最初の選択肢
その後自宅に戻った春菜は、授業の遅れを取り戻すべく予習に励んだ。土日もゆっくりと体を休め、明日はいよいよ学校だとわくわくとした気持ちでベッドに入る。
だがその夜――『彼』は突然訪れた。
最初に気付いたのは百合の香りだった。かぐわしい独特の匂いを引き連れて、彼はその部屋に音も無く侵入する。
気配に気づいた春菜はがばっと体を起こすと、無言のまま掛布団を引き寄せた。
「おや、随分と警戒されてしまいましたね」
「あなた、誰」
「申し上げたはずです。『死神』です、と」
死神は一定の距離を保ったままベッドに近づくと、テディベアの脇にあった黒い羽根を手に取り弄び始めた。
室内は暗く、彼の表情は読み取れない。見えるのは、うっすらと光を弾く銀色の髪だけだ。
「やっぱりあれは、夢じゃなかったのね」
「夢でしたら良かったですね」
「……取りにきたの? 私の記憶を」
口に出したら真実になってしまう、そう思いながらも春菜は口にした。音にすることでこれが現実だとよりはっきりとかたちどられ、室内に緊張が走る。
「話が早い。まあ我々も鬼ではありませんから、いきなりすべてをとは言いませんよ」
こちらからすれば鬼も死神も大した変わりは無いと思ったが、春菜はそのまま押し黙った。どうやら予想していたよりも、少々複雑なものらしい。
「私の欲しい記憶。それは『思い』の記憶です」
「……思いの、記憶?」
「学問で得る知識や日常生活で得る知見ではなく、簡単に言うとそう――『誰か』に対する感情や共に過ごした時間の記憶」
誰かに対する記憶。
それを失うと言うことはつまり――その人に関する感情や思い出が、春菜の中から一切なくなってしまうということだ。
「誰かに対する気持ち、行動の動機が欲しいのです。幸い、あなたの心には人に対する多くの記憶がある。その中の一部を私に差し出してください」
次第に目が暗闇に慣れてくる。
死神と名乗る男は、月光を溶かし込んだような白い肌をしており、その目は綺麗な青色をしていた。宝石のようなそれを睨みつけながら、春菜は怯えを見せぬよう虚勢を張る。
「一部って……誰との記憶のことを言っているの」
「これは話が早い。しかしもう少し続きを聞いていただきたいですねえ……。先程も申し上げましたが、私も鬼ではない。大切な契約者様の『一番大切な人』くらいは残してさし上げようと思いまして」
「……一番大切な人……?」
ええ、と答えながら死神は一つ、また一つと足を進めると、いつぞやと同じように彼女のすぐ傍らに腰掛けた。古いスプリングが軋み、春菜はびくりと身を固める。
間近で見る死神の顔は非常に端正で、彼がそうした『人外』であると確かめるには十分すぎる風貌だった。
死神によっては美しい姿で人を欺く者もいるという。
これがその魔性の姿なのかと春菜は息を吞んだ。
「そうです。貴方にとって、大切ではない、忘れても構わない記憶から選ぶんです。それを私は奪い糧とする。貴方は『私に記憶を奪われている』ことは覚えていても、それが『誰のこと』であったかまでは思い出せない」
「……そうやって、いったい何人の記憶を奪うつもりなの」
「さあ……? 命の代償に足りうるまで、ですかね」
どうします? と死神は微笑む。
だがどうするも何も、答えはニつしかない。
記憶を無くすか、再び「死」を選ぶか。
春菜はわずかに逡巡したが、やがて小さな声で取引を受け入れた。
「では早速、最初の記憶を選びましょうか。対象は――この二人。貴方を導き、護る優秀なただ一人の騎士『春川直人』。そしてもう一人は……幼い思い出と軽口で惑わす魔術師『谷崎久志』。このどちらかの記憶をいただきたい」
「直兄か、先生の記憶……」
死神から示された提案に、春菜は眉を寄せた。
いつだって優しく、春菜を実の妹のようにかわいがってくれる直人。からかわれてばかりだけど、仕事をしている姿がたまらなく好きな谷崎。
どちらも小さい時から春菜と共におり、もはや家族のようにすら思える二人だ。
そんな二人のどちらかを、忘れる。
「さて……どちらを残したいですか?」