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頼りない弟でごめん

「…なに? どうしたんだよ? 江村…さん?」

「海里……」



 いつもなら、生意気にも江村と呼び捨てにしてやるところだが、思い詰めたような表情と声に、思わずさんをつけてやった。

 マジで江村がこれほど表情を無くすことは滅多にない。


 トラブルばかり起こしがちな俺たちの、特に俺のか? 

 主任マネジャーとしては肝を座っている方だし、わがまま放題な俺たち、いや特に俺か?

 社長の板挟みになるのも、しょっちゅうだから、慌てふためいたり、大騒ぎしたりすることはあっても、これほど青ざめることはない。


 はず…。


 それに俺たちの専属、特に気むずかし屋と言われている俺様の専属になるくらいだから、それなりに出来る人間だし、事務所内においては、間違いなく優秀の部類にはいる。

 もっとも性格的に軽いところがあるし、あの社長とは昔からの先輩、後輩の仲だから、社長からは無理難題を言われたり脅されているけど。


 その江村が、これほど思い詰めた表情を浮かべるのは、正直、今まで観たことがない。 だから、とてつもなく悪い話に違いなく、横にいた桂が俺よりも緊張したのがわかった。

 名前を呼ばれたのは俺だから、俺に関わることのばずだけど、桂が俺に心底心配そうな視線を向けてくる。


 こんなに心配性でよく長年、俺の親友をやってるもんだ。 

 いや……違うか。

 俺の親友やってるから心配性なのか? 

 ま、どっちでもいいや。



「海里……社長が呼んでる」

「なんだよ、クビとかじゃないよね? 俺、ちゃんと仕事やってんだからさ」



 おいおい、社長様のお呼び出しかよ。

 軽い言葉で返したつもりだけど、アイドルにあるまじきにも微かに表情が引きつった。


 世間様では俺様のことを王子様タイプだと絶賛してくれるが、社長には、ちょっと…イヤ、かなり生意気な態度を取ってるし、世間様が賞賛してくれるこの容姿を……まあ、鼻にかけてトラブったことも多々…ある。

 それでも俺の才能を愛し、陰に日向にかばってくれているのは、その社長だ。

 でも、さすがにあの社長だって、堪忍袋の緒が切れることだってあるはずで、思い当たる節がありすぎる俺は、こりゃ、クビを覚悟した方がいいかなと、ため息をついてから、社長室に向かった。


 呼ばれたのは俺だけなのに、心配しているのか、桂も付いてくる。

 こいつの、こんな控えめな態度が俺にはとても心地良い。

 自分でいうのもなんだけど、姉ちゃん以外の人間に頭を下げるなんてのが苦手で、その上、自己主張の塊、あげくに性根がいいとお世辞にも言われたことのない俺にとっては、桂のこの物静かな性格がなければ、巧く友人関係は築けない。

 

