メガリス16
中学生の頃に初めて聞いたヒップホップ。それからのめり込んで、自分でもノートにしたためたりもした。
もしそんな事が可能ならという空想の域を出なかったはずのそれ。だが今は、それをものにするために全てを賭ける。
それが最後の親孝行だと信じて――崩壊家庭のヤク中女の腹から産まれたという設定から考えると皮肉にしか思えないが。
それから三年、幸運は巡って来た。
俺は、ギャングスタラッパーMCライリーは、ごく小さなレーベルからではあるが、遂にデビューを果たした。
「やったよ……」
三回忌法要以来となる墓参りで、物言わぬ墓石にそれを報告した時、俺は初めて墓石にすがりついて泣いた。
冷たく硬い墓。しかしそれが、温かく俺を抱き留めてくれているような気がして。頑張った、よくやったと言ってくれているような気がして。
常に親兄弟を史上最低の糞と罵るMCライリーの姿からすれば考えられないだろうが、それでもそれが白石理人の姿だ。
仏花をハサミで切り揃え、線香とカップの酒を備える。
「おう、ここにいたか」
手を合わせた直後、背後から聞こえてきたその声が自分に向けられたものだということは、他に誰もいない静かな墓地故にすぐに分かった。
「……?」
振り向いた先にいたのは、既に老人といっていい男。
生きていれば母と同じぐらいか、或いはもう少し上だろうか、がっちりとした体形を黒い着物で包み、こちらに近寄って来る度にカツカツと杖が床石と音を立てる。
その脂ぎった顔の奥、すぼまった目がじろりと見定めるように俺を見た。
「顔を合わせるのは初めてだったな」
「……どちら様ですか?」
その問い――というよりも己の記憶を確かめるような言葉に問いかける。
男はちろりと目を俺の後ろの墓石=母に向けた。
「馬場崎喜一郎。十二代目北浜定次郎と言った方が分かりやすいか」
多分歌舞伎か何かの人だろう。それぐらいの認識しかなかったが、男の目が向いた方向=母の眠る墓に目を向けた時に、不意にその名前を思い出した。
生前、よく見ていた歌舞伎役者の名前だ。
「え……」
「そして、君の父親だ。血縁上のな」
その言葉の意味を理解するのにかかったのは、一体どれくらいの時間だったのだろう。
「え、な……」
MCバトルで当意即妙に言葉を返すことが出来ても、こういう状況ではそうもいかない。
そんな俺を尻目に、北浜屋定次郎と名乗ったその歌舞伎役者はその血縁上の息子の母の眠る墓標に吐き捨てるように言った。
「まったく……馬鹿な女だ」
まだ状況が飲み込めない。
血縁上の父ということはつまり、母が何度か俺に話した「ちゃんと話し合って、納得した上でのこと」と言っていた相手だ。
「まあ、今となってはその馬鹿さ加減に助けられるのだから、世の中は分からないものだな……フフッ、芸の肥やしとはよく言ったものだ」
まだ理解できず、その横で固まっている俺に、男は振り向いた。
「単刀直入に言おう。私の跡継ぎにならんか」
「……は?」
当然、こんな状況でそんな言葉を聞いても、何一つ飲み込めない。
だが目の前の男にはそれが救いがたい愚かさに思えたようだ。
「……何の話も聞いていないのか?」
「え、あ……」
ため息が一つ。
「もう二十年以上前だ、私と亜希江、つまりお前の母親……ちょっとした遊びだった。だが、亜希江はそうではなかった。お前を身ごもった挙句、金を出してやるから堕胎しろという私の言葉を無視してお前を産んだ。決して迷惑はかけないからと言ってな。私としても、看板に傷をつける訳にはいかない。手切れ金を十分に包んでやった。幸い、あれは馬鹿な深情けの女だったが、その辺の約束は守ってくれた。私としてはきれいさっぱりそれで終わりと行きたかったが……、事情が変わった。私は家を継ぐべき男子に恵まれなかった。他にあてもないとなれば、代々続いてきた屋号も、そして北浜定次郎の名も、私で終わってしまう。それだけは避けねばならなかった。その時だ。お前の存在を知った私がどう思ったのか……まあ言わずとも分かるだろう。新しい人生だ。今からでも歌舞伎役者としてお前を鍛えてやる」
