醜き黒海、嘲笑う黒壁
◇
滅びはすぐ、目の前なのに――――。
最初は誰だって、そんなもの簡単には信じない。
でも、出来ることならば……もっと早く信じたかった。
仮の話だ。仮の話、もしもっと早い段階で信じて、もっと早い段階で行動がとれていたならば、この結末は――少しは変わったのだろうか?
瞼を開くのがやっと。
――だから、声なんて出せやしない。
やっとこさ目を開いたと思ったら、眼前にあった風景は――、
「酷い有様だな、まったく」
――どうして?
「これが罰だ。罪の代償。横暴、圧政、淫猥、分断――ありとあらゆる〝堕落〟への対価」
――あなたは、どうしてこんな〝絶望〟を世界に焼き付けるの?
「人間は、生まれるべきじゃなかった。お前も、俺も。――だからやるんだ」
全てを浄化する――。男は言って、去ってしまった。
街はメラメラと火の海に呑まれているのに。
空は真紅の海を映して、焼き焦がされるような禍々しさを放っているのに。
その紅を、間もなく黒い海が、黒い壁が覆うというのに……。
……世界には、禍々しく、どす黒い光に満ち満ちているのに――どうして彼は、それらの暗い光さえ当たらないような瞳をしているのだろう?
◇
きっかけは些細な事だった。
「別れましょう」
私の一言――それが契機。
「――? 別れる? どうして急に…………」
それきり、目の前の彼は黙ってしまった。
それはそうだ。彼には何の非もない。悪いのは全て私。彼を裏切って、欺いて、弄んで、彼と幼馴染として過ごしてきた幼少期から全て利用し尽くした。言葉にするだけで、どうしてかはわからないが自分でも吐き気がするほどにおぞましいことを、してきた。
だから――それは贖罪なのだろうか?
脳裏にちらつくのは、高校生の時の顧問や先輩、大学のサークルの先輩後輩……。
――ごめんなさい。
表現するのが怖くて。
表現した後が怖くて。
結局、私はロクに言葉も紡げずに、彼と別れた。
彼は友人たちに、口々に「人間とは高潔で、潔癖で、正しくあるべきだ」と語っていたのだという。
私とは正反対だ――――。
それに耐えきれなくなったのかもわからず、私は全部をかなぐり捨てた。
「……酷い話だなぁ」
無論、私は自覚していた。ここまで来ても、少し時間が経ってしまえば直ぐに呑気に振る舞えてしまう、自分のどうしようもなさに。
彼はこれで二十年来の幼馴染兼恋人を失ったのだ。だというのに、私は川の直上に架けられた橋――そこに設けられた歩道を歩いて、あるいは、柵に身を預けて景色を見ていたのだから、汚らわしい裏切り者と言うことすらおこがましいクズだ。
散々世話になったのに。
でも、彼だっていけないのだ。
人を傷つけたからと言って、彼は加害者に同じ程の痛みを負わせる。
尊厳を踏みにじらんとしたからと言って、完膚なきまでに暴力を振るって屈服させる。
正直、こんなにロクデナシの私から見たって――いや、どう見たって彼は異常者だ。それ以上でもそれ以下でもなく、ただの異常者だ。例えるなら、そう。自分自身に宿る〝正しさの奴隷〟だ。
私だって、全ての人は生きる権利があるし、それを邪魔されない権利があると思う。
――でも、彼は違う。
彼にとって、命そのものにどうやら意味はないらしい。全ての人は生きる権利や意味を勝ち取るのだという。そして、邪魔されない権利も勝ち取りうるものなのだと。
そこからが問題だった。
その権利を一方的に害したなら、また自らも害される義務を負うのだという。そして、その者の家族や友人たちは、一切の報復の権利も資格も持ち合わせない。
要は、
「お前は○○を殺したのだから、お前も殺されなくてはいけない。でも、お前が一方的に命を奪ったのだから、お前の関係者が復讐することは決して許されない」
ということ。
前時代的と言う他なかった。
そんな彼の過激な思想を知ったのは、一か月ほど前の事。
――その時、私が中学時代から歩んできた〝遊び〟が、彼にバレた時にとんでもなく恐ろしい結末を呼ぶことを、初めて悟った。なんて私は危ない橋を渡って来たのだろう!
