つ折りにして、ムシャムシャと噛む。
歩きながら、無表情で紙を食ってる高校生。
すれ違う会社員がぎょっと目を見開く。
向かいから歩いてきた女子高生二人組は、俺と目が合った瞬間、ピタリと動きを止めた。
「あっ……」
ひとりが口を押さえる。もうひとりは泣きそうな顔で、道の端に避けた。
俺は気にしない。
紙は、少し苦い。けど、それがいい。
これは学の味だ。
「知識は、食って血にしろ。胃袋で覚えろ」
近所の戦前に苦学して大学教授になった爺さんが、昔そう言ってた。
だから俺は今日も、覚えた単語を喰う。
さっきはconscience。良心。
いま口の中でふやけているのはcowardice。臆病。
──つまった。
喉にひっかかった。ページの角が、やたらと硬い。
「……ゴホッ、ゴッ……」
慌てて、すずらん通りのサンマルクカフェに駆け込む。
レジには目もくれず、水のピッチャーを見つけ、紙コップに注いで一気に飲み干す。
やっと通った。
胸を叩いて息を整えた。周囲の客がこちらを見ている。
だが、気にしない。
俺は珈琲など買わない。カネがない。
客として扱われていないのはわかってる。
店にとっては迷惑かもしれない。だが仕方ない。
俺は、あらゆる縁を断ち切って生きている。
家族とも絶縁した。
誰にも頼らず、アルバイトで稼いだ金で学費を払い、最低限の生活を続けている。
住んでいるのは、西早稲田のアパート──というか、取り壊し寸前の木造長屋の三畳間だ。
畳は凹んでるし、壁には雨染み。冬は風が吹く。
風呂はない。
流しで身体を洗ってる。頭も、そこで洗う。
タオルで拭きながら、冷たい水のしずくが床に落ちる音を聞いてると、
自分がちゃんと生きてるんだなって気がしてくる。
紙コップをゴミ箱に放り込んで、サンマルクを出る。
夜は道路工事のアルバイトだ。
深夜のシフト。都内某所の舗装現場。
時給は高いが、コーンの設置から交通整理、片づけまで、全部肉体労働。
それでもいい。身体がきしむ感覚は、生きてる実感になる。
文庫本を一冊買う金さえ稼げれば、それでいい。
さっき、靖国通りの古本屋で見つけた文庫本。
表紙が擦れて判別しづらかったが、背の赤いラインですぐにわかった。
──夏目漱石『こころ』。
また、これだ。
100円。
嫌な予感はしていた。
けれど、なぜか、また買ってしまった。
歩きながらページを開く。
目に飛び込んでくるのは、先生の語り。
私の追いかける姿。
Kの、あの死。
読み進めるたびに、
心臓が、イラつきでドクドク言い出す。
「……はぁ……またかよ……」
私は先生を尊敬していた
Kは陰気な男だった
あのとき、私には何もできなかった
先生は、手紙にすべてを書きました
「は?」
ページを止めた。
しばし、立ち止まって本を見つめる。
心の中に、黒い煙のような怒りが、ゆっくりと立ちのぼっていく。
「それで……終わりか? あんた、それでケリがついたと思ってんのかよ……」
拳が、震えていた。
そうして、イライラしながら、『こころ』を読み進めていたときだった。
「……ッ!」
横断歩道の先、車道にふらふらと出ていく小さな影が見えた。
子どもだ。
ランドセルを背負った、小学一年くらいの女の子。
手にしていた絵本が風に飛ばされ、それを追いかけたのだろう。
だが──
「バカヤロウ!」
反射的に身体が動いた。
横から突っ込んでくる白い車体。
サイドには「株式会社ト○○ン」のロゴ。後ろに「○○配本センター」のステッカーが貼ってある。
どう見ても、文学を積んで走るトラックだ。たぶん、後部座席に『こころ』も積んでる。地獄か?
まるで、活字の亡霊みたいに、猛スピードで突進してくる。
間に合うか? 間に合うのか?
心が焦げつくような音を立てた瞬間、
俺は女の子をひっつかみ、背中で庇うようにして地面に飛び込んだ。
「おおおおおおらァァァァァッッ!!!」
道路に叩きつけられる直前、ほんの一瞬、俺は空を見た。
青い。
梅干し色の太陽が、俺を嘲るように輝いていた。
──そして。
ドガァァァァァン!!!
