気付いていないのは君だけ
ようやくたどり着いた玄関で、二人は息を切れ切れと吐き出していた。
「ッあ……はあ、はぁ……先輩、誰が、言っていいって……」
「だ、だって嬉しかったから、お礼を言っておきたいなと」
「だからって公共の面前で言うことは無いでしょうが!」
「こここ、公共で言っちゃだめなら、学校内では言えなくなるわけですが⁉」
「屁理屈言わない!」
森山はずれた眼鏡を直すと、やれやれといった態度で春菜に向かい合う。
「大体先輩はつい先日まで入院していた体なんですから、いくら回復したといっても無理はしないことです。それに――」
「ご、ごめん。ちょっとはしゃぎすぎた。気をつけます」
先手必勝とばかりに春菜が謝ると、森山は続く言葉を呑み込んだ。ああ、ええと、としばらく逡巡していたが、やがてはあとため息をつく。
「……心配、したんですよ」
「うん……ごめんね」
「本当に分かってるんですか?」
「わ、分かってる!」
「まったく……」
急にしおらしくなった後輩が可愛く見えて、春菜はそうって腕を伸ばすと森山の頭をぽんぽんと叩いた。小柄とはいえ、身長は春菜より少し高い。
すぐに拒絶されると思ったら、意外なことにされるがままになっている森山を見て、そのまま優しく髪を撫でる。
見た目どおりの柔らかい感触が、春菜の手の平をくすぐった。
「ごめんね。もう大丈夫だから」
「……はい」
「私も急いで続き書くからね!」
「……はい?」
森山はすぐに顔を上げ、ぱちぱちと何度か瞬いた。首を傾げている森山に向けて、春菜はしっかりと拳を握る。
「ごめんね、まさかそんなにリレー小説の進み具合を心配させてるとは思わなかった。大丈夫、あと一ヶ月あるし、プロットも半分消化したし、あとは何とか――」
「早く帰って寝てください」
先程までのいじらしさは何だったのかと言わんばかりに、少し怒った顔つきの森山は、靴を履き替えるのを待つのももどかしいとばかりに、春菜を玄関から追い出した。
「え、あの、まだ他の子と話したいことが」
「は、や、く。寝てください。じゃ」
無情にも玄関の内鍵が閉められ、完全に締め出された状態になってしまった。
「……しかたない、また来週でいいか」
諦めて家路へ着こうとすると、第二体育館で小気味よい竹刀の音が響いている。予定より早まってしまった時間を有効に使おうと、春菜はつま先の向きをくるりと変えた。
しなる竹の音とのびやかなかけ声。校舎の東側に面した第二体育館では、今日も剣道部の練習が行われていた。
蒸すような熱気の中、春菜はこっそり津田の姿を探す。
(……いないなあ……休み、とは思いにくいし……)
すると突然、背後から低い声が飛んで来た。
「四宮」
「ひい、すみません! 不審者じゃありません! ちょっと見学を……え?」
堪えきれない、といった笑い声が零れ、春菜はおそるおそる振り返る。すると探していた当の本人がそこに立っていた。
防具と面を外し胴着と袴を着ただけのその姿は、本人にはとても言えないが、春菜の恋心を突くには十分すぎる見た目である。
「もう、調子はいいのか?」
「はい! もう全快です! 飛んだり跳ねたりも大丈夫です!」
「そうか……まあ無理はするなよ」
短くそう告げると、津田は体育館横の階段に座り込んだ。ちょいちょいと手招きされ、春菜もおずおずとその近くに腰掛ける。
(……な、何話そう……)
津田はあまり口数が多くないため、大抵一、二言で会話が止まってしまう。出会った当初は常に怒っているのか、はたまた機嫌が年中悪い人なのかと誤解していたが、今の春菜はそうではないことを知っている。最近ではこの沈黙すら、心地よく感じるくらいだ。
すると珍しいことに、津田の方から春菜に話しかけてきた。
「四宮」
「は、はい! 何ですか?」
「いや、大したことじゃないんだが、……来週、瀧田西との試合がある」
「りょ、了解です! 絶対応援に行きますね!」
嬉しそうな春菜の返事を聞いて、津田はわずかに目を見張った後、かすかに笑った。その表情を見て、春菜は改めて確信する。
(私、やっぱり……先輩のこと好きなんだなあ)
春菜が一年生だった頃。
放課後に上級生から絡まれていたところを、部活途中の津田が助け出してくれたのだ。お礼を言ったものの、津田はそっけなく立ち去ってしまい、以降春菜の心はすっかり津田に奪われてしまった。
仏頂面で友達に囲まれていたり、職員室で先生に用事を頼まれていたり、購買でおにぎりを買っていたり――津田のことを知れば知るだけ、惹かれていく気持ちが強くなっていく。
たまらず友達に相談したところ、ちゃんとアピールしろと言われ、ある日勇気を出して剣道部の練習を見に行った。
そこで今日のように声を掛けられ、ようやく認識してもらえたというわけだ。
その後も剣道部のクラスメイトから試合の日を聞いて応援に行ったり、顔を見るたびに挨拶したり。いつしか顔と名前を覚えられ、今はこうして二人で過ごすことも出来るまでになった。
友達からは『絶対に大丈夫だから告白しろ』と何度も言われたが、そのたびに春菜は首を振った。もちろん彼氏彼女になれたら嬉しい。でももし振られてしまったら――今のこの関係すらなしになってしまう。それがどうしても怖かった。
やがて休憩の時間が終わったのか、津田がゆっくりと立ち上がった。
春菜も慌てて後に続く。
「練習、頑張ってくださいね」
「ああ」
津田の短い答えを聞いた春菜は、家に帰ろうと足を進める。
だがすぐに「四宮」と津田に呼び止められ、くるりと後ろを向いた。階段の上方にいる津田を見上げると、彼にしては珍しくどこか端切れの悪い言葉が続く。
「その、………試合、来い。……絶対、勝つから」
片手に持ったタオルで口元を隠しているので、津田の表情は判らない。それでも――試合に来い、と津田自身から言われたのは初めてで、春菜は思わず喜びを露わにした。
「はい! 絶対に行きます!」
しまりのない笑顔を浮かべる春菜を見ながら、津田もまた満足そうに目を細めた。