なんて素敵な日曜日
見栄っ張りだった俺の母親が叩き込んだのは、名門の私立幼稚園だった。
俗にいう、お受験を受けて。
父親は当時はそこそこ大きい会社を経営していたし、母親もそこそこ素行がよかったこともあって、難なく幼稚園には入園できた。
入園出来たからと言って特段、変わったことはない。逆に母が一層、見栄っ張りになり問題を起こすようになったくらいだ。
母の夜遊びが酷くなり、幼稚園の送り迎えもおろそかになり始めた。
その頃、俺を気にしてくれたのが桂の母親だった。
いつまで待っても迎えに来ない母親。
小さな子供には、はっきりいってとっても傷つく出来事だった。
そして、いつ頃からか桂の母親は、桂と一緒に俺を自宅に連れ帰るようになった。
その俺を迎えに来てくれたのは、制服姿の姉ちゃんだった。
いつも、姉ちゃんに手を引かれて家に帰った。
だから、俺が姉ちゃんに懐くのは自然な成り行きだった。
それに自宅にいれば両親の喧嘩する声や、母親の金切り声に耐えられなくて俺は良く姉ちゃんの部屋に避難した。
一人が寂しくて、夜中に姉ちゃんの部屋に行っては抱きついてた。
その度に「海里大丈夫だよ」って優しく背中をさすってくれた。
気がつけば俺は母親より姉ちゃんにベッタリで、何をするにも姉ちゃんの後をついて歩いた。
それが気に入らなかった母親から姉ちゃんは理不尽な折檻を受けるようになったし、俺も「お父さんが同じだけなんだら、お姉ちゃんなんて言わなくていいから」と母親によく怒鳴られた。
今、考えれば虐待だろ。
それでも姉ちゃんは弱音も文句も一つも言わずに、俺を大事にしてくれた。
母親が離婚届だけをおいて家を出て行ったとき、幼心にもほっとしたことを覚えてる。
それは俺が小学校に上がった歳で、姉ちゃんは高校生だった。
普通なら、母親に捨てられたと思うところだけど、俺は姉ちゃんがいれば特に寂しいと思うこともなかった。
母親が出て行ってからは、姉ちゃんは、俺のためになんでもしてくれた。
その中でも一番嬉しかったのは、姉ちゃんが雨の日に俺を迎えに来ることだった。
制服姿の姉ちゃんは、小学校でも有名人だった。
それから、今でも雨が大好きだ。
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ここ数日、なんとか前線とかいうやつの影響で、悪天候が続いている。
丁度、秋から年末にかけて俺達のグループもツアーに廻っていて、その合間を縫ってアイドル雑誌の撮影だの、各々が出演しているドラマや番組の収録だの、大学の講義だのとスケジュールを組んでいるから、悪天候が続くと、色々なところに綻びが生じてくる。
現に、先週あったはずの二日の休日は一日になり、今週予定されている休日も消えそうな勢いだ。
あのさ、これってさ、労働問題でしょ。
働き方改革はどこに消えたのよ?