書店のトラックが、俺の身体を直撃した。
骨が軋む音がした。
肺が潰れた。
目の奥が真っ白に焼けるような衝撃が走った。
けれど、最後に見たのは──女の子が、泣きながらも無事に立ち上がる姿だった。
よかった。助けられた。
「ふっ……けっきょく……文学に……殺されるのか、俺は……」
意識が、深い闇に沈んでいく。
ページのように、世界がめくられる音がした。
一枚、また一枚、風に翻るように現実がはがれていく。
その果てに、深い闇と、まばゆい光があった。
「……起きなさい」
どこか遠くで、声がした。
「番場魂太郎。今、あなたを呼び起こしているのは──私」
まぶたの裏に、金色の光が差し込む。
ゆっくりと目を開ける。
そこは、奇妙な場所だった。
大理石の床。
柱が立ち並ぶ空間。
どこまでも高い天井と、雲ひとつない青空。
ギリシャ神殿のような、神々しくも現実味のない世界。
そして──
その中央に、女がいた。
とんでもない女だった。
身体つきは、むせかえるように肉感的だった。
胸、腰、尻、脚──全部が曲線でできているみたいなスタイル。
肌は艶めいて、透けるように白いのに、どこか褐色の混じった色気がある。
髪は長く、黒にも金にも見える。
瞳は紫がかって、まるで濡れた宝石のようにきらめいていた。
そして──服が、ない。
いや、まったく裸というわけじゃない。
でも、着ている布の面積が、ほとんど見せるための飾りにしかなっていない。
レースのような布が胸を横切り、腰に巻かれたベールが尻をかろうじて隠しているだけ。
そのくせ、圧倒的に気高い。
下品な感じがまるでない。
見惚れる。目が離せない。
一瞬で、言葉を失った。
「あなたが……番場魂太郎ね」
女がゆっくりと歩み寄ってくる。
足音はしない。香りだけが、風に運ばれてくる。
蜜と花、それに少しだけ鉄と血の匂い。
俺の目の前で立ち止まり、女は静かに、しかしはっきりと名乗った。
「私は、セリュティア=アルフェンティナ=ノワリス=カスティーリア。
……けれど、長いでしょ。あなたは、好きに呼んでいいわ」
「…………は?」
あまりの名前の長さに、思わず間抜けな声が出た。
「…………は?」
そして、俺は──瞬時に理解した。
なんか……見たことがある。
いや、聞いたことがある。
クラスメイトたちが昼休みにスマホで読んでいた。
弁当を食いながら、嬉々として話していた。
「レベル999の魔王が〜」とか「最強スキルで無双して〜」とか、なんとか。
たしか、表紙はどれも似ていて、
セーラー服の女が剣を持ってたり、スライムに巻かれてたり、
タイトルがやたらと長くて、しかも全部説明っぽいやつ。
そう──ライトノベル。
山のように量産され、山のように消費されていく、あのジャンル。
異世界だの転生だの、ゲームのステータスだの、テンプレだの。
なるほど。
これはつまり……異世界転生ってやつか。
──理屈ではない。
魂で理解した。
「……そうか。異世界、か……」
「そう。よくわかったわね」
セリュティアが、優しく微笑む。
セリュティアが、優しく微笑む。
神殿の空気が、わずかに揺れる。
俺は立ち上がり、学帽をかぶり直した。
「……いくのは、どこの世界だ?」
そう訊いた俺に、セリュティアの微笑が深まる。
「その言葉、待っていたわ」
彼女は静かに手を広げる。
空気に、光の粒が舞い始める。
「あなたに救っていただきたいのは、文学。
物語そのもの。
時を越えて読み継がれてきた名作たち。
けれどそこには、救いのない人々が、いつまでも閉じ込められている」
俺は黙って聞いていた。
「あなたはずっと、登場人物に感情移入してきた。
ページの向こうに、傷つき、壊れ、報われずに死んでいく者たちを見て──
そのたびに、拳を握っていた。
赦したいと願い、怒り、救いを欲していた」
セリュティアが言う。
その声は風のように静かで、けれど真芯を撃ち抜いてくる。
「だから、お願い。
あなたの拳で──彼らを救って。
物語の内側に囚われた、あの者たちを」
「……わかった!」
俺は即答した。拳を握ったまま、胸を張る。
「じゃあまず、チートをひとつ──」
「いらねえ!」
セリュティアの言葉をぶった切った。
「えっ……?」
「チートなんていらねえ!
俺は、自分の拳と魂で戦う。
レベルもステータスもスキルもいらねえ。
そんなもんに頼って物語の中を歩くぐらいなら、最初から読み直す」
「……だ、大丈夫なの?」
セリュティアが一歩引いた。困惑、そして、若干の呆れ。
「いいのよ。あなたなら、きっとそう言うと思ったから。
サポートは、こちらで適切に行うわ。……ただし、必要最低限にね」
「おう!任せとけ!!」
俺は高らかに叫ぶ。
学帽のツバをぐっと下げ、拳を握る。
「文学を救うために! 俺が行く!!」
眩い光が世界を包む。
次の瞬間、ページが音を立ててめくれた。
そして──俺の物語が、始まった。