 ビルの四階が、俺にとっての人生の大きな岐路だった。





 そこにいたのは…小さな子供のような背中だった。

 廊下にまで漏れ聞こえる慟哭を上げる小さな背中。

 暗い暗い、小さな部屋。


 僅かな灯りに照らされた部屋の中にいたのは、俺のより年上の人のはずだったけれど、外聞もはばからず、声を上げ泣いている背中は、小さな子供に見えた。


 姉ちゃんは体を震わせて、今まで聞いたこともない悲痛な声で泣いていた。

 俺の足音が聞こえたのか、泣き顔のまま姉ちゃんが振り返る。


「っ…」


 父親が同じなだけの十歳年上の姉。

 父親が同じの大切な血のつながった人。

 たった一人の家族。


 母親に十分な愛情を与えられなかった俺に、言葉もなく優しくしてくれた人。

 今の俺と同じ一八歳で、八歳だった俺を育てると決心してくれた人。

 物心ついた頃には姉ちゃんはいつも俺にいろんなことをしてくれた。


 幼稚園の送り迎えもしてくれた。

 母親に半ば捨てられたような俺を、母親代わりになって本当に大切にしてくれた。

 俺が寂しがらないように、雨の日には必ず迎えに来てくれた。

 朝ご飯を作って、お弁当を持たせてくれた。


 自分は何一つ、母親からされていないのに、俺にだけは愛情を込めてくれた人。

 いままで、誰よりも頼りになる姉だと思っていた。

 俺よりずっと大人で、俺よりもっと大きくて。

 でも泣いてる姉ちゃんのこの小さな背中が、悲しみに震えてるこの背中は、小さな子供のようだった。

 今まで、この人は、この人なりに無理をしていたんだと直感的に悟った。

 姉ちゃんには頼れる人は今までいなかった。

 不仲の両親の間に生まれて、母親からの冷たい離別を経験して、父親からは背を向けられた。

 俺と同じ幼児期を過ごしていたのに、いつも俺のために何かをしてくれていたんだ。

 声を上げて泣きたいこともあっただろうに一度も泣いた顔を見たことがなかった。


 強い人だと勝手に思いこんでいた。

 ずっと、ずっと、大人なんだって。

 

 愛した人間が死んでも、強いままでいられる人はいない。

 俺を社長の命令で送ってきてきた江村が、居たたまれなさそうに入口にたたずみ横を向いた。

 一緒についてきた桂が、今にも泣き出しそうな表情で唇をかみしめている。


 こんな理不尽なことがあっていいのか。

 今まで必死に頑張ってきた姉ちゃんが、なんでこんなめにあうんだろ。


 世の中には、もっと酷い目にあったほうがいい奴は沢山いるじゃないか。

 子供を平気で虐待する親とか、自分より弱い者に対して平気で暴力を振るう奴とか。

 そういうやつこそ酷い目をみればいいのに。


 心から自分を託せる人に逢ったのだと、姉ちゃんは笑顔で言っていた。

 明日は、その姉が白いドレスを着て、名字が変わる日だったのに。

 こんな理不尽なことはない。

 結婚式の前日に夫となる予定の人間が、自分の人生を自分で幕引きをするなんて。



 ほんの数歩で、姉ちゃんのもとに着いた。

 頭で考えた結果じゃない。

 体が勝手に動いてた。

 座り込んで号泣している姉ちゃんに寄り添うため、しゃがみ込んで、その肩を抱いた。

 抱き寄せて腕に力を入れて、俺はいるんだって、ここにいるんだって教えた。


 父親が死んだときも何も感じなかった。逆にやっと死んでくれたと思ったくらいだった。

 殆ど家にいなかったから、親だという認識は俺の中には存在していない。


 自分の義兄となる人が死んだことが悲しい訳じゃない。

 姉ちゃんがこれほど嘆き悲しんでることが悲しいだ。

 これほど胸が痛むことなんて経験したことすらなかった。



「海里……海里! 和維さんが!! 和維さんが……」


 抱き寄せた体から声の震えが伝わる。

 人目をはばからず声を上げて泣く姉ちゃんの震え。

 次から次へと、こぼれ落ちて俺の肩が濡れる。



「海里…っ、海里っ」

「………姉ちゃん…」



*****************




「海里。マスコミが集まってる」


 冷静な声で姿を見せたのは、俺たちの叔父にあたる人で、こうみえても一流の弁護士先生だ。

 変わり者だけど、俺と姉ちゃんなとっては命の恩人のような人。

 そして、父親に近い存在の人。

親戚なんて誰も信じられない中で、この人だけは信じられるから、俺も姉ちゃんも全幅の信頼を置いている。


「え? マスコミ」


 驚いた声を上げたのは、俺ではなく桂と江村だ。


「とある政治家先生がこの病院に緊急入院して、報道が集まっていたらしいだ。そこに海里と桂が病院に入っていく所を観られていたらしく芸能関係が集まっている。いま、事務所の社長から連絡があった。………車を回すそうだから、海里は里海を連れて、俺が用意したホテルへいけ。社長がスケジュールの調整もしてくれるらしい」