それに対する背徳感から、若干の興奮を感じないでもなかったが、流石に感じたのは興奮よりも命の危険だった。
「……私が彼の事を裏切っていた、と知ったなら、きっと私殺されてしまうだろうから」
◇
「――俺も、随分ハズレの幼馴染を引いたもんだね」
信じていたのにね。全く残念だ――――。
無条件で背中を預けられる子だと思っていた。
――なのに、フタを開けてみればこのザマだ。喜劇にも、悲劇にも、なりはしない。こんな惨めな結末を描こうなどという脚本家が、さてどこにいる。
「昔から好きだったのはお前も知っているだろうに。中学生の時から、恋人としてそれなりにうまくやっていたのに。――そう感じていたのは、全て俺だけでした、なんて」
これが他の女とのいざこざで、彼女に慰めの言葉をかけてもらい、労ってもらえたなら、それはそれでよかっただろう。だが、その〝いざこざ〟の相手は紛れもなく彼女なのだ。だとしたら、その慰めに、その労いに、何の意味も価値もなく――それどころか、逆に腹ただしいことこの上ない。怒髪冠を衝く、とはまさにこのことだ。
「別れたのが、今から三年前だったな」
目の前の彼女は何も言わない。もっとも、もうそんな体力もなかろう。
「あれからどうしようかと考えたんだが――それ以前に、自己嫌悪に陥りだしてね」
どうせだ、と思って、彼女に語ってやることにした。
〝アレ〟の原理なんてわかるものか――と言語化することを諦めていたが、生憎もう何かするべきこともないので、語って聞かせるくらいしかないのだ。
「学生時代に俺を支えていたモノ、何かわかる?」
瞼しか動かせない彼女は、懸命に俺を見る。
今、街を飲み込み、空を焦がす炎がなんなのか、何も彼女は分からない。
「お前の言葉だよ。――お前の言葉が、全て俺の自己肯定感につながっていた」
しかし――それは、三年前のあの日から時間をかけて、ゆっくりと、きれいさっぱり消滅した。ともなれば、自分を形作り、それを維持し、それらを繰り返すための活力を失う――つまりは生きる気力をなくしてしまうも同じ。
――かけがえのないものなど、つくらなければよかった。
全てかけがえのあるものでいい。
「――――否。そもそも、かけがえのある・ないの線引きさえなくしてしまえばいい。有り体に言ってしまえば、そんな不完全なモノいらない――とね。短絡的で稚拙な思考だろ?」
でも、そうでもしなければ、駄目だった。
動いてなければ気力は萎えていくばかり。けれど、動けば動くほど、間違った方向に進んでいってしまう。その果てがこれだ。
大地は隆起し、地の裂け目から幾千もの触手が蠢く。
「お前ひとりでは心細いと思ってね、人類八十億と共に、地獄巡りでもいかがか?」
◇
――今、彼は何と言った?
思い出そうにも、衝撃が強かった。強すぎた。
人類八十億と共に、地獄めぐり…………?
禍々しく、ヒビが入ったような、亀裂だらけの黒い触手から漏れ出す紅い光。イナゴやゴキブリ、ハチ、ハエ、アブ、ムカデ、サソリ…………害虫の悉くが湧き、死体に群がって死肉を喰らう。
吐きそうなのに、吐けない。
辛うじて視界に映る風景を目に収めようにも、残った微かな視力すら潰してしまいかねない閃光が、先程から断続的に明滅している。
彼はそんな私の視線が気になったのか、答えた。
「きっと大国が熱核兵器で対応しているんだろうさ。害獣、害虫、害鳥――今、世界中でその全てが人類に牙を向いている。生者も死者も関係なく、全てを絡めとって殺すために」
どうしてそこまで知っているの、なんて今更疑問に思うまでもなかった。
この三年間で、彼はここまで〝やる〟準備をしていたのだ。
――――私に復讐するために。
――――私を穢した者たちを裁くために。
――――私を堕落させた者たちを殺戮するために。
その時、彼は目を輝かせて空を仰いだ。
「……ふぅ、これで復讐もだいぶ佳境に入って来たし、別にまだ息をしていようとしていまいとどうてもいいんだけどさ――もしまだ生きてしまっているんなら、空を見てみな」
空――数千万もの烏が舞っている。
けれど、その烏が一羽、また一羽と地上へ降ってくる。全ての烏が落ちるまでに、まるで呪いで無理矢理延命させられているかのように、私は生きていた。
「人間の命には、等しく意味なんてない。価値なんてありはしない。そんなもの、心なんてものを信じてる連中の妄言だよ。自由? 平等? 博愛? 多様性? ――何一つとして成し遂げられていない。結局人間も動物。ありとあらゆる意味での〝弱者〟を食い物にして、俺たちは生きている」
そこから目を背けるための言葉。気休めにもならない〝可能性〟という名の慰めしかない――。
