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ある出戻り配信者の顛末  作者: 九木圭人
幕間の一幕
120/169

幕間の一幕5

「さ、どうぞ。上がって」

 エレベーターを降りて廊下を進んだ一番奥。「宍戸」とだけ書かれた表札つきの扉を開けて、部屋の主は私を中に促した。

「……失礼します」

 言われるがまま玄関へ。

 細い廊下の奥に部屋が一つ。入ってすぐ左手にあるのは、恐らくダイニングなのだろう。

 今は開け放たれているその引き戸から、同様に隔てられている部屋が見えるが、こちらはぴたりと扉が閉ざされている。


「今シャワー用意するから、ちょっと待ってね」

 そう言って私をダイニングの方に連れてきた宍戸さん。

「ごめんね、ちょっと散らかっているけど」

 そう言って、四人掛けのテーブルの半分ぐらいを占めている色々な書類を一か所に積み上げていく――役所の封筒が未開封で置いてあるが大丈夫なのだろうか。

 スペースを確保してくれた場所の前の椅子に腰かけると、宍戸さんはこの部屋と廊下を挟んで反対にある風呂場へ消える。

 それからすぐ、玄関から見て突き当りの部屋へ。何かを物色しているのが音だけで分かる。


「お待たせ。さ、どうぞ」

 そう言って戻って来た彼女から手渡されたのは、タオルと着替えの上下。

「ちょっとサイズ大きいかな?でも他にないし、とりあえずこれで」

「え、いえ、そこまでは……」

「でも今来ている制服、濡れちゃったでしょ?」

 言われてみればそうなのだが、かと言って着替えまでお世話してもらうのは気が引けるのもまた事実だ。

「そっち乾かすから、それまでこっち着ておいて」

 そうまで言われては仕方ない。

 そもそも他人の家で濡れたままでいれば、それこそ無駄に汚してしまうだろう。


「わかりました。……ありがとうございます」

 受け取った着替えとタオルを手に風呂場へ。トイレと風呂場と洗面台が一か所にまとめられていて、洗面台を挟んで風呂とトイレが向かい合っている構造だ。

「脱いだものはその籠に入れておいてね」

「あ、はい」

 背後からの声に応え、言われた通りに足元の籠へ。

 それから風呂場へ足を踏み入れると、お言葉に甘えてシャワーを浴びる。

「はぁ……」

 温かいお湯、ただそれだけのことが妙に安心するのはどうしてだろう。

 髪の毛をシャンプーで洗い、リンスをつける。

 ボディソープから花のような香りが風呂場に広がる。

 こんなお風呂に入ったのは、いつぶりだろう。


「ふぅ……」

 一通り洗い終わって風呂場を後にし、バスタオルを使って気付く。

「柔らかい……」

 柔軟剤を使っている――洗面台横の洗濯機の足元に置かれたそれに目が行く。

 ちゃんとした家の、ちゃんとした洗濯。

 あの家のそれとは明確に異なるそれ。あそこで柔軟剤なんて立派なものを使う事はなかった。あの人たちに生活費として巻き上げられたお金は、そんなものに使われることなんて一度もなかった。


「ありがとうございました」

 ダイニングに戻ると、宍戸さんは丁度どこかへの電話を終えるところだった。

「はい……。それでは……」

 スマートフォンをテーブルに置く。

「お、上がった?」

「はい。ありがとうございました」

 ただのシャワーだ。なのに、こんなにリラックスできたのは何年振りかと思うほどに、私には心地よいお風呂だった。

「そうだ!お腹減っているでしょ?」

「え、あの、流石にそれは――」

 体は正直だ。

 私が恐縮しているのに合わせるように、恥ずかしい音が響き渡る。


「アハハハ、OK!じゃあご飯にしましょうか」

 大したものは出せないけど――そう付け足して笑ってから、宍戸さんは冷蔵庫を開ける。

 それから少しして、私の前にはふわふわと温かな湯気を立ち昇らせる一皿が置かれていた。

「さ、召し上がれ」

 冷凍の餃子が香ばしい匂いを漂わせて、電子レンジから取り出したタッパーのご飯がお茶碗に盛られる。

「頂きます」

 ここまでお世話になっては申し訳ない――その想いはしかし、久しぶりの温かな食べ物の誘惑の前には沈黙するしかなかった。


 パリッ、じゅわ。

 香ばしい皮に醤油の香り、そして温かくて柔らかい餡が口の中に広がって、その味わいに混ぜ合わせるように口に運んだ白米がじんわりとほのかな甘みを感じさせる。

 温かい食事。誰かと一緒の食事。

「……ッ」

 フラッシュバックする記憶。

 平凡で、でも幸せだった食卓。

 ああそうか、食事って、こんなに安心するものなんだ。


「……辛かったよね。きっと」

 その優しい声に答えることは出来なかった。

 私はただ、零れ落ちる涙と共に餃子とご飯を口に運び続けた。


 やがて皿も茶碗も空になった所で、改めて宍戸さんが尋ねた。

「落ち着いた?」

「はい……」

 涙をぬぐって、深々と頭を下げる。

「ごちそうさまでした」

 彼女はそれに対してにっこりと笑って、皿と茶碗を流しに持っていく。

「ねぇ、ものは相談なんだけどさ」

 洗い物を水に沈めたところで彼女は振り返った。

 別に大した話じゃない――そう見せるように、流し台に寄りかかる形で。


「アウロス、撤退しちゃったって話だよね?」

「え、は、はい……」

 あのメリン島の事件と、それに付随する財団の発表。

 そしてそれらを理由にした配信活動の無期限禁止。

 アウロスは配信業から手を引き、アウロスフロンティアは解散した。

 つまり、私の動画の収益は、そして有馬玄という人間は、完全に消滅してしまった。


「そこで、ね」

 改めて示された現実にうなだれそうになる私に、宍戸さんはぐっと身を乗り出した。

「どうかしら?うちで、植村企画で働いてみる気、ある?」


(つづく)

今日はここまで

続きは明日に

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