 そりゃ、当然だ。


 家族が亡くなったら葬式だってあんだから。

 それに、俺達が今住んでいるあのマンションは、姉ちゃんの旦那が一緒に住むために用意したものだ。

 あんなところに帰れるはずがない。

 

 しばらくしても返事のない俺にしびれを切らしたのが、叔父さんが再度声をかけてきた。


「聞いてるのか海里。里海をいつまでもここに置いておくわけにはいかない」


 恋人の亡骸にしがみついた姉ちゃんを、無理矢理引きはがして、俺は姉ちゃんを支えて歩き出した。

 こんな場所に姉ちゃんをおいておきたくないのは俺だって同じだ。

 しかも、こんなに悲しませるような男。

 たとえ事故で死んだにしたって許せるはずもない。

 そんな男と一緒になんて絶対に許さない。


 泣きつかれて放心状態の姉ちゃんの肩を抱いて病院側が用意した職員用の駐車場に向かう。

 そこに止められていた二台のワゴン。


 俺と姉ちゃん、桂と江村が別れて乗り込むみ車が出た瞬間、待ち構えていたマスコミのフラッシュが一斉に光る。

 こんな光景など慣れきった運転手は、気にとめるでもなく車を発進させる。


 ひかれたとしても、自業自得だ馬鹿野郎ども。

 人の不幸に群がる人間は、車にひかれたって文句は言えないんだぞ。


 数台の車やバイクが、俺たちのワゴンを追いかけてくる。

 相変わらず、ご苦労なことだ。

 この世界に入ったときから、覚悟はしていたけど、こんな時くらい、静かにしてくれればいいのに。



*****


恭一郎叔父さんが俺たちがマスコミから逃れるために用意してくれたホテルは、都心にある外資系の超が付くほどの高級ホテルだった。


 普段なら、なんでこんな高級ホテルの、しかもこんないい部屋をすぐに用意できるのかと、興味をそそられるところだけど生憎、今はそんな余裕がない。


 どうせ、あの変人の叔父のことだから女絡みだろうし。

 それに、このホテルは警備が厳重なことでも有名だからマスコミを完全に排除してくれるに違いない。

 同じフロアに人の影もない。

 叔父さんが上手に手を回してくれているらしい。


 ほんと、あの人は敵に回したくない。


 続き部屋の隅の方で遠慮がちに各方面と連絡をとっている江村を横目で見て、俺はソファに身を沈めて考え込んだ。

 こんなに物事を考えたのは多分、生まれて初めてじゃないだろうか。

 いつもなら、姉ちゃんが俺の代わりに何でもしてくれていたけど、今回ばかりは俺がなんとかしなきゃならない。


 耳障りなニュースしか流さないテレビを付ける気にもならないし、かといって気を紛らわせる音楽も今は聴く気分でもない。

 外部からの電話は取り次ぐなとホテル側に伝えてあるので電話も鳴らない。

 叔父さんや社長、そしてメンバーなどの電話は江村のスマホにかけてくる段取りになっている。

 それもあの、叔父さんの指示だ。

 つくづく抜け目がない。


 おかげでとても静かな部屋。


 江村が一通りの電話を終えたらしく、続き部屋から戻って来た。

 今後しばらくは、この江村と行動を共にすることになっている。

 聞いた話では、江村は桂を自宅に送り届けたが、桂の自宅前にもマスコミが張り付いていて、桂の家族も今日は別のホテルに避難しているらしい。


 迷惑をかけて済まないってさっき電話をしたら、桂のお母さんが「気にしなくていいわ。それより海里は男の子なんだから、里海さんをちゃんと支えてあげるのよ」と逆に心配してくれた。


 ドラマの収録現場やスタジオでこの悲報を聞いた外のメンバーは、先を見通して社長の自宅に自主避難した。

 確かに社長宅は警備も万全だけど、あのハイテンション社長の家に逃げなきゃならないなんて、ちょっと同情した。

 


 なんにしても、こっちは身内が亡くなったんだから、しばらくしておいて欲しいモンだ。

 

 人の不幸を聞きつけて取材を申し込んだり、今の気分はとか聞いてる連中なんて全員、不幸になっちまえ。

 悲しい以上の感情なんてあるかつーの! 