そこまで言うと改めて、男は俺の方に向き直る。
「もう一度言う。私の後を継げ」
そこまで聞いて、俺の脳みそはようやく事態を飲み込めた。
この男が俺の父親であり、母親とどういう関係にあったのか、そしてそれをどう思っていたのか、それを今はっきりと理解できた。
「お断りします」
その一言で十分だ。
少なくとも、俺にはこの男が線香をあげにきた記憶がない。
そして今の話しぶり、要するに「遊びでつくった子供など鬱陶しかったが必要になったから言う事を聞け」という事だ。
それではいそうですか、と従えるほど馬鹿ではない。
だが、それで引き下がるような男でもないようだ。
「……冷静に考えろ。私はお前がどういう暮らしをしているのか、これまでどういう暮らしをしていたのかも調べてある。私と共に来れば、これまでの惨めな暮らしからはおさらばだ。このまま、たかが町工場の溶接工で一生を終える気か?」
明確に苛立ちが表情に現れている――大方、俺が必死にぶん殴ろうとするのを我慢していることなど分かっていないだろう。
「何と言われようと気持ちは変わらないですよ。大体、俺なんかいらなかったんでしょう?遊びで作って、鬱陶しかったからおろさせようとした。で、上手くいかなかったから手切れ金だけ渡してチャラにして、それで許してもらっておいて、今度はやっぱり必要になったから自分と来い?……自分がどれだけ勝手なこと言っているのか、分かります?」
殴りかかる代わりに、俺の理解を伝えておく。
町工場の給料は安い。それは事実だ。
デビューしたとはいえ、まだそれだけで食っていける訳でもない。これも事実だ。
だが、その二つから逃れるためだけに、この男の言う通りにするのも、ましてや今日まで一日も忘れずにいた母の遺言=自分の人生、自分のやりたいようにやれというそれを捨てるつもりもない。
「……そうか」
奴に交渉打ち切りの意を込めてそう伝えた時、奴の表情が醜く歪んだのを見て、俺が覚えたのは一層の嫌悪感と――不気味さだった。
奴の口角が僅かにあがった。目元にぎらついた眼光が宿った。
それは、間違いなくサディスティックな興奮を覚えている人間のそれ。
「……そういえば、今度CDデビューするのだったな」
「だったら?」
「レーベルは確か……、名前は忘れたな、まあいい。その程度の弱小だろう?私は業界に知り合いも多い。吹けば飛ぶような弱小レーベルなどどうとでもなる」
奴の口が裂けたように広がった。
それが己の言葉と、それを聞いた俺の表情によるものだというのは、鏡で己の顔を見なくても分かる。
とん、と奴の杖の先が俺の胸に押し付けられる。
とん、とん、とん。
小さく何度もそれが胸を撞く。
「分かったか?自分が誰と話しているのか、わきまえろ」
母親の、唯一の家族の遺言。
それを胸に今日まで積み上げてきた努力。
その果てにようやく掴んだ夢。
それをこの男は簡単に壊せる。生まれてくる俺の命をそうしようとした位に簡単に。
「……ッ!」
その瞬間の俺の表情は、この男を更に増長させたのだろう。
「なんだその目つきは。まったく、やはり片親では碌に教育も出来ないか……」
杖の先が、俺から墓石に変わる。
口では憎々し気に、しかし表情は勝ち誇って。
奴の杖が、その先端の泥で墓石を穢す。
その泥が、母親への凌辱に思えた瞬間、俺の目に映ったのは、先程仏花を切り揃えたハサミの、雲間から射す光を照り返した鈍い光だった。
「……」
気が付いた時、俺の手の中で、それは俺の手ごと赤黒く染まっていた。
股ぐらの下、めった刺しにされた産みの父が息絶えている。恐怖に染まった眼球が、ずっと俺を見上げている。
「あ……」
少しずつ戻って来る冷静さが、己が何をしたのかを噛み砕く。
「あああ……!!」
俺は駆け出していた。
墓地の裏手、誰も入る者のいない小さな山の中に向かって。
(つづく)
今日はここまで
続きは明日に