って言ったところで、果たして売れてるアイドルにそんなものがあるのかも謎だけどさ。
とにかく、ここ数日の悪天候で、すでに二度、雑誌の撮影が延期している。
だから、今日は三冊分を朝から晩まで同時進行で行うという無茶苦茶な事をやる予定だったけど、どうもそれすらやばそうな感じ。
着替えもして、メイクして準備万端整えて後は撮影だけって段階になって雲行きがヤバイ感じになりはじめて、俺達は江村の指示でワゴン車に押し込められた。
貸し出し品の衣装をぬらすわけにも行かないし、せっかく施した撮影メイクを台無しにするわけにもいかない。
そして、車に押し込められて十分後。
「あ~あ、やっぱり降ってきた…また延期か…」
リーダーがウンザリとばかりに声を上げた。
視線を窓にもっていけば、車のフロントガラスにそって落ちはじめた無数の雫。
随分と雨脚が強めで、この分じゃすぐに止みそうにない。
「また、延期か」と嫌そうに呟く颯太の声も、俺の耳には朗報だった。
運転席に座っていた江村はため息をついて、スマホで他のスタッフと打ち合わせを始たのを横目に見て、俺は口元に笑みを浮かべた。
こんなに楽しみなのは、本当に久しぶり。
「楽しそうだね、海里」
「当然! だって雨だもん」
雨の日限定で俺の機嫌がすこぶる良くなることを知っている桂は「愚問だったね」と肩をすくめる。
ワゴン車の中に用意されているメイク落としで簡単に落とし、整えられた髪の毛も手櫛で崩す。
着ていた服も脱ぎ捨てて、素早く着替える。
本当、この仕事をするようになってから、着替えだけは手際よくなった。
そもそも俺は早起きとうものが得意ではなく、実はあの姉ちゃんも朝がダメだ。
そういう部分は似てるんだよね、俺達ってさ。
で、朝が弱いおかげで、迎えに着た江村の車にパジャマのまま乗り込むことも多くて、着替えの技はこれで身につけた特技の一つだ。
後は、歌番組とかコンサートで早き替えなんてのもあるし鍛えられて当然だし。
アイドルって結構な重労働。
俺の着替えが終わった頃、江村が通話を終えて、後部座席にいる俺達に向き直る。
「ということだ。今日の撮影は中止。明日の朝は今日と同じ六時」
中止になった分を取り戻すためにまた明日も早朝から働かされることに文句をつけたいが今の俺の気持ちは、外が雨という事だけが関心事だ。
昔は、雨が大嫌いだった。
送り迎えが当然だった私立幼稚園。
だけど、母親は雨だと髪のセットが崩れると言っては、迎えにくるのを渋り父の会社の従業員に頼んでいた。
同級生達は、玄関まで母親が迎えに来ているのに、俺には迎えが来ない。
だから本当に雨は嫌いだったのに、今はこの雨が待ち遠してく仕方がない。
「僕ちゃんは、一人でかえります」
明るくにっこりと答えると江村がため息をついた。
「ああ、わかった。だけど海里。お前は午後からドラマの撮影が入ってるからな。台詞を覚えてこいよ」
「わかってる。姉ちゃんに付き合って貰うからさ、明日の撮影もばっちりだって」
ただでさえ雨で機嫌がいいのに、中止のおかげで今日一日、姉ちゃんとのんびり出来る。
なんて素敵な日曜日だ。
まさにピチピチ、チャプチャプ、ランランランだ。
浮かれた俺の気配を察したのか、江村が派手にため息をついてから、すみやかに自宅に帰れ、変な事をするな、人目と週刊誌には気をつけろと、いつもの小言を言いつのる。
「大丈夫だって」って俺が答えると呆れた表情と疲れた声で「お前の大丈夫は当てにならない」とぼそりと呟いた。
そりゃあ、俺の日頃の素行やら問題やらの尻ぬぐいをしてるのは、この江村だから信用出来ないだろうけど、今日は大丈夫だって。
素直に姉ちゃんの所に帰るからさ。
これでも、前ほどうるさいことを言わなくなった。
つーかさ、当然でしょ。
こっちだって、それなりの譲歩はしてるんだから。
世の中は、デブアンドテイクだって。
俺たちの歌の中にもあったじゃん。
「お前のところは、五時半に行くからな。寝坊するなよ」
「あい。んじゃ、お先」
俺を含めてメンバー五人。
全員を一纏めにして押し込めるワンボックスを飛び出すと雨の中、最寄り駅へと急ぐ。
人目を避けながら電車に乗り込む前にポケットに入れていたスマホが震える。
「駅でね」と、簡素で短い返信だけど、それがどれだけ今の俺を暖かい気持ちにしてくれているか、きっと、姉ちゃんは知らないと思う。
大嫌いだった雨が好きになったのは、自分にも迎えに来てくれる人が出来てから。
いつからか雨の日は必ず姉ちゃんが迎えに来てくれるようになった。
あれ以来、俺がアイドルになっても「迎えに来て」って連絡をすると時間の許す限り、姉ちゃんは今でも駅まで迎えに来てくれる。
勿論、俺だって、姉ちゃんを迎えに行ってる。
こんなささやかな事も、幸せだなって感じられる。
兄弟がいてよかったなって。
「お帰り、海里」
「ただいま、姉ちゃん」