 遺族はとくに混乱の中なんだ。

 気分なんて言えるか。


 だいたい、そういう奴に限って自分の身内が死んだときには、取材お断りとかするんだから、マジで、あいつら、ひき殺してやりたい。

 職業だろうけど、ああいう職業にだけは就きたくない。

 

 姉ちゃんが、品位のない仕事よねと言っていたが、まったくもって同感だ。

 パパラッチだの、芸能レポーターだのなんて滅びてしまえ。

 身内が死んだときくらい、そっとしておいてほしい。



「江村。社長と連絡、取りたいんだけど」

「え?」


 江村が不思議そうな表情を浮かべた。

 基本的に俺達はダイレクトに社長と話をする機会が多いからスマホには、社長の番号も登録されている。

 だから江村に社長と連絡をとりたいなんて言ったこともない。

 だけど、今日は事情が違う。


「俺のスマホさ、五月蠅いから切ってるんだ。ちょっと至急連絡取りたいんだけど」

「ああ。ほら」


 ある程度のことを察したのか、江村が携帯を貸してくれた。

 このスマホも俺達が持ってるスマホも、事務所から与えられたものだ。

 もちろんプライベート用は別に持ってるけど今は、そっちのスマホも電源を切っている。 じゃないと、親切めかして電話してくる親戚連中がウザ過ぎる。

 

 

 有名になると、自分の知らなかった親戚が増えるという話を良く聞くが、あれは都市伝説ではなく事実だった。



 父が死んだときに未成年だった姉ちゃんと俺を誰が引き取るのか、誰が保護者となるのかと、喧々囂々で話し合いが葬式の始まる前からやっていた。

 親戚の全員が「自分が保護者になる」だの、自分達の所にこいだの、この家で一緒に暮らすだのと葬式も始まる前から、姉ちゃんの機嫌取りをしていた。


 ところが火葬場で、叔父の恭一郎から、父の会社が多額の債務を抱えていることや、大きな邸が抵当に入っていると知らされた途端、態度が豹変した。

 やっかいだとばかりに大騒ぎして、誰が引き取るかと責任をなすりつけはじめた。

 火葬場で骨も拾う前から。


 なのに俺がアイドルとしてでテレビに出るようになり、売れっ子になった途端またもや、ころりと態度を変えやがった。

 中には親戚だと名乗ってはテレビ局に就職しようとする恥知らずも居るし、親戚だと名乗っては偉そうにしてる奴らも居る。


 あげく金の無心にだってくる。


 そういう手合いに姉ちゃんは辛辣な言葉と冷たい態度で接してきた。 

 当然だ。

 金にならないと知ると責任をなすりつけ合って、姉ちゃんが誰の手も借りないって言ったときに安堵して、その後、なんの援助もしてくれてないのに、俺がちょっと有名になったら、子供の就職口を斡旋してくれとか、口利きしてくれとか、金を貸してくれとか、ふざけんな。


 今回だって、あいつらの事だ。

 親切ぶって電話してきて、腹では笑ってるに違い無い。

 叔父さんには、前もってテレビの取材を受ける親戚がいた場合は、訴訟も辞さないと伝えてある。

 叔父さんは「大丈夫だ。そんな事をしたら、自分達の恥をさらすことになるさ」と、意味ありげに笑った。

 あえて追求する気もないし、聞きたくもないから流したけど問題だらけの親類らしく、叔父にたんまり弱みを握られているらしい。

 そういう意味でも叔父の恐ろしさを心底知ってる連中だから、取材を受けるようなバカはいないと思う。


 とりあえず明日になったら事務所に頼んで、俺と姉ちゃんのスマホの番号を変えて貰う。


 電話すると社長はワンコールで出た。

 江村のスマホなのに「海里か?」と、第一声で呼びかけるあたり、この人はある意味エスパーじゃないかと疑いたくなる。


 常日頃から病気じゃないのかと思うほどのハイテンションを保ち、美人の奥さんにまで「うるさい、黙りなさい」と言われ、溺愛する妹の凜さんからも「ちょっと黙っててくれない」と言われてもしょげかえることなく、ハイテンションを貫き通す。