まだ息のある私に、彼は延々と語り続ける。
「お前はもう幼馴染でも、元カノでもなんでもない。ただの薄汚れた売女だ。なら、別に生きてたってしょうがないでしょ? 弱者強者の論理にすら当てはまらない、ただの蛆虫――それがお前なんだから。そりゃずっと付き合って来たヤツを悪く言うのは気が引けるさ。でもね……」
膨張し、体積の三倍以上にまで膨れ上がった烏たちは、一斉に破裂する。グロテスクな水音を立てながら、肉塊と化して地面に再び降り注ぐ中、彼は言った。
「そういう人は、生きてちゃいけないから。罪は消せないから」
はっきり言った時に、私は思った。ああ、この人は本当に終わらせるつもりなんだな、と。
◇
肉塊と化した烏たちは、次にその肉塊のまま蠢きだす。何かに昇華しようとしている。腐敗臭を漂わせ、黒い灰が付着しているその身体を、灰色の雨が付着したその身体を、変化させてゆく。
罪は消せない。
罰は終わらない。
結局のところ、誰しも罪を抱え、罰を追う。苦しみだけが残る。
例えば、この元カノであった惨めな幼馴染の残骸は、暴力に晒されて堕ちた。その結果、誰にでも――いいや、思い出したくもない。とにかく、彼女と過ごした二十年間は、俺のこの先の人生約六十年を縛り続ける苦痛の序章でしかなかったわけだ。苦い思い出に変わろうと、辛い記憶であることには変わらない。絶望であることには変わらない。
希望があったのに、最終的にその希望は急転直下、絶望へと早変わり。
気休めにもならない喜びや希望があったとて、人生に何を見出せようか。
自己肯定感を失ったこの三年間、ずっとそう思って来た。
けど、何度問い直しても結果は同じ――なにも、ない。
「ならば、そもそも人に生まれた意味はあったのか、生まれた価値はあったのか? 生まれてきて正解だったのか? ――――答えは、全てNOだ。俺もお前も、他の全ても、生まれてきたこと自体が間違いだったんだ。だから全てを否定する。自分も、他者も――結局は最後、皆に平等に訪れるのは死と滅びだけなのだから」
不老不死なんてない。永遠の真理もない。
人類全体が平等になる道もなく、それを目指す者も減った。不完全であるままを容認し、あまつさえ堕落していく。完全を目指すことをやめ、こうなってしまった以上、根本から否定するほかに、もうなかった。
「まもなく、全世界に飛翔した烏は、肉体を変化させて数十メートルの黒竜の群れになる。それが世界を焼き尽くすだろう。原水爆のように一瞬ではなく、時間をかけてゆっくりと……でも、もう超大国は核での処分を試みてしまったから、放射能汚染がなされた黒竜たちも多くいるだろう」
――何故、罪のない人を巻き込んだのか?
それは無論、罪のない人などいないから。
――人類全体を殺す必要があったのか。
それは無論、絶滅以外の結末は歴史の連鎖に他ならないから。
――――それ以上に、葬りたかった。
苦しむために生まれてきたわけではないのに、あと六十年間もこの辛い記憶と向き合いながら生きていくなど、裏切られた俺にも罪があるのだろうから、それらと一緒に背負わされるくらいなら、自分ごと世界を葬ってしまおうというエゴ。
「そのために悪魔に身を売ったんだ。大昔から地表にある全てを焼き払いたかったって言っていた、あの化け物に――」
大地は砕け、天は割れ、烏の死体は教えられた通り竜になった。漆黒の竜に。
『――――――――』
唸る声だけがあって、視線をそちらへ移す。
さて、大地を引き裂いて現れたのか、天を揺るがして舞い降りたのか、そのどちらかは最早俺にはわからなかったが、巨大な竜がいた。意志だけが伝わってくる。
……きっと、俺以上に何か人間全体に対して憎しみがあるのだろう。そして、その怒りの矛先はありとあらゆる生命に向けられている。でなければ、全ての生き物を用いて、人間と殺し合いをさせようなどとは思わない。核の光で消されるのみならず、地割れによって巻き込まれて死んでいく個体もいたのだから。
…………もう、訳が分からない。
今見ている風景が、確かに俺の望んだものであったのは確かだ。
けど、この瞬間になって、少しだけ……ほんの少し、一歩だけ引いて考えてみる。
俺はあの黒い怪物にただ利用されただけなんじゃないかって。
もしかしたら彼女も、そうやって周りに――悪意を持った周りに利用されていただけなんじゃないかって。
だとしたなら、――ああ、本当に、
「酷い有様だ、まったく」
救いようがないにも、程がある。
書いててしんどかったです……
途中から頭も痛くなってきまして……それだけバッドエンドを書くのが怖かった。でも怖いもの見たさに似たような感覚で書いてしまったのです。