 時々、総てをお見通しのうえでの行動なのかと疑いたくなる。

 あの異様なハイテンションもエスパーのなせる技だといわれても、なんの疑問も感じない人だけと、それくらいでなければ、この荒波乗り越えてトップタレントばかりを扱う事務所の社長なんてやってられないか。


「社長、悪いんだけど頼みがあるんだ」


 いつもなら「珍しいな」とか言いそうだが、さすがの社長も、今日ばかりは事態の収拾と衝撃の大きさも手伝ってそんな気分ではないらしい。

 俺も気分屋だ、テンションが急降下しやすいとか言われてるけど、社長もある意味では気分屋じゃないかと思う。


「出来ればすぐに引っ越ししたいんだけど。今、住んでる家、あの人が用意した家だし。一緒に住む予定で……」


 口ごもった俺の口調で総てを社長は察したらしい。


 姉ちゃんの結婚が決まって俺は叔父さんと暮らす予定になっていた。

 事務所の寮に入ることもできたが、後輩達との共同生活なんて冗談じゃない。

 はっきり言って御免蒙る。

 今更、姉ちゃん以外の誰かとルールに縛られた共同生活なんてやってられるか。


 俺はこう見えても、めちゃくちゃ我が侭なんだよ。

 姉ちゃん以外の人間に頭なんて下げたくないし、物事をいわれたくない。


 もともと未成年者が多く在席しているうちの事務所は成人になっていないタレントの一人暮らしを禁止している。

 不祥事を起こしても困るし、成人になるまでは親元に置いておく(監視させる)というのが信条だ。


 俺は今まで、姉ちゃんと暮らしていたけど、姉ちゃんが結婚して旦那と新居を構えるなら勿論、邪魔をするつもりはなかった。


 姉ちゃんもあの人も、一緒に暮らそうと何度も言ってくれたけど、俺は冗談じゃないつーの。

 何が悲しくて、新婚家庭を邪魔しなきゃなんないんだって。

 それくらいの配慮は俺にだって出来るし。

 その新婚夫婦と一緒に暮らすなんて、こっちが気を遣って大変だつーの。

 俺はこう見えてもまだ、青春中の性少年なんだって。

 興味一杯のお年頃なんだからさ、その辺は、そっちも配慮してくれっての。


 で、妥協策があの変わり者の叔父さんと暮らすことだった。

 叔父さんの家から目と鼻の先に、姉ちゃんは新居を構えたくらいだ。


 姉ちゃんの中では俺は未だに小学生か中学生だったらしい。

 もっとも、あんだけ姉ちゃんに甘えていたんだから、反論の余地はないけど。

 だけど、こうなってしまっては話は別だ。


「セキュリティがしっかりしてるところがいいんだけど。すぐに入れるところ無い?」

「いつ頃までに?」


 頭の回転が速い人というのは、こんな時にありがたい。

 くどくどと説明をしなくても了解してくれる。


「友引とかの関係で通夜が三日後になるって。だから出来ればその間に。姉ちゃんのモノは運び出したい。あの人のものは、桂の父さんが話してくれてるから」

「桂の自宅の近くに、いい空きがあるだ。昨日、内装工事がおわったばかりでな。あそこはセキュリティも万全だし管理人もいる。どうだ」

 

 目黒の物件と言えば、先日、結婚した先輩アーティストが暮らしていた事務所所有のマンション。

 築の浅い高級マンションでセキュリティも万全。

 確か、あそこの管理人って俺らタレントのガードとかまでやっていた人がいい歳だからとガードマンを引退して、管理人になったはずだから、とんでもない強者だ。

 それなら、マスコミが相手でもはね除けてくれること間違いなしだ。


「いいよ、そこで。引っ越しも…頼んでいいかな」

「里海さんのものだろ、いいのか」


 さすがだ社長。

 心配する部分が違う。

 あの姉ちゃんの性格を知ってるだけに。


「いい。後で姉ちゃんが爆発したら、俺が引き受けるからさ」

「わかった。明日、手配する。それから電話が必要だろ。新しいのを明日、江村に届けさせるから」

「うん」


 その後、手短にといって社長がこれからのスケジュールのこととか話していたけど、俺の耳には殆ど届いてなかった。

 部屋から聞こえてきた姉ちゃんの、小さな啜り泣きに気を取られていて。


*****



 生きていた人間が冷たくなって死体になる。

 そして死んだ人間になる。


 それは俺と姉ちゃんの父親が亡くなったときもそうだったし、90オーバーで死んだ婆ちゃんも冷たくなった。

 葬儀が終われば火葬される。

 小さな白い骨壺の中に収まってしまう。

 どんなにがたいのいい人間も骨になったら、本当に小さい。


 事故を起こして死んだ俺の義兄になるはずだった人は、小さな骨壺になって姉ちゃんの胸に抱かれていた。

 その骨壺をあの人の親戚に引き渡すとき、姉ちゃんが何を思ったのかは俺にはわからない。

 夫になって家族になるはずだった人を、結婚式の前日に事故で亡くすという出来事。


 姉ちゃんの夫になる予定だった人は、幼い頃に両親を事故でなくして、その後は、子供の居なかった親戚に引き取られ医学大学まで進学することが出来た人だった。

 ある程度の家族関係を聞いてはいたけど、驚くほど親戚が少なかった。

 戸籍上、まだ妻でなっかた姉ちゃんは、その親戚の人達に「未亡人にならなくてよかった」と声をかけられていた。

 それは俺と姉ちゃんの親類が言うようなおべっかでも、嫌味でも何でもなくて本当の言葉だった。


 だから、わかった。

 姉ちゃんは、あの人を育てた人を見た上で、親戚になることを決めたんだって。

 家族になりたいっていってくれたあの人の言葉はきっと本物だったんだって俺にだってわかる。

 だけどさ、姉ちゃん置いて死ぬなんて絶対に許せない。

 なんで自殺するんだよ。

 よりにもよって結婚式の前日に。

 何を守りたかったのかしらないけど、そんな死に方するな。

 

 だから俺は絶対に、あの人を許さない。


 あの日。

 あの人の骨壺をあの人の親戚に手渡して車が見えなくなるまでずっと、姉ちゃんは目で追っていた。


 恭一郎叔父さんが車が来てるからと俺に耳打ちしたあとも姉ちゃんはしばらくはずっと車の去っていった方向を見ていた。

 ずっと沈黙していた姉ちゃんが、はじめて発した一言が、今でも俺の耳に残ってる。



「家に帰ろう、海里」



 いつも公園で泣いていた俺に手を伸ばして言ってくれた言葉。


 だからさ、姉ちゃん。

 泣けてきたんだあのとき。


 姉ちゃんには申し訳ないけど、あの人が死んでも悲しいと思えなかったから涙も出なかったけど、姉ちゃんの言葉に涙が出てきたんだ。


「なんであんたが泣くの。まったく、いくつになっても手間のかかる子なんだから」


 そんなに平常になんないでよ姉ちゃん。

 本当は俺が言いたい台詞だったんだもん。


 姉ちゃん大好きだよ。

 ずっと。


 一杯腹も立つし、姉弟喧嘩も沢山したけど、姉ちゃんだけが俺の家族なんだから。

 ちゃんと幸せになれるまでずっと、ずっと一緒にいるからさ。

 大人になろうって思ったのに。


 姉ちゃん、何一つ出来ない、頼りない弟でごめんな。